2011年12月26日月曜日

年内の簿記勉強

 年内の簿記の勉強はリアルタイム講座の日程におおむね合わせて本日にて終了にします。だいたい工業簿記の半分くらいまで。
 考え方はややこしいようだけれども、個人的には商業簿記よりも面白いかな。実際にモノを製造する過程に向かっての費用計算をしていくという意味では、中小規模株式会社会計での取引仕訳を中心とする商業簿記よりも、リアリティを持ちやすい想像が働いて、腑に落ちる感じがあります。

 結局工業簿記は出荷される製品となる過程のおおむねの完成品(仕掛品という)の「売価」ではなくて、製造原価はいくらになるか、という「原価計算」が中心でして、材料・賃金・経費をベースにして仕掛品にするためにいくらの原価費用がかかったかの過程を学ぶボトムアップ型の計算が中心になります。よって、商業簿記と違って仕訳の占める位置は小さい。多くは材料・労務費・経費を、製品にする際の原価を細分化して計算していきます。
 そして実際に掛かった費用と、製品を作るのにいくらかかるかの予想金額との差額(価格差異という)を求めるという作業が加わります。

 来年からは各部門の計算が終わって総合原価計算に入るところから。

 ただ、難しいところもあって、これを過去に学んだ記憶があるかどうか完全に飛んでいるのですが、「製造間接費配賦差異」(各種経費を各仕掛品に配賦するに当たって実際に配賦した金額と、予定金額の差異を求めること)の”分析”というのがあって、シュラッター図という数学のような図式が登場してびっくりしました。
 2級にしては高度な気がする部分です。数学的な要素が出てくると自分はもう駄目ですからね。

 明日からは極く少数の方々宛てですけど、年賀状を書いたり、流石に酷くなってきた今年の部屋の中の清掃・整理や買いだしなどの年末作業に入ろうと思います。
 今年は上手く出来ていて、土曜日が31日で元旦が日曜日ですね。そのため、バイトは30日まで。来年は3日から。

 寒さが今年は厳しい。今年は年明けまではここまで厳しくはなかったと思います。被災で来られている方たち、今の寒さはこたえていないだろうか。そんなこともちょっと気になる此の頃です。

2011年12月25日日曜日

今年のつぶやき(2)

 相変わらず何様なの?というつぶやきは年の半ば以降も変わりません。(苦笑)
 6月以降です。

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今年のつぶやき(1)

 ツイッターのつぶやきをミニブログ化した「ついろぐ」というのがあります。
 今年のつぶやきを月別にUPしてみます。
 どんだけ「お前何様なんだ?」という世界です。(汗)
 いろいろあった本年ですが、自分自身はそんな動きはないのに、偉そうに批評しているのが人間として問題があるのかもしれませぬ。
 まず、本年の1月から6月まで。

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2011年12月11日日曜日

本日は後退戦

 ああ、しまった。今日はやっと簿記の商業簿記があと2回分の講義のみになったので、復習をずっとしていない頭のほうから少しでも問題集を解くことで復習に入る予定だったのですが。。

 家の用事と合わせてショッピングモールに入ってる丸善で購入した講談社現代新書『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎×大澤真幸を読んでいるうちに、全く他のことが手につかなくなってしまいました。
 いえ、実際はこうやってブログに向かっているわけですから他のことが手につかないのではなく、面倒な簿記の復習問題から逃げた、って話ですけど。(苦笑)

 あとで感想を書けたらいいんですけど、この『ふしぎなキリスト教』という本におけるユダヤ・キリスト教の世界観は本当にぼくら日本人の世界観というか、世界の認識における解釈から大きくかけ離れていて、ある程度想定出来ていたとはいえ、改めて驚かされます。ですから、とにかく興味深くて面白い。

 簿記について、というか資格について書こうかと思っていました。「資格について」ではなく、資格の内容が高度になったのではないか、という話です。
 僕は1988年に一度日商簿記2級資格を取っていますが、あの頃よりも内容が深く、より一層簿記論的な所に入っている気がするんですけど。。。
 単にほとんど忘れかけているだけかもしれません。ただ、3級を基金訓練の時に勉強しても気づきましたが、勘定科目名が幾つか変わっています。
 もう20年以上経つと、簿記も時の経過とともに科目計上の方法論に変化しているところがあるのかもしれません。
 この間に世界の金融界を含め、変化がありますから、おのずと簿記もごくマイナーチェンジがあるのでしょうか。そして、やはり内容は高度な方向に向かっているのは確かなようです。WEB講座の講師の先生は1級を意識しているのか、かなり理論的な講義で、その方向性は個人的には興味と関心が持てるものではあります。

 とにかく意味などどうでもいいから、試験対策的にとにかく問題を解く、という過去の対策に比べると、現在はぼく自身の関心も変わってきていますし、それだけに理論的な話はなお一層有り難いのですが、いかんせん、簿記は記帳の実践なので、肝心要のそちらが駄目なのでは大変まずい。勘定科目が分からない、勘定の借り方貸し方科目を間違える、という素朴に問題が多いいまの段階では。。。

 簿記に限らず、例えば社会保険労務士などにおいても。学ぶ内容はより多く、細かくなっているのは間違いないのです。顕著なのは健康保険法です。いま復習は健康保険法の手前で止まってますが、健保は昔は最も理解が簡単なもので、点を取りやすい科目でした。ところが、このゼロ年代に医療保険制度の細かな改正(人の認識によって、改悪かもしれぬ)によって、入院医療費制度を中心に非常に細部な負担額の記憶が増え、テキストページは1.5倍くらいになっているのではないでしょうか。
 基本は医療費は増額の方向に向かっている訳ですが、それが広く浅く医療にかかる人の負担額が増える形になっているので繰り返しですが、細かいのです。

 行政書士もそうですね。とても高度になった。行政法、民法、憲法の判例解釈。かなり高度な事が問われるようになっているのではないでしょうか。そして大きな比重を占めるようになった会社法。
 行政法はより精緻になり、そしていま大阪で話題になっている地方自治法に関して占める出題の大きさはもう何年かまえから目立ってきているのではないでしょうか。地方分権的な意識と繋がっているのかは分かりませんけれど。。。

 僕が試験を受けた平成4年当時も行政書士試験は難易度が高くなったと言われましたが、どっこい、今では「屁」みたいなものかもしれないです。こういう比較は問題のある言い方ですが。。。

 何を言いたいかというと、社会がより複雑になり、かつグローバル・スタンダードの席巻によって、法律系や会計系もよりいろんな新しいことを覚えなくちゃいけない時代になってしまったんだろうな、ということなのでした。

 嗚呼、今日は自分に負けたな。『ふしぎなキリスト教』、読んで過ごします。講談社現代新書。税抜き840円也、です。




 しかし、工業簿記も含めて2カ月で全部終わらせるというのもやや無理筋なところはあるんだよな。本当は3か月くらいかけてやるのがスタンダードなんだけど。無料で勉強させてもらっているので、致し方なし。

2011年12月10日土曜日

朝ドラ・カーネーション

 現在のNHK朝の連続ドラマ「カーネーション」はいいですねぇ。好きなんですよ。「ゲゲゲの女房」もとても良かったけれど、もしかしたらそれ以上かもしれない。

 実際は朝は見れないので、夜6時45分の再放送を中心に見ているんですけど、たまに土曜日にまとめてやる再放送一週間分も見ますね。
 関西系の朝ドラは北海道に住んでいると拝めない関西ローカルの見事な芸達者、役者さんがいるなぁということにいつも感心するんですけど、何というのかなぁ。今回のドラマが際立っているのは総合的にいいんですね。脚本はもちろんのこと、演出から、配役から。そして主人公も際立っていますね。今回はナレーションも本人自身ですから、いつも体当たりのぶっちゃけ、女性なのに「生身さらけ出し」演技も含めて凄いエネルギーを放出していると思います。

 その今までにない「周りに合わせない」「自分の思いに忠実に動く」「思いを率直にぶつける」「行動原理に従って生きつつ、感じる思いから(極力だけど)目をそむけない」「とにかくエネルギッシュ」というのは、ブログを書いている自分のキャラクターからは全く真逆で、近くにそのような存在の人がいられたら非常につらいし、逃げるだろうけど、不思議にドラマにそのアクの強さや臭みがないのが不思議で、爽快さがあるんですね。これはまだ自分でも理由が良く分からない。何故なのか。

 それにしても国防婦人会というものは、どういうキャラクターの人たちが率先垂範して動きだしたんでしょうかね?非常時になると、突然元気になって、何か言って廻ったり、規律を押しつけて歩きたいというのは戦後の「子どもに悪い影響を与えるマンガを追放する運動」(ゲゲゲの女房)にも通じています。実は平和裏においてもある。僕が子どものころにもハレンチな(死語)漫画をやり玉にあげる、というのがあって、子どもながらに大人のいや~なところを思いました。自覚してたわけじゃないけど。

 それにしても、本日の婦人会の台詞は凄かった。

 「日本人の妻たるもの、夫が死んで遺骨になって帰ってくるのが名誉でしょう」。
 
この驚くほどの言葉にならない鈍感ぶり。
真面目な話、人間がなぜ人の素朴なこころに平気で土足に踏み込めるのか、自分自身の問題としても考えなければならないと慄然とさせられます。

 その後、主人公の糸子は夫が浮気をしたまま出征したんじゃないかと疑いを持ちつつも、その鈍感な言葉に悩まされて寝つけず、寝床で夫の姿を想像しながら改めて夫に対する愛情を確認する台詞。

 「大きい背中。笑ったり喋ったりする顔。こころ。それが全部骨になって名誉。。。
こんなに石炭みたいにぼんぼん燃やして、いったい日本はなにが欲しい?戦争って何や?」

 この素朴な、想像力ある台詞にいろいろ大きな意味が込められていると思いましたね。いや、実はもっとも身近な自分の身体の一部になっているような人への思いから発する言葉こそ真実で、そこに不条理が介入すれば、一挙にこの社会、この世界への疑問が思い切り露出する。
 そんな見事なドラマ上の場面だと思いました。

 ややこしい、観念的な議論は実はすべて、自分自身と、この自分の身体の延長への愛情の思いから生まれるものと考えます。
 だからこそ、「国防婦人会」なるものが、糸子の自分の身体に即した豊かな想像力に対して、かくも貧しい鈍感さで人びとの生活に介入していけたのはなぜか。正しいと思いこんで、人のプライバシーに入りこんで行けたのか。関心を持たざるを得なくなりますね。で、もう少し嫌味を言えば、そのような人たちは戦後、自分らの行動をどう振り返ったのでしょうか。もしかしたら、「悪書追放運動」やっていたりしてね(苦笑)。
 全く反省せず。

 でもね。
 もしかしたら、その国防婦人会やらも、ドラマ上のデフォルメで流石にそこまであからさまな事は云わなかったかもしれないし、あるいは言葉の勢いでつい言ってしまったのかもしれない。
 しかし同時に、急にマスコミテレビの世界を引き合いに出すと何ですが、結構平気で想像力貧困なことを言っても許される状況が見受けられる以上、やっぱり国を後ろ盾に平気で人の心に刺さるようなことを言って廻っていたのかもしれないですね。

 気をつけるべきは他山の石。
 主人公の糸子も、戦争に行ってPTSD(今風に云えば)になって帰ってきた幼なじみに悪意なく傷つけるようなことをやって、その幼なじみの親にハッキリと「構わないでほしい。世の中はあんたのように強い人間ばかりではない。弱くても生きていかなきゃいけないんだ」というようなことを言われても、どこかで逆に、自分が悪かったとはいかない。自分が傷つけてしまったのだと分かりつつも、弱さは駄目だ、戦争という外圧も、人のこころの弱さにも「勝つんだ」という姿勢、スタンスで挑む。

 この辺も今までの朝ドラにはなかったリアリズムですね。
 現代の割と教養的な朝ドラや大河ドラマと違って。教養的な今までの朝ドラでは、悪かった自分を反省して謝罪するというノリなのですが、今回の朝ドラでは逆に主人公は「負けてなるか!」となります。このリアルさは納得感が強いですね。

 魅力の一つはドラマの主人公が外からの刺激で変化する、という分かりやすい展開にはならず、本物の人間らしく主人公の女性が自分の行動原理に従っていて、どう振る舞うか行動原理が掴み切れないところがいい。それが現実ぽくていい。計算臭がないのがよいのですな。

 ドラマですからね。ただ、コシノ三姉妹のご母堂が主人公というリアリズムも同時にある。先述したように現実に近くにこのような人がいるとしたら、個人的には辛いですが、いろんな意味で「わかる、わかる」感があるのですよ。
 ただ、これだけ自分に正直で、言葉通り身体的な姿勢も含めてここまでリアルな主人公が不思議と嫌味な感じが無い、それどころか颯爽とした感じがするのは自分でもいまだ解けない謎です。

2011年11月28日月曜日

きれぎれに、つれづれなるまま。

2週間以上ぶりでしょうか。久しぶりの更新です。
この間、雪が降り積もったり、氷点下まで気温が下がる日が続いたりと、冬の天気にもなったのですが、不思議なほど今日は暖かく、まさに2週間以上ぶりの空と気温、地上の状態で、何だかめくるめくような感じです。

午後はキャリアコンサルタントとの面談4回目。履歴書の作成は一応この路線でOK、と。
明日から簿記の2級が始まります。午前と昼の計5時間を1日にやるので、午前中バイトをやっている自分は午後からのリアル講義とウェブ講義を併用する形に。
おおむね週3回で、2カ月で2級を目指すので結構なスピード。

12月は簿記中心になりそう。
社会保険労務士のほうは12月はやはりちょっと手をつけられそうにないな。
割り切らないと、全体が散漫になりそうです。

ファイナンシャルプランナー3級は、一応講座はウェブでおおむね聴き終わりました。
ただ、1回では無理だ。来年5日の日から17日の間、簿記の講座が無い時期が10日ほどあるので、そこで全体を聴き直そう。ファイナンシャルプランナー3級は非常に範囲が「浅く広い」のです。
社会保険、民間保険、国債・社債、投資信託、金融商品、所得税、所得控除について、不動産の民法、不動産関連諸法、不動産税、相続と民法、相続と税法、贈与と税法などなど。一点、一点掴みどころはあり関心を深めたい分野も多いのですが、それらを突っ込んでやっていたらとても全体を見渡せません。
故に、隔靴掻痒の感あり。

今日はもう1科目無料受講できるファイナンシャルプランナー2級も勧められましたが、触手は動くけれどどうでしょうか?FP3級試験は来年の1月22日ですが、以降の勉強も勧めてくれるけれど、ただひたすら勉強ばかりというのはどんなものだろう?というのもあります。むしろそれ以上に社会保険労務士をきちんと復習したいということがあるので。
まあ、一つのサジェスチョンというところです。

バイトと勉強と、もう一つは自分がかかわっているNPOですが、やはり関心は実はこちらに一番あります。自分なりに自由な係わり方として何が?と問われれば、やはりNPOが自分の中で当事者意識が強い。そこにいつの日か自分が学んだことが生かせるような状況があればいいんだけど。。。と夢見ますが、却って迷惑ということもあるかもしれませんし。動きがもっともっと、自由な広がりがあればよいなと思うところですが。

今日は久しぶりに自分の中になにも、設定していません。明日からまた新たな勉強も始まりますし、まずは骨休め。
ふと机の向こうの応接椅子にカバーをかけて載せて置いてあった本を開いてみたら神保哲生さんのトーク・オン・ディマンドの特別編、今回の東日本震災を受けての『地震と原発・今からの危機』です。これはと、ふと開いたら、一挙に大事な本だったと改めて気がついた。


プロローグの神保さんの文章も改めて自分の問題として考えさせられますし、TALK1「釜石市からの教訓」。片田敏孝氏との対談もとても考えさせられます。明治三陸大津波で未曾有の被害を受けた宮古市田老地区のギネスクラスの10メートルの二重の防波堤が打ち破られたこと、そしてどうやらそのハードに人びとが安心してしまったらしいこと。
「私は、今回の非常に大きな問題というのは、想定に縛られたことだと思っているんですよ。たとえば、湾口防波堤ができたから大丈夫、田老にもあれだけの堤防ができたから大丈夫という意識があった。人為的に高めていった安全が、安心感という形でヒューマンファクターの脆弱性を高めてしまったのではないか。」(片田) むむむ。。。

一方、比較に問題があるかもしれないけれど、岩手県釜石市の釜石東中学校のいわゆる「津波てんでんこ」な行動。中学生たちの自己判断によるアドリブが結果として多くの命を救った。
片田さんは言います。
「過去の津波の時は、家族がいるかもしれないと思って引き返したり、周辺を探しまわったりしているうちに津波に呑まれてしまった。津波の時は母も子もてんでばらばらに逃げなさい、という先人たちの苦渋に満ちた言い伝えが『てんでんこ』なんですね」。
うむ、まさに苦渋に満ちた言い伝えです。
こういう文化があるところですから、『人の命じゃない。まず自分の命をとにかく最優先に守れ。』それがそのまま他の人を誘導することになるんだ」。

こういうことは、やはり地理的文化、漁村を中心とした産業文化が背景にはあると思います。ある意味、標準化できない発想ではありますが、危機の時にはどこかに(苦渋とともに)瞬発力で発揮しなければならない発想かもしれません。
片田さんは集団同調バイアスについて語り、みんなが逃げなきゃいけないと思いつつ、今がその時、と思えない。その時、誰かが真っ先に逃げ出すと、多くの人が同調して逃げ出す心理について語ります。

これは間違った方向に走り出せば危険ですが、本当の危機の時に、自分の判断を最優先する人の行動は、おおむねか、必ずか、人びとが同調して逃げ出すことによって結果的に多くの人を救うことを示している気がします。

すでに関係ない話題を一つに並べて書き連ねていますが(苦笑)。
今年ももうすぐ12月。今年を振り返るとき、東日本大震災はまず一番に振り返る重要事項です。津波と原発。そこから多くの人がすでに多くの被害を受けつつ、そこから幸いにも遠かった自分も多くを考えるきっかけにはなりました。
年末にはまた改めて振り返りのテレビ番組などで考えるでしょう。
「自己責任」は「他者責任」の言葉ですが、「自己判断」は大きな、自分自身にも突き付けられる言葉ではあります。

2011年11月11日金曜日

芹沢俊介さんを迎えて。


 明日、11月12日の土曜日、教育評論家の芹沢俊介さんを迎えて講演と当事者から活動家となった人たちをパネラーとするシンポジウムが行われてます。
 主催は自分も会員となっているNPO法人・レター・ポスト・フレンド相談ネットワーク。
 場所は札幌市教育文化会館3階の305号室。
 時間は午後1時30分から午後5時30分までとけっこうな長丁場ですが、一部で基調講演をされる予定の芹沢俊介さんは、ひきこもり問題(どうも問題、という言葉には抵抗がありますが)に関し、社会側や家庭の親側からではなく、あくまで主体者である当事者の視点に腰を据えておられるようで、その点が好感が持てるところです。

 近著『存在論的ひきこもり』はタイトルからして難解で、立ち読みしたところやっぱり難解そうでした(笑)。インタビュー部分くらいかなぁ、分かりやすそうだったのは。

 むしろ個人的には2002年の著作『引きこもるという情熱』が分かりやすく、当事者目線としてもよく判っている方だと思いました。こちらの本に関しては、個人的にもお勧めです。多少、定義となる表現が一般的ではない、耳馴染みのない用語があることと、「社会的引きこもり」理論に基づく社会への引き出し圧力に対抗する論理構成をとっているために、やや逆弁護的な響きを持っていること。「正しく引きこもる」ことに関して言えば、全ての引きこもりにとってたったひとりで、あるいは主体的に選んでいくことは現実的に可能であろうか?という問いは残りますが、前者に関しては定義を厳密にしたい意図であろうこと。後者に関しては引きこもる人たちの主体性を無視しない議論の組み立ての構築が見事ですっきりしているといえます。あえていうなら、論理がすっきりとし過ぎである気がしないでもありませんが。(ただ、「正しく」ひきこもり、そこから回帰したと思われる人を自分は目撃したような気がしていることもあるので、結構説得力のある議論にも思えます)。


 ぼく自身、引きこもりについての社会圧力的な論理に苦し紛れ?に湯浅誠さんの五重の排除理論の最も根源となる、「自分からの排除」を援用したりしてきましたけれど、芹沢さんはこの本の中でまさに引きこもりにフォーカスして、現実の人たちから逃げても逃げても逃げ切れない、自分自身の中にある「社会的自己」という存在観念を表現をします。引きこもりの人たちの(あくまで一般論として)良い子となるべく、自分の中で築き上げた観念的な社会性の高さにおける逆説の重たさを言い当てていて、見事だなと率直に思いました。

 内容そのものは分かりやすいです。(私が文章化すると却って難しくしているわけでw)
 社会通念や家族目線で引きこもりを捉えることに違和感を感じる方にお勧めしたい一冊です。



 個人的には明日は駆け込み参加、あるいは少し遅れての入室になるかもしれませんが、芹沢氏の講演が楽しみです。
 後半はシンポ。こちらはどんな展開になりますやら。
 市内、近郊にお住まいの方で関心のある方は地下鉄東西線・西11丁目駅で降りて教育文化会館へGO!ですヨ。


2011年11月8日火曜日

震災前よりまともな働き方を(Ust)

 東日本大震災女性支援ネットワークというところで行っている学習会のUstrem中継が本日の7時から9時過ぎまで流されていて、それがとても興味深いものでした。



Video streaming by Ustream
 
 学習会の中心は、元朝日新聞編集委員で、『ルポ・雇用劣化不況』(岩波新書)という名著の著者、竹信三恵子さん、弁護士の中村麻美さん、そして番組を最初から見られなかったので立場は良く知らないのですが、おそらくハローワークの関係者の方なのでしょうか。河村さんという方。

 主に被災地三県において、特に女性の均等待遇を訴える活動をしている人たちとのつながりの勉強会で、被災三県と女性労働がテーマのベースかと思いますが、私は河村さんという方の語る雇用保険にまつわる雇用政策の具体的な話が非常に興味深かったのでした。(21分過ぎ辺りから)。

 ちょうど雇用保険法の勉強の復習を一通り終わらせていただけにタイムリーでもありました。

 社労士の勉強といっても両義的な思いがいつも抜けません。例えば厚生年金保険は正規社員の老後を守る大きな2階建て年金ですし、FPにおける所得控除政策も非正規・正規の社員間と所得における逆進性(税や社会保険料が所得が低い層により厳しいものになっている)の著しさに何とも言えない思いを抱いています。

 矛盾を感じつつ学ぶ。そのことの意味は、自分をより強くするのか、より自分を不安にさせるのか微妙なところではあります。

 話が横にそれましたが、自分のように雇用政策の観点。あるいは被災地支援の観点、女性労働の問題への関心からの観点。
 いろいろな角度から見ることが出来ます。けして音声もよくありませんし、このような話題に関心を持つ人は少ないかもしれませんが、各種勉強会等々に参加できない人などには良い内容かと思い、録画をアップさせていただきます。

2011年11月3日木曜日

近況報告

 11月にはいったので、上記タイトルにて。
 近況報告というところですが、収入は現在午前中の清掃バイトのみ。あとは市の無料資格取得講座でもっぱら勉強をしております。夜は主にツイッターのTLを見たり書き込みをしたり。あるいは気になるブログを見たり、ですね。音楽を聴きつつ。

 市の無料資格取得講座で選択したのはファイナンシャル・プランナー(FP)3級と、簿記2級講座。簿記は今月末からで、現在は専らFPの勉強中心。10月の4週目から始めたのですが、すでに講座は10月頭から。そしてリアル生講義は午前中なので仕事で受講できません。故に勉強はWEB講義にて。

 ファイナンシャル・プランナーで学ぶのは①「ライフプランと資金計画(主に国の社会保険・労働保険)」②「リスク管理(民間保険ー生保、損保、医療保険)」③「金融商品」④「タックスプラン(主に所得税)」⑤「不動産(取引、譲渡、賃貸、それらに掛かる税金等)」⑥「相続・事業継承」の6つの分野で、それらを浅く広く学びます。
 上記に記したように、すでに遅れが生じているので、約一科目4時間半くらいのWEB講座を何とか4科目終わらせました。練習問題も解きつつ。勿論、今後再度の復習をきちんとしなければ。現在はまだ付け焼刃的。

 一番自分が苦手に思っていた金融商品、特に投資信託とか、為替商品とか、外貨建て商品とかがあるこの科目は「耐えられへん」と思いましたが、これがやはりネットの向こうですが、教える人の上手さというか、テキストだけだと頭が痛くなる科目も教え方のおかげで「なるほど、なるほど」と。少なくも、国債や株式は違和感が少し薄れた。でも、上記の投資系の商品はやっぱり生理的に苦手でほぼ飛ばしました。(苦笑)

 最初の労働社会保険はとらなきゃいけない科目だし、金融商品も債券や株式は簿記を学んでいると補完できるものがあるような気がします。
 それは所得税のもろもろを学んでいる部面でも同じことを感じます。また、自分がちゃんと知りたいと思っていた給与所得の源泉徴収票。すなわち年末調整の仕方も基本を教えてくれて有り難い。こちらも担当の講師が実務的かつ懇切で嬉しい。

 こんな形で今月17日でリアル講座は修了するので自分もそれに合わせる形で。出来れば。29日から始まる簿記講座まではこれから中心軸は平日は社会保険労務士の復習。徴収法と健康保険法が中心になりますね。国民年金までいけるか。

 今月はまだこの流れで余裕はありそう。今の感じで。土、日も自分の時間として使えそう。19日からジョージ・ハリスンのドキュメンタリー映画が札幌でも上映されるようなので、それがまた楽しみだし、他にも必要な場所に出向くこともあるかと。

 そうそう、12日の土曜日は自分が係わっているNPO法人にて講演&シンポジウムがあります。評論家の芹沢俊介氏が来られます。自分としての広報はまた改めて。

 12月は簿記2級でこれは2カ月で仕上げる結構タイトなスケジュール。12月は午前午後同日にてリアル生講義が10回あります。午前はバイトで出れないので、WEBで聴いて学ぶことになります。だから復習を兼ねると結構ハードかな。きっと、午前・午後のどちらかが商業簿記、工業簿記という形になると思う。予想としては、午後に工業簿記かな。

 12月はどのような形になるかは分かりませんが、多少、今よりは余裕が減るかもしれません。

 まぁ、結果的にお金は余りかからないことになりそうだし、善しとするか(苦笑)。

2011年10月24日月曜日

熱かったのね。

 この2カ月仕事が見つからず、いろいろ情報収集していた中で見つけたのが札幌市で助成事業として行っている資格の無料受講講座やインターンシップ事業。インターンは基本的に介護などの実務能力がある人向け。
 私は無料資格受講講座のファイナンシャルプランナーと簿記2級に目をつけ、先日申し込みに行きました。その時は所謂キャリアカウンセラーと相談、となっているはずが完全に受講面接みたいになり。面接でアウトのノリ、すなわち、「履歴書をマジマジと見ながら面接官沈黙」や、「勉強を大変おやりになってきたようで(過去の資格取得の件)」といわれ、後は特段なく事務連絡で面接終了のパターン。
 「これは駄目だな」と思ってたのですが、数日後に受講OKの連絡で本日再度受講に向けたオリエンテーションがあるので来てほしいとの連絡。

 ついでに今日から午前清掃のアルバイトが決まり、午前5時起きという自分にとっては過酷な(え?苦笑)日々が始まった中、午後3時に再度お会いしました。校長先生のような立派な風情のキャリアカウンセラーの方と。
 もろもろ事務的なやりとりを沈黙の中で過ごした後、私の履歴書をずっと見ていて、「貴兄の履歴書の書き方を再度考えよう」というようなお話となるやいなや、その後が熱い!クールな風情でこんな熱い人だったんか!みたいなノリで私の履歴書のプレゼンの仕方、大胆な書き変え方を伝授します。履歴書もパターン化せずとも良い、職務経歴書型でも構わんのだ!

 大野更紗さんの病院でのパパ先生とのやりとりもかくやの如く、私は「はい!」「そうですね!」「仰られる通りかと思います!」と反射的な反応。(でもだんだんと目は下に(苦笑)思わず気づいたときに相手の目を見るw)。
 もちろん、参考にはなるけど。熱いなぁ。私は段々気づいているんだけど、あんまり熱い人だと自分が退いちゃうんだな。ご節ごもっとも、にだけ徐々になってしまう。
 ただ、本音をいうと、熱い人をどっかクールに遠い目で見てるところもあるんだよねってところにも気づいてしまったね(笑)。いやいや、まぁ。そんなことを言ってはいけなんだけどね。

 だけどクールに冷静な会話というか、平熱の会話のほうが自分は好きだねぇ。そのほうが自分を出せる。やっぱ、ご立派でどうも、てへへ。みたいな感じだと、「お恥ずかしいことでございます」みたいになってしまう。課題だね。

 10日ぐらい後にまた履歴書を自分で組み立て直して見てもらうんです。「あなたならちゃんとしたプレゼン履歴書あれば大丈夫でしょう。頑張って」、と言ってくださるのだが、正直そういった意味合いにおいては、あんまり頑張りたくないんだよね。おっと!書き過ぎ、書きすぎ。
 贅沢な悩みかな。。。いま、学校じゃ自己分析じゃなくて、求職口に合わせた自己分析をさせているとか。大変なこったなと。そう思うよ。

 俺、7社に勤務してたんだな。どれも正社員ではないですけどね。まあだいぶ整理をしてくれた。
 これで、今度は自分の人生失敗談もブラッシュアップしようか(笑)。「失敗キャリアカウンセラー」なんてね。本当の失敗を知りたくてしみじみ同感、共感したい人はそんな失敗談、ブラッシュアップストーリーでは聴きたくはないやねぇ。面接は本来はお見合いと同じように面談にならなければいけないと思うよ。

 馬鹿なことを書いてますが、これから午前中はバイト。現在授業開始中のファイナンシャルプランナー3級は午前9時からなのでリアルタイム受講は出来ないため、ネットで勉強することに。こちらが11月中旬まで。下旬から簿記2級が始まります。こちらは登校6~7割、ネット受講が3割くらい。テキスト代がただなのも嬉しいところ。後はここに社労士の復習を組み込む。他の勉強を汲んだので、最初は1月くらいから実務講座を学ぼうと思ったが、1ヶ月くらい遅れるかな?

 土、日はいままでどおり自分の時間に使います。自分が携わっているNPO関連もあるし。
 これから雪の季節になるのが嫌だな。自転車に乗れなくなるし、交通費もかかるしねぇ(苦笑)。

2011年10月21日金曜日

小樽観光 小樽文学館・美術館

  今日もそうでしたが、晴れわたって暖かい昨日。10月20に、小樽にドライブがてら出かけました。目的地は小樽文学館。そしてその建物に併設されている美術館。もともとは文学館でボランティアをされている友人のハイロウさんの話を聞いて興味を持ったためもあります。小樽に出たついでに小樽港を見渡せる手宮公園にも寄ろうか、という目論見もありました。実はもう一つの目論見も。。。それは後述しますが。

 昼は小樽でとる目算で札幌を車で出たのは10時半頃。快晴でかつ暖かく、手稲星置を越えたあたり、ちょっとした小山は紅葉も色づいて綺麗。散歩がてら頂上にも登れそうな高さ。しかし今年は熊の街歩き騒ぎがあって、ここら辺も下手に登ると危ないかも。でも山側には実際、犬の散歩で遊歩道のような所を歩いて降りてくる人もいますし、何となく熊騒ぎも関係ないような長閑さ。若い女性が山の傾斜面あたりから国道沿いのほうに向かって通勤する様子で、意外に自然の場と生活の場が普通に近い感じです。昔は、いえ今もですが、このこんもり小山と開かれた街との間には干渉し合わない「自然世界」と人間世界が別れていたのでしょうねえ。人間側も畏怖の念を持ちながら・・・なんて考えつつすぐ海が見えてきてあっという間に小樽です。札幌からだと高速は本当に要らない。

 小樽について運河から港よりのパーキング一日券で停めたら、何だかすでに観光客気分。小樽なんて隣の市、という感じでいたのですが、独りで降り立つとそれなりに非日常感覚が心身に訪れます。僕の内実的な目的の一つは今後「独りで行動出来ること」。30代の頃、結構いろいろと道外を独り旅したものですが、あの当時は仕様がないという現実的な側面もありましたし、どこかで自分、独りなんだということを意識から隠すようにしてた気がします。それでも十分に楽しめたものでした。ところが40歳になった頃から突然、一人旅をしていて「ひとりは寂しい」「この風景や何かを他人と分かち合いたい」との思いが急速に意識され、それ以来、ひとりきりの旅は全くと言っていいくらいしなくなりました。そしてここ数年、悩みを同じくする人や、心情を理解してくれる人、友人が増えるに従い、ますます単独行動が減りいつのまにか「ふらっと出かけるのにひとり」ということがなくなりました。一人で出かけるのは「(何らかの明確な)目的のある場所」。逆に遊びに出るのは独りじゃない。極端にいえばそんな感じで、行き場所もなく、誘いも無ければ、市内は別ですが、一人で別の街をうろつき歩くという事はほとんどなくなりました。

 それで、ひとりになってもなんともない。落ち着かないこともない。その場での出会いを楽しめるようになる。それが目標なんですが、如何せん、40代以後そういう癖がなくなっていたもんで、小樽のような、レトロで歴史性を色濃く残す観光街は知らない場所に来たときのように、何とはなく自分の気持ちはストレンジャー。我が家の墓参りの時には感じない、落ち着かなさ。

 まずは確か駅前の紀伊国屋や玉光堂が入っているビルに結構上手いラーメン屋があったと駅に向かいます。この日は修学旅行生の集団が多い。途中で旧手宮線線路跡地を確認しつつ、まずはJR小樽駅。バスターミナルビルに入っている筈だったラーメン屋はなく、真昼にしては意外に空いている旧来型の喫茶店。そこでコーヒー付きのカレーで一服しようかと迷いましたが、都通りでのラーメン屋ののぼりが気になり、そこは「えいや」と見きって都通りへ。

 最初考えたラーメン屋は少し値が張るのが分かり、客も多そう。そこは諦め向こうにもある店のショウケースをのぞく。当店おすすめ塩あんかけラーメン。ふむ、うまそうだ。こちらに決めたと思ったら狭い階段を上へと。入ったら、中は修学旅行生でかなり満杯。奥さんらしき人が忙しく接客中。仕様がないかと一席だけの空きを座ってこの店名物のあんかけラーメンを頼みます。横に修学旅行生の男女グループが若々しいエネルギーで賑やかです。この頃はかなり異邦人気分を抱いている自分ですが、賑やかながら隣の男女高校生たちのグループの雰囲気は悪くない。健康そうだし、でも生意気そうでもないし、お店の人にも挨拶が良くできる。別にお行儀の良い学校の生徒さんでもなさそうな普通の高校の生徒ぽいけれど、ざっくばらんであいさつもしっかりしているのはいいよな、と思っていました。たまたま次回通信紙用に最近の若い人の問題とかを考えてたんで、その意識とのギャップが脳裏に浮かびました。まぁケースの違いということだよね。やっぱ普通に若者は健全だ。僕が食べ終わりがけに彼らは店を出ましたが、どうも静岡から来ているらしい。

 さて腹がくちて都通りの観光表示案内を見ると都通りを越えて左に行くと文学館はすぐ、みたいです。どうも名所の一つである日銀支店の建物の向かいのようだ。なんだ、近いんじゃん。というか、駅に来る時に確か通りすぎてるはずだな。


 ありました。旧手宮線の線路沿い。おや、建物は何だか古い学校の校舎みたい。まだ少し食後感があったので旧手宮線をぶらり散歩して、目的の小樽文学館&美術館に。小樽に由来する人たちを展示する文学館と美術館は同じ建物に入っています。両方を閲覧すると500円。一回の事務所前で受け付けすると、共通券みたいのをもらって見ることが出来るギャラリーのスタンプを押してもらう形です。この日は市民祭というのをやっていて、まずは1階の奥に進みます。まずは市民が主宰していると思われる「石」の展示。奇岩というか、見立ての石です。思わずつげ義春のせつない漫画、『石を売る』を思い出します。石の趣味ってやっぱりあるんだなぁ。だけど、売買とかは無さそうだよなぁ。わかんないけど。

 そして一歩進んで市民写真展に。こちらは北海道新聞社賞とか、市となどの奨励賞なども展示されてます。これが良かったな。いい写真が沢山あった。テーマや構図も捉えた瞬間も「いいな」と思うのが沢山あったし、やっぱり小樽周辺は自然が多いんだよなと改めて認識しました。満喫。

  その満喫感を感じつつまずは1階の『中村善作記念ホール』へ。小樽を根城にされた洋画の風景画家です。僕は美術館にせよ、展示室の解説パネルは結構好きでそれを読み込むことに結構時間を費やします。作品もさることながら、中村善作の言葉がいい。自然との向き合い方。写生と向き合う際の覚悟。いい文章だなぁと感心。前景に若い女性が背中を向けて小樽港を見渡す風景画は僕も見覚えがありますが、やはり絵は風景を写すと同時に、それを見た自分が新たにその風景を見る観点が変わるという効果があり、その相互作用が楽しい。美術館である程度見知った場所の風景画を見る喜びの一つはそれです。中村善作という人が小林多喜二と同時代人で交流があり、伊藤整との関係もあるようなのには吃驚したな。あと、昔は絵の描き方の本があったんですね。そういう本で中村氏は寄稿されています。絵と誠実に向き合った人のようなので、その文章をまとめて読みたいものだ、と思ったものです。

 そして最後にとって置こうと思う小樽文学館は2階だけど、先に3階の『市原有徳(ありのり)記念ホール』に。こちらは外観からして現代的で綺麗。
 入ると何というか、一挙に前衛的な世界です。こちらはいわば版画家なのでしょうか。抽象版画というか。市原氏のアトリエ、というかほとんど工房というかミニ工場の一室の如き有様ですが、それを再現したところがあり、そこがまた凄い。芸術工房というより、何かの製造工場みたい。スキンヘッドの熊さんのさきがけみたいですね。
 作品は基本前衛的。ただ、ある種の作品は圧倒的な異世界を見せるような説得力があり、無機質な質感を感じさせるというようなことが解説パネルに書いてありますが、独特な有機物性、なまめかしさを覚えさせるものもあり、なかなか一筋縄でいかない感じだなと思いました。中村善作もそうですが、何ら予備知識なく異質な世界を見たので、ホールが出て映像が流れている美術紀行番組で市原有徳さんの紹介番組をしばらく見ました。この方も小樽で定年まで安定した仕事を持ち、ずっとこういう前衛作品を小樽で作っていた人なんだ。ある意味、中村善作さんと好対照なんだなぁとこの対照ぶりが面白かったのでした。

 さて階段を下りて、目的の「小樽文学館」へ。入り口がまたなかなか立派でユニーク。どこがユニークか説明が難しいですが(笑)ざっと奥行きまで眺めますと、なるほど同じ文学館でも札幌とは違いだいぶ面白い空気感を醸しています。まずは企画展である「小樽・新聞物語」を見ます。展示物は明治から昭和初期の新聞ですが、解説文が実に面白い。何というのかな。今も昔もかわらぬ人の下世話さ、おっちょこちょいぶり、そこはかとないユーモアやトホホ感覚。これをまた新聞がちゃんと大衆狙いに大真面目かつ下世話に書いていたことが分かります。明治から現在まで。変わらないことは変わらないのだなぁという実感と、先述したように、それを解説してくれる表現がポップ。面白く、何度吹き出しそうになったことか。

 後は本流である小樽輩出の文学者たち。もちろん小林多喜二であり、伊藤整であり、小樽に滞在していた石川啄木であり、あるいは小熊秀雄というあたりの分類展示です。啄木は知る人は知る。有名な天才気どりだった人であり、借金王でもありでそこら辺をツッコミいれた企画展同様のユーモアで見学者の興味を引きます。(寝そべった啄木の人形がステキ。欲しいw)

 しかしさすがに小林多喜二や伊藤整の展示にその遊び感覚はありません。文学館創立期からの柱でしょうから、なかなか崩せないかもしれません。多喜二の死にざまや名前通り伊藤整の雰囲気から茶々を入れる空気もさすがにかもせないかも。でも、多喜二と伊藤整って整の方が一つ年下の同時代人なのですね!全然知らなかった。面白いことに現在の小樽商大に当たる学生時代に一緒に学生芝居に出てる写真がありました。また、多喜二のデス・マスクも展示されていますが、確かに整ったハンサムな顔立ちです。下衆な言い方ですが、多喜二の人気はこの若さと美貌は無視できないのではないでしょうか。

 当時の多喜二死亡の新聞記事がありますが、さすがに官憲批判こそ載せていませんが、意外と不審死を疑わせるもので、母の狂おしい嘆きも紹介され、かなり多喜二に同情的な取り上げ方です。こういう新聞の取り上げ方は現代とはそんなに開きがあるとは思えず、ちょっと怖いような気がしました。 

 後は個人的にビビットに響いたのは詩人としての小熊秀雄でしょうか。名前だけは知っていましたが、作品は知りませんでした。こちらのパネルで紹介されていた「魅力あるものにしよう」は思わずグッとくる作品でした。

 やはり文学館ですから、言葉が立ちあがる場所です。言葉と出会って感動する。その醍醐味を小熊秀雄の詩からしかと受け止められました。かの人の詩はこちらのサイトで読めます。

 とはいえ、この文学館のユニークさや、凝り方は相当なもの。小樽が生んだ、あるいは小樽に住んだ石川啄木等の生きざまをユニークに取り上げた解説はトホホであると同時に自分なんかはとても共感するもの。

 仕事嫌いで生涯自由人だったアナーキズム川柳人・八橋栄星ですとか、社会人生活に力が入らない側での名前どおりな並木凡平さんとかね。
 小樽でプロレタリアとかアナキズムを標榜した川柳運動があったなんてねぇ。まるで江戸の狂歌運動みたいですね。

※このあたりの人たちですとか、北海道の文人たちをユーモアたっぷりに取り上げた高山美香さんという方のコラム、「北の文人 立ち話 」はおそらく絶対読んで面白いでしょうね。全部はまだ自分も読んでいませんが。(概して昔の文学者は徹底している人が多いなぁ。。。)

 そのような次第で堪能させて戴いた美術館と文学館。ひきこもり名人、勝山実さんも気にいる施設になるのではないかなとしみじみ思いました。小樽には文化あり、を改めて思いながら、お向かいの日銀の建物を写して。

 午後3時半すぎ、小樽港を見渡せる手宮公園へ向かいます。



 いい景色を眺めながら、少し早い文化の日を思い返しつつ、帰路へ。

 実はこの後、ハイロウさんが少し前に訪れたことがあり、ブログで触れていた大変興味深いスペース、坂ビスケットがやっている?「レトロスペース・坂会館」をまずは場所の確認して帰ってきました、と稿を締めようと思っていました。もう午後も5時くらいになると外が真っ暗ですしね。ところがまだここが営業?してたのです。ナント!

 そして入ってびっくり、あけてびっくり。アッと驚くタメゴロー。このスペースの展示はぶったまげ。

 その感想はこれだけ長くなるともうそれこそ書くスペースがありません。でも本当にここは凄い。好きものには何度来ても飽きないだろう、異空間であり、かつ人びとの情熱と情念の場所。

 こちらは写真撮影OKの場所でしたので、それこそ稿を改めて書きましょう。その時間があれば、ですけど(笑)。いまのところ。
 でも、さわりとしての写真を2枚ほどw




2011年10月9日日曜日

ややこしいシステム

 実は国民年金にまた切り替わって以降、8月分と9月分の国民年金保険料を納付していたのですが、私は月400円プラスアルファする付加年金付き保険料という形で払っていました。現在定額で15,020円ですから、15,420円です。
 そしたらば、先月年金事務所から連絡があり、一度厚生年金に加入し、国民年金から形式上脱退しているので、付加保険料付きの年金保険料納付を8月9月とされているけれども、一端そちらの付加保険料は返還するので、8月については国民年金の定額期間にして、9月分に関しては10月末まで400円のみ付加保険料を納付してもらい、10月分以後に関しては、付加保険料納付き国民年金へ加入するなら、新しい納付用紙で支払ってほしいとの話。
 上記の文章自体、そもそも分かりにくいかもしれませんが(笑)、まあ了承しましたということで、そこから先が長い。9月の初旬くらいに連絡があってから、「付加保険料納付申請書」が送られてきたのがほぼ下旬近く。

 電話した時にも話したのですが、納付用紙そのものは全く同じ形式の付加保険料付きの用紙が手元にあるわけで、それは結局同じことではないですか?と問うたところ、用紙は同じだが、再手続きを経た後で、同じ納付用紙で新たに付加年金加入という形をとって欲しいとのこと。
 ここら辺ですでに効率の無い煩雑な手続きが絡んできます。

 その後なしのつぶてで先週の金曜日にやっと今度は「保険料の還付申請書」と9月分の400円のみ納付する用紙が送られてきた。800円ですよ。そのいかにも社会保険事務的な用紙に記入し、印鑑を押し、800円を返還してもらう。それも1月から1月半後。場合によれば、もっと遅れることもあるという。繰り返しますが、800円なんですよね。いかめしいこと。そのまだ返還されない800円はひと月半後に銀行に振り込まれ、先に9月分の400円は今日10月9日にコンビニで納付してきました。

 国民年金保険料は、厚生年金保険の保険料も同じですが、納付は次の月の末日まで。とはいえ、納付するなら同月分は同月に払っておきたいとの思いもある。だけど、先週送られてきた還付申請書と9月分の納付用紙が年金機構で把握されるまで、10月分以後の新しい納付用紙は届かないのだろうなぁ。こちらも蓄えとの計算があるんですけど。。。まあねえ。。。。

 次の月の末日まで払えばいいとはいえ、納付用紙のやりとりをする間にこう多くの事務手続きが煩雑にあると、下手して忘れて納付月に間に合わないということだって起こりうる。
 まして付加保険料というのは、他の一般保険料と違って納付期限まで納付しないとアウトになるシステムなのだ。もう少し間に入る手続きシステムは簡略化出来ないものかねぇ。
 社労士の勉強というのは、ある意味その煩雑なシステムに食い込んでるともいえる、悪い言い方をすればね。その代理人になる勉強という側面もある。
 しかし、流石にこういう無駄な時間経過はいいことじゃない。
 まるで付加保険料なんてマイナーなシステムには加入しても意味ないじゃない?って年金機構みずから思っているような感じがしますです。

2011年9月26日月曜日

ひきこもり外来の可能性について

※(この文章は自分が関わっているNPOで作成した『北海道ひきこもり支援ハンドブック』挿入のコラム・エッセイのために書いたものです。本年2月に書いた原稿ですから、やや内容が古くて申し訳ありません)

 ひきこもり外来という言葉を聞いたことがある。その言葉に初めて触れた時、何か大きな期待感のようなものを感じた。2週に一度、あるいは1カ月に一度、ひきこもりに理解がある専門医に50分程じっくり自分の思いを語り、自分の言葉を整理してもらい、その整理によって新たな自己への気付きが生まれる。そんなイメージだ。


 そのひきこもり外来の現在はどうなのか。ネットで調べてみた。すると、いろいろな資料や専門家のインタビューが載っているかと思ったが意外なほど情報が無いのだ。正直、これは半当事者的意識からの主観かもしれないが、ひきこもり者への深い洞察に基づくものにも見当たらない気がする。また、幾つかの資料を読んでいると、確かに「治療モデル」は必要であるにせよ、ネットで読めるものはそのモデルが強調されがちなのが気になる。

 しかし筆者自身が長く「精神分析」モデルで健保・国保の枠組みに上手くはめてもらい、ひと月に一度10年以上にわたりその治療モデルで経過が良くなっているため、ひきこもりの長時間カウンセリングに可能性を見る気持ちは抜けない。しかし実際には、なかなかそのような理想の環境にはなっていないようだ。

半当事者的目線で評論家的なことを言うのは気が引けるが、「ひきこもり」に関して、自分自身がピンとくる経過良好の話はあまり目にしない。(あくまでネットで見る専門家の話の世界だが)。極論すれば、ひきこもりの主体者でない人がどこまでひきこもり者の実存世界を理解できるのだろうか?という気がするのである。(そのためにはひきこもり体験者が自らの世界を自らの言葉で、支援者たちに伝えていかねばならぬ責務があると思うけれども)。

 一言でいえば、明瞭な可視化が出来ないゆえに、どうしてもある種のおどろおどろしい側面のみが強調されがちなのではないかと思うのだ。この雰囲気は筆者には既視感がある。30年以上前の統合失調症の人たちを見る社会的視線である。その後統合失調症は薬の劇的効果もあり、社会の認知も進み、障がいの中でも「最後の差別」とまでいわれていたが、その点もずいぶん緩和された印象がある。おどろおどろしげな目線は理解の難しさに根差すだろう。困ったことにその当事者さえ、それらひきこもり者を見る、世間や、関心を持つ人たちの思考回路を内面化する。故にその「自責」感がより一層問題をやっかいにする。それら相互の固定観念から、共に抜けていかないと本人も周囲も自縄自縛になるばかりではなかろうか。そのように書いている筆者自身とて、その自縛から抜け出ているとは言い切れない。

 話を戻そう。ここにひきこもり外来医で新潟で活動されている方だと思われる人の考えがある。その人はその膠着感から少し抜け出た発想をしているようだ。発想としてはこういう感じだ。

 ポイントは、医療と心理と親の会とNPOと居場所が一体化する複合的な取り組みにある。つまり孤立した若者に有効であるためには、治療システム側も1対1などの孤立的スタイルではなかなか有効性に乏しい。診察室や、箱形の居場所や、深刻そうな大人の寄り合いでは駄目、とまで言っている。いわば「お祭り」のような集まりにあること。かつまた同時に、自分を見詰めることが出来るカウンセリング室の併用があること。

 その両輪があれば良い。ある家族の会のリーダーは仰っていた。いろいろな形でのいろいろなフォローが本人たちには必要なんでしょうね、と。

 その意味で、支援グループと個別カウンセリングの併用は今後有効な手段だと半当事者としての筆者は思う。愚見であろうか。 

 ※家族会のリーダーの方が仰った「いろいろな形でのいろいろなフォローが欲しいですね」という語りはある地方の家族会に取材でお邪魔させて戴いたときに、もろもろ、少数ながら活発な家族の方が当事者のための生きやすい社会について自分も含めて座談が深まったその後に、しみじみと仰ったひとことです。
 その感慨深そうなひとことがやはり当事者性を残した私にはとてもとても印象深く響いたのでした。                

2011年9月14日水曜日

ハラホレ、ジタバタ

 全国的にかもしれませんが、今日は非常に気温が高く、日差しが強い夏模様の一日だったのですが、今頃になって急に涼しくなってきました。やはり秋ですね。

 さて、本年秀逸なノンフイクション・エッセイ二冊、大野更紗さんの『困ってるひと』と勝山実さんの『安心ひきこもりライフ』を読むと、いろいろな角度からその軽妙な文体からも思考が広がる筈です。その中で一つのポイントとして、障害などの社会保障制度や、公費負担などの社会福祉の制度に関心を持つきっかけになっている人も結構いるのではないかと思われます。

 私自身はといえば、今年、もう一度「社会保険労務士」という資格を生かすためにほとんど忘れている勉強をしようと思いつつも。4月から仕事を始めてからは休憩してしまいまして。やっと今月から再開したのですが、その中でフォーサイトといういわば社労士通信教育では格安、価格崩壊型の学校による講座を申し込んだのですが、先の2冊の本を読んで一つのポイント。社会保障制度の大枠を知るのに、まず最初のDVD3本に収録されている「社労士入門」編の内容が非常に役に立つ、ということが嬉しいことでした。

 最初は入門編は聴いている暇も惜しい。先に本題の法律から行こう、と思ったのですが、まずは全体像はどうだったかその復習は必要だ。教授の仕方もどうかと、その確認の意味で聴いたらば、思った以上に2×3の6時間分、非常に充実していました。労働社会保険の細部ではなく、一般的な面での全容を知るのには大変良い内容でした。


まあ、とはいえ、関心などがある程度前提的にないと、難しい所はありますけれども。。。『困ってるひと』などを読む人は労働社会保険制度に関しては労働法と社会保険法は似ている点も多いのでわりと理解しやすいのではないかと。

上記の2冊の本は社会保障や社会福祉に関心を寄せるきっかけになる、という角度でも良い本だと思いますね。

 ところでDVD通信としては破格に安い(それでも45,000円する)フォーサイト。各科目に入ったら、けして懇切ではありませんでした。ディープなところを分かりやすく、ではなく、大枠を分かりやすくで、かつ流れが速い。やはりじっくり向き合うには値段なりの限界がある。そこに気づかされます。

 逆にランクが高め(受験経験者向け)の講座ライブDVDのクレアールの通信による答練DVDの斉藤先生はかなりディープで鋭い所を掻いてくれるのですが、逆に難易度が高いです。(ちなみにこちらは78,000円くらいで今年の3月下旬に購入しました)。

 こうなると、基本のみが早く、タッタカ流れるラインと、難易度が高くディープに行く、のその中間が無くて困るところでありまして。

 今は何とか答練ものの解説を利用しつつ、解説を中間に置いて理解するように務め、フォーサイトDVDで大枠を再度理解する。活字解説で分からない所は斉藤先生の実務的・お役所的(笑)な知識を聴いて「はっ!」と納得するように務める、という感じで進めています。

 本日はあくまでも極く個人的な日誌。面白くない、わかりにくいものになってしまったかもしれません。
 今のところ、DVDなどを見るので平日におおむね4時間くらい、場合によって6時間くらいの勉強です。

 バイト等々が決まったらまた気合いが弱くなる可能性があるので、やれるうち、ということです。

 それにしても、記憶力の減退と、これは余り言いたくないですが、集中力の減退。自分の年齢を感じて、やはり少々哀しいことではありますね。

2011年9月9日金曜日

ナントモ、ジタバタ

 水曜日に某大手コールセンターに面接に行って。
 帰ってから戴いた書面を見ると応募した仕事の面接ではないんだな。基本的に某社の「登録」という扱いだそうです。履歴書ではなく、職務経歴書を持ってきてくれ、ということの意味はそういうことだったのか。

 ニコヤカに面接は進みましたが、その場で自宅から地下鉄駅にまで来る方法を相手に伝えて欲しい(電話相手と思って)と言われた時は戸惑いましたよ。来ました、口頭試問。しどろもどろでした。
 昨日中に「今回応募された」仕事に派遣で行ってもらうときは連絡しますと仰られましたが、連絡はなし。ダメと見極めをつけ、昨日木曜発刊のバイトニュースを新たに購入。
 実はそこは数年前、損保営業のコールセンター業務のバイトを試用期間研修で辞めておりまして。面接の後に簡単な実技試験があるんだけど、面接の方はニコヤカに「すでにされておられますので結構ですよ」と仰ってくださり。すっかり過去のこの某所での履歴がバレているのも評価に絡んでると思います。
 後は、女性中心の場所で。×0代に手が届くオヤジの扱いに困る、というのもあるよね。別に採用する側の気持ちを斟酌するつもりもないんだけど(笑)。十分了解出来る感じもあります。

 本日はこれも某大型スーパーでカート整理するバイトの面接に行ってきました。そこは清掃業も大手なので、カート整理の仕事が無い場合、清掃の仕事の紹介もしたいがそれでも宜しいでしょうかとの話。あんまりきつくなければそれでも了としなければならないかな。
 確かに某スーパーの巨大なスペース。観察してると、高齢者の方が作業していることが多いのです。自分くらいの年輩の輩がいるのはやや異色かな?

 今は社会保険労務士の勉強と両立させる腹積もり。未練がましいですが、そう。どうも言葉通り未練が残っていまして。その未練に嘘はございません。×0代のあがきです。この浅ましき煩悩。。。武士の情けをお願いします。

 いずれにせよ、商業施設のバイトになると、土日祝日がかきいれどき。週末、まぁ今のところ4時間くらいなのですが、潰れるのはちょっと痛いかも。
 まだ、面接希望者も多いらしく、来週の半ば以降でないと結果が出ないとのこと。それはそれで、こちらもまだ時間があって有り難いこと。

 ちゃんと働けないのか?と問われると、今はまだ難しい感じがあるんですね。後悔はありませんが、振り切れないものがまだある感じなのです。

2011年9月6日火曜日

ノンキニ、ジタバタ

 台風の影響で豊平川の水位が上がってるって。豊平川が全国放送の映像で流れるなんてもう何十年振りだろ?本当に今年は自然災害の年として歴史の記憶に刻まれる年ですね。

 台風直撃の田辺から那智勝浦。熊野古道を歩いたり、私、熊野地方に関しては一方的に恋慕してるところがあるんで、今回の台風被害はかなり心配です。確か大好きな奈良も。葛城のほうがやられてるとか??間違っていたらごめんなさいです。

 明日は父親の介護保険の認定調査のために入院している病院に区役所を通して市から保健福祉課の人が来る予定。72項目くらいの審査項目があるとの話。

 自分は、午前、コールセンターでのバイトの面接に行きます。あんまり気乗りしてないんだけどね、実は(苦笑)。
 午後は家族立ち合い希望ということで、病院に行く予定です。

2011年9月4日日曜日

ボンノウ・ジタバタ

  台風の間接的な影響か、晴れたかと思えば突然降りだすようないやな天気がここ数日続いています。
 私はといえば、骨粗鬆症の影響で腰椎(ようつい)を骨折して入院した父親の見舞いが外出の中心。この入院に至る経緯も家人からみればいろいろあらあな、の世界なのですが。その件については又の機会に。
 親父も大変なんですわ。70代終わりの肺がんから始まって心筋梗塞、顔面ヘルペス、そして今回の腰椎骨折と、毎年のように入院のハメだからいささか自分の身体をもてあます思いだろうと。良く頑張っていますよ。
 元はがんを叩くためのステロイド剤の副作用として、心筋梗塞をのぞいて骨粗鬆症やヘルペスは出てきたのだと思われます。大病退治してくれる分、健康な細胞も弱るんですよね。だから可哀そうなんだ。
 
 前回、兄のこと悪く書いてしまいましたけど、もちろんそれは兄の思春期葛藤で、今は立派な大人。長野に住む兄。ずいぶん父の容態を気にかけてくれて、私にも「悪いけど、頼むわ」と。実にちゃんとした社会人。当たり前かw。

 で、私はと言えば、また(やっと?)「煩悩」が出てきましてw。バイトニュースを買ってきて、過去に取った社労士の資格の復習と併用できるように余り苦にならないバイトにあたりをつけ、あるいは短期のコールセンターバイトにとりあえず目をつけ始めています。
 
 明日発行のバイトニュースにまだ掲載されていたら電話しようと思っています。ちょっとね、やっぱり自分の中で前の仕事先を辞めたことはけっこう響いているみたいで。まずはやれそうなバイトから、改めて賃労働の社会参加できればなぁ、と。
 ここまでくるのに実は今回、かなりかかりました。まるひと月以上ですね。こんなにやる気を喪失するとは思わなかった。やはり年齢はあると思う。いろんな面で反射神経が落ちている気がする。夏バテもひどい。
 親父ももうちょっと若ければ反射力で一瞬の痛みに耐えて立てるんだろうけど、なんぼ努力して一日中七転八倒して転がっても立てない。全体の反射力。すなわち筋力が落ちているんだな。
 ちなみに、親父は水曜日に役所の人が病院で判定にきて、介護保険の対象になるかどうか調査に来ます。おそらく今の段階だと介護保険は降りるでしょう。

 私の社労士復習だってDVD購入したのに、働いていた時は仕方ないにせよ、暇になったこの一月。全く向き合えなかった(覚えてると思ってちょっとランク高めのコースを選んだのは失敗ではあったが)。そこで、「マンガはじめて社労士」を購入してそこから始めようと。やっと最近そこから初めて動けるようになったのだけど、ここまでなにもかもやる気になれなくなったのは久しぶりでびっくり。目標喪失の感がこれほど強いのもかつてなく、やはり年齢を考えました。シリアス癖があるのに今までどこか楽天的だったのだけど、今はいろんなことを重く考えるようになってしまっています。よくないな。年齢と関係あると思う。今までは冗談で言ってたけど、今はけっこうマジにそう思う。

 しかし勝山さんがいうように辞書に載っていること(法令集でもいいや)、ネットで調べれば分かることを頭に詰め込む理由はどこにある?ってのは誠に正論で、自分はまたそれをやろうとしているんだなぁと思うと、どこか情けない。

 資格勉強のために、ラジオの現代国語や社会を通じて勉強が改めて面白いと思えて、行政書士、次の年に社労士をとれた1993年頃。あの20代終わりの頃の集中力とやる気はどこから出たのだろう?といま自分自身に思う。あの当時はけっこう親父とも感情的にやりあっていたし、とはいえ勉強もそれなりにやっていたのは自分の中で気持ちがどう動いていたのか。やはり若さかな。今は「覚える」持続力、気力が格段に落ちてます。
当時の思い書きつけのノートとかどこかにあると思うんだけどな。やっぱ、感情的な親子のいいあいとか、気持ちが荒れた時に書いていた日記とかワケワカンナイ詞めいたものとか(恥ずかし)、探せば出てくると思うんだけどね。怒ってたり、沈んでたり。感情の起伏が相当激しかった筈。その分、内側にエナジーもあったのかもしれない。

 今はあの頃に比べ、感情も落ち着いているし、冷静な視点もある。でも、何かが根本的に欠けています。そう、20代からずっと変わらない何かが。。。その正体がいまだに掴めないのが悔しいです。僕の夢は当面、この正体を掴むこと。とりあえず。だから偶然は避けられないけど、今は絶対に死に近づくようなことは絶対にしない。

 本当は自然と向き合う。自分の勝負は自分の工夫が一番楽しいはずだと頭では分かっているんですけど。まだ未練があるんだな。
 いまも懲りずにパターン化している目標は、もしかしたら人生に禍根を残す未練がましい作業なのかもしれないけど。いまはとりあえず。武士の情けとお許しください。

2011年8月31日水曜日

勝山さんの真面目な側面@漂流イベント

 ひきこもり名人、勝山さんは世間に流布する常識や通念を反転させ、痛快極まりないし、逆にその点でおおくの誤解をあえて与えているところもあるような気がします。斉藤環氏がひきこもり界のトリックスター、と評したのもあながち間違いではないかも。

 でも、存外に勝山さんの真面目な点、あるいは自分もそうなんじゃないかと思った点を3点ほど羅列してみます。

1.まずは導入部から。これは意外と話を発展させれば面白くなったところかと思うのですが、勝山さんはこの社会から「家業」がなくなってしまった、ということと、ひきこもりの増加を重ねている点があるようでした。
 「サラリーマンは焼畑農業。消費して土地を消耗させるだけ」「工業生産的、サラリーマン的な大規模農業はダメ。土と対話して工夫が必要なのが農業。だから適正範囲がある」「家業は地道に次世代が前の世代を引き継いで再生産を行う。その意味で環境に優しい」(趣旨)、といったニュアンスのことを語っていました。
(新刊「安全ひきこもりライフ」涅槃編にも相通ずる。自分も職住分離が与える光と影については良く考えているので。勝山氏は時に、経済的自立で親元を離れる事は、場合によってそれは「自立」ではなく、「家出」だ、とも表現する)。

2.国民年金は老後の年金だからメリットが無い、と考えてはいけない。年金には障害基礎年金がある。いつ、だれに障害が訪れるかはわからない。だから、いざの時に保険のつもりで年金には加入しておくべき。経済的に納付できなければ免除制度がある。かならず年金事務所で手続きを。いますぐでも。こういう大事なことは役所は教えてくんないんだよねぇ、と。(これは私も年金の納付お願いの仕事をしていたので、超納得です)

3.登壇台に上がってきた子供を構ってあげて、時には抱き上げてお母さんの所に連れ戻してあげたり。随所に子どもに対する本物の優しさを見せていた。

 まぁ僕はなかなか硬い人間なので、時々気になった行動なんだけど、それらを何とも思わない漂流のお二人と勝山さんはさすが。(ただ、大きな扇風機の前に何度も近づいて、時折ペットボトルもかざしている時はちょっと危ないんじゃないか、と思ってしまいましたが)。

2011年8月28日日曜日

勝山実さん「ひきこもりカレンダー」


昨日の二日目の札幌での勝山さん講演イベントの前にお借りしたのですが、勝山実さんのデビュー作。「ひきこもりカレンダー」。
おそらく、勝山さんの原点の書であり、心の叫びの書です。
私はこれ、自分の心に直撃しました。素晴らしい!本物だ。
これを読みたかったのだ、と思った。自分は後退しているのだろうか?
ここには魂が宿っています。家族と、社会と、自分とに真っ直ぐに向き合って、闘っています。その闘いも、当時ひきこもりというマイノリティ課題に関し、非常に理にかなった、論理的な闘い。誰がこの本を読んで著者を否定出来ようか。出来るとしたら無視することだけだ。そうです、出来るだけ見なかったことにすること。

ひきこもりの一般的なイメージを覆す本物の、ひきこもりの人の本質をわしづかみにしている本です。
絶版は絶対に惜しい。何故なんだ?と思う。出版社が倒れちゃったみたいだけど。。。
今、この本が新刊で出ても全然おかしくないどころか、社会的な評判を呼んでもおかしくないと思う。ひきこもりの問題が進展してないのか?いや、筆者の筆力ゆえに。いっそ、仮名で同じ本を出しても十分読まれるのではないかと思う。梶原一騎と高森朝雄みたいだけど。。。

勝山さんのお母様からの暴力の話は大事なポイントだと思う。僕は内々の親密な関係ではぐちぐち言うに留めて、基本的に欠席裁判的な事は公には嫌なんだけど、そして勝山さんの主観が多少、仮にあったとしても、母親からの折檻というのは後々に相当程度、響いたと思う。
家庭内に暴力の匂いが満ちている、っていうのは本当に辛いし、実に実に、大変なことなんだよね。。。ひきこもりもこじらせてしまう。僕は本当にそう思う。

僕の場合は、兄と父のいがみ合いと、そのとばっちりによる兄の暴力だけど、少年期に家庭内に暴力の匂いたっぷり浴びると、相当ダメージが大きい。医者とか、研究者はそこら辺はどこまで認識してるかな?自分の場合、中学校もプレ校内暴力校で、荒れたクラスの代表が自分のクラスだったし、アニマル砂漠のような思いを感じたけれど、でも、それ以上に家庭の中がごたごたしている、兄と父の「憎悪週間」が家庭を支配しているのはあの当時は、もう表現できない辛さだったからね。。。(もちろん、本気で憎悪していたのは父に対する兄の側であったが。当時は)。
学校は帰ってこられる場所だけど、家庭は本来、最後の安らぎの場所のはずだからさ。特に子どもにとっては。そこがごたつく。まして母親がとなると。。。想像するだに辛いです。

でも、勝山さんのこのデビュー本は「安心ひきこもりライフ」にも通じる、軽妙なユーモアのセンスも失われていない。これ、渦中の中にあっても冷静さを失っていない証拠。ひきこもりの人が陥りやすい自責の念、結局世間と自分どちらが悪いかの二文法で行けば自分が悪い。会社やバイトが続かず、応募した会社に悪い、親に悪い、周りに悪かった。人間として御免なさい、ダメな人間なんです。。。という敗北宣言には陥っていない。

「ひきこもりライフ」にはデビューから10年後にふさわしい達観があるけれど、10年前の勝山さんは若者らしく、世間や社会とキッチリ向き合って闘う意志がある。「俺だけが悪いわけじゃない」という自己肯定が中途半端なものとしてではなく、キチンとある。これが名人となるポイントなんだな。

支援者や、マイノリティに物見高い関心を示すマスコミをひっくり返す正論パワーがあります。もちろん100%正しい、なんて露ほども思わないけど、世間に流通している正論なんかに比べれば遥かに正しい。

とにかく、ここで自分が向き合う話は非常に論理的で筋が通っています。郵便局員採用試験の話なんて、発見でした。勝山氏の社会の作った仕組みのばかばかしさを突くその話は深く納得。

自分のインタビューが載った本が教育書のコーナーに置かれているのを見て「ひきこもりは教育の問題だとは思わない。もっと深い、社会全体を含めた総合的な問題」とか、ひきこもり脱出の方法本を評して「分かるんです。だいたい本を買うのはひきこもっている本人ではなく、親やその家族です」
全くその通り!良く言ってくれたというしかありません。

前から「どうもそうじゃないか」と思っていた。世間とか、下手な支援者とかいう人たちはどうもひきこもりという人種は人間として何か欠落してるんじゃないか?と一方的に思っているんじゃないかと。
でも、ひきこもりの人の多くは、本当は勝山さんのいうことを内に秘めているんじゃないの?
でもでも、それを言っちゃうと、厄介なマジョリテイを相手に不毛な戦いをしなくてはいけなくて、平和主義者のひきこもりさんたちは、ことを荒立てず、できるだけ面従腹背して恒久的なストライキを確保。花を愛し、森を散策し、音楽をめでて、で、新聞とかは爛々とした目で誰も話しかけられない状態で一字一句読んでたりするのが事実だったりするんじゃないかな。下手な政治議論したらあっという間に論破されちゃうよ。ひきこもりの人たちに。外形で舐めてたんだな~。結局のところ。・・・そんなこともないかい?
まぁ、この本が絶版でなければ、この本を煩わしい誤解者たちに読ませるべきですね。そういう意味では、勝山名人のデビュー作は素晴らしい。

ひきこもり側には自助団体の話も鋭くて、大いに反省を迫らされるし、ひきこもりを取り上げるマスコミ番組について述べる「ドキュメントひきこもり」もいい。実に的確です。中途の短文エッセイが光ってて、社会批評家としての才能も垣間見えます。

いずれにせよ、勝山さんのひきこもり分析は正しいよ。当事者(直に勝山名人から「元」当事者というのはありません、一生付き合っていくのですとご教授いただきました)がほとんどうなづき放しだから間違いない。

かゆいところに手が届かない治療者とか支援者の本を読むより、まずこの本を当事者とその家族は読むべきでしょう。

・・・やはりポイントは家族なんだよな。。。過去の歴史だから、もういいべぇ。無いことに。というのはやっぱりどこか。そう、ごまかしがあるような気がする。重くて深いごまかしが。で、そこは深く掘り下げると「社会」という巨大な岩盤に通ずる。そんな気がします。
 まあ、さすがに高齢者になりきって弱り果てた親にそれをやっては絶対にいかんと思うが。

その意味では、勝山さんは20代のうちに、社会という外部に思い切りストレートに開いて良かったと思います。
でも、オープンだから、軽妙だからと甘く見てもいけないと思う。そういう表現手段を外部にさらすまで、どんだけの葛藤があったんだ?と思うと。勝山さんには感謝してもしたりないと思います。

僕はこの本のほうに「安心ひきこもりライフ」以上に強い感動を受けたのは、僕が精神後退しているからなのだろうか?
いえ、そうではなく、忘れてはいけない、原体験への検証作業に必要な本だからなのだと思う。
誰でも、僕もこの本を読むまでには、「安心ひきこもりライフ」のひきこもりセーフティネット、安心の基盤づくりという勝山名人のひきこもり初心者の混乱を解きほぐす作業の前に、当然ご本人の荒らぶる魂の時代があったはず、という予想はついただろうと思うけど。

確かに怒り、告白、あらぶる魂の片鱗はあるけど、ここには混乱はなく、ひきこもりライフに通ずる冷静さ、客観的な自己分析、転じて社会分析がある。家族というやっかいな代物との向き合い方も。

やはり新刊とともに、このデビュー本は車の両輪だと思います。
僕もアマゾンで購入します。いつでも自分の原体験を確認するために。そういうことが必要な局面の時、一端自分を洗いなおすためにも。
不幸にも?非常に安くて郵送料の方が高い、と名人直々に仰ってましたが。
この破格価格の絶版本。アマゾンで。クレジットカードがなくても購入できるんですかねぇ?

2011年8月21日日曜日

ニセコの方へと

本日は久しぶりに車で遠出しました。今までは少々行ける状況では無かったですし、気分転換も兼ねて。
行きは小樽から余市、俱知安に抜けて、喜茂別、真狩を通って羊蹄山をぐるっと回り込む形でニセコへと。


目的地である有島記念館へ。記念館は最初に行った時の思いれが深かったため、今回、そう4回目でしょうか。意外と展示が少ないのに驚きました。芸術の森にも有島武郎の住まいを再現した所がありますから、う~ん、ちょっと期待はずれに近い感じも。。。

その後、ニセコ駅向かいの土産店兼食事処で鮭のハラス定食を食べました。これが非常に美味。

有島記念館を出る頃にはぽつぽつ雨が降りていたので、予報通りかな、と思ったのですが、ニセコパノラマラインの壮大な風景を走る頃には晴天に。基本的にドライブ「晴れ男」を自称してますから、面目がたったというものです(笑)。
岩内から泊村まで足を伸ばしてみました。泊発電所の真近に海水浴場があるんです。小さな浴場ですが。まだ海水浴客がいる中、すぐそばが発電所で立入禁止になっているのがとてもシュールでした。
羊蹄をのぞむ真狩や喜茂別、もう少し後志側では仁木町などはフルーツの産地で農業地域としては豊穣な感じがしますので、もし事故が起きたなら・・・。やはり嫌な想像が働きますね。

岩内に戻って、帰りは赤井川から小樽に抜けました。

途中の牧場型のロッジ、『山中牧場』のソフトクリームは名状しがたく美味いのです。もう、ここを訪れるだけのために赤井川に来る価値はありますね。また、そのまま小樽側へ向かうと小樽の全景を見渡せる展望台が綺麗。あちこちで観光客さん(自分もそうですが)から歓声があがる景勝地です。

美しい小樽の海を眺めた時間が午後4時40分頃。朝7時半に出て、マイペースで走行し、帰途手稲の前田公園によって、6時過ぎに家に到着しました。ほとんど車の運転しっぱなしだったので、久しぶりなのでちょっと疲れたかな。

写真も結構撮ったのですが、iPodで映したので今日のところは上手くJpgで貼り付け出来ません。有島記念館と山中牧場のリンク、そして山中牧場のもう一つの見どころ、牧場の観覧があるのですが、そこで初めて、YOU TUBEで試験的に撮ったのでそちらをご覧いただければ嬉しいです。




有島武郎記念館 ¥500
鮭はらす定食 ¥680
山中牧場ソフトクリーム ¥250
 
合計 1430円ナリ、ですw

2011年8月19日金曜日

大野更紗さん「困ってる人」書評(Ustream)


22分です。宜しければどうぞ。(音声しか出ないかも。その場合ネトラジとしてお使いください)。

※映像のリンクはこちらで


2011年8月12日金曜日

ストーンズの変則ベスト盤「ジャンプ・バック」


昨日よりも過ごしやすくなり、夕方以後はかなり過ごしやすくなりまして、やっと夕方以降、元の感覚が徐々に戻ってきたなという感じであります。

行き詰まり感が相当ひどかった中、たまたま春に相談に行っていた道委託の職業カウンセラーの方から電話をいただき、そこで少し話す中でやや落ち着きが戻りました。

いい年して恥ずかしいですが、なんかまだ八方ふさがりというわけではないんだなーという気がして。(困ったもんで、「八方ふさがり」とか。そんな気になってしまうんですね。辞めてしまったところの上司などは、人格100倍出来た人でどれだけ辞める時にも救われたかわからないのに。)
時の薬、まだ通用するかなー。

時と言えば、ストーンズ。ロックンロールでもう40年以上ですか?最近こそニュースを聴きませんが、ドロドロの中でも継続は力なり。いろいろ言われもしましたし、私もパンクから始まってるんで、冷やかに見てたりしてましたが、改めて聴くと、やっぱり凄いですよ。ストーンズは。2曲目の「ブラウン・シュガー」のイントロで久しぶりに身体に快感が走りました。もう何回も何回も、どこでも聴けるロックの定番なのに。

知る人は知る、彼らはロックンロールというよりも、むしろブルースとか、その発展形としての50年代、60年代のリズム&ブルースの大好きな連中たち。つまり黒人たちの「これしか手段が無かった」、黒人の敬虔なキリスト者たちから見れば悪魔の音楽にどうにも魅入られた人たち。
ロックンロール成分の主はチャック・ベリーなのかな。でも原型は、ブルースに魅入られた人たちなんだと思う。だけど、どうにもロックンロールとしか言いようのない。その生命力。

このアルバムでは自分としては60年代末から70年代前半くらいまでしか認めていなかったんだけど、80年代以後のもたっぷり。
で、馬鹿にしてた80年代以後の楽曲もやっぱり全然違う。その濃く味。さらっと本物。ミック・ジャガーを筆頭に流石です。

アルバムは乗りのいい前半、ゴスペル風味からファンクの中盤の流れ、バラードの名曲群に、ラストの80年代以後のパンキッシュな硬質な楽曲群。選曲の流れがいいんだよね。
ストーンズ、ばんざい。
ブラック・ミュージックばんざい。


昔から大好きな曲だけど。今さら沁みるのは、気分なんだねぇ(苦笑)

2011年8月11日木曜日

ひきこもり菩薩-「安心ひきこもりライフ」を読む


またお久しぶりのブログです。
猛暑が続き、頭がクリアになりません。
昔の人はそれほど暑さをしのぐすべがなかったので、夏は余り難しいことを考えられなかったのではないか?と憶測したりします。その憶測が正しいとすれば、それがいいことかどうかは分かりませんけれど。。。

暑い8月にいま採用されているところを自主退職してしまいました。
もろもろありますが、一言でいえば、いつもの自分の悪癖が出たということです。

1週間くらい何も考えられず、やっと最近に至っていますが、猛暑の本日この夜9時過ぎくらいになってやっと涼しくなり、ブログに久しぶりに書き込んでいます。

ひきこもり名人、勝山実さんの「安心ひきこもりライフ」が発刊され、この8月下旬には何と、野幌札幌にも来られて出版記念講演が行われます。

ツイッターでもかなりな好評。私も早速購入、拝読しました。
私は、昨年、友人に勝山さんのブログを紹介され、「ひきこもり」のイメージを180度反転させるあっけらかんたる、また軽妙洒脱な文章にこれは素晴らしいと感動しました。これほどにビターな日々を乗り超えてユーモアたっぷりにひきこもりや自分の存在を客観化、対象化出来る人がいたとは。
ちょっと水木しげるさんその他の人たちの思想をイメージさせる、日々のエッセイに魅了された一人なので、この本に相当な期待を持ちながら読みました。
で、とりあえず今のところの感想は、やや期待が過剰すぎていたのかもしれないな、という感じです。

おそらく勝山さんのブログ「鳴かず飛ばず働かず」をマメにチェックしているとそれほどには新味を感じることはないかもしれないかな、という感じもするのです。
ひきこもりの人の完全歩合制業務としての、自販機などの小銭探しの話とかはちょっと名人にしては苦しい。ある意味、分かりやすい話だけに。(逆に、4人で1人前の公務員、は真面目に政策として実行されるべき話だろうと思います)。

ただ、勝山さんの中にあるだろう、ひきこもりの人の、あるがままの自分としての確立。他者の思惑(それは悪質な、あるいは善意でもどこか当事者のことをきちんと分かっていない支援者たち)にふりまわされるべきでないという思想は、見事に現実に対する対抗思想として表現されていると思います。
故に、もともとそういう部分に惹かれている自分としては、もっとディープに、深い部分まで突っ込む能力が勝山さんにはあると思っています。
それはいまの本が好評なうちに、次の著作に向けて期待したいものです。

いままでひきこもりについて、当事者自身の手によって、当事者の思想の本質を掴んだ本はなかったと思います。研究者や、支援者が著すものは、究極的には当事者のものではないので、隔靴掻痒の感があります。
だからこそ、勝山さんには大きな期待を寄せるところがあります。現実を誰も気づかぬところで「そうだよね!」と反転させ、その考え方で現実を塗り替える力量を持つと思っています。

ひきこもりの当事者は社会の外部に近い所にありつつ、自分がその内側にないことを嘆き、社会の側はその内側に抱えている問題に対しておおむね無意識です。
故にそこから生産的な表現活動や、思想が発展出来ずにいるのが今までです。
私も、あえていえば、その罪を背負っている一人です。

私が何よりもいま、一番凄いな、たいしたものだなと思う勝山さんの偉大な社会的役割なんだと思うのは、この著作とともに全国行脚を積極的に行っていることです。講演の後の懇談会にまで首座に座っているなんて私には怖くて到底考えられないことです。

その点ですでに「この人をもはやひきこもりといえるのだろうか」という矛盾したような印象も生まれましょうが、その菩薩行こそ、ひきこもりブッタの足掛かりな気がいたします。

私は最終章の「涅槃編」を発展させた次回作を期待するとともに、その菩薩行を拝観したいと思っております。言葉と行動が両方ともなっているだけでひきこもりにとって菩薩行なのですから。

※上手く書ききれなかったところもあるため、感想の続編を考えています。考えていますが、自分にその頭の筋力があるのかは疑わしい所です。

2011年7月31日日曜日

Division

私は君のために 選択肢を与えた
私は君に より長い夏休みを許した
ところが君が 覚えたことといえば
皮肉に満ちた歌詞のかずかずと
屈託のない笑いではなく 皮肉な笑い声だけ

商店街がそばにあるのにバスに乗ってショッピングモールに行く
ぼんやりする時間は必要だが
ぼんやりしすぎるのは危険だと
学ばずにきたら どうなるか
安直な世過ぎを 阻むものが多すぎたのか
君にとっての悪が
相対的な意味があるなどと 勘違いして
時は過ぎゆき 君は苦しむ
生理なのか 記憶なのか
越え難い河が 繊細な小川だとようやく気づく

普通に感じ 普通に優しくあれば
そんなに芝居じみた世界だと思わずにすんで
人形のように感じ ロボットのような動きの
その不自然さに気づく

商店街に戻り 店主と食材について話せ
自分を 自分の外側から見るな
試食して ここにたどりついた意味と
自分の食感を感じろ

君の前に流れているのは 渡れない大河じゃない
それは 子どもが水浴びする小川に過ぎない
定義なんて仰々しい
支援なんてばかばかしい
お互いさまだと気づくのに
あと何十年かかるというのか

より長い夏休みの後に
その後に

2011年7月9日土曜日

しばらくぶりです。

しばらくぶりの更新です。
休みの本日、久しぶりに髪を切りました。

んで、久しぶりに庭を眺めました。感じるように。
札幌の春はクロッカスをさきがけとして、一斉に桜も梅も花が咲く、
とPR用に考えていたのはほんの先頃のことのよう。
ぱっとしない天気の今年の春でしたが、いつのまにかもう夏がやってきました。

この時期は花の時期ではないけれど、植物の勢いがまさに若者が生をもて余すかのように、強い生命力を持って迫ってきて、ある種の凄味があります。
植物も生きている、ということを実感させられます。

この生命の勢いを人間に例えるとどうなりましょう?
私は天然にぼんやりしていたい人間ですが、自分自身、いつのまにか「生命の勢い」の季節は過ぎて別の局面に入っているとおもうことしきりです。

でも、植物も夏に圧倒的な生の勢いを見せつける。人間も天然自然のいきものならば、生の勢いを持て余すかのように、この世は動いているのでしょうか。
そして勢いの時代が落ち着いた人にとって、生とはどのようなかたちを心身に持つのでしょうか。

昨日、久しぶりに家電量販店を覗いたときに受けたカルチャーショックのことを書こうと思って切り口が全く変わってしまいました。
いずれにしても、アップルとかソフトバンクの提供するものはインターネットの時代にもう一段別のステージを目論んでいるかのようです。

文字通り日常の中に電子化が普通に組み込まれている時代が来そうな気が。
エンタメと日常の社会生活が重なるような時代が。
意識の断層も含めて、それを認めて、ある程度その感性を想像出来る形をできれば手に入れたいなと。
そのうえでアナログ(アナクロ)な感性はより強固になりそうな気も(苦笑)。

まずは一番、敷居が低そうなのはアイ・パッドかな~。
まずはそこから。

(相変わらず内容が途中で変化してますね)w

2011年6月14日火曜日

被災者の方たちと基金訓練

東日本大震災から3か月が経ちました。もしかしたら、僕らの心性として、3か月をある種の振りかえりの時期と捕えるところがあるかもしれません。


懸念があるとすれば、あの震災が残した課題が徐々にフェイドアウトすることです。

現在、札幌市に居を移した被災者の方々は自主避難者を含め、800人以上になります。まずは公営住宅や身寄りの家に身を寄せて、徐々に落ち着いたところで課題になるのが収入を得るための仕事です。それがなかなか見つからないとの話は報道もされています。

今回は福島の原発事故という特殊な事情もあり、札幌を中心に10代以下の子と30代の移転者が多い。すなわち、幼児とその親の自主避難の可能性ですね。

これはある程度、長期戦になりますから、収入を得るための仕事探しの問題が出てきますが、震災以前より、札幌の求人はなかなか厳しい。バイトニュースなどでの不安定雇用も如何なものかと個人的には思います。とはいえ、ご本人たちにとって、完全移住をも考える長期滞在か、あるいは帰郷を前提にするのかは悩みどころでしょう。

そこで、被災者の方に個人的にお勧めしたいのは厚労省が第二のセーフティネットとして幅広く失業対策として進めている「基金訓練」です。多少条件はつきますが、生活支援給付金(単身者:10万円、被扶養者有り:12万円)を受給しながら職業訓練を受ける。その時間勉強をしながら新たなチャレンジの準備期間と出来るのではないかと。

公営住宅等に住みつつ、なかなか決まらない仕事を探すよりも、現状訓練校を受験する方がハードルは低いのではないでしょうか。ハローワークの職業訓練相談窓口で聞けば、希望する学校に定員に対してどれだけ受講希望者がいるのかもおおむね分かります。

訓練期間はおおむね3カ月から6カ月。中には農業系のコースでは1年間のものもあります。農業系も都市型農業で、都心部から通える地域で講座はあります。

分野は主にIT基礎、WEB製作、医療事務、ホームヘルパー、そして農業分野など。なかにはかなり専門的なコースもありますので、学びたい方向性が明確な人はそういうコースを考えるのもアリでしょう。(その分、競争率は高そうですが)。

現在の募集はこのリンクの通り。

わかりやすい基金訓練についての解説

お知り合いの人にもし、被災避難先で生活する人で仕事探しで困難を抱えている人がいれば、どうかこのような方法もあると情報をお伝えください。

PS
その後ハローワークで確認したところ、世帯主に対して給付金が支給されるこの制度を利用する前に、雇用保険(失業保険)を受給している世帯主が多いのではないかとの話。また、雇用保険受給者の場合にはまず「公共職業訓練」が優先的に紹介されるようです。
また、世帯主が例えば被災地で仕事を続け、奥さんと子どもが自主避難のケースの場合もあります。

しかし、失業保険の認定を受けられない人はハローワークに求人登録に行かないことも考えられるし、求人登録しても、基金訓練のアドバイスを受けるのに敷居が高いケースも考えられます。公共職業訓練も定員がありますから、その選抜試験で落ちる場合もあるでしょう。そのような試験を受けた後、基金訓練を案内されることもいまのところ余り聞かないようです。

情報に貪欲な人と、その逆に何となく遠慮を感じている人もある筈。
個人的にはいろいろなサービスにアクセスし、長期滞在にせよ、いずれの日にかの帰郷にせよ、地元でなくとも安心した市民生活を送る基盤を、生意気な書き方ですが、築いて欲しい。なにもない公営住宅から生活のための物資が入って一息ついた後に出るのはやはり収入と、日々のやりがいや生き甲斐でしょうから。

理想を言えば、ハローワーク内においても、職業紹介と職業訓練を上手くつないでほしいものではあります。
勿論、基金訓練の本旨は経済的に苦しい人が勉強して仕事につながることですから、生活支援給付金目当てで殺到するのは問題があります。
その意味で、8割の出席と、学ぶことに対する真面目さが筋目だと思います。
しかし、同時に学びも生きがいの一つになると思いますし、そこで友人が出来ることもあるのではないか?それが意味あることにつながるのではないかとも思うのです。

2011年5月31日火曜日

北海道NPO被災者支援ネットについて

現在、私、内閣府のNPO訓練の最初期に偶然、上記のNPOの事務局長にばったり出会いまして、そちらでボランティアで活動しながら、現在は来年3月までですが、臨時雇用されて働いております。

仕事の内容は今回の大震災による複合被災で札幌に移転された方のサポート、相談、生活支援情報誌の発行、ホームページによる情報発信、被災者のためのボランティア講座などになります。

現在は緊急的に札幌に移転されて、公的住宅にお住まいになる方の物資的な支援の側面援助(家電や家具など)、そのようなマッチングに精通しているNPOさんと連携協力させていただき、マッチングのお手伝いが主で走ってきました。

現在は徐々に企業さまや団体、自衛隊の方々など協力を戴き、被災者のために憩いやレジャー、普通の市民生活になじんでいく援助の方向に少しずつシフトしつつある状況です。

他に力量ある二人の男性・女性のコーディネーターがおりますから、よければ被災者のお知り合いができ、お困り事があるようでしたら、被災者支援ネットというものがあるよ、あるいはホームページで情報を充実させて発信しているよ、とお伝えください。

私は現在のところ、この事業所の労働社会保険や源泉所得税の適用届などを各署に届ける仕事をしている状況で、今週は自分の仕事の中心はそちらになりそうです。

ホームページが充実しています。
札幌市内にも500名を超える被災者の方がいます。
どうかHPを読んでいただき、被災者の方も同一平面のお互いさま感覚で、もし身近にそのような罹災されたお知り合いがいらっしゃるようでしたら、ぜひこの団体のホームページの情報をお使いください。よろしくです。

北海道NPO被災者支援ネット

2011年5月1日日曜日

北海道ひきこもり支援ハンドブック完成

 そうそう、肝心なことを忘れていました。
 私も支援機関やNPOを取材させていただき記事を書いた、会員として活動しているNPO法人・レター・ポスト・フレンド相談ネットワークの助成金事業で作成した「北海道ひきこもり支援ハンドブック」が遂に完成しました。

 まだ出来上がった本はきちんと見てはいないのですが、表紙のイラストがかなりのセンスです。出来上がりもなかなかなものになっているのではないでしょうか。4人の取材陣が平均12箇所の取材記事を書いて頑張りましたです。(自画自賛)w

 個人的には、「居場所ハンドブック」って感じかな、印象としては。別にひきこもりに特化して考えなくてもいいし、勿論ひきこもり支援の本として考えてくださるのも結構な事。

 この本の中でも一つ大きなポイントは、福祉の先駆的な取り組みの例として「釧路市生活福祉事務所」に関しても紙面を多く割いていること。言葉の定義が広くなった、大きな意味でのひきこもり課題を考える上においても、あるいは各種生活課題を持つ人たちにとっても、今後の社会的な方向性を考える上において、沢山のヒントがインタビューの中から手に入れること出来ると思います。
 福祉関係者、NPO関係の方々にもお勧めです。

 同時に、今回は3回の元当事者体験発表会(うちお一人は身体障がいの方)をリライトしたものを一つにまとめて発刊されることになりました。タイトルは「ひきこもりと共に歩む」。(個人的には『自分自身と共に歩む』というタイトルの方がいいなぁ、と思うけれど。)

 なにしろ、両者ともに表紙のイラストが良いです。

 郵送料500円で入手できます。北海道内のひきこもり支援団体や機関に関心のある方はぜひ入手してください。元当事者の取材ですが、思った以上に内容は広く、そして深いと。理解のある人には分かる筈。まずはこちらからアクセスするのが手早いでしょう。

2011年4月18日月曜日

再び

NPOや社会的事業について学ぶ支援金付き訓練が本日より始まりました。
昨年の懐かしい顔ぶれも、自分も含め4人ほど。
今回は実習期間が半分を占めるので、インターン先も2箇所くらいになりそうな予感。

ここのところ、どうも地震や原発のショックが自分にも大きく、それだけでもないでしょうが、出不精ゆえにひきこもり気味でした。
久しぶりに人中に入ったという感じで、行く前は結構緊張したのであります。

だけど、今回NPOについて学ぶ人が初めてという人も多そうな中、アイスブレーキングの話し合いでかなりの方が地震や原発について考えさせられたようで、良かった、自分だけが孤立気味に考えてたわけではなかったんだね、と少々ほっとしたりもしました。

あと、「仕事が無い」という話も普通に出たようです。

これって、けしてハッピーな共通了解ではないけれど、問題意識が共有されている面があるようで、それはいいことかな、と。
アイスブレーキング担当された方も仰ってましたが、「社会の事とか真面目に話そうとするとみんな退いちゃうと思うじゃないですか。でも、結構そういう問題意識はみんな言わないけどもっているんじゃないかな、って。そういうことを話す場があるといいんじゃないかなって思うんですよ」と言った趣旨の総括もあって、そういう風に言ってくれることが嬉しいことでしたね。

2011年4月16日土曜日

安かろう悪かろう

 余りに髪がうるさくなってきたんで、来週からまた訓練が始まることもあり、理髪に行くことにしました。
 よく利用している地下鉄の出口から少し北に面する1500円カットの店に入ったところ、「カットのみ1000円」になっていました。おお、とうとうこの店も激安競争に参加か、と。カット&顔そり1500円で格安オープンして、これは金のない身には有り難い、と思って利用するようになってからもう10年くらいたつのかな?デフレ不況がとうとう理髪業まできたか、と思いつつも利用するようになりました。その後、JR札幌駅にカットのみで1000円の店が登場しました。そちらの方も私、何回か利用しましたが。

 それからここ1年半ほど前からでしょうか、この自分の住む地下鉄駅に近い1500円カットの2丁ほど北側にとうとう1000円カットの店が出現しました。まさに文字通りカットのみなので、ごくあっさりで、整髪もあっさり。なんら情緒的な満足も無い、いたってファストフード的なドライな感覚です。

 さて、上記の行きつけのカットの店で1000円カットを頼みましたが、入った時からどうも店の雰囲気が違う。ここは1500円カットの時から完全分業制で、いわば流れ作業でお客さんの頭を扱ってきました。面倒なコミュニケーションが好きではない自分には向いているのですが、それでもまだ前は多少人間臭い空気はあったのだけど、今日行ったところ、本当にコンビニ的なドライさ。

 僕が自分の髪全体のイメージが出来ないというのもあり、いつでも向こうの最低限の質問にそれで結構です、かあるいはもう少し短めでお願いしますしか注文しないというのもあるけど、その最低限の質問をされた後は髪を切った人間は終わったらすっと店舗の奥に入ってしまうし、後を託された細かな所に刃を入れる役割と最後のドライヤーをかける若者のほとんど人間を相手にしているとは思えない感じ。
「安かろう悪かろう」とはこういうものか、としみじみ思いましたね。顔そりすると1500円のようですが、顔そりはしてもらわなくて良かった。あんな若者には顔そりは任せたくない。

 ちょっとこの店はヤバイな、と思いました。

 昔の床屋さんと言うのは何かとコミュニケーションを求められて、それこそひきこもっている頃はそれが苦痛で仕様がない。その関係性が無い今の格安カットはわずらわしさがなくて良いのですが、その分、流れ作業になっている。ファストフード・カットか、なるほどな。デフレだよな、と妙な納得をしているのですが、その中で時折ベテランぽい人が余り自分の仕事を楽しめてないような姿を見ると、勝手にこの人は昔は理髪店に勤めてたのではないだろうか、あるいは自分で経営していたかも?とか。すると、全体を見ることが出来ない今の仕事をどう思っているかな?とか(あくまで想像ですが)。
 あるいは、人間を相手にしているとは思えない若い人を見ていると、物凄い安い給料で働いていて、理髪屋のプライドとか矜持を知らないまま行くのかもしれないな、とか(これも想像ですが)。

 確かに昔はいま考えると平気で3500円とか取る理髪代は高すぎた。そんな理髪屋さんに行く人はある程度経済力のある中年以上の人に限られているかもしれません。
 理髪業界がどうなっていて、どんな問題意識があるのか別に想像する気もないですが、理髪は昔に比べ、極めて変化が大きい世界のような気がしますので、ついこの生活のアウトソージングの世界で全てが平準化されて味気ないものになっているな、供給できるサービスが思った以上に「計算された」限界点にあるな、と思う事なのでした。

 カネのないやつがいうこっちゃない、つーの。って話かもしれませんが(苦笑)。

2011年4月14日木曜日

最近の状況において。

福島原発の状況。過去チェルノブイリにしかなかったレベル7の最悪基準になり、にわかに福島原発1号機から4号機までの現在進行形の状態が気になる日々です。
いま、ニュース画面でもちらっ、と福島10KM圏内にも警察の人たちが入って捜索活動を始めた映像が見えましたが、何度被災地の映像を見ても呆然とするしかない。まるで廃棄物処分場のような状態です。自然の力は圧倒的に人間が作った物理的構造を壊すんだな。まるで嘲笑うかの如くに。

私は、実利を考え、昔取得した社会保険労務士の復習を、時間がある今、DVD付きの教材で学び直しているところです。来週からNPOの勉強でまた訓練を6週間受講しますが、既成現実からちょっとずれたところにニーズがある仕事が出来得るなら、と考えつつ、迷いながらも法律が持つ保守性と意味性の両方考えながら記憶の想起作業をしています。

それはともかくとして、労働基準法とそこから派生した労働安全衛生法をとりあえずおおむね終える段階ですが、この安全衛生法は機械や化学物質の取り扱いについて、あるいは元請けや下請けが登場する建設業関係の法令的な取り扱いについてなど、もともと興味関心の外で、前から最も苦手な社会保険労務士の勉強なのですが、いま現在、原発事故の発生地で働いている東電の協力社員(本当は下請けというべきでしょう)や日立、東芝など関連社員たちがどのような作業環境で働いているのかと考えると、もはやそれも法令的にもほとんど想定外と言うか、想像外な気がします。法令にも原子力発電所の有害業務について具体的に書かれていないので。。。この安全衛生法は労働災害の防止が一義的な目的なので、たまさか今回の原発事故の関連でも関心を持たざるを得ない科目となりました。(頭が痛くなるのは、やっぱりありますが)。あそこでの作業環境がどうか、など私も正直そうですが、みな普通の人は想像もしたくないでしょう。

それにしても、今回の原発事故はまだ自分にはあの津波の映像のようにどこかで受け入れられないような非現実的な感触が残っており、それは政治家も含め、この、人間たちが本来制御不能な怪物的な技術物を前に、どこかで一瞬ブラインドを降ろすような心理になったのだと思いますが、残念ながら案の定、初動の判断に生じた少しの迷いや躊躇があっという間の水素爆発まで発展するところまでいった。そのことは最悪から想定する癖が持てなかった人災であり、世の中の印象として、どこか「戦争の敗北」に比する何かがあるとすれば、やはりそれはきっと敗北であり、それは敵の無い、自分たちが作った技術の自然に対する明確な敗北でした。
今後の社会生活、経済生活をまず今、先立って考えようという立場に立とうと、立ち止まって考えよう、という立場に立とうと、「技術の自然に対する敗北」は明白に認めざるを得ません。
私はそこにまず、市民の共通認識に立つところから始めるべき、と考えます。


今月の岩波の月刊誌『世界』は大震災特集です。
この雑誌。日常的に云えば、極めて教養主義的、観念的、現実応用性が低い社会人文系の学問人や教師たちのための社会系専門誌と思う人も多いでしょう。私とて、日常的にはそう思っている一人です。時に難しく、時に教養臭が鼻につく。
ですが、今号も最初はその気分はあったのですが、一つ一つと最初から読み進めると私の今の気持ちに言葉がすっと入ってくるのです。
内橋克人、坂本義和、宮田光雄、池内了、松谷みよ子、岩田靖夫、中野佳裕、木田元。いまの時代の言論人からいえば、保守系雑誌『文芸春秋』並みに革新系の「昔の名前で出ています」風情の書き手たちで、震災前に発行したと思われる復刊版『朝日ジャーナル』のほうが遥かにアクチュアリティの書き手たちが揃っています。

ですが、この雑誌の書き手の文章の一つ一つが沁み入るような気がするのは何故なのか。それはまだ上手い言葉は見つかりません。ただそこに率直な「畏れ」の感覚がある、その意味で自分の気持ちと繋がり、自分の感性としていま、とても分かるところがある。そんな気がします。

中でも東北大学名誉教授の岩田靖夫氏の体験から始まる文章はとても考えさせられる文章でした。被災地、あるいは被災地の周縁にいるということはインテリとして学問の世界で生きていたとしても、津波や、津波で制御が利かなくなった原発のように、剥き出しの、裸の人間をそこではさらされてしまう。
すると、これは僕が勝手に感じた感想で書かれた本人には申し訳ないですが、高齢者で身近に他者の大きな救援の手が無いとほとんど日常の自分が持つ安定的基盤を失う、極めて心細い厳しい状況に置かれる。
幸い、岩田氏は仙台から娘さんが助けに来てくれたようですが。

自分に照らして、はたしてこのような巨大地震が起こりえる国で、いったいどのような自分自身のセーフティネットがあるのか?いまではなく、未来と近未来の中間あたり、つまり70代、80代になった自分が生きている時の前提を想像するとちょっと空恐ろしいものがあります。

阪神大震災の時も、というか日本はこの戦後世代中心の世の中において、2度の巨大地震に遭遇している訳ですが、ここ最近の猛暑や寒波も加えるならば、自然の力が大きくせり出している時代にどのような自分の生を全うできるのか、ということはやはり考えてしまいます。

テレビやその他、日常性の延長を続けたいという社会経済の思惑はあり、それは続くでしょう。しかし、私たちはどこかでその限界をしかと見てしまったと思いますし、私はもうここが限界だと思っています。

それでも、私はこの日常に喰らいついているのです。いつかは終わる、それが想像できるものは沢山ある。しかしそれらを断ち切ってはいないし、断ち切れないものもある。その関係性も両者ともに変化しながら移行していくだろう。
そんなことを改めて考えさせられます。

一言でいえば、自然の刃は危うい地盤の上に立つ僕らの現代社会に覚醒を迫りにやってきた。911とリーマンショックでアメリカが敗北したように、いま、日本は長い連れ合いである自然猛威によって、また敗北を迫られたのですね。

2011年4月7日木曜日

どこが自粛選挙?

 自粛選挙などと言いつつ、選挙カーによる遊説選挙が例年通りヒートアップしてきています。
 特に今回の選挙は市会議員、道議会議員選挙があるために、かなり地廻り、ドメステックな運動となってしまい、ウチの廻りでもいろんな候補がかなり大音量で叫んでいます。この選挙カーでの連呼選挙は本当にどうにかならないのでしょうか?いわゆる「空気が読めない」さいたるものです。

 陶酔するように「ワタクシ、○○は必ず、必ず○○を実行します!」と自己宣伝をやれるそのキャラクターは私にはまったく理解不能なものです。政治に関心を持つにしても、政治をする側と、私が生を受けて同じ地球のこの国に同居するものとしての性格がこれほど違うものなのか、と改めて実感させられます。自己陶酔出来てしまうキャラクターでないと、おそらく選挙運動なるものは出来ない。

 しかし、コミュニティ単位の議員を選ぶ方法はもっと何とかならないものか。茫然たる被災の風景を見てエンターティンメントや文化活動が自粛、自粛の流れの中で、上記のように彼ら議員候補は生き残りに必死、あるいは自己陶酔しているわけで、最も自粛から縁遠い人種です。
「被災した人々のために」というならば、少なくとも僕が知る、尊敬に値するこの国の文化の中でのリーダーというものは死者を心より黙とうし、黙して、実践的な行動の中で表現する。そのような人を自治のリーダーとして尊敬するのです。ですからリーダーはその際、政治家に限りません。教養豊かな医者のような存在も、危機の時にはその地域のリーダーに十分なりえます。

 結局、食べていくための政治家になるから良くない訳です。少なくとも区レベルを代表する政治のリーダーは兼業でもやっていけるようにすべきです。まずはこのネット時代、ネットによる選挙運動が出来るようにするのが第一に必要。僕ら自身によって、政治家にアクセスして、選びたい候補を選択できること。その意味ではユーストリームやユー・チューブのような映像が存在しているのは大きい。
 かつ、議会を夕方以後に持ってこれる政治文化とすること。そこで兼業議員がボランティア的に議会に参加する。それを僕ら地域の人間たちがネットなどで見る。そこでもフリー映像メディアの存在感は大きいのです。

 いずれ、この不毛な拡声器による連呼選挙は終わるでしょう。そも一日も早く終わらねばなりません。いったい、どこが自粛選挙でしょうか。被災地の人たちのことなど過剰テンションの中に在る彼らには眼中に無いはずです。こんな事をやっているといずれ全てしっぺ返しを食らうときが来ますよ。こうやって一つひとつ、政治リーダーに対する不信が増幅する。まぁ、リーダー不信が覆っているのは政治界だけではありませんけれども。

 率直に云って、これは「危機」ですね。何か、最も本来的で根本的なことに気付いていないという意味で危機だと私は思います。(偉そうだな)。

2011年4月5日火曜日

忘れられた日本人

 今日は午前中に紹介のあった求人を手にハローワークで紹介状をもらってきて、応募書類を書いて投函した後、午後雪割り作業をやりながら、合間合間にユーストリームで『環境エネルギー政策研究所所長』の飯田哲也氏の日本記者クラブにおける講演と、夕方に同じクラブ会場にて福島の市長・町長の会見を見ていました。
 私は後者の会見を聴いていて、コメント欄に次々揚がるコメントに残念な思いを強めていました。そこには「原発で食べてきた」首長だとか、「高齢の首長などには全体を読める目が無い」とか、随分な書かれようです。元来から「反原発運動家」のような人たちが書くことなら分かりますが、どうもそうは思われず。一見の見学者が通りすがりに云いたいことだけを書いている様子にしか思えません。

 思わず「そのコメントを書いている自分がどこのだれのおかげで電力のお世話になっているんだ!」とこちらもつられて何か書き残したくなるほどです。

 確かに原発誘致で潤った町もあるかもしれません。どこかの一つの市や町の首長さんは確かに「絶対安心」の神話に乗ってしまった面もあるかもしれません。それでも、長たるものとして、人間が作ったものに絶対など無いことなどは頭の片隅にあるはずですし、原発が事故を起こした際の危険性は必ずどこかにあるはずです。無意識、無関心で済ましていたとは思えません。まして福島全域はどう考えても自治体よりも中央政府や東京電力の不手際の方が圧倒的に大きい。住民やその町のリーダーに責任はないはずです。それを過去の誘致の事実のみを持ってきて、彼らのいまの悲鳴を責めるというのはあまりにヒューマニティがなさすぎます。

 切実な思いに対するこの匿名のコメントたち。自分は、ツイッターがまだそれほど一般化していない、普及直前の頃から始めており、その頃のリベラルでお互いに対してセンシティヴな感覚で対応、コミュニケーションが流れる時期の意識が強いので、ユーストリームのコメントがこれほど無責任になっていることに少々ショックを受けました。2ちゃんねるのユーザーがツイッターやユーストリームの普及に従って、こちらに流れてきているのでしょうか。今後、本当の意味で不謹慎コメントが増え、それを削除する業者によって削除されるような風にはなってもらいたくないですね。

 とはいえ、現段階のそれはせいぜい無責任だと思うコメントの段階ですが、このシチュエーションにおける匿名人による表現は、宮本常一という民俗学者の名著『忘れられた日本人』の中の一編、「子どもをさがす」を思い出させるものでした。


 「共同体の制度的なまた機能的な分析が実際どのように生きているか」という書き出しで始まる1950年代後期の周防大島の子どもの不明事件を取り上げたものです。家庭内の親子喧嘩で家を出て行った子どもたちを村全体をあげて探す。近代化が進み、選挙の時も親子で票が割れるようなところであったが、「目に見えない村の意志」のようなものが働いていて、子隠れに関してもある種の村総体での手分けした子探しが行われたという話。
 ところが、ここで一つ気になる話を宮本常一氏は書き添えます。

「ところがそうして村人が真剣にさがしまっている最中、道にたむろして、子のいなくなったことを中心にうわさ話に熱中している人たちがいた。子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。村人ではあるが、近頃よそから来て、この土地に住み着いた人々である。日ごろの交際は、古くからの村人たちと何のこだわりもなしにおこなわれており、通婚もなされている。しかし、こういうときには決して捜索に参加しようともしなければ、まったくの他人事で、しようのないことをしでかしたものだとうわさだけをしている。ある意味で村の意志以外の人々であった」

 私は上から目線の「日本人だろう」という言われ方は大嫌いです。ですが、いま頭を垂れるような思い、鼻がツンとして目頭が熱くなるようなのは、自分が被災していながら、被災地で全体を見ている自生的なリーダーたちや自主的にボランティアをしているこれも自分の家が被災したであろう、子どもたちの姿です。誰でもそこに感動を感じると思うのですが、そのようなひとたちこそ、日本人で、時とともに「忘れられる」日本人であり、ですが、彼らの力を借りた人たちにとっては「忘れられない」人たちになるでしょう。記憶の中で長く生きる人たちになるでしょう。

 宮本常一氏の『忘れられた日本人』に登場する所謂土地とともに生きる人たちや、世間師と呼ばれるいわば非定着の民のような人たちがおそらく近代化とともに忘れられる意識と感情を持つ人たちとなるだろうとして、何とか文章の上で記録させようという思いがほとばしっているような気がします。この作品に記録される名もなき日本の人たちは、いま被災地で歯を食いしばって助け合いをしている人たちと見事にだぶります。

 愛知県の「名倉村」(当時)のその三に登場する社協の松沢喜一翁の話などは何度読んでも感動が新たになります。

 私は現代に生きて、一歩間違えると「共同体の意志の外」の存在になりかねません。時によると、ネット時代に「通りすがり」コメントを残すような存在になりかねない。その事は常に厳しく意識していなければなりません。同時に、上からの思い切り「善意の意志」が必ず前置きされねばならないような空気もいま現在あるといえるでしょう。これもなかなかに厄介です。

 この震災の複合災害性に比べれば何ということはないような話ですが、「マス」の文脈ではいろいろと、完全なる内々関係にはない、社会関係上では厄介な気兼ねの必要な事の多い社会的状況になってきました。
 もしかしたら、そのような複雑な感情が時折屈折したネット上のコメントとして登場するのかもしれませんね。。。

2011年3月31日木曜日

Hold On

しっかりジョン ジョンよしっかり
うまくいくよ
君は闘いに勝つんだ

しっかりヨーコ ヨーコしっかり
うまくいくよ
君は飛べるんだ

君がひとりぼっちで
他に誰もいないとき
自分につぶやいてみるんだ
しっかりしろって

しっかり世界よ 世界よしっかり
うまくいくよ
光が見えてくるんだ

君がひとりのとき
ほんとうにひとりのとき
ほかの誰も出来なかったことを
君はやりとげるんだ
だからしっかり
しっかりするんだ

2011年3月23日水曜日

アスク

はみかみというのはいいものなんだ
でも はにかみが邪魔になって
したいことが沢山あるのに
できないって場合もある

だから もし何か
やってみたいことがあるなら
もし何か
やってみたいことがあるのなら
僕に訊いてー「駄目だ」なんて言わないよ
そんなこと 言えるわけがない

恥じらいというのはいいものだ
でも 恥じらいが邪魔になって
言いたいことがたくさんあるのに
言えないって場合もある
だから もし何か
やってみたいことがあるなら
もし何か
やってみたいことがあるのなら
僕に訊いてー「駄目だ」なんて言わないよ
そんなこと、言えるわけがない

気持ちのいい夏の日々 家にこもって
ルクセンブルクにいる出っ歯の女の子に
とんでもない詩を書いている
僕に訊きなよ 僕に訊きなよ 僕に
なぜって 僕らを結び付けるものが
愛でないとしたら
それは爆弾だってことになる

自然は言語さー読めないのかい?
自然は言語さー読めないのかい?

僕に訊きなよ 僕に訊きなよ 僕に。。。
なぜなら 僕らを結び付けるものが
愛でないのだとしたら
それは爆弾だってことになる
(アスク/ザ・スミス 詞:モリッシー 曲:ジョニー・マー)

YouTube - Ask • The Smiths

2011年3月18日金曜日

日々懸念の折。。。

自分としては、やはり自分なりの糧を求めて求職の活動もしております。
本日は朝イチで某会社の面接。こちらも非正規社員ですが、アッサリとすぐに面接は終わってしまいました。事務所が小さな所です。
ものの10分もかからず終わってしまったので、帰りは歩いて帰宅。一転して今日は晴れ。昨日の降雪が嘘のよう。三寒四温の季節到来です。
でも、どこか変な自然なのは確か。昨日の雪の降り具合も半端ではなかったので。。。

ほとんど、何も問われないまま終わってしまった面接なので、採用はかなり難しいでしょう。もう一つ、応募書類を送ってますが、こちらもどうか?
いずれにせよ、エクセルと、改めて本格的に通信DVDでも申し込んだ社会保険労務士の復習にしばらく時間を割きます。

日商簿記3級試験は何とか合格しました。
2月は時間を割けなかった(割かなかった?)し、今の日商簿記はかなり難しくなったというか、細かな事務的作業が増えた煩雑な、体力勝負的な所があったので、本当に良かったです。実は落ちてると思っていました。

ま、とにかく4カ月訓練で目標にしていた資格は一応全部目標達成したので善しとします。
これからは勉強と行動の両立だ。
来週は面接対策のためにジョブサロンにも問い合わせようと思っています。

もう一つは、NPOのスキルアップ講座が生活給付金付きでありそうなので、それも視野に入れていきます。

 昨日は少額ながら郵便局でハローワークの帰りに募金してきました。局員さんもとても避災について饒舌。心が通う感じはこのような未曾有な事態がないとすぐ共有できないのはある面では残念ですが、現代社会に住む僕らが主体的に選んだ生き方がどこか「寂しさ」を内包しているのも確かでしょう。

 個々人の自由と才能を生かして生きていくために。それは僕は否定しません。ぼくじしんがそう望んでいる面もあるのですから。
 これから問われるのは個人の自由と、社会を意識することのバランスを一層意識化して生活することでしょう。

 都市が一瞬パニック買いに走ったのは一概にはこの非常事態ですから責められませんが、自分がそれをやると、他人もやる。すると、社会としてその全体的な結果はどうなるか。想像すればやはり分かってしまうことなんですよね。。。

 いわば「見えざる神の手」の負の連鎖ですね。
 そういったことが、近代人、現代人として生きていかねばならなくなった、でも自然の前では圧倒的に勝てないぼくらに問われる新しい事態だと。生意気ながら思っています。
 ぼくはいま、歴史の新たな1ページの前に立たされていると思っているのです。

 

2011年3月16日水曜日

想像を絶する世界

 大変な地震が起きてしまいました。
 どこまでいっても、浮ついた言葉、手垢まみれの言葉にしかなりませんが、被災に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。
 生まれてから阪神大震災と言う凄まじい事態をテレビ画面の向こうで見てきており、利便性が高い快適な現代社会も、自然の一撃においてひとたまりもない、と不遜なことを思ったものでした。でもそれはどこかでずっと心に沈澱していて、いつでも飛び出す思考の何がしかでした。
 今回の地震の広がりにおいて、自分の身体に例えれば中枢を撃たれた、というか、根底から想像を絶するような事態を聞くばかり。正直、心理的に動揺しています。

 何しろ想像を絶する津波災害、今も予断を全く許さぬ福島原発、計画停電や買い占め騒ぎなど、都市住民のミニパニックも含め、これは日本全体に渡る大災害なのだと改めて実感しています。

 もどかしい気持ちです。
 宮城や岩手の避難所の人たち、孤立した地域に避難している人たち、雪風の追い打ちをかける厳しさ。水、石油、食料、薬、テッシュペーパー、生理用品、情報。何とか届けられないのか。道路は通れないのか。実態はどうなのか。
 同じ日本人だからとかではなく、同じ国土に住む者として、ただ座視しているような今の自分のこの感じは何とも言えないざわつきがあるものです。

 福島県知事の怒り、わかります。青森県知事の内閣への陳情。強く心打たれました。県民の本当の気持ちを知事の人たちは分かっている。

 いつも巨大な地震の映像を見るたびに思うのは、高齢者が多い所や生活弱者が多い所を一番に直撃する、ということです。

 それを都市でミニパニックに陥った人は安易な言い方かもしれないが、想像してほしい。少なくとも都市住民は飢えはしない。

 でも、このままでいけば、東北の元々三陸海岸地域のような道路インフラも厳しそうな土地の孤立した人たちは、日本人が今まで想像もしなかった、「飢え」「寒さ」「病気」でお亡くなりになる高齢者や赤ちゃんが出てくる可能性があります。夏場でないおかげで悪性伝染病にはならないかもしれませんが、インフルエンザの流行も考えられます。そこに思いいたしたいものです。

 偶然にもなんの被害も受けなかった土地に住む人間として出来ることは今現在は思いをいたす、そのことしかないです。

 そして幸いにも現地の人からの声が届くならば、その声を一つでも多くマスメディアは届けてほしい。そしてどうすれば、その土地に必要なモノを届けられるか考える手立てを語り合ってほしい。

 空中から食料は投下できないでしょうか?石油、ガソリン、水は無理ですが、パンやカップめん、糖分を含んだ菓子やジュース、缶詰などは空から投下できないものでしょうか。

 今なお多くの行方不明者がおり、痛ましい限りですが、いま現在困難に陥っている人たちを最大優先順位において動いて欲しいです。

2011年3月8日火曜日

釧路発 地域のセーフティネットづくりフォーラム

今週の木曜日は表題のタイトルのフォーラムを聴きに行くために釧路に行ってきます。
釧路のパーソナルサポートサービス「えにぃ」の啓発、パーソナルサポートとは何か?釧路チャレンジとは何か?といった話になるのではないでしょうか。メンバーが豪華です。

・湯浅誠さん(内閣府参与)
・小磯修二さん(釧路公立大学学長)
・櫛部武俊さん(釧路市生活福祉事務所主幹)
・日置真世さん(地域生活支援ネットワークサロン理事、北大助手)司会・進行。

始発ー終発での旅になりますが、どのような話し合いになるのか興味深々です。

http--n-salon.org-data-psforum.pdf

仕事探し再開

 一昨年、自民党政権下で始まった初期の基金訓練を紹介してくれた柔軟な構えの職業訓練相談員の方より連絡を戴いた仕事の紹介状を昨日戴き、3件を今週・来週内に応募書類を送り、面接につながる機会を伺います。
 非正規労働、つまりパートタイマーです。年度変わりの補充要員として、ですね。時給はかなり高い。その分、勤務日が少ない。

 仮に面接にたどりついても来週の月~水に集中していて、しかも専門知識も問われる筈なので、過去とった資格関連の法令も急遽勉強して間に合わせをしなければなりません。

 しかし、恐るべしリーマン以後の世界。昨年、今年の就活戦線は異様ですね。毎年の経済情勢にモロに影響を受ける新卒一括採用は本気で考え直さないといけない時期に来ていると思いますね。

 職業訓練を1月まで受けていた23名のクラス、事務能力の水際立っている人がヨリ厳密に見ても、2人はいましたね。ただ黙って見ていても、4人は十分即戦力でした。中には教える側よりも出来るのではないか?という人も(苦笑)。逆に先生に教えてた、というw。

 こんな能力が高い人が受講しているのか?ということがあるのも基金訓練です。
逆に月曜日にハローワークを観察していると、何人も職業相談から基金訓練のある職業訓練相談に移動している人がいました。
 まさにハローワークは今や訓練相談員が花形、「廃止」された筈のジョブカード花盛り(どうだや?枝野さん?)。そんな感じです。まさに第2のセーフティネット。間欠的に何回も、いわばこの10年以上ハローワークを見てきた(といっても外側からだけど)身としては、「ただ事じゃない」全く新しい風景を見ている気がします。何か、乱暴に云えば、根本的に全体を見直さないといけない局面に来ているような気がしますねぇ。

 求職活動と言うのは実は小さな金が積もってしんどいもんなんですよ。本当に切手代、写真代、履歴書代、それらが応募書類が戻ってくるたんびに新たに購入しないといけないし、その積み重ねは結構な額になる。特に写真代がね。しかも、今じゃ写真もインスタント写真じゃダメ、みたいなね。
 そして履歴書も、多くの求職活動した人が体験していると思うけど、いきなり最初の方で、間違えて畜生~」や、ラスト最後の部分までスムーズにいけてラストギリギリで間違えた。ホワイトが使えないから書きなおし。あの虚脱感。否、虚無感にすら近い。そのまま不貞寝したくなりますよ(苦笑)。

 だから、今の就活生は全く望ましい事態ではないが、ある意味本当に偉い。そのような労苦を重ね、面接で疲労し、何十社とチャレンジして。そりゃ、就活ウツにもなりますわな。普通の人でも。この強迫状況は普通じゃない。

 また、就活煽りのジャーナリストみたいな人がいて、一般論として聞いてもスーパーマンみたいな人物像を語ってる。最後は根性勝負出来る人間みたいなものまで繰り出して(苦笑)。論理的で、コミュニケーション能力にたけて、クレーム処理が出来て、具体的な成功体験を学生時代に経て、そこに至るまでの失敗体験とその克服を語れて、おまけに知力・体力にすぐれて、最後はスタミナ勝負出来るって。そんな学生が日本で何人いるんだ?

 結局、一流企業のエージェント見たいな人物なんだな。あるいは中央官僚の代理人。それがテレビに出てきて一般論みたいなことを語るから社会に誤解が蔓延するんだと思います。一度その種の人物が「ニュースの深層」という番組で司会をしている金さんという人に2度くらいツッコミいれられた末、最後に「そもそも採用人事担当者がそれだけの器量があるんですか?今までのレールで生きてきた人じゃないの?」と聞かれて絶句してましたな。金さんは大学の先生なので、勉学が後方に退いた就活に批判的だったのもあるけど、就活ジャーナリストならば、その種の質問にも隙なく答えられないとね(苦笑)。

 業態研究、自己分析、洗い出し。22歳の青年に与えられた負荷は、僕が育ったバブル時代とは100%違い、シリアスだ。ある種サバイバルのような状況で、そのような人がまた社会に入ったら、物凄い意図せぬ向上主義者になっちゃわないか心配だ。
 あるいは、大学に入るために猛勉強、その後5月病を経てひきこもりと同じ状況で、就職戦線(まさに「戦線」だ)を何とかサバイバルして燃え尽きて、入職した途端にひきこもりにならないか心配だ。(余計なお世話かw)。

 その入職努力は長期の就職訓練を上回る才能(集中力、事務能力、筆力)を意図せず身につけているとさえいえるかと思います。
 だが、それらすべてを俯瞰してみると、受験フィーバー以上に何やら異常な光景にも見えます。

 その風景から私は完全に自由だ、などと偉そうなことはけして言えませんけれども。。。

2011年3月1日火曜日

東田直樹さんのオフィシャルブログから。

このブログを読んでくれる方はすでにご存じの雑誌、「ビッグイシュー」(先日の簿記試験の時に再開したCDをいろいろ貸してくれた同世代の女性も買っているそうな。嬉しかったなぁ)。

その雑誌で雨宮果凛さんと同じページで連載が掲載されている自閉症の持病を持っておられるまだ若い東田直樹さん。僕はこの人の文章から本当に勉強をさせてもらっています。自閉症という世界から見えるものを本当に率直に透明に、ハッとするまで鮮明に教えてくださいます。

その東田さんが、しばらく前からブログを始めています。ときどきツイッターにもアップさせてもらってましたが、このブログにも記事をいくつかリンクさせていただきます。雑誌連載同様、その文章は非常に透明度が高く、分かりやすいのです。

東田直樹 オフィシャルブログー辛い気持ちをどうするか

同ードラマを見て思うこと

同ー雨

2011年2月27日日曜日

「就職活動基本法」策定の要望」

この提言は大変貴重だと思います。
おそらく一般求職者に対しても非常にインパクト。

就活どうにかしろデモ実行委員会  「就職活動基本法」策定の要望

YOUスペースフォーラムで語ってきました。

 というわけで、金曜日の夕方に行った若者たちのフリースペース、YOUスペースフォーラム第2回目で僭越ながらいちパネラーとして話に加わらせていただきました。体験発表を含めて。
 100名近く集まったようで、絶対緊張するよな~、と思っていましたけれども、これが思ったよりもなぜか落ちつけて。特に2部の聴衆の方との質問を通したやりとりにおいて、想像していたよりも冷静な自分がいたのは、少々驚きの発見でした。

 理由として、日頃集団の中にいることが少なく、ある程度人の集団を退いた目線で見ている傾向があるためなのか、それほど知った顔の人が少なかったこともあるか、と考えてみましたが、特に答えはそこに見つかりません。会場が広くて、圧迫感がない理想な空間だったことはありますかね。後は、私1人ということではなく、他に3名の若者たちがシンポジストとして同等にいたことが安心感を強めました。
 そのメンバーたちがまた、とても元気な人たちで。最初は気圧されるかと思ったほど。だけども心根の良さが伝わる人たちでした。自分が「わやわや」になっても、残りのメンバーで何とかなるな、と思った時点で安心。冷静になれました。
 もちろん、「知らなくて自信がないことを喋るわけじゃない」ということが一番大きいでしょう。そう、それですね。

 特に、横に座っていた青年は自分の言葉で非常に「自分の思い」を冷静かつ実感のある言葉で、原稿も持たずに語られ、すぐ横に座っていたためもあるでしょうが、私はとても好感を持っていちいち頷けて聞いていました。みんな事前準備なく、依頼の話だけを聞いてやってきて、あれだけ話せるのだから凄い。

 2部の質問コーナーは自分如き人間が随分僭越なことを話したな、と今では思いますが、ただ、歯の浮くようなことを語ったとは思いません。その時に思ったことは伝えたつもりなので、嘘はないと思っています。他のパネラーの人たちも実に良い答えをしていたと思います。

 ただ、突き詰めれば、ひとつひとつの事は本来あの場で簡単に応えられる話ではないと当然思っていますし、それぞれに時間のかかる話です。ご両親や支援者の方々にとって、どれだけ有益な話になったかは何とも言えないです。
 救いとなる言葉を出せなかったのは必定だと思いますが、的外れなことは語っていないと思いたいです。

 本当に、実際、質問のひとつひとつはそれぞれに時間をかけて、対話を深めていくべき話なんだろうなぁと思います。「時」と「人」の動きにおける流れの変化や、同時に変化が見えないことも含めての、本来は結構な課題なのだろうとは思います。

 私はでも、このようなフォーラムの場で本質的な話し合いが出来たのは有意義で本当にありがたいことだったと思っています。

 今回のフォーラムはひきこもりにこだわらず、若年者の無業という課題のことも大きなテーマなので、そこを乗り越えたパネリストの若者たちの話は横で聞いていて、(自分も含めてかもしれませんが)、何らかの問題を抱えているというよりも、10%近くにならんとする若者の失業率を考えれば、「ニート、ひきこもり」というカテゴライズのその境界線はどこにあるのか?

 そこが実は非常にあいまいになりつつあることを改めて考えさせられるものでした。もしも共通にそこに何かがあるとしたら、それは個別的な、主体的な悩みだけでしょう。そして、それはおそらく誰の中にもあることでしょう。極言すれば、世間の中に上手く埋もれることが出来たかどうか、という話になってしまいます。その意味では、自分自身と格闘してきたという意味で、あそこに参加されたメンバーたちは「自分がある」人たちです。

 その中で、別の意味で学ぶ点は間違いなくあります。すなわち、親友、恋人、真剣に関わってくれた大人の存在です。それがあったか、なかったか。

 ひきこもりに関してこだわれば、あえて「長くひきこもる」その苦しみは何かと云えば、「自分の内面を語っても誤解なく理解してくれる」そのような人の”不在”に根ざしていると言えるのではないでしょうか?そのような人間の関係性が一人でもあれば、その関係性の場が「居場所」であり、すでにそこでその人はひきこもりとはいえないのではないでしょうか。

 また、ひきこもりの人がおそらく外部に飛躍できる大きな要因は、「自分を表現する言葉を見つける」事なのではないかと思います。
 人は他者の世界で生きたいと思うとき、子どもの時の思いで社会に適応しようとしていても、気がつくと自分の中にその社会に適応するには「余りにも大きすぎる自分の中に生まれた力」を頭の中、こころの感受性の中に発見してしまう。その「発見」に無意識に気が付き、恐れる。この発見は社会にとって「危険」なものだと思って。その持て余す程の大きな力は社会や世間に受け入れられないものだと思って。そこでひきこもる。こう考えると形態として、状態像としてのひきこもりだけでなく、外に出ていても十分に「ひきこもっている」人はいますね。

 ですから、自分の内面の言葉に同意してくれる他人や大人を見つけること。そして持て余すほどの大きな力は、まずはけして恐れるものではない、と気がつくことから始まるのではないかと思うのですね。

 そこから先は自分の言葉を発見する、あるいは自分の身体で表現する回路が見つかることが大きな事なんじゃないかと思うんです。

 ややこしく書きましたが、結局ひきこもり問題とは、人間の実存に、あるいは人間と社会との関係における本質的なところに係る問題ではないかと思います。なので、その状態にある人には「あなたが悪いわけじゃないよ」という話ですね。個人には帰せない、もっと大きな、人間存在の本質に係る問題と言えましょう。もちろんそれがすべてではありません。病気や障がいの問題、ということもあるでしょう。
 ただ、上記したことは大きな要素は占めるのではないでしょうか。状態像から推し量るだけの表層的な問題ではないと思います。

 本当はその辺の話が公の場で出来るとかなり興味深いのではないかと思います。現実具体の話は非常に大切ですが、それはおそらくいろいろな所ですでに語られているでしょう。根本はもっと奥深く。子どもの中に「大人の自分を発見した」戸惑いに関するその表現問題と、それを受け止める社会(これはひきこもり支援者も含みます)であるのかどうか、に係る話だと思っています。

 一昨日の話が大きくまた線路をはずれました。人生は単線ではない、ということに無理にこじつけて、思考も単線ではない、ということにしておきましょう。
 今日は簿記の試験でした。この2月、復習する時間がなかった。結果はおして知るべし、です(苦笑)。

2011年2月21日月曜日

湯浅誠さん~生活保護法改正について YOUTUBE

やはりこの種の問題におけるオピニオンリーダーとしての湯浅誠さんの説得力は際立っています。都知事選挙に。。。という話も噂されたようですが、僕に言わせれば、国の宝です。今、仮にでも潰されてしまうのは惜しい。
ですが、なんらか政治にインパクトを与える存在でいて欲しいです。
これ、率直な思い。
幻想は持たず、明日へのちょっとした希望があれば、と思っている私ですが。この思いも幻想ですかね?まぁ、何にしろ、見てみてください。
(何故こんな寒そうな外で話しているんだろう?またそんな状況下で冷静に語れる頭脳がまたすごいよ)





ひきこもり・ニートの自立を考えるフォーラム

というもので人さまの前で話すことになりました。今週の金曜日。若者たちのためのフリースペース、「YOUスペース」というところが主催です。


「第2回YOUスペースフォーラム」という連続フォーラムの一環です。
1回目がビバハウスの安達先生を迎えてということですから、恐れ多いことですなぁ。
2部形式になっていまして、2部の時間帯はおおむね1時間、20代から40代の元当事者と会場での質疑応答という形式に一応なっています。北大の宮崎隆志先生と言う方をコーディネーターにして。

40代代表がワタクシメで、はたして40代後半が若者か?という最大級の疑問符がつきますが(苦笑)、はてさて、どうなりますやら。
市内において奇特な人がいたらどうぞ。

2月25日金曜日。かでる2・7の7階・710会議室にて。18:30~20:30です。
告知でした。

PS:
当日でも入れると思いますよん。。。いえ、確約は出来ませんが。

こちらも久しぶりになりますが。。。

久しぶりにハローワークに行ってきました。
1月末で基金訓練が終わり、そのちょっと前にハローワークから「訓練終了後は改めて別の相談窓口に」という手紙があり、そのお知らせを持って2月の上旬に行って相談員と話をしたときは、改めてコンピューターで検索した自分が引掛りのある求人を突き合わせて相談を深めましょうという話になったのですが、その後NPOの活動がなかなか忙しく、改めて時間を縫って久しぶりに今日、パソコンで検索で5件ほど探して改めてご挨拶程度。まだどうするかの具体的なイメージも詰めていませんし。
しかし、改めて求人票をみると、やはりつくづく無いですわね~。

前回にも感じたのですが、この度の相談員の方はいつから求職活動を始めますか?という雰囲気、その方向性でのアクションが強い感じで、正直、こちらとしてはもうすこしじっくり話せませんか、という感じです。話し合いがマッチングするかな~、今後。微妙。

情況的には3月の2週目くらいからでしょうか。やはりじっくり、企業研究等や求職状況等も含め、今はなかなか時間がないのです。
普通のビジネスマンにとっては、「何を甘いことを」と言われるでしょうか。

帰りに久しぶりに基金訓練校に寄ってきました。
したらば、たまたま一緒に学んでいた元気な女性3名とばったり出会ってお久しぶり~。今日も簿記の補講をやっているとか。簿記の先生、熱心だな。というか、なぜそんなに時間があるんだ?というツッコミをウチウチに感じつつw。(外部から来られている本業を他に持つ先生です)。

私の目的は簿記の受験票をもらいに。まだそちらは届いていないとの話でしたが、訓練期間中に受けていたエクセル2級の検定結果は届いているとの話。
絶対落ちている、と思ったので一緒に学んだ仲間がいる前で落ちた話はイヤだな、と思ったら意外にも合格していました。これは意外にも意外。
ありがたい話です。

ただね、1週間前からの突貫工事での試験対策でしたから、血肉化している感じがなくて、ピンとこないのも事実。ワード、エクセル、簿記の資格のみで就職できる甘い見通しが立つ年齢でもないし、就職を考えるならば、他の売りもなければならない。その「就職」の意味も考えつつ、の3月なのです。

だから、「求職活動」という1本道での話し合いにまた戻るのも本当の意味で生産性が無い気がする。お互いのすりあわせをする意味では一昨年来から基金訓練のさきがけ時代から付き合ってくれた相談員の方のほうがいいんですけどね。
その方は訓練に関する相談員ですので。。。

2011年2月18日金曜日

久しぶりになりますね。

ブログの更新は久しぶりになります。
天気はその日のうちに移り変わりますが、確実に春に向かっています。

2月以降は意外と忙しい感じです。
いえ、普通の人に比べるとずっと物理的な時間がありますが、
取材ですとか、けっこう物理的でない部分で頭と心を使いますので、
新しいことも情報として入りますし、それを整理して考えるためにも
結構別の部位を使っている感じです。

そんなこんなで2月はまだ続きそうです。

2011年2月4日金曜日

クローズアップ現代 ひきこもり問題

 昨日のNHKクローズアップ現代でひきこもりの取材が番組としてとりあげられました。
 見た感想を率直に言えば「やれやれ。またブルースだな」ということでした。

 取り上げられたケースは、一つは九州の長期にわたるひきこもりの方。もう一つのケースはひきこもった人を徐々に馴らしながら正社員のような就業へと持っていく企業の取り組みでした。

 細かく言えば長文になるので今はとりあえずバッサリとしたことを書きますが、社会も本人も家族も同じ観念の中でくるくるまわっている、という意味では社会総体として一種の強迫観念に囚われれている。そういえるのではないでしょうか。その意味で平等に同じドツボにはまっているような気がします。

 乱暴なもの言いで申し訳ありません。乱暴ついでに言えば、私は極く少数の気の置けない人の前では「私が鳩山由紀夫さんの息子なら、あんな都会の人間関係や人いきれで酔いそうな場所では働かない。というか、働きたくなければ働かない」と言います。実際は鳩山さんの息子さんはアメリカの大学で教授をしていますが、偉くて大金持ちの子どもならそういう選択をする可能性もアリでしょう。

 一般庶民は基本的に賃労働者として働かないと生きていけない、というもう一つの現実が底では横たわっていて、マジョリテイである大衆にとっては、「働かざるもの喰うべからず」の実感が強いでしょう。マジョリティの共通認識がそのようなものとして確固としてあるので、あの著名な女性キャスターを筆頭にこの「問題」にみな眉間に皴を寄せてひそひそと、あるいは重く語られる話題となるのです。

 もちろん、重たいのです。自分も重たいのです。しかし、24時間、常住坐臥、重いわけでは勿論ないのです。笑ってたり、くだらない混ぜっ返しを言って家人から顰蹙を買ったり、上手そうにメシを喰ったり、鼻くそをほじってあくびをしたり、眠気覚ましにミンテアをかじってたりしているのです。そういう一面も普通の人間ですからあるわけです。同時に新聞を読んだり、ネットを見たり、外で情報や話を聞いて真面目なことを考えたりするのです。

 なんのことはない。両面あるという意味では、普通の人間の日常生活をただ、しているのです。もし仮に労働が神から与えられた使命とか、資本家に対するプロレタリアートの宿命か知りませんが、そんな「絶対的な命令」(?)を現在していない、ということを生きる意味に含むのなら、問題ある人間ということになるのでしょう。(NPOの活動もいま現在経済的価値を生まないものであるならば、ピュアで原理的な資本主義の思想でいえば、淘汰されるべき無価値な活動なのでしょうね)。

 人間をある側面から見る。もちろん重たい話題です。しかし30分で重たい状況から、先端IT企業の引きこもり者への会社適応活動まで網羅できるか。できやしません。重ければ、そこは本当の意味で長く深く一人の人間にクローズアップしなければ、その人の本質は見えてきません。

 それらがいわば(言葉がわるいですが)ひょいとメディアで流されるから、「難しいですね」とキャスターはいい、関心のある視聴者は重たくなったり、会社の偉い人は難渋した顔である種の観念を持ち、そしてその日の一日は流れていくのです。そして人びとは次の日また、別の話題に耳目をひかれるのです。(諸行無常の鐘の音とともに)。

 そもそも毎日「クローズアップ」される現代などあるでしょうか。私はこの番組はなかなかだ、と思うと同時にいつも思うのです。月曜日から木曜日までの30分。クローズアップされなければいけないような現実があるのか?実はクローズアップされる現代は「探されている」んじゃないのか。と、そう怪しんでいるのです。

 しかし、ひきこもり問題はきちんと啓発されてほしい。ここで自分の中にある矛盾する気持ちの中で引き裂かれます。

 自殺防止NPOであるライフリンクの代表、清水さんはNHKのデレクター時代にクローズアップ現代の自殺遺児の特集でこの問題に光を当ててほしいと願いました。しかし、番組自体はその後も自殺問題ばかりを扱えないという現実の壁にぶち当たります。そこで自分は普通の人よりは自殺遺児の人たちの気持ちが分かる。ならば自分でその防止活動を始めよう、と。そう思い立ったそうです。

 もちろん私はそんな力は露ほどもありませんが、時折マスメディアに住む誠実な記者魂を持つ人は居づらいんじゃないか、ある種の社会の実相と向き合った時、大きな組織的動きに追い付けないんじゃないか。そんな時、心底「フリーランスになりたい!」と思うんじゃないか、と想像するのです。
 そして、そう思ったとしても。
 日本でフリー記者になるというのは半端ではないリスクを伴うでしょう。

 ひきこもりに関する取材の成果。。。
 おやおや、話がどんどん飛躍していきます。いつもの癖で結論となる言葉が見つかりません。こんな感じで本日も穴をまくります。

2011年1月28日金曜日

訓練修了

 本日無事に基金訓練の修了式を終えました。
 まぁ、あと2回ほど土曜日の午前中に簿記の補習に行きますが。とりあえず、皆さんと一端は和やかにお別れ。

 今後は個人としてはおおむね3パターンくらいの方向性を胸の内で考えていますが、NPOでのボランティア活動は続けたいですね。とりあえず、2月は急いで次の仕事を、と焦ることはないと思います。

 しかし学校の先生も「現在は新卒学生の方々に世間の注目が集まってますしね。しかし、同時に(彼らは)すぐ辞めてしまうということがあります。ゴールデンウィーク前後はなかなか厳しいでしょうが、6月になったら欠員補充が出てくるかもしれません。そこら辺が狙いどころかもしれません」と。

 おいおい、ということは6月まで求人がないということですかい?って思わず心中でツッコミを入れたくなりましたが(苦笑)。実際問題、そこは現実としてそうなんだと思っていて。学んだ後の問題というのはあるんですわね。ま、その点は学びに来ていた皆が共有していることだと思いますが。

 閑話旧題。
 昨日のパワポ。通路はさんだ隣のなんでも出来ちゃう優等生スーパーウーマンさんに「みなさんの前でのお喋りも上手ですねぇ」とお世辞抜きに話したところ「いや北海路さん(私・仮名)のナレーション、上手ですよ。」と意外なことを仰って。「そうですかぁ?いや、自分は滑舌が悪いことが本当にコンプレックスなんですけど・・・」と会話してたら、他の人も「いや、上手いよ」とか声をかけてくれて。自分の主観と違ってけっこうそういうところはあるのか?と思いました。グループワークでの発表でも音楽趣味が合う一回り下の男性にも「上手いですね」と言われているので、その場しのぎは意外とやれちゃうところがあるのかなぁ?

 というか、自分の対人緊張は思春期~青年期は「顔が醜いから」で、成人期は「社会体験が少ないから会話に入っていけない」で、後者は今でも根強いのですが、もうひとつは自分でICリコーダーで聴く声を聞いて、「あ~。声が悪い。発音がはっきりしない。だからきっと上手くコミュニケーションとれないんだな」と思っていたのですが。
 どうやらそこも現実が緩やかに喝破してくれたようです。
 つまり、きっと心中の不安が「おどおどした喋りになるから滑舌が悪い」と思い込みを生んだんだけど、それは僕にとっては正しく、客観的には違うのかもしれません。

 主題から逸れた後段の話ですが、今後もひとつひとつ人から学びつつ、人より遅い亀の歩みですが、歩みは進めていきたいと思っております。

 そう、ここからまた始まるのです。
 (トホホ・・・。(^^ゞ。)

2011年1月27日木曜日

感心したり、腹を抱えたり(笑)

 本日午後は訓練授業最後となるパワーポイントによるグループ発表。会場は系列専門校。立派ででかいスクリーン、音響設備もバッチリなところ。
 自分たちは他のグループが6人のところ諸般事情があって4人でグループ発表になったことに加え、先週は自分自身の検定を中心に置いていたこともあり、センスのいい初老の人生の先輩の人にかなりお任せ状態になってしまい申し訳なかったのですが、取り上げたものがプレゼンテーションというよりも、映像と音楽にナレーションをかぶせるような形。映像の綺麗さでなんとかボロが出させないですんだか、という感じに。いや、実際、出来は悪くなかったのではないかな。

 それ以上に他のグループのアイデア、凝り具合、最高でした!やっぱパワポの自由発表は「アイデア」と「センス」だな~。そして「3人寄れば文殊の知恵」じゃなけど、4人で、正直他のグループほどコミュニケーションが密ではなかったのですが、それなりの形で終われたのは、スライド作成と編集に熱心な人、それほどでなくてもアイデアが頭の中で明確だった人、などがいたおかげです。

 これが6人で上手く回せば、素人ともいえないほどのかなりなもの(かなり、を強調したい)が出来るということですよ。パワーポイントに対する可能性を感じましたね。

 幸い自分たちは一番最初という理想の展開だったのですが(印象が薄れてくれるという意味でw)、次のグループの発表は抱腹絶倒。もう、笑った、笑った。
 腹がよじれる、涙は出てくる。笑いが止まらない。ここ何年、いやもしかしたらこれほど自分自身腹がよじれて死にそうだ~、涙が出る~。助けて~w。と思うほど笑い転げたことはこの10年以上なかったのではないでしょうか。それぐらい個人的にはケッサクでした。

 何がおかしいのかわからないところが可笑しい。意図しない自分の笑いのツボというのがあるんだと思うんだけど、他の人たちも爆笑してたのでおそらく同じ笑いのツボがあったのでしょう。

 分析してもしょうがないんですけど(爆笑)。
 やっている人たちが「受けてやろう」と思っているわけでもないところがまず面白いですね。
 そして、記号的な意味を超えたシュールなものが強調されて、それが「繰り返し登場する」というのがまた、たまらなくおかしい(笑)。
 いかん、思い出したらまた笑いがこみあげてきました(笑)。

 何しろ、○○○の最後の授業。大いにカタルシスを与えてくれてみなさんありがとうというところですw。

 いや~。このソフト、「プレゼン」とか真面目に考えないで、こちらのNPO団体でも何か使えないものですかねぇ。というか、大真面目に作品作って、それをスライドに映してみんなで腹を抱えて笑いたいものですな。

 意味なんて、いらん(笑)。

2011年1月24日月曜日

検定も終わり

いよいよ基金訓練も最終週になりました。
あとは簿記の検定模擬問題と、グループでのパワポ・プレゼンテーションのみ。

エクセルの検定ですが、やはりきわめて難しかったです。
特に機能操作を問う知識問題。
でも、一緒に受験した訓練生仲間が「何あれ?難しすぎない?」とぼやいていた具体的な論点そのものが僕にはさっぱり分からないレベルなので、落ちるのはおそらく僕のみでしょう。運悪く、その日は学校行く途中に久しぶりに転びましたし(苦笑)。

冗談はともかく、やはり試験まで間に合わせることが出来なかった、というのが実感です。僕の感覚では良くて知識60点~実技70点くらいでしょうか。悪くて知識50点前後~実技70点前後くらいかな。それくらいは自分でも予測がつくので、他のメンバーは合格でしょう。仮に自分がラッキーにも合格できたとして、やはり付け焼刃の感はぬぐえないでしょうね。エクセルもキチンとやれば、力になる筈です。
 なんとなくエクセルって嫌いでした。特に条件関数で人の選抜をするようなイメージがあって嫌だったのですが、それはある面では正しくても、全面的なことではない事と気付かされたのは、他の勉強との兼ね合いの中で得られた気がします。まぁどこか気分として、苦手意識が抜けないのも事実ではありますが。

基本的に2級レベルは独学でやらねばなりませんでした。前も書いたかもしれませんが、学校では3級レベルまでしか教えませんでしたので。3か月の「横断コース」を修了していまの学校に移った人が大半なので、その授業内容に不満がゴウゴウだったのは、実はその前に6カ月の「基礎演習科」の人たちと合同の講義になったため。

基礎演習科の人たちがパソコンを触るのが初めての人が多いということもあり、基金訓練の量的な増大がきちんとした訓練生のモチベーションと釣り合いがとれる訓練設備上の整備が間に合っていないのかもしれない、という疑問は何となく感じることです。それは真っ直ぐ自分にも跳ね返るところ。多分に自分もこの訓練政策にすがっていなかったか?というところもあるので。

それにしても、自分がみるところ、事務総務的な能力の際立っている人が4~5名はいますね。それぞれに事情があるのでしょうが、高い実務能力が生かされず基金訓練を受けている現状、同時に高学歴の新卒学生さんも「社会に仕事そのものがない」という一般的現象のために競合的になり、であればやはり、年齢が高い層が不利になってしまう。率直に言って何とも切ない現状です。社会的損失そのもの。

もちろん訓練生として特に際立ったものがない自分も他人ごとではありません。
というか、その種の比較を持ち出す自分のさまも恥ずかしいですが。なかなか難しい現況だと、つい恥ずかしいことを書いてしまうものです。
申し訳ないことです。

2011年1月19日水曜日

基金訓練も佳境ですたい。

 今月いっぱいの基金訓練も残すところ、あと7日間。いよいよ総まとめの段階で簿記は3級の模擬試験練習。パソコンは自分はサーティファイという所が主催のエクセル2級検定が土曜日にありまして、それで今は頭がいっぱい。というか、頭が真面目に痛くなっています。頭のマッスル、使ってなかった。急に動かし始めたもんで、金属疲労ですw。今週は放課後残ってまして、今日あたりは休み時間、無い頭の使い過ぎで足元がマジ、ふらつきました(苦笑)。

 あとは来週のメインイベントはパワーポイントによるグループプレゼンですが、そちらはおおむねのスライド作ったところで、あとは検定を受けない人にお願いして続きをお任せして、自分は今週辺りからは検定一色です。
 なにしろ正直初めて聞くようなサーテファイというところ(失礼!)の検定は思った以上に難しく、とくにエクセル操作の機能について机上で問う(実際の試験ではパソコン上で)問題が難解を極めます。セルの右クリックでの「ユーザー設定」による変更の結果どうなるのかを問うたり、エクセルのオプションの詳細設定の操作の変化について問うたり。ほんの少し前、正月明けまで問題にまともに目を向けてなかったツケが今を招いています。恐ろしや。。。
 でも、授業も3級レベルまでしか教えてくれなったということもあるのよねぇ。。。と、ちょっと自己弁護。遺憾遺憾。よそのせいにしては。

 本当は、これらの操作イメージの理解も、本編の最もやっかいな実技問題も(ピポット操作やVLOOKUP関数、CHOOSE関数、複合グラフ、ゴールシーク、マクロ記録など)、繰り返しの付け焼刃でなく、意味を十分理解したうえで作業できれば、エクセルに対する自信も少しついたと思うのですが。むむむ、「残念な子」になってしまっています。

 まぁ、いま思えば結局随分昔になってしまった気もするのですが、年末調整や労働社会保険の実務、ワークガイダンスにおけるグループワークなど、総合的にきちんと全体像を把握出来ていれば、基金訓練の「なぜこういう科目の選択になっているのか」も明瞭になるところまでいく可能性はあったかもしれませんし、技術的な自信もついたかもしれません。(あくまで可能性であって、とんびが鷹を産まないので、いずれにせよ無理だった気がしますが)。
 しかし今はエクセルなど、その辺りがあいまいなところも多く、腹にすっと収まらないところがあるのはやはり残念です。今朝の新聞の健康欄に載っていた一節で「物事の理解が進まず、はっきりしない状態」という言葉に出会ったとき、そうだな。この言葉こそいまの自分には腑に落ちるな、と思いました。

 あえて良かった面と言えば、その「はっきりしない状態がある」という理解がある、ということでしょうか。(なんか、あいまいな表現ですね、これもw)。

 あとはやはりコミュニケーション能力については自分自身に関してはまだ難しい所はあるんじゃないかな。加齢のせいか、その場をそれなりに取りなすことは出来るようになりましたが、まだまだ人に対する信頼感が弱いんじゃないかな。本当の意味で胸襟を開いている人はごく少数だと思います。
 その意味ではいまの一緒に学んでいる人たちは、社会性がそもそも高い人が多いな、という印象です。一言でいえば、基本的に人間性が良い人が多いですね。

 この学校で趣味の合う人がいたのも本当に良かった。ずいぶん、たくさん良い音楽を聞かせてもらいました。CDを焼く、なんて作業もこの学校に来て以来初めて行ったことです。なんか「一番良かったと思っているのはそこかい!」って感じもしますが(苦笑)。
 む~。とりとめがないですねw。とりあえず、まとめに入りつつある訓練校の近況報告ということで。本日はこれで。

2011年1月7日金曜日

「ひきこもり系」の自意識

いや~。この2日、特に今日の天気はワイルドです。お元気ですか~?かなりの寒さ+強風+雪のトリプルパンチが出揃ったのは相当久しぶりです。ここ何年かぶりではないでしょうか?この寒さと吹雪の合わせ技は。

さて、基金訓練も残すところ一月ありません。自分の懸念はエクセル二級ですが、今日からパワーポイントのグループ・プレゼンのための話し合い+作成が始まりました。プレゼンは一人ひとりやった方が自由度も高いしバリエーションがあって面白いだろうに、とも思うのですが、協同でテーマを決めてプレゼンテーションまで行うという事自体に意味がある、という考えからでしょう。
自分のグループはひとりめでたく就職が決まって、人員が一人欠けまして、他のグループよりも平均二名が足りず、おまけに本日同一グループの人が一人休みましたので、今日は3名だけ。他のグループは6名でやっているのが多いせいもあるためか、他のグループはみんな元気なんだよな~。コミュニケーションが絶えない。

基本的に今の訓練校はみんな元気だと思います。というか、腹くれのない、真っ直ぐな人が多いですね。しみじみそう思います。中年の方が中心なので、社会体験を重ねた人が多い中にあって捻じれた感じの人がいないということ、少なくともそのような風情を見せない人がほとんどだ、というのはなかなか素晴らしいことです。

その中で唯一捻じれた人間がここに独り。。。ということもまぁ。別にないんですけれども(笑)。
ひきこもり系と精神的な健康は関連性があるといえば、あるともいえ、特別無いじゃん、といえばそうですね、とも言える。客観的に自分を見ればそんな感じかな。(ここでもボーダーラインだw)
ちょっと反応が遅いとか、コミュニケが慇懃だとか、なんとなく鎧をまとった感じがするね、という事は気づかれてるんじゃないかとは思いますけどね。

対人緊張などの神経症圏に属するひきこもり系の自分を含めたグループはいわば、「自意識過剰」な人びと。あえてあっさり言うなら中核はそこにあるんじゃないでしょうか。古風な日本人的な神経質で、森田療法で云うところの「森田神経質」という定義がおそらく一番しっくりくる。

だから、森田療法的なもの。不安や自意識過剰はそのままに、やるべき事をやる。恐怖突入。現実重視。極めて日本的な納得感がこの年齢になると分かる感じなんだけど、逆に個人主義化した社会となり森田が想定していた社会じゃすでに無くなっているんじゃないか?ということは強く感ずるんですね。
 おそらく森田が生きた時代からバブル期くらいまでは社会での働きの意味も、社会集団のありようも森田療法的なものがフイットできたと思うんですが、いまのコミュニケーション中心・第三次産業中心の職業選択余地がない社会になってくると、「日本的な文化」を基盤とした「森田神経質」改善も当事者にとっても納得感が弱いし、世の中も森田神経質を受け入れる余地や共同体的な場面が薄くなっている気は確実にしますよ。

あるいは認知療法。これはいいと思う。僕は長く精神分析療法を受けていますが、もはや自分をとことん見詰めてナントカ、って感じじゃありません。先生と会っても世の中とか社会の話ばっかり。ただ、いまや精神療法に特定の療法の基盤があって純粋にそれを中心に行っている治療などないんじゃないでしょうか。いろいろな治療の良い部分を折衷的にやっているはずです。ですから、僕も森田療法的なアドバイスも受けますし、時には認知療法的な認識の誤りについての指摘もあります。折衷なんですよね。

そもそも、この年齢になるといい加減に自分を見詰める作業も倦とましいものなんだ(苦笑)。疲れるわけですね。そう、精神も疲れます。というよりも、「考える作業」に疲れるんですね。あるいは、この年齢にしてやっと、自分を見詰めたところで、何かを発見する才能はなかったんだ!「ユリイカ!」という哀しい気付きがあったということであろうかと(涙)。

しかし、「自意識過剰」は神経症圏ひきこもりにとってキーワードだとして重要だと僕は思います。故に参考は作家でいえば、芥川龍之介や太宰治。そして橋本治とか(ここら辺は『M系』の神経症にね)。あるいは歌い手の好みとしては初期の吉田拓郎の歌の歌詞世界に近いもの。そこらあたりが理解の参考になるかも。(というか、もろ自分を基準にしてますけれどもw)。

あえて開き直っていえば、非常に古風な日本男性にありがちな性癖で、それが現代に存在すればどうか?という想像力のモデルケースになるかもしれません。この種の自意識過剰なモラリスト連はなぜ生きづらくなったか、女性に見向きされなくなったかを考えた時、現代日本社会の変遷を理解できるかもしれません。(こりゃまた、大きく出たぞ)。

認知療法的な角度から言えば、感情を認知で変えていくことが出来るか?という難問があります。ただ、確かに修正された認知が少なくとも嫌な感情を後々まで引きずらないという効果は自分にあったとは思います。それも、いたずらに馬齢を重ねたうえでの話ですね。少なくとも自分には時間がかかった。それでも同時に、最終的に理性で感情を抑えられるかは分からない、と自分は思っています。
もうあからさまにいうならば、上半身で考えることと、下半身で考えることのアンバランスが神経症圏の一番の葛藤であり、悩みですからねぇ。と、アッサリ僕は思うんです、間違っているかもしれませんけど。。。

ひきこもりは繰り返しますが、『状態像』ですので、いろんな形の原因があってひきこもりという現象がある、というのは基盤としなければならない。ですから、最近発見された発達障害系の人たちの抱える問題はまた別にあるだろうと思います。キャラクターの違いといいますか。。。

今回は自分自身の問題を一歩退いて考えてみました。
やはり、訓練校でも一番捻じれてるのではないかと(苦笑)。

ひきこもりの人の難しさ、困難は他者も当事者も、その状態が何故招聘したのだろうか?ということを上手く説明出来ないままでいることだと思います。それが誰にとってもひきこもりを分かりにくいものに(おそらく)している筈。
ベストは当事者が説明するのが一番説得力があるわけですが、当事者は社会が作ったある種の慣習的なルールのために上手く説明出来ない。あるいは、いまでも厳しい視線があると思っていて、説明する構造を持てない。
でも、意外とその当の社会は当事者が持つモラリズムよりも遥かに雑多な、自由と混沌に身を置いているのかもしれない。。。

可視化されたいと思いつつ、可視化されるのを恐れる。いわばスネオ君に近いのかもしれません。(少なくとも僕は自分自身はスネオくんだなぁと思っています。過剰な”照れ”は誰にとってもメリットがないんだよね。若い時は照れること自体が美学的に思えるのだけれども)。

2011年1月4日火曜日

おみくじ 大吉

照りつづく 日かげ なやみし 小山田に うれしく そそぐ 夕立の雨

枯れ果てた田の苗も夕立雨に逢いて 再び生き返り秋の収穫(とりいれ)も心配に及ばず安心できる運なれども 何事も正直にして他人を恨まず 仕事大事とはげみなさい

 はい(汗)。大吉ですが、2年連続です。この2~3年は世事不況ですので、大吉を増やしてるのかな?とか邪推は止めましょう。私の悪い癖です。この年齢になると、そういう発想は野暮を通り越して嫌味になるなぁとやっと少し思い始めています。

 映画で『ヤング@ハート』という、とても素敵でグッとくる映画があります。平均年齢80歳のコーラスグループ。ですが、年相応の歌を歌うわけではありません。リーダーの意向で、いまの世代が聞くロック、それもホンモノのパンクロックや、バリバリ、ジェームス・ブラウンのようなファンク・ソウルも唄います。


 その彼らのドキュメンタリーなのですが、20代や30代、場合によれば40代がロックを同世代として「イエイ!」などとステージ上でボディアクションで観衆のノリに応えるとだんだん「恥ずかしい」感じがしてくる年になってしまったな、と思ったのですが、このおじいさんたち、おばあさんたちが、その若い世代の歌を歌って観衆のリアクションに応える姿はかえってスッキリ胸に収まります。何故だろう?

 歌詞がまた、独特に深みを増すんですね。おそらくロックミュージシャンは将来や、同世代よりは少し醒めて意識的に老いた観点から運命的な事を唄ったりするわけでしょうが、その歌詞が同世代よりも逆に自然に腑に落ちるのは、加齢を加えていろいろな体験や肉体的なやつれとともにリアリティが歌詞に宿るからなのでしょうね。

 何よりこのメンバーたち、とにかくみんな明るい!身近となってきた運命すら受け入れようとするその姿勢。頭が下がります。この映画は笑って感動があります。歌が好きな人はぜひDVDのレンタルでみてちょ。



Fix You- http://www.youtube.com/watch?v=W_n0zvoHlVk&feature=related

映画好きの2人 2008年座談会8 『ヤング@ハート』