2010年12月30日木曜日

今年も、はや年末です。

2010年もはや年末です。
早いような、遅いような。。。
学校に通っている日々は「遅い」と思い、振り返ってみれば「早いなぁ」と思い。
全く自分の都合に調子のよいことで、どうも(苦笑)。
先週の土曜日、一昨日と関わっているNPOの関係者とお酒の入らない忘年会をしていろいろ語らいました。カラオケもやったね。

今年はNPOの事業の手伝いもしたし、下期に事業が立て込んだこともあり、特に事務局長役を務めていた友人は本当に大変だったと思います。
同時に、そんな経緯でNPO1年目にしては思った以上にいろいろな事業を行ったことで、1年前のこの時期とはかなりの違いがあった年だったなという感慨がありますね。その友人は特にそう思っているのではないのかな。

自分についていえば、春先から何だか「学校」にばかり通ってた1年の気がします(笑)。4月から5月いっぱいまで基金訓練校で自己分析やスピーチ練習、ワードとエクセル。エクセルが初歩段階で終わったところでNPOやソーシャルビジネスへの就業を目指したこちらも内閣府管轄の社会事業基金訓練。こちらではNPO等の代表の方々のお話を中心に伺いながら、NPOのイメージを掴み、実際に2週間のNPO事業体で就業体験学習を含んだ、「大学」的な勉強。そして8~9月の取材を終えた後、10月からまた2度目の厚生労働省管轄の基金訓練を来月一杯まで受講というわけです。

いまの学校で学んでいる簿記、エクセル、ワード、パワーポイント、源泉徴収、労働社会保険等の勉強もそろそろこの1月末(簿記は2月末)に向けて”そうまとめ”の段階に入ってきました。
簿記は補助簿でまだやっていない商品有高帳と伝票記帳を除いて、残高試算表と清算表までやり、そろそろもうPL、BSという外部に見せる帳票を具体的に作る段階です。
エクセル、ワードは基本習得は終わり、試験対策モード。
ワードは前の学校で日商の資格を得たので、今の学校ではエクセル2級にのみ試験挑戦です。ところがこのエクセル試験。実技と知識試験がありますが、知識試験の難易度が半端ない。それこそ、エクセル2007のオプション詳細の機能まで問われます。

そういえば、ワード、パワポも含め、ウインドウズオフィスソフトの2007はいまだ自分として機能操作に「馴れていない」実感だけはしっかりあります。機能がタブに配置され、非常に使い勝手が良くなっているのは良く分かるのですが、前の学校で習ったソフトは実業ではまだこちらが中心ということで2003。右クリックのショートカットでダイアログボックスを出して操作することに馴れていたので、その癖が抜けないようです。
もちろん、2007でもショートカットキーで多くの操作はOKなのですが、意外とタブに出ている沢山の操作機能を知っていないと困る局面も多いのは確か。

ですから、この正月も含め、この1月はエクセル対策をしっかりやらねば。この12月までは正直余り先生が真剣味が足りないせいもあって、横にいる座っている人たちと脱線してばかりいたのでなぁ。(周りでだべっていても、教師に何も言われないような状態が今の学校の哀しみです。トホホ)。

急に真剣になれるのかどうかも不安ですが。
そういうこともあって、全体の「核心」というか、オフィスソフト全体の共通項というのがきっとある筈で、それがまだぼやけている。その「ぼやけた」状況が払しょくできて曇りが晴れて、「あっ!」という気づきがあったら試験もイケル気がします。

後は簿記。まぁ3級レベルは何とか。2月末に行われる試験で2級を視野に入れ独学でやるか。(源泉徴収の時間に少し2級レベルの会社会計簿記は触れているので)。2級に「工業簿記」が含まれることを考えれば、無理せず時間をかけてじっくり労働社会保険の法律を再度復習して頭に叩き込むか。
何しろ、金を貯めているのは基本、社会保険労務士会に入会して労務士を名乗れる状況を作る、というのが当初の入学前から温めていたプランでもあるので。
そこにプラスアルファで、基本的にオフィスソフトが苦にならない、簿記も分かる、賃金管理(納税)の基本も分かっている、というサブスキルを磨くというのが目標でした。

今後、NPOを見据えながら、自分が手伝わせてもらっているNPOも手伝える時間があれば積極的に手伝い、両面作戦で行く方針に変わりはありません。

そんな1年でした。とりとめないですが、この1年のこんな近況を含めた報告まで。

それでは、明日もブログ書くかは分かりませんので、一応先にごあいさつ。
皆様にとっても良いお年でありますように。来年も宜しくお願いいたします。

2010年12月28日火曜日

1枚の記入書面の背後から

 前記事の「行政書士事務所」の物語から連想したとも言えますが、特に公的な書面がそうでしょうが、1枚の書面の背後に意識していないと見落としてしまう人間ドラマに直面する記入箇所があるものだな、と思います。

 例えば「離職証明書」。
 会社を辞めた時に雇用保険の被保険者証とともに、離職前6ヶ月間の賃金額を記入し、いわゆる「失業手当」の算定基礎額として使います。現在においてはそれだけではありません。格段に離職者証明の意味は大きくなっています。その意味は離職理由が「解雇」なのか「自己都合」なのか。あるいは「特定理由」離職という、正当な理由があれば、特別に自己都合退職でも特例が認められる離職も絡んできます。
 普通、解雇や倒産だと7日の待機後にすぐ失業手当が出ますが、自己都合退職だとおおむね3か月間の受給の制限期間があることをご存じの方も多いはず。
 現在では、自己都合離職と、解雇・倒産・正当な事由ある特定離職は年齢や勤務期間によって両者お互いの支給期間に大きな開きがあります。

 そこで問題は「離職証明書」の解雇理由に「どのように書かれるのか」ということが労使間の微妙な神経戦になることもあるでしょう。そしてここから個別労使関係問題が生じる可能性があります。1枚の紙の書かれ方において、働いていた側がそれをどう承認しるかということも、けして小さくない問題です。

 あるいは女性が結婚退職するとします。夫がサラリーマンだとすると、普通夫の健康保険の被扶養者になり、国民年金の第3号被保険者になれば、健保の保険料は払わずに済み、国民年金の保険料も一切かかりません。いわゆる「専業主婦」メリットです。しかし、もし雇用保険で「失業給付」をもらうとすればどうするか?失業給付は収入か?実は失業手当は収入なのです。そしてその収入は前年度ではなく、即時でみられますから、場合によって給付を受けながら社会保険の被扶養者になると、それがバレないこともないとはいえません。
 そのため、今度は健康保険の被扶養者届で会社は妻が現在無収入であることの証明印を押してあげねばなりません。会社は責任が伴いますから、めくら判は押せないでしょう。

 あるいは社会保険は郵送で送付することが出来ます。しかし、基本的に資格の取得届は5日以内に、となっていますから送付時期がいつか、5日目の郵送印ならOKなのか、5日目に保険事務所に届いていなければいけないのか。
 資格取得届はある程度融通が利くようですが、会社を辞めても自分で健康保険に加入する「任意継続被保険者」の届け出はキッチリ20日以内まで、と決まってますから、1日遅れたら即アウトです。すると、20日目の郵送印があればいいのか、あるいは20日目に事務所に届いていなければいけないか、どちらか。答えは後者なのです。それだけ任意継続の健康保険の資格取得は厳格なのです。

 行政は厳しい、と言えるかと言えば確かにそうですがとはいえ、民間の契約でも内容証明郵便から始まり、公正証書、供託、印紙付き契約書、云々。1枚の法的な有効書類の効力は重たく、その背後に人間のもろもろな感情のひだ、葛藤、不安、思い入れ等々が含まれている、ということを考えざるを得ません。

 その辺りを上手く突いてくれるマンガが「カバチタレ!~特上カバチ」で、それは法律マンガであるだけでなく、法律上必要な手続き書面に関わってもいるところがより一層リアルです。しかし、上気したようにひとつの「書面」には法律の裏付けがあり、法律の背後にはルールに伴う人間のもろもろの(ドロドロともした、あるいはグッとくる深い思い溢れた)感情や思いが含まれているものだなぁということが分かります。

 事務の仕事を専業にされてきた来た方もいまの訓練校にいます。詳しく話したことはありませんが、10年くらいもその道で働いた人であれば、きっと見たくもない場面、聴きたくもない話を耳にする機会もきっとあったことでしょう。それが直の人と人との対峙する場面ではなく、「書面」の背後の中に見える、もろもろの諸事情を覗いた、想像出来て来た。ということがあるような気がしてなりません。

 やはりある程度一つところで長く働いてきた人はルーティーン・ワークの連続であれ、そこから、世界の小さな小窓から大きな世界の一端を覗いてきた、ということがあるのかも?と思います。
 だから一義的には生活するための仕事だけれど、もしも仕事がそこそこやりがいがあるのだとしたら、小さな小窓(あるいは人により、大きな窓)から社会観や世界観を無意識のうちに感じ取れることが出来るからじゃないかな、と思ったりします。

 いやいや。本日も大きく出てしまいましな。すみませぬ。

 話を現実的なところに戻して一つ。高校卒業までに学んでほしいことがあります。それは「労働契約書」(パート労働も含む)、「給与明細書」の読み方を教えてほしいということです。より贅沢言えば、「確定申告の仕方」も。
 憲法はおおまか学ぶと思いますが、逆に労働と賃金から憲法25条、権利と義務関係、そして憲法前文と遡る。そして日本国憲法の理念を学ぶ。そちらのほうが憲法がリアルに若者に理解できるのでは。理念型から入れば、暗記を強要されるようで面白くないはずです。

2010年12月25日土曜日

特上カバチ 22巻


 けっこう前なんだけど、とても久しぶりにマンガ喫茶に行って手に取ったのがこの第22巻。思い切り引きこまれ、恥ずかしながら涙が出てしまいました。
 子どものネグレストの話。理不尽に捨てられた母が、その捨てた夫に似ているということで、愛してたが故に憎さ倍増になって元の夫の面影が顔に見える息子を虐待。
 それを良い意味でのおせっかいにより子どもの救済に向かう行政書士事務所勤務の栄田。
 彼にも複雑な家庭事情が背景にある。暴力をふるう父に育てられたのだった。であるがゆえに、理屈を超え、世間体を超え、彼が身体で知っている「真実」とともに走る!
 同時に彼は虐待する母親を責めたりしない。母親が置かれた経済的苦境や独りで子を育てねばならない苦しさ、それを受け止められない周囲や社会があることがわかるから。彼は母も「何か」の犠牲者だと認識しています。
 密閉された部屋でヒステリカルになった母親に折檻される子ども。謝り続ける子ども。それでも、そんな母親でも唯一、自分を守ってくれる存在だと疑わず、全面的に自己の身を捧げている男の子。そんな場面には思わずグッときます。
 そのようないたいけさに触れるとき、流石に母も自責をし涙するんだけど、やはり日が経つと同じ間違いに戻ってしまう。これも、現実にありそうな本当に悲しい事態。

 最終的には折檻が高じて子どもが救急車で運ばれる事態にまで悪化してしてしまうのだけれど。。。

 その後の展開はこのマンガで確認してほしいですよね。

 このマンガは主人公は行政書士の田村くん。まだ書士になってからそんなにキャリアを積んでない(?)若者なんですが、極めて真面目な、だけど若いが故にまだ少し世間の深いところを知らないところがある。(人のことがいえるか!←自分にツッコミw)。
 しかし、彼の良さは失敗を糧として深く自省して次の段階に一段一段上っていくところ。おそらく一番サラリーマン層読むであろう、この「週刊モーニング」誌読者にとって、一番感情移入できるのは彼でしょう。

 しかし、この巻に限らず彼の先輩に当たる栄田氏は人情物に関して主人公になると、実に泣ける、泣ける。特にこの巻は自分の子ども時代の具体的な家庭生活が記憶として描写され、そのシーンも泣けるのだ。
 男気に溢れ、細かな事務作業は苦手でも、他者が関わりにくい人の心の機微に触れるときは大概腹を据えて彼は入って行くんだけど、その時の馬力は半端ない。

 彼らの直の上司であるシゲさんは基本的に他人の家庭のプライバシーに法律家は踏み込んではならない、がポリシーであるので、一線を超えると栄田氏がその点で価値観の対立が先鋭化し、何度か辞表を用意するところまで行くんだけれど、このシゲさんという存在のバランス感覚と包容力も、実は影の読みどころ。

 原作者の田島隆さんは前も書きましたが、中卒後下積みの仕事を続けながら行政書士の資格を取り、そしてこれだけクオリティの高い等身大の人々のドラマを書き続けてきたのだから、本当に凄い。「カバチタレ!」で20巻くらい?同時にアフタヌーン誌で「極悪がんぼ」も長い。カバチタレ!の継続で「特上カバチ」が現在23巻で、私はこれだけの長期連載でこれほどクオリティが下がらない作品は他に知らないです。

 いままでこれだけの仕事をしてきたのだから、「ロックンロールフェイム」ならぬ「マンガの殿堂」入りしてもおかしくないと思うんだけど(笑)。
 ただ、画を描いているのが「ナニワ金融道」を書いていた青木雄二氏の直系の弟子で東風孝弘という人で、ゆえに絵柄が生理的にどうしても苦手だ、という人が多いのかもしれない。しかし庶民リアルな物語にこの絵はある意味合っているし、もはやこの絵でないと無理、とも思う。

 この東風氏の従兄弟が誰あろう田島隆氏で、故にコンビネーションも良いのでしょう。

 実はいまは亡き青木雄二氏は田島氏から法的な知識を吸収していたようで、「ナニワ金融道」ラストストーリーの圧巻である裁判官を騙す「ゼロ号不渡り手形」作成、というストーリーは田島氏のアドバイスがあったという噂があります。
 

2010年12月21日火曜日

今日は模擬面接

 今日の基金訓練。午前3時間は模擬面接。
 事前の周知があったせいか、出席者は半分に減りました(苦笑)。
 形はおおむね18人のメンバーが6人ずつ3グループに分かれて、集団面接スペースと、左右に分かれて面接を受ける人たちを観察する形を作る。
 そのひとグループの6人がキャリアカウンセラーから1,2の質問を受ける。おおむね「自分の長所と短所を挙げてください」という質問ですが。 
 それを他の同席の人、例えば真ん中の3人目であれば右、左に座った3番目の人、つまり2人がその印象を、良いところと直したほうが良いところに分けて記入する。それを順繰りに廻して同様のことを行って全グループが受ける側と見る側を引き受けます。

 面接、という現在非常に過大に評価されているものに対する意味と疑義は後段に書くとして、自分の客観的評価は以下のもの。やはりそうか、というのもあれば、これは気づかないクセだった、というものの両方がありました。その意味で客観視されるのは悪くないことです。

<直したほうが良いところ>
○「え~と」「あの~」という言葉で話を繋ぐ癖は直したほうがいい。
○猫背のところがある。もっと背筋を伸ばしたほうがいいと思います。
○もう少しハキハキ喋るとなおよい。
○目線が上を向く癖がある。(これは気づかなかった。ありがとう!)
<良いと思うところ>
○要領を得て話している。
○話すスピードはいい。メリハリもある。
○落ち着きがある。
○物腰が柔らかい。

 上記で面接に関する過大な評価と書きましたが、それは履歴書の書き方(女性の場合、どんな映りの写真を貼るかに始まり)、職務経歴書の書き方も同様です。
 そのこと自体の意味に反論はないし、現下厳しい企業の採用枠の中では他者との差別化競争的な意味もなしとしません。そしてもちろん、面接もインタビューも他者との対話の一つですから、客観的にどう見えるかということの役割練習の意味の重大性はなお否定しません。
 それでも、例えば面接上において、腕の置き方がどうだとか、姿勢の細部にこだわる。あるいは書類の書き方の「細部における型」について時間を多く割いて云々するに至る点に関しては、心の中で率直にクエッションマークが起きます。
 本当は当然ながら語られる内容が大事なわけで、その「大事」は面接官と応募者の「大事」の押し引きの駆け引き要素があると思います。それが短い「面接」という枠の中で凝縮されるされちゃうわけですね。ある意味、不条理にも。

 それを僕は自分なりの押さえと考えたい。として、さて。

 例えば、素人として人を見ていて、訥弁でも素朴で率直に思えるわか者と、「上司には反対されたが、私の一存でやってみた仕事が成果を挙げた」と答えるキャリアのある人、二人の応答を見ていながら頭の中で連想するのは、人や面接官はどちらをどう評価するのだろうか?ということです。
 当然、それはどのような業種であるか、職場、職場の構成員、会社哲学はどうであるか。によって違うでしょう。同時に、面接官は確かにプロが多いかもしれません。プロ的であるということは、客観的にある程度人を見抜く、その一人ひとりが会社に入って他のメンバーとどう仕事をこなせるかという見通しもある、ということかもしれません。

 同時に、その見抜きや見通しもある一定の「型」を持っているかもしれません。
 しかし、あえて素人的に言わせていただければ、どちらとて、人として問題は何もない。どちらも貴重な人材だ、という言葉に尽きます。(あえて個人的な趣味を言えば、素な感じの若者に好感を持ったりする)。

 率直に言って、入職に至るための通過儀礼的な勉強はキャリアカウンセラーも、その方から学ぶ私たちも、ある種の「一般性」や「中庸」に陥らざるを得ないのと同様、会社の人事担当者もある種の一般性や中庸に陥ってはいないか。

 でなければ、これほど馬鹿みたいな就職活動本は出回らないはずです。本当にオリジナルな採用者はそのような本を真面目に勉強して挑む人を軽くは観ないが、尊重は出来ないでしょう。もちろん、奇をてらってはダメでしょう。でも凡庸で善しとすることも出来ない時代でしょう。(これも採用局面によるでしょうが)。同時にしかし、それもリスクを犯す行為です。オリジナリティある採用者がオリジナリティある人間を採用するというのは。(いつでも辞められてしまう可能性がありますし)。

 ですから「落ち着くところに落ち着く」ともいえるでしょうし、それゆえに「落ち着くところに落ち着いたまんま」”就職強迫観念”のときは過ぎていく、と考えるのは意地悪すぎるでしょうか。

 コミュニケーション能力とか、ストレス耐性とか、面接における技術とかをキャリアコンサルの人(とても雰囲気が良い人ですが)から学びながら、同じ先生から「いま新卒の学生さんを見る採用担当の人が一番信用できるのはペーパー試験らしいです。結局、思考力とか常識とか、その人の丁寧さが分かるのはペーパー試験だとのことです」という話を聞きました。すると「なんじゃらほい?」という感じです。

 勿論、馬齢を重ねた私のごときベテランロートルには遠い話ですが、キャリアコンサルの話は前の訓練校(最初の基金訓練、二度目の訓練)で聞いて感じてきたのと同様、どこか常に矛盾が孕んでいて、なんらか揺れています。厳しい言い方になってしまいますが。
 それは採用側からの情報を収集して伝授する以上、ある意味当然かもしれません。企業の採用基準が揺れている、ということの証明でしょうから。

 私が受けている訓練は職業に入職するための訓練で、ぶっちゃけ技術的な訓練です。特別、哲学的なことやら、込み入った議論やら、社会的なことやらを学ぶ場ではありません。だから大人の集まりである訓練生の私たちは口にせずとも何かを割り切っているか、割りきれなくてもあえて疑義を口にしないでしょう。

 ですから、幾つになっても幼児性が抜けない自分は後段(中段?)以後、言わずものがなのことを書いてみたのでした。

2010年12月14日火曜日

こんな番組があるー明日から3晩

3晩連続で「提言“安心社会・日本への道”」を宮本太郎先生をプレゼンターとして放送

BSフジにて、夜8時から10時くらいまで。
いまは経済財政諮問会議にいらっしゃるんでしたっけ?
宮本太郎氏。まだ私には気になる存在です。

BSですんで、誰でも見れるわけではないのですけど。
とりあえず、ワタシは見ます、ハイ。

「制度論は出尽くした。あとは実現に向けた社会保障の位置づけと道筋だ」
果たして?

2010年12月10日金曜日

心棒となるもの

 最近考えること。
 ひきこもり的、あるいはひきこもり感情、内向意識や自意識で悩ましき自分らを支えるものを見つけることの意味。
 何だろうか?「生きていることをつなぐ食の実感」?「性愛」?「演奏や声楽などの音楽表現力や、絵やアートなどの芸術表現」?「自然と溶け合うことの力」?それとも流行りのコミュニケーション力?-これは多分に俗な、いかがわしさがあるような気がするけど。他にもイロイロ。

心棒ーこれは上記、内省的な資質を持つ人、自意識の強さが悩ましい人、あるいはひきこもり系の人にとって、生きていくためにいずれの日にかどうにかして必要なもの。
 もっといえばおおむねの人間にとっても、ぜひとも必要なものだろうということ。

 何しろ、何かを見つけることがとても意味あることなんだろうね。
 いや、これは自分に語りかけているわけです。
 本日は独白でした。

2010年12月6日月曜日

この土日。

 この土日は自分自身の主体的な問題について語る場も含めて、青少年の成長を助けるグループのシンポジウムやミーティングに参加しました。

 土曜日は川崎で不登校のフリースペースを作り、その支援活動も長い「NPO法人 フリースペース たまりば」の西野博之さん、釧路のNPO「地域ネットワークサロン」を代表し、現在は北大で助手として研究活動をしながら札幌市のスクールカウンセラーも行っている日置真世さん、札幌の訪問型フリースクールを運営する山田大樹さんらが登壇し、西野さんの基調講演を第一部として、第二部はお三方によるシンポジウム。

 タイトルは「居場所のちから」。
 前にブログに書いたとおり、30年前に思春期前後からの子ども支援の活動があったか?といえばほぼ皆無だったわけですから、80年代から活動しているという西野さんのような方は特例な感じで、その意味では会場の大盛況ぶりからしても大人の側に「子ども支援」「青少年支援」の機運が高いということは、当時以降から考えれば隔世の感があると同時に、率直に良い時代になったな、と思います。

 同時にそれでもなお、あくまで一般論ですが、子どもにとって幸せな世の中に雰囲気として感じられないのは何故なのでしょう?自分だけがそう思うだけなのか?と自問自答してしまいます。
 その一つは西野さんが例示した子どもに対する過剰な注意(あくまで僕の世代から見ての話ですが)が蔓延していることかな?という気がしないではない。それは思うことです。
 時代の先端を行くネットや携帯などが悪い方向に使われていることも一つの要因かもしれません。携帯イジメがあるのは注意圧力に抗う、大人が見えない場所での子どもの本音の発露でしょう。それでもイジメをされたほうはたまったものではない。それは強調しなければいけませんが。

 しかし、突然自分の思春期に引き寄せると、当時は逆に「構っちゃくれない」のが普通の子ども世界ではあったわけで。ギャングエイジ終焉の末端に属する自分などは生きにくかったのは確か。70年代の中盤から後半というのは大人も子どももある意味おんなじ方向を向きながら、表向き対抗し、裏では無意識のうちに価値観を共有して背中で握手しているという。まるで自民党VS社会党のような(苦笑)大人と子どもの関係であったわけです。(乱暴なくくりかな)。
 あの時代に現代的な感性を持っちゃった当時の青少年のその後の育ち方ってのはどうなのかな?と思いますね。
 まぁ人間、適応出来れば出来る面もあるでしょうから、こだわらなければ適応できてるのかもしれませんけれども。

 居場所問題に関しては、そう簡単でもないよ、ということを含めて僕はマンガ、『家栽の人』13~15巻の連続モノでよく考えを巡らしていることでした。一つは子どもたちが自主的に自分たちだけで自分たちのことを拙くても語り合う場の存在、それが森林公園や沼地などのまちに隣接する自然の隠れ場、あるいは北海道には少ないですけれど、神社の境内の中とかね。そういう自生的な関係が生まれる場所などがあればいいのですが、それをまた大人が用意するというのも変な話でね。GPS付き携帯でも持たされた暁には夢幻の話。

 後は、いかに大人たちが「いい加減な大人」を許容できるか、ということでしょうか。それは何か具体的に見えやすい例えばアルコール、ギャンブル等の依存や、働かない人だけど全然平気でいる人とかだけでなく、「表向きでは立派なことをいいつつ、インフォーマルな場では平気で他人の悪口をいう」ような大人たち。それを見てしまった子どもたちに「いや、人間にはそういうところがあるんだぜ」と説明できるちからも含まれる気がします。大人でもその「フォーマル」と「インフォーマル」の二面性に関しては許せないとどこかで思っているからね。そこを「いや、本質的には本気の悪口ではないんだ」とか、「悪口含めて許容してるんだ」あるいは「ちょっとした悪口でも言わないと、立派な人間も身体が持たねえんだ」てところまで子どもに説明できるかとなると、相当難しいこと。

 ある意味では僕のような人間の問題でもあります。そういうラインに納得いかない自分がいるので。小さな声でいわせてもらえば、人生に絶望してしまう人の中にはそのような二面性の中にある、深い部分の「それでもねぇ~」という部分にどうしてもスッキリ出来なかったという人がいるかもしれない。もっといえば、そのような人はかなり多い気がする。

 ましてNPO的なるもの、福祉や教育的なるNPOの運営者はやはり社会的なミッションとか変革、理想というのがあるわけで、あえていやな言い方をすると、ヒューマニズムとしての理想を語らねばならない。でも、現実の実存在としての自分がいて、その自分が許容できる人間同士の関係性ということもあるから、「人間的な、あまりに人間的な」インフォーマルな話も、心許せる関係性の中ではあるだろう、と。
 つまり「弱さ」と「不完全さ」も子どもに見せられる、あるいは語り合える関係、ということですかね。

 私は一昨日の西野さんの話の中に故・河合隼雄さんの考え方に近いものを感じながら聞いていました。そして存在の全肯定の問題こそ、人間として理念として最も正しく、同時に知恵の実を食べた人間における最も難しい課題なのだ、と思いました。人間の永遠の課題であり、日本国憲法のような「総論賛成、各論反対」の世界。いや違うな。「総論賛成、各論難しいっす!」。

 ですから、これはおそらく「体感」に最も近く、例えば西野さんが自分の奥さんの自然分娩に立ち会った際、自分で子どものへその緒を切った、という話に象徴されるように、「ああ、母体の羊水に守られた子どもが、この外界でついに母子分離を果たして知恵の実を食べた人間として生きていくんだな」という実感が生まれたのではないかと。会場でその話を聞いていて一瞬思ったんですよね。
 ですから、西野さんのその前後の話を聞いていれば、存在の全面的肯定みたいなのは体感としてあるのだろうなと思うわけで、それは普通の人間以上に確固として強いものはあると思う。だから信頼は出来るなと思いました。

 前段が余りに長くなりました。昨日の帯広@SANGOの会はこちらも主にコーディネートしてくれた方は帯広の不登校の親の会の方々で、出張例会の流れをセッテングしてくれた状態で迎えてくれ、誠に感謝、という状況でした。若い方々も私たちよりも多いくらい参加してくれましたが、どの方もひきこもりの当事者というよりも「元」当事者の人たちで、今は過去、という感じで元気に働いている人たちであり、少なくとも自分としては私たちのほうが親の会の方々の発言を含め、「学ばせてもらった」。「若く、早い段階でここまでいろんなことに気づいてくれて、そしてそのことについて話をしてくれてありがとう」という感じです。

 高校の先生で教え子のことが気になってわざわざ新聞の告知を読んできてくれた方もいました。忙しい身分の中でも教え子を気にかけてわざわざ普通の人がひょっこり来ないような場に来る、そんな情がある先生がいる。それだけでも何かホッとさせられる。嬉しいことだと思います。気にかけてくれる人が居ることが悩む当人にとってどれだけ救いになることでしょう。たとえ今はそのことに気づけなくとも。そしてそれに対して一生懸命応えようとする帯広の人たち。本当に良い場の風景でした。

 こちらについては項を改めましょう。またも頭の整理がつかないままで書き始めたため、話の半分だけでここまで来てしまいましたので。

2010年11月28日日曜日

境界を行き来する時代が来るか?

 年齢がバレるので余り大声では言いたくありませんが、ぼくが思春期だった当時は「こころの中の嵐の季節」に対応する機関はハッキリいって全然ありませんでした。
 不登校という言葉はもとより、「登校拒否」という言葉さえない時代でした。
 対人緊張がひどかった16頃のときは、「境界例(ボーダーライン)」と呼ばれ、悲観した親父は「お前は精神分裂病になったのだ」と気持ちが荒れた私に言い、ショックを受けたものです。それは明らかな誤解だったのですが、当時は思春期心理に関する注目がまだ新しい段階で、的確な診断をつけられない時代ゆえのことなのでした。

 つまり、誰のせいでもなく、時代が思春期の内面の葛藤の理解が弱い時代だった。故にこころの病気としての私は、当時「ひきこもり」先駆例というわけ(笑)。
 やはり対応する理解がありませんから、対応する施設もないわけで、当時まだ「精神衛生センター」と呼ばれた時代に昼間はそのセンターで精神障害の方々と療養作業のようなことをしまして、かなりカルチャーショックを受けたものです。
 でも、同時に当時はセンターに素晴らしいカウンセラーの精神科の先生がいましたから、個人としては幸い、極端に道が外れたということはなかったのだろうと思います。

 いまは子どもには難しい時代だろうと、直に子どもに接点がなくても思います。何しろ子どもは少ないですし、ひとりっ子も多いでしょう。ぼくも昔の人間ですから、周囲の大人が平気で言う「一人っ子は社会性が育たない」というコトバをどこかで簡単に刷り込まれて育ってしまいました。

 ところで、私は一人っ子ではなく兄がおり、しかし元々は兄のほうが神経質で親父との関係が幼少期からなぜか悪かった。その確たる理由は分かりませんが、親父が石原慎太郎氏の「スパルタ教育」の影響を受けて育てて失敗したためもあるでしょう。親父は戦中世代ですから。

 故に、私側から言うと欠席裁判でズルイのですが、兄のストレスが私への日々のイジメに波及したわけで、けして兄弟がいるから社会性が育って良いんだ、とはいえません。そう言い切れる大人はよほど良好な兄弟関係があったのでしょう。でも、「カインとアベル」の話に象徴されるように、兄弟関係は時に激烈な闘争や、力関係の闇を見せるのもまた事実でしょう。

 なぜ今さら自分の過去をざっと振り返ったか、その後もいろいろあるんですが、思春期時期を一つの育ちのターニングポイントとイメージしてなぜこんなことを書いているかといえば、「子どもが難しい時代じゃないだろうか」という仮説と、でも「これだけ子どものことを考えるオルタナティヴな養育機関がある時代がちょっと羨ましい気がする」という両面を考えるためです。

 僕は自分のことしか実感として捕えられず、その実感は今の子供たちから大きくズレている面も多いと自覚していますから、上段・中段の文章のようなことを考えるのです。

 同時に一頃巷をにぎわした「無縁」のキーワードにある如く、もはや「不登校」「ひきこもり」「うつ」「貧困」等々の事柄は大きな社会的包み込みの中で考えねばならない、しかもそれは個別の専門的な面の了解があり、かつ広い枠組みで、と両面において考えねばならない時代に入った、ということを考えるのです。ある意味では重層的・多層的に考えなくっちゃいけないわけで、その意味で援助者は難しい時代にあるな、としみじみ思います。やはり「抱え込み」ではなく、「分かち合い(分担)」の時代に入ってきた、ということでしょうか。

 このところの一連取材の試みを手伝わせてもらって、そのような考えがず~と頭に残っていることです。

 今週の土曜日に「居場所の力」と題するシンポジウムがあるようなので、参加してみようと思っています。西野博之さんという方は存じ上げませんが、地域生活ネットワークサロンの日置さんや、フリースクール「漂流教室」の山田さんも登壇されて話をするようなので、今流行語になりつつある「居場所」の話や、ぼくが十代にはあり得なかった(その意味では自分にも「化石的な価値」はあるのかw)その世代への育ちのサポートの現在進行形について話を伺えればなと思います。

 良い面も悪い面も同時進行するのが現代のような気がしますし、それはいつの時代の「現代」でも同じなのかもしれません。だから、良い面を見ていきたいと思いますね。過去から学んで進んでいく面を。
 今度の土曜日のシンポに関するブログも出来ているようです。

「西やんプロジェクトのブログ」

 今回の文章は上手く書けなかったような気もするので、また改めて。

 そうそう、次の日はレターポストのグループ、「SANGOの会」が帯広でかの地の当事者の方々と交流する予定です。離れた土地の人たちと出会ってまた少しでも視界が広がればいいな、と思っています。

2010年11月21日日曜日

毛利甚八さんはいま何を考えてるかな?


 夫婦関係や家族関係の齟齬や相互のズレを家庭裁判所を舞台に描き(その中には深刻な問題も多いですが)、今読み返しても全く古くならない名作『家栽の人』。そして現代社会の中で忘れられた人間の野性的な強さをサル学者を主人公に描いた問題作、『ケントの方舟』の原作を描いた人。それが毛利甚八氏。

(『ケントの方舟』の感想については、もしかしたら、実在のモデルがいるのでは?という仮定で、「爆問学問」に出演されたゴリラ学の山極教授の回の感想で自分は別のブログで感想を書きました。こちらです。)

爆問のゴリラ学とケントの箱舟  Bridge

 そしてその後毛利さんの原作ではもっとも強烈な問題作、「たぢからお」という作品もありました。歴史的な過去から中央より疎外された土地の土着の神と、そこに訪れた過去にネグレストと関係性の激烈な貧困に置かれた青年が現代においてそのあらぶる神の「依り代」となって、過去と現代を貫く巨大で原初的な人間悪と怒りの表出。そしてその和解、という神話的とも言える力技的作品でした。
 『ケントの方舟』『たぢからお』は、作品そのものは毛利さんの神話的な世界を含む巨大な問題意識のため、ラストの収拾が思うようにつかなかった面もあり、作品としての完成度そのものは「家栽の人」ほどに上手くいかなかったかもしれないと思いますが、それだけ個別・あるいは社会的なるものの問題意識が非常に高かった時期を反映しており、ファンはその熱に引きこまれてしまう要素はあります。

 その後は毛利原作作品で目立ったものに出会った記憶は自分にはありませんが、ちょうど名作「家栽の人」が終了した後、当時の「不登校新聞」のインタビューで「今後は生活保護を受けているアル中のどうしようもないオヤジが不登校の子供たちのための塾を作って一緒に育っていくような作品を書きたいと思っている」と語っていたのが印象的でした。

 その予言はある面では、現代の先進的な地域で現実に実践され始めているともいえます。でも、改めてそれに類するような作品を書いて欲しいという思いはファンとしてありますね。
 そのインタビューでは「自分がわからないことは書かない。どうしても締め切りに追われて分からないことを書く時がありますが、そういう時は泣いて書きます」といった旨のことを語っていたのがまた、グッとくるほど印象的でした。

 その後上記2作の原作を書き下ろしたのちは少年法改正に反対する運動をしたり、裁判員制度の推進側の人として活動していたりしていた様子でしたが、いまはどうされているのでしょう。最近ふと「いまどうしているのか」と思う人です。

 というか、この方についてはいつもずっと「ふと、あの人はどうしているのだろう」と思う存在の個人的ナンバーワンなのです。

2010年11月17日水曜日

本日のSANGOの会は休ませていただいてます。

 どうも今回の風邪は長引きます。
 先週の金曜日からそれっぽくて、日曜日はずっと38度台の後半。
 月、火と訓練校を休ませてもらいまして、静養。
 (火曜日は微熱だったから迷ったけど、後を引かないようにと思って。月、火は年末調整の実務だったから本当は休みたくなかったのだが)。

 そんな次第で本日から学校に出ているのですが、今日は意外にグループワークが多く、いつも以上に喋っているうちに疲れてしまい、帰宅したらまた微熱が。(現在、36度7分)。

 ということで、レターポストの例会、SANGOの会は今週の訓練校のことを考えて無理せず、お休みさせていただくことにしました。いろいろ、話したいことはたくさんあるんですけど。。。

 安物のボンゴを購入しました。



 ボブ・マーリーなどが活躍した70年代のレゲエは「ルーツ・レゲエ」と呼ばれていまして、「ラスタ思想」というアフリカ回帰思想が背景にあるレゲエの豊穣の季節でした。ボンゴで3拍のリズム(アフリカンリズム)を我流で試しながら叩くと、当時のルーツレゲエのサウンドにおけるリズム隊が驚くほどアフリカンなことにびっくりします。
 考えてみるとそれはある意味、必然性があることなのですが。

 レゲエというと、普通連想されるのが「裏打ち」のリズムと呼ばれるギター。例えばリズムギターの「ジャン・ジャン」とか「ジャカ・ジャカ」ではなく、「ンッチャ、ンッチャ」というリズムに関心が及びますが、おそらくその独特のギターのリズムも含めてアフリカ的な音を志向していたのだと思いますね。当時のレゲエ音楽は。当然、ベースやドラムも含めて。

 DUBミュージックはそこにエコーやリバープをかけて独特の浮遊感をのせますから、なおさらミステリアス感を持ちますが、基本は彼らの中にあるアフリカ的なものやトランス状態を求める体感なんだと思いますね。

おや。
なんの話だったのやら。(^_-)-☆



2010年11月12日金曜日

わかっちゃいるけどやめられない

間にNPOの釧路取材を含めて基金訓練の新規事業分野訓練の学校に通い始めてから約1ヶ月半。総務・事務系のコースとして、科目数は多いのだけど実は格段に目新しいという科目は特にないんですよね。それでも一応はその日終わったことは目を通しておいたり、コンピュータは簡単に復習したり、簿記をやったり、年末調整のやり方をみておいたり。
特に社会保険は今後、社会保険労務士の資格をなんとか生かしたいのでね。
少し訓練給付のお金をためてます。ですから、そちらは出来るだけ復習を兼ねて大事に。

本当、社労士会とか入会すると馬鹿にならない金がかかるんで。
行政書士さんもそうですが、開業の敷居が高すぎる。この分野だけは何とか規制緩和してくれないだろうか。でないと、優秀な頭脳が(特に最近の行政書士の試験は別格の難しさ。僕が受かった頃とは比較にならない)埋もれたままになりまっせ。

その点、「カバチタレ!」「特上カバチ」の原作者、田島隆さんは凄い人だ。中卒でボトムの仕事を続けながら海事代理士、行政書士の資格を取ってあれだけレベルの高い作品の原作を書いているのだからなぁ。ああいう人こそ本物のインテリでしょう。

話がまったくそれました(汗)。
いま、一番苦労しているのが「WG(ワーク・グループ)」というグループワーク。基本は就職のための自己確認作業なのですが、今までは職業適性検査にせよ、キャリアシートにせよ、自己分析にせよ、自分自身がやって納得していれば良かったんだけど、今の学校ではこれをグループを作って「自分はこんな人間だと思っているんだけど、みなさん如何思います?」と相互に問いかけあいをしなければならない。
これはかなりキツイっす。

先生が最初に「この自己開示の授業は本当につらいとおもいますが」。と優しい笑顔で脅しをかけられたとおり、実際かなりツライものです。今の学校でやはり一番ツライですね。僕にはね。
今まで12時間受けたけど、疲労はしますね。人に出来るだけナマの「自分自身」を語るというのは。

今日は今まで出会って私に気にかけてくれた誠実な人すべてが言ってくださったアドバイス、「自分の殻を破ること」「固定観念に縛られないこと」を改めて言ってくれた形です。わかっちゃいるけど、やめられない。。。というか、なかなか難しいのだなぁ、これが。

前回のグループワークでも僕は「とてもわかりやすく」見える人だそうで。見た目か、動作か、語り口かはわかりませんが。。。見た通りの人なんだそうです、自分で自分の自己分析を語ったところによると。何か皆がそうだよね、って顔をしてそう言っておりました(苦笑)
意外とそこら辺は自分では気づけてないんだよね(涙)。

「真面目な人のようだから潰されないようにしないとね」「優しい、誠実そうにみえる」「繊細そうだ」「争い事が嫌いだよね?」仰るとおりなのですが、逆にそれが自分にとっての弱さ、脆さに感じてしまうよね。
だから、反転する自分自身に対する強さが必要だと思うのだけど。
言われて10年来、直せていない。まさにわかっちゃいるけど。。。

だからさ。
少しずつね。判っていることだし、客観的にもそう見られているんだから、自分の中で変えていく行動力を身につけていきたいと思います。(小声でそう唄ってみたぞw)

2010年11月10日水曜日

取材で釧路へと

行ってまいりました。
釧路は官民一体で生活問題に取り組んでいる地域であるという事前情報が頭の中で膨らんでいたこともあり、期待も大いに膨らませての行きの車中。結構高いテンションにてレターポスト副代表の吉川氏との尽きない会話で4時間の列車移動があっという間でした。

取材で伺った釧路市の生活福祉事務所保健所若者サポートステーション、民間の冬月荘ハンノキ林スクール・サポート・ネットワーク。皆様真摯で誠実に、そして真剣な対応で接していただき、実に学ぶことの多い2日間でした。

本来、レターポストフレンド相談ネットワーク代表の田中氏自身が副代表とともに取材に行く予定であった訳ですが、アンラッキーにも代表が足の骨折というアクシデントがあり、釧路の取り組みに関心があった私が手を挙げて同行させてもらった次第です。

副代表も、そのような経緯だったため、不安に思っていたとも思います。

とはいえ、今後記事化、原稿化の作業があるわけですが、私個人としては生活福祉事務所の主幹の方を筆頭に、自分自身の関心や問題意識とジャストにつながる6か所の取材先で、全体としても濃密なそして誠実で真摯な思いを伝えてくれた取材の旅だったと思いますので、とても良かったと思っています。

少なくとも、私には夢のような2日間で、この2日間の記憶は良き思い出として、消えることはないと思います。

最初の取材先で福祉事務所での先駆的な取り組みの話を聞けたことは大きなことでした。
その出会いがこの2日間の釧路取材の大きなガイダンスとなり、ラストの冬月荘で、一連の流れのまとめがあった、という感じです。(中学生たちの学びの日に取材できたことも大きなこと。そのような場で臨機応変に集いに取材モードで入って行った副代表は流石でした)。

もちろん代表の、田中先生が取材されたほうがより深い話を引き出せたでしょうが、個人的には「本当に、釧路に行くことが出来て良かった。ラッキーだった」と思います。

駆け足で6か所を廻ったため情報不足からくる準備不足の面は否めなかったかもしれません。それでも支援者たちの誠実な思いは十分に伝わってきました。皆様、真摯な取り組みをしているところでしたので、いずれの日にかまた伺えればと願うところです。

基金訓練に戻る私は、基本的にこれ以上新たな取材がないのでこのようなことを書いていますが、副理事や理事の人たちはいましばらく頑張らねばならないと思うので、どうか身体だけは気をつけてコンデションを保ちつつ、自分のペースでいどんでくださいね。と伝えたい思いです。

後は釧路で学んだことをこちらでどう生かし、フィードバック出来るか。感じたことを忘れずにいられるか。自分自身が試されるかな、と思っています。

2010年11月4日木曜日

文化の日に

文化の日の昨日、その名にふさわしく「札幌芸術の森」にて「文化庁メディア芸術祭-メディアアートの未来へ」という催しを観てきました。
これが無料で午前10時から午後6時まで2本のアニメーション映画作品と、その間にメディア研究している人や、いま現にクリエイターとして活躍している人を招いて講演やシンポジウムを行うというイベントで、その充実度が半端ではありませんでした。

貧乏たらしい話ですが、駐車料金500円かかるはずが、昨日に限っては駐車料金も無料!これはありえないぜ、と、いま・本日振り返って思います。
評価が高いと友人のハイロウさんから聞いたアニメ映画作品『サマー・ウオーズ』をラストに据えたこのイベントはその上映前に監督さん自ら舞台トークするというおまけつきでしたが、後半になってその監督が登場するころには客席はほぼ満員で、何も知らない自分にもその熱気は伝わり、「これは何事じゃい?」と思ったのですが。。。

作品を観てぶっ飛びました。いやいや、これは。驚きましたよ。
名作でした。デティールも、エンターティンメント性も、単なるアニメで片づけてはいけない。というか、アニメ作品を馬鹿にしてはいけない、と思いました。比喩として宮崎駿を継ぐ、という言辞は宮崎作品と表現のベクトルに違いがあるとは思いますが、まさに宮崎駿を継ぐ人なのかもしれない、と真実思いました。現代の中でエンターティンメントと問題意識を両者きちんと表現できる作者として。

シンポでの新しい今後の取り組みの話も興味深く、まだそちらの世界に疎い自分には整理がつかないところも多いのですけれども、如何にも文化の日らしい刺激的な一日だったのは間違いありません。
そうそう、新しいメディアを使った展示、それも見学者参加型の展示物もありました。そちらは子どもも楽しめる内容で、親子連れも多し。

詳しい内容、きちんとしたルポに関しては、このイベントを紹介してくれて一緒に見に行ったハイロウさんのブログが正確。どうか、そちらのレポートをぜひ読んでくださいませ。

Hi-log 2特別シンポジウム メディアアートの未来へ

2010年11月1日月曜日

どうやら。

先の土曜日のNHK討論「日本のこれから」に湯浅誠さんが出演されたようで、両親は見たそうです。私はクラークシアターで映画を見ていたので、そちらは観ていない。どちらにせよ中庸というより、ニコニコ「まあまあ」の三宅アナが苦手なので見なかったろうことは間違いありません。あのスタジオでの議論がかつて生産的に終わったという形跡もないし。結局、かみ合わないんですよね。。。

それはそれとして、最近「パーソナル・サポート・サービス」で検索が多く引っかかっています。親に「湯浅さん、パーソナル・サポート」について何か説明してた?」と聞いたら説明していたよ、ということなのであの番組を観た人が関心を持って検索しているのでしょう。

ことほど左様で、今のところパーソナル・サポ-ト・サービスモデル事業は世間認知されているとは思えません。もしかしたら、テレビの全国放送ではほとんど一昨日が初の公的な認知の場だったのかも?
それほど知られていないのが大変残念ですね。

来週の8,9日と先駆モデルである釧路に取材に行く予定です。

2010年10月25日月曜日

湯浅誠さん×中島岳志さん ディスカッション

 今週は北大で「サステナビリティ・ウィーク2010」という文化イベント週間でして、午前中は例の北大初のノーベル賞受賞者、鈴木さんも登場したようです。
 私の目的は勿論、上記タイトルのもの。このイベント全体がそうなのですが、夜間開催のものがなく、湯浅さんと中島さんのディスカッションも午後4時15分から6時15分までと普通の勤め人には参加が辛い時間帯。

 私は職業訓練が終わって自転車ダッシュで15分遅れくらいで入場。内容は基本的に中島さんが湯浅さんに昨年からの経緯をずっとお聞きする、というかたちで進み、いつもは饒舌な中島さんは珍しく聞き役に徹していました。

 湯浅さんの話は基本的には5月にグランドホテルで行われた「岩盤を穿つ」講演と似た内容で、格別新しい話があったわけではありません。

 しかし、部分部分でインテリジェンスのある湯浅氏のアドリブ的に出てくる発言がなかなか頷けるところが多かったのでした。

 例えば時代のキーワードとなった「無縁」。これを湯浅氏は日本の中世史学者・故網野義彦氏の議論を使って、中世の地縁・血縁とは違う無縁の人びと、すなわち土地に縛られず、放浪をしながらもその土地土地でマレビトとして生活する人びとやそのような人びとの集まるもう一つの「空間」と「場」を肯定的に受け止め、「無縁」の空間にポジティヴな要素、「居場所」としての「無縁」という観点を取り込んでいました。

 その無縁=「溜め」の場であり、「居場所」となるのが例えばNPOや自助的組織、というイメージを抱いているようです。いわば、土地に縛られた空間のみに生きた中世の人々に比べると広い世間を見てきた無縁の人びと、という逆転した歴史学から学んで「無縁」を逆転させる発想で、無縁という言葉に暗いイメージを持ちがちだった自分のような人間にはそういう見方もあったのか、と感心させられるものでした。

 対して、中島北大准教授はあえて挑発的というか、刺激的に幾つか議論を湯浅氏に振っていました。例えば3年(?)ほど前の赤城智弘氏の「希望は戦争」論文について。
 希望を持てない社会では戦争で格差がガラガラポンされる状態こそを待ちわびる。何らプライドを持てない非正規バイトの自分には戦争で靖国に祭られることのほうが希望だ、という話。個人的にはありがちな議論だと思っているし、赤城さんという人がいま現在も当時と同じ心情を抱えているのかどうか解らないので、「論壇を大騒ぎさせた」というほど中島さんが過剰評価することかな?と正直思うし、ある面ではその文脈における「秋葉原事件」もそう。
 
 ショッキングな事件や刺激的な議論が若者から論壇に現れたとしてもそれは突出した事例だと思うし、湯浅氏がデータで示したように他殺に関しては戦後一貫して減少の一途をたどっているのに対し、自殺のほうは3万以上で高止まりしていることのほうがショッキングな事実でしょう。他殺も自殺も向かう方向性が逆なだけで動機は同じともいえるかもしれない。しかし他殺が他者に向いた激しいエモーションだとすれば、そのエモーションのはけ口が内に向かう回路しかない、としたらそれは新しい悲劇じゃないかと思います。その意味では社会の閉塞感が高まっているのは確かでしょう。
 だからこそ東京都知事や大阪府知事のように論理よりも情緒に激しく訴えるタイプの首長が喝采を浴びるという倒錯した事態があるのはわかります。

 実は私は赤木氏の「希望は戦争」議論や秋葉原事件以上にこの閉塞した社会ではじわじわと今後大きな社会的力を持つ勢力が現れるのではないかと思っています。それは何か。それは「宗教」です。僕が思うところでは、そちらのほうがより現実性が高いと思われる。

 宗教はポジティブな意味での無縁から始まるNPOや自助組織などの新たなる共助の関係性より、より強力で即効性を持った人間関係の紐帯を作り得るものだと思います。そして教祖を中心として、教団の他のメンバーとの連帯もより強く築きやすい。オウムのような過激宗教が発展するかどうかまではわかりませんが、この閉塞社会が終わりなく続き、物質的条件とか社会的構造の変化による意識の変化がこの社会の課題を招いている、という風にはとても考える余裕も持てない層が、自分たちにとって一番掬い取ってもらいたいかたちが何かといえば、僕には今のところ宗教がもっとも解りやすい形だと思いますし、宗教の再隆盛にいたる可能性はあるんじゃないか?と密かに感じています。そんな時代が来るというのは僕には最も嫌な時代で、当たって欲しくない想像ですが。。。

 そのような時代がやってきたその果てに、情緒で人びとをアジテートする独裁的人物が登場するのではないか。その独裁者に宗教指導者たちがお墨付きを与える-というのが僕が考える「悪い形での無縁」によるバラバラな個の集まりに耐えられなくなった人びとの辿る悪い結果の道です。そして僕が考える一番最悪のシナリオはその流れです。

 最後は自分の想像が飛躍してしまいましたが(^_^;)、例えば世代間の意識ギャップについても具体的に湯浅氏は自分の親世代が生きた時代と自分がいま生きる時代との物質的条件の時代から来る意識の断層にも言及されて、ここは彼のバランス感覚が躍如するところですが、両方の世代がその「生きてきた(いる)」条件の違いにお互いが意識的であることが大事です、と語ります。そう、お互いが自分の辿ってきた(いる)社会的な道筋を意識すること。そこから共通の土俵で議論できる可能性が生まれるでしょう。
 逆にある種の精神主義、たとえば「ガンバリズム」は結果の困難を結局「ガンバリ」でしか説明できなくなってしまう、とも。

 まさに今の時代こそあえていうなら「社会科学」的な思考が必要とされる時代はないのではないでしょうか。また、社会や生活における正確なデーターがこれほど必要な時代もない、と思います。
 その意味で湯浅氏がツイッターでこのところずっと「学んだこと」として各種の社会的データーをツイートすることの意味が深いところで理解できる。
 そんな気がしました。

 長くて解りにくい文章になってしまいましたね。どうもすみません!

2010年10月24日日曜日

豊かさの中の格差で苦しむ若者たち


 最新号の「ビッグイシュー・ジャパン」。茂木健一郎氏とビックイシュー販売員&ビッグイシューJAPAN代表の佐野さんの対談記事も興味深く読みましたが、特集の「若者を襲う貧困ー高校中退者の今、未来」は衝撃的でした。

 一応のこと、都会に住んで出不精ですませていれば見ないですむような現実。物に溢れたショッピングモールが乱立してもどこか嘘くささを感じる、といっても感じている程度なら楽な話だと。。。
 本当に、豊かさの影で、親の世代の貧困状況が子どもに豊かさとは真逆の現実を突きつけてきていることに強い衝撃を受けています。
 考えてみれば、当時のぼくの高校中退のあり方なんかは「屁」のようなものだ。
 特に聞き書きルポにある母親がフイリッピン人の高校3年生の男子の話は胸に詰まります。
 生活保護家庭の子女に対する学習援助は先駆的な例として釧路市がありますが、県をあげて全ての中学3年生生活保護世帯の学習支援を埼玉県で行われ始めているそうです。

 パーソナル・サポート・サービス検討委員のひとり、放送大学の宮本みち子さんの定時制高校研究も読ませます。

 都会でビッグイシューを購入できる場に住んでいる人は、ホームレス支援の観点のみならず、雑誌の持つ社会的先見性、生活に根ざした問題の先端の情報提供の観点からもぜひ読んでいただきたいものです。

2010年10月23日土曜日

訓練初期的報告

 職業訓練が始まって約3週間。一言で云えば、まだ「緩い」感じでして、モチベーションの持ち方が難しいのは事実。おおむね自分にとって必要な課題は見えています。「給与計算と年末調整実務」「パワー・ポイント」「エクセルの深堀り」といったところ。簿記も3級レベルだとおおむね解るので。。。
 さて、この調子でいいのかなぁ?と少々悩みでもあるのですが。

 昨日のワークガイダンスと年末調整実務の実践は勉強になりました。ワークガイダンスは普通の自己紹介ではなく、隣席に座っている人を紹介する「他者紹介」。その場で相手に聞きたいインタビュー項目を考えて、それをまとめて隣席の人を紹介する。これはなかなか新鮮な方法でドキドキ。で、皆さんの相手の人を紹介するプレゼンテーションの鮮やかさに感心しまくり。短い時間で相手の良いところを膨らませて紹介する技術はやはり社会人としての蓄積のたまものと感心しました。(基本的に平均年齢が高いのが今の訓練仲間です)。
 それから、皆さんの体験の幅の広さと深さですね。それが染みます。

 社会人としてのありようは仕事のスキルだけではないと。でもあえていえば、”社会性のスキル”を持っていらっしゃるとでもいうべきでしょうか。「自分自身に好印象を持ってもらう」ためには「相手のよい面を把握して紹介できる」こと。それが両面両者にとって良いこと、ということでしょうね。

 後は年末調整の実務ですね。これは要復習!!今まで年末調整とかは税に関心がなかったこともあって意識したこともなかったけれど、年末調整は本当に細かな作業が必要、税額票を見たり、控除を確認したり。。。大変な作業です。

 エクセルは日商3級レベルであるピポットテーブルや集計表までやりたいのだけど、とてもそこまではいきそうにないな。そして独学ではそれを習得するのは難しいと実感しています。
 簿記は出来れば独学で2級までやりたいけれど、工業簿記がこれも独学では難しく、考えどころです。
 どこかで安く勉強を教えてくれるところが年明け頃にないかな~と思ったりしています。

 しかし、本当に大事なのは資格マニアになることではなくて、どこでどう学びを役立たせるかです。基本的には社会的な仕事の場で使ってもらえるところがないか?と思うのですが。。。

 それからもう一つは自己相対化というか。要は社会性の問題ですね。最も本質的な私の課題が、ここにこそあります。

2010年10月15日金曜日

明日16日。反貧困TV6時間生放送

反貧困TV『世直しだよ!全員集合~6時間生放送』


※プレスリリース
報道各位

2010年10月12日

反貧困TV 「世直しだよ!全員集合」
~市民が作る6時間生放送!!~

来る10月16日(土)に開催される「反貧困世直し大集会」(主催:「反貧困世直し大集会2010」実行委員会)を、アジア太平洋資料センター、OurPlanetTV、レイバーネットTVの3つの団体の協力により、インターネット中継することになりました。
「反貧困世直し大集会」は、リーマンショック以降、深刻化している貧困問題を解決するために開催しているイベントです。11時のオープニングからデモ終了の17時まで、貧困問題を徹底的に考える6時間。13時40分からの「反貧困本音トーク」のコーナーでは、全国の視聴者から、ツイッターやメールで質問や意見を受け付け、貧困問題をどう解決すればいいのかを、ゲスト出演者とともに考えていきます。ぜひ、事前の番組告知および当日の取材をお願いいたします。

<番組概要>
■番組名:反貧困TV「世直しだよ!全員集合~6時間生放送~」
■配信日:10月16日(土) 10時55分~19時ごろ(イベント終了まで)
■反貧困TV:http://hanhinkontv.blogspot.com/
■動画配信:http://www.ustream.tv/channel/hanhinkon
(メインチャンネル)←「反貧困本音トーク」はこちら(開始が少し遅れてます)
第二会場

■ゲスト出演:(予定)
宇都宮健児さん(反貧困ネットワーク代表)
雨宮処凛さん(作家・反貧困ネットワーク副代表)
湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)
松本哉さん(素人の乱・「貧乏人の大反乱」著者)
伊藤みどりさん(女性ユニオン東京)ほか
■特設会場:明治公園反貧困世直し大集会メインステージ横の仮設テント

<参考>反貧困ネットワーク(代表:弁護士 宇都宮健児)

2010年10月14日木曜日

パーソナル・サポート・サービス検討委員会第1回会合(概要)

「パーソナル・サポート・サービス検討委員会第1回会合(概要)」 (7月21日)

 すでにUSTにてパーソナル・サポート・サービスのモデル事業二次募集の映像が上がっていますが、もしかしたらパーソナル・サポート(以下PS)というサービスの具体的イメージがいま一つ掴みにくいところもあるかもしれません。実際、自分が最初に見たときはそんな印象でした。時間を置いて再度改めて見直し、おおよそのイメージは掴めたつもりではありますが。
 より具体的にどのような施策として具体化しようとしているか、そのための問題意識は何か、実現のための課題は何か等、ペーパーとして専門家たちが語っているものを読むほうがなお良いのではないかと思います。それが上記にリンクを貼った検討委員会の第1回目会合概要です。(PDF形式)

 専門的なソーシャルワーカー、NPOの中心的な人たち等必見の会合概要です。

 特に北九州でホームレス支援を行っている奥田ホームレス支援全国ネット理事長はUST映像でも一番勘所の良い発表をされていましたが、「絆の制度化」「(支援される)本人の自己有用感」というキーワードでPSのコーディネーターの役割を強調し、湯浅内閣参与の問題意識に一番近い場所にいるような気がします。

 またライフリンクの清水氏はPSが心理サポートを行う場合を考え、どこまでがPSの心理的アプローチが出来る範囲なのか、その枠組みを明確にすべきと提案します。

 東大大学院教授の本田由紀氏はさまざまな若者支援事業があるが、支援団体によって若者がある特定の性格を帯びた支援を受けることを心配していたので、このPSという制度に何か新しいメルクマール(道しるべ)になりえることを期待しつつ、かつ教育のあり方と労働市場のあり方の問題も同様に変わっていかなければならないと提案しています。

 宮本みち子放送大学教授は若者支援の際に気づくのは若者の精神保健支援、障害支援の弱体性ということであり、その時期に抱えこんだ問題がそのまま放置されることによって、中年期問題が生まれる状況があると指摘。同時に海外ではすでにパーソナル・サポートの共通概念が生まれているとの先行事例を披瀝。

 そして宮本太郎北大教授はこの取り組みは社会保障制度のあり方を刷新する可能性があるプロジェクトであると高く評価。
 これまでの社会保障は個々の具体的事情よりも制度を優先したものであったが、いまや人生の典型的リスクというものはなく、実態は複数のリスクが複合的に現れて人びとの社会参加を困難にしている、もはや制度先行では立ち行かないと問題提起されています。

 かように、社会保障制度や社会福祉制度におけるソーシャルサービスの、そしてNPO的に言えば「新しい公共」にも沿ったかなり斬新なプロジェクトだと思います。

 その中で多くの参加者が問題提起するのはやはりパーソナル・サポーターの身分保障や経済的保障について。PSの役割に高い倫理意識と専門性を強調されており、かつある個人のサポートは同時に地域社会との関係性にも支障があるはずで、その際における地域社会のありようにも働きかけねばならない大変な作業であることを強調しています。

 ペーパーを読みながら簡単な感想をと思いましたが、必要以上に説明が長くなってしまいました。どうか関心がある方はPDF形式ですがこの会合の様子を印刷するなどしてじっくり読み込む、そのような価値がある資料だと思いますので是非読んでいただきたいと思いまして、紹介させていただきました。個人的にはいま一番関心があるプロジェクトです。

 なぜなら宮本北大教授が言うように、これが新しい社会保障制度の先行指標になる可能性と、「新しい公共」の真の新しさを具現化するモデル事業になりえるかもしれないということ。少なくともその方向での取り組みに視点が向いたことそれ自体に大きな意義を私は感じるからです。

2010年10月11日月曜日

アフリカンドラムを叩いてみた

 レタポスの中心的グループ、SANGOの会でコンガやボンゴを使ってココロを解放しようという事業、リズムセラピーでコンガを叩いてきました。



 肌触りといい、出てくる音といい、「これ欲しい!」と思っちゃいましたね。私、基本的にレゲエのラスタマンがメデティーションに使うボンゴや、アフリカのポップミュージックなども好きなので。
 ただ、実際に叩いてみるとリズムが取れずそうとう悪戦苦闘しました。ちゃんと叩けるには修練が必要でしょう。時には頭を空っぽにしたほうが自分みたいな人間にはいいと思うので、リズムがとれるようになって忘我の境地に達せられたらこんな幸せなこと、ないんじゃないかと思うんですけど。。。

 私の心の中に住むコドモ(少年、思春期)はまだこんな映像世界を夢の中に見るんですよ。(^_^;) 変人だと思われるでしょうけど。



2010年10月10日日曜日

映画「グッド・ウィル・ハンティング」の解説ブログ発見


 個人的に大好きな映画としてマット・デイモンの脚本(正確には彼の親友役、ベン・アフレックとの協同脚本)・主演の「グッド・ウィル・ハンティング」があります。
 天才の頭脳を持ちながらも、小さなときに養父から受けた虐待のため、社会のメインストリームで活躍することを拒み、不良仲間とつるみながら、(社会的には)下積み底辺の仕事について自分の能力を社会に提供するつもりはない。
 しかしながら、彼は大学というアカデミズムの世界で清掃夫として働き、学校の廊下に張られた数学の難問を人知れず解いてしまう。そのように、人には知られない形で社会に対して挑戦する。

 ある日その難問解きをしている姿を数学博士に見つけられ、見込まれる。その数学教師は少年院に送られそうになった彼の身元引受人になることを申し出る。そして、その受け入れの条件は「数学の難問を解くパートナーとなること」と「精神療法」を受けることだった。
 心に傷を持つ彼は前者はOKだが、後者に関して頑なに抵抗する、のだが。。。

 実は私も長く精神分析療法というものを受けているので、しかもそれを極めて日本的なやり方で行っているので、この映画で登場する良きアドバイサーとなる精神分析医とのやりとりは結構解るところがあると自負したいところもあります。その意味でもこの映画が好きなのでしょう。マット・デイモンと彼の悪友役が若くしてこの素晴らしい映画の脚本を書いた、という点もまた格別贔屓してしまう理由かもしれません。それらをおいても、名作であるのは間違いありません。(監督がガス・ヴァン・サントという実力者であることも大きいでしょう)。

 この映画の映像がユーチューブに上がっているとは知りませんでした。ツイッターにて映画で彼がこの男(分析医)なら続けて会ってみようか、と思うキッカケとなる公園で語り合う貴重なシーンを紹介してくれたものを見つけました。同時にその場面の対訳つき映画批評のブログも紹介されていますので、ぜひ映像を確認しながら対訳をご覧いただきたいと思うところです。非常に含蓄に富んでいますし、自分の事としても重く受け止めるシーンです。

「Goodwill Hunting」名シーン――一番大切なものとは? - 雑読すんの書評コーナー「書海への旅 航海記録」

2010年10月5日火曜日

パーソナル・サポート・サービス説明会(UST録画)

パーソナル・サポート・サービス説明会 」(2時間19分)

 ハローワークなどでの一般就労にも向かいにくく、いろいろな生活上の問題を抱えた人たちをサポートして、可能なら就労などに結びつけて行こうという、生活支援策全般に通じた「パーソナル・サポーター」と、問題を抱えた当事者が一体となり、サポーターが個別に援助していくというパーソナル・サポート・サービス。その具体的な説明会の映像のリンクを貼りました。社会福祉専門職者、NPOの関係者必見だと言えるのではないでしょうか。

 困っている当事者をいろんな社会サービスに結びつける専門家は、喩えは良くないですが、あえていうならば介護保険におけるケアマネージャーに近いでしょうか?ただ、ケアマネが現状として介護支援機関に雇用されている関係上、決して各種サービス機関から中立とは言い難いことを思えば、パーソナル・サポートはより機関中立性が求められますし、求めざるを得ないと思います。課題分野が多岐に渡りますので。

 現役世代の問題は、福祉、社会保障、就労、メンタルヘルス、経済問題、家族問題等。多様で、まさに「厚生労働」の名に相応しく、縦割り制度横断とならざるを得ないはずであり、日本では間違いなく先進的な取り組みになると思われ、大いに期待するところです。

 ただ、説明を聞く限り、どうも制度プロジェクトリーダーの内閣府担当者と「職業安定課」畑の人の認識に温度差があるような気がします。特に職業安定課の人がこの事業に関して緊急雇用対策の年度内予算事業であることや、あくまでもモデル事業であることを強調しているのは、正直高揚感を持ちにくいところもありますね。

 また、就労以前の状況で困っている人たちに伴走するパーソナル・サポーターの役割は相当な力量、つまり多方面の社会的資源に通暁して、なおかつメンタルサポートも可能な人材が求められると思います。このPS。誰が担うことが可能か?と思いますね。社会福祉士?精神保健福祉士?臨床心理士?それとも力量ある現場NPOのカリスマ?

 またこの事業。NPOが担うか、行政が担うか、そして窓口は明確にどこがなるのか。(一応、職業安定課の担当者はハローワークを想定しているようですが)。
 まだまだ曖昧に思えるのはやはり生活の全般を担う仕事であるだろうから。
 ただ、少なくとも23年度までのモデル事業とはいえ、この事業が貧困、脱路上、ひきこもり等に対して差し出される貴重な手には違いなく、個人的には大変期待しています。

 先駆例として北海道は釧路がまず始めています。釧路のまじくるはひきこもりハンドブック取材でボランティアをしているNPOレターポストの代表、副代表が取材に伺う予定になっています。個人的には、ぜひレタポスの代表、副代表の方にはパーソナル・サポートについての取材もお願いしたいところです。

2010年10月3日日曜日

映画『アンダンテ』ボランティア

昨日、映画「アンダンテ」上映前の配布資料を揃える作業と「もぎり」のボランティアに行ってきました。
昼にひきこもり等に関するシンポジウムがあるので、その時間から人が集まるだろうと思ったら、意外にも一番最初の上映回から席がほぼ埋まるという盛況ぶり。
(少なくとも個人的に好きな「ミニシアター系」映画より遥かに盛況ですw)

自分が思っている以上にこの種の問題に対する関心が高いのか、と感じたのが率直なところです。
このところの取材等でお世話になってくれた方々たち、そして嬉しいことにハローワークで職業訓練に関する相談に乗ってくれている職員の方も来てくださって、私個人にとっても、とても嬉しいことでした。

映画に関しては、主人公の苦悩に共感しつつも、良質なファンタジーというか。ひきこもり問題に関する実存的な問題や、いま、社会に瀰漫する多くの現代的な課題の根本と思われる「関係性」と「経済」の問題まで切り込むのは難しいのだな、というところです。そこまで切り込もうとすると映画として必要なエンターティンメント性が維持できないでしょうしね。
ですから、難解、晦渋では困るでしょうが、リアルひきこもり問題はそのような局面があるのは確かでしょう。。。

昼のシンポで文学研究の先生の資料にもありましたが、私は「思ひでぽろぽろ」と「北の国から」を足して、そこにひきこもらざるを得ない辛さとその呪縛からの解放に向けた希望のファンタジーのような作品に見えました。すみません、読み取りが浅いのかもしれません。

昼のシンポでレター・ポストの田中代表が「ひきこもりの人たちは活字離れが叫ばれる時代にあって、非常に活字を読む人、読書人たちだ。新聞もすみずみまで読む人たち」とそのポジティブな側面を強調されましたが、やはりそこから先、なんですよね。おそらく大事なのは。

ある面では、新聞もそれほど深刻には読まず、本もほとんど読まないで世の中で活動している人たちの中についていけないが故に籠もりがちになる結果、インドアの活動が継続し、お金がかからない方法で生活に潤いを求める結果の活字文化なれ、という側面があるかもしれず。外で忙しくしていれば活字離れしていくということもあるかもしれません。そこら辺はぶっちゃけたところ、「鶏が先か、卵が先か」ということかもしれません。

ですが、活字なれ、情報の深層を探る能力、深い思索力、繊細な感受性をどう生かすかは社会的に見た場合に重要だと私も思っています。(偉そうな書きぶりだけど、自分を励ます意味でも)。

シンポジウムでもパネラーたちが自分のウィークポイントから披瀝したのはなかなかなことでした。この「関係性脆弱」の時代にあってはだれもがプライヴェートのウィークポイントがあっておかしくありません。そこから始めるというのは大きなことで、イデオロギッシュでさえあった「自己責任の時代」から、改めて社会相互間の応答が求められる時代にはこういうところから始まるものなんだな、そしてこういうところから始まって欲しいものだな~と思いました。

最後に都会のカプセルのようなマンションと、自然の中に開かれて人も自由に出入りしている人間関係が濃密な農村、という対比が明確であるこの映画。ちょっと逆の意味で区別しすぎかな?と思いましたが、単純に映画として楽しむ自分には稲穂の美しい、自然が豊かな農村風景に憧憬を持ってしまうのは否めない事実でした。

そこにすべての問題の鍵がある、とはなんぼなんでも思いはしませんが。

2010年9月30日木曜日

10月5日、パーソナル・サポート・サービス説明会のUST中継などのお知らせ。

湯浅誠さんなどが中心になって提唱されているパーソナル・サポートの動きについてお知らせです。

湯浅誠からのお知らせ

パーソナル・サポート・サービス説明会・Ust中継アドレス(10月5日)

こちらはパーソナル・サポート・サービスについての詳細な概要・解説です。(PDF)
「パーソナル・サポート・サービスについて」

<パーソナル・サポート・サービス検討委員会の構成員>

(座長) 宇都宮 健児  日本弁護士連合会会長

猪股 正  日本弁護士連合会貧困問題対策本部事務局長
岩間 伸之  大阪市立大学大学院生活科学研究科准教授
奥田 知志  特定非営利活動法人ホームレス支援全国ネットワーク理事長
工藤 啓  特定非営利活動法人「育て上げ」ネット理事長
五石 敬路  財団法人東京市政調査会主任研究員
清水 康之  特定非営利活動法人自殺対策支援センターライフリンク代表
鈴木 晶子  特定非営利活動法人ユースポート横濱
高沢 幸男  寿支援者交流会事務局長
玉城 勉  財団法人沖縄県労福協専務理事
野中 猛  日本福祉大学社会福祉学部保健福祉学科教授
日置 真世  特定非営利活動法人地域生活支援ネットワークサロン理事
本田 由紀  東京大学大学院教育学研究科教授
宮本 太郎  北海道大学大学院法学研究科教授
宮本 みち子  放送大学教養学部教授
山口 寛士  京都府健康福祉部高齢社会対策監
湯浅 誠  内閣府参与
(五十音順)

2010年9月29日水曜日

9月の終わり頃に

 8月最終週から始めたNPO法人の取材活動ボランティア。一昨日行った取材で一応のこと終了です。10月の2週目からまた職業訓練を始めますので、そちらのほうに力点を置くことになりますので。

 私個人としては7箇所取材に伺って、自分で記事を書くのは6箇所です。一応まだ書き終わっていない記事は後ひとつ。

 取材先のひとつひとつが興味深く、とても意味あるものでした。先日書いたとおり「ひきこもり」のハンドブックとしては、直接的な支援組織のみではないのですが、いろいろ自分の想像力を働かせれば、何かとある種の局面で各団体の方法論が援用出来る部分はあるのではないか?と思ったりしました。ただ、それを自分の能力でヒントとして引き出せたか、質問化することが出来たのか?といえば正直それは怪しく、折角取材に応じてくださった機関や団体の責任者の方には申し訳ない思いで一杯です。

 どの機関も誠実にお答えを戴き、特にNPO団体に関しては代表の方々等、リーダーの人たちはやはり強い情熱をお持ちだということを再認識しました。
 この情熱が自分には欠けているところ。

 極く個人的には「ひきこもり」は深刻な時があった思春期や新興(ともいえないか)宗教にハマッて幹部職を逃げ出して以来マインドコントロールに苦しんだ20代中盤から30代前半にかけて以外は、確かに引きこもり的でもあった時期やコンプレックスで苦しんだりしていたと云っても、その上記2点の頃以外ではそれなりに世間に顔を出したり引っ込んだりをしたりしているので、改めて「引きこもり」を真正面から常住坐臥にて考え込んでいる風情は個人的には却って不自然な気がして、あえてブログのサブタイトルに「ヒキコモリストから始めよう!」などとライトな気分を強調してみたのですけれども。とはいえいろいろなところからお話を聴く場面場面・状況の中では渦中の中とでもいうべきか、いま現在において大変なケースがありますから、自分側からのチャンネルでの発想だけでは如何なものか?と。改めて思い直すところもあります。
 考えてみれば、自分だって自分自身がどうにもならず苦悩の中に沈んでいたことがあったはず。ただ、とはいえ、自分の苦悩も全然甘いものだったかもしれないと思うこともあり。話を伺う中で思わずこちらも胸苦しく、涙腺が緩みそうになる瞬間がありました。

 引きこもりとはいっても、それは状態像の表現ですから、仕事が見付からずに元気が出ないまま結果として1年2年と、あくまで結果論として引きこもってしまった内気な人から、多分相当大変な精神的な問題を抱えている人まで幅広くいるわけで。。。

 出来れば、もっと多くの場所、今後地方の取材などもあるようですが地方として抱える問題も知りたいですし、今回、初対面で思いつきで聴いていいものかどうか、悩ましい質問も必然的にありますから、そのような面ももし改定版が作られる機会があれば是非に、という感じもあります。
 10月以降も今月同様に取材は続きますし、これからは地方もありますから、NPOで活動しているメンバーは大変です。そして想像するに最終の構成や監修の段階こそが一番大変でしょう。その点では団体の代表、副代表には心の中でお願いします、というところです。ある面では私自身、その点で無責任でいられる面がありますので。

 もう少し無責任な事を書けば、今後はNPOや公的機関のみならず、医療機関やPSW、臨床心理士等の考えかたまでインタビュー対象として広げられないかという感じがあります。

 それからこれも極く個人的関心から云えば、中高齢就職支援の方から伺えた話などで実感がより増したのですが、その他のNPO支援機関も含め、マスコミ報道などからは解らない社会のボトムの実相などを体感できることが出来るのではないか?ということです。その観点からもう少しいろいろ話を聴けることがあるのではと思いました。
 その点では公に取材という名目で真っ直ぐに支援者の方々や利用者の方々の腹くれない生の声に少しでも触れることが出来たのは「役得」で、そのような事業を手に入れてこのような取材という機会を与えてくれたのは感謝です。

 繰り返しになりますが、今後地方取材や構成、監修作業がより大変なのは容易に想像できます。まだまだ頂きが見えない段階でこのようなことを書くのは無責任の誹りを逃れられませんが、それを承知で書いてしまいました。

 年度末までのハンドブック完成に向けて他のメンバーが頑張っている姿が想像できます。頑張ってください、などとは云いません。どうか宜しくお願いします、と思うところです。

2010年9月24日金曜日

ちくらと旅行を。。。

してまいりました。

丁度、同居している親父が肺癌にかかって5年目。節目にちょっと患部に影がありそうだということで専門検査を受けたところ、とりあえず今は問題無いとの診断を受けたこと、私自身が23日に誕生日だったこと(嬉しくない!(^_^;))、本当は6月に行くかという話があったのですが、厳しい暑さが続いたこと等々が重なって節目がいいだろうということで2泊3日で行きました。

自慢できることがない自分は、遠出の際は基本「晴れ男」であることだけが唯一の自慢なのですが、今回もそのジンクスは守られ、洞爺湖温泉、羊諦山、ニセコ等々そこそこ晴れて大好きな自然景観を満喫しました。

今回は高齢両親に合わせ、超スローなペース。日が高くなって出て、日が高い内に宿入りするようなヒッキー的旅行です。w

贅沢な時間でした。ただ、両親の老いは部屋を同じにして過ごせばより増して実感。いまの朝ドラじゃないけれど、いつか別れの来るときもあろう。
日々、この種のことに関してはきわめて日本的な情緒を持っている自分を実感しますね、最近は。素の自分は極めて古風な日本人的だと思うのだよ。

 携帯で写真を撮るなんて似合わないことをやりましたよ。今回の旅行で。
ウィンザーホテル前(宿泊地ではありませんw)
ウィンザーホテル前から見る洞爺湖
昭和新山
洞爺湖畔
洞爺湖畔(2)
贅を尽くした夕食をいただきました。スミマセン!
デザートなど。こんな贅沢は年に一度だね。
洞爺湖畔での花火大会
同上(2)
特産?白クマラーメン
オジサンのジサマ、バサマでごぜえます。

2010年9月19日日曜日

My Playlist

My Playlist

取材内容を原稿化する中で

少しずつ取材先で得たお話を原稿化する作業をしていく中で思いました。
この6月から6週間受講した新しい公共の具体的な一環、「社会的事業就業コース」の勉強のこれは一種の『卒論』的な側面もあるな、と。
目的は手伝っているNPOの事業の手伝いですが、昨日に書いたとおり目的と常に解りやすく合致するNPO団体や機関ばかりではありません。
でも、何らかつながる点はあるし、ヒントもある。
まぁそれを観念的に広げるとすべてのNPO的なものと接点がある、という話になりますが、そこまで行くとちょっと広げすぎかもしれませんので。

取り組みのいろいろな場所や取り組みの違い、場の雰囲気や場そのものの作られ方にも各団体の代表や職員の哲学が垣間見られ、そういうものも含めての支援なんだろうなと振り返る中で思います。

話を戻すと、学習の場では感想はあっても卒論は無かったので、それに見合ったことを今やっている気がすると。
そんなことを思っている次第です。

2010年9月18日土曜日

眠り病?

本日は堤未果さんと伝説的人物、むのたけじさんの講演及びシンポに参加したのですが、最初に登壇し講演された堤さんのお話の途中で不覚にも船を漕いでしまいました。あれほど楽しみにしていたのに、何てことだろう!
堤さんの喋り口が非常に落ち着いていて柔らかだったせいか、癒しの音楽のように聞こえてしまったのか。話している内容はシリアスなはずなのに、どうしたものかと思いましたね。朝日ニュースターで放映中の「デモクラシーNOW!」のキャスターも務めていた時期もあり、ずっとファンだったのに。

実は、その前に昼飯を食べてしばらくの時間も腹がくちたら、目をつぶってしばらく船を漕いでいたのです。呑気すぎる!と怒られましょうが、まぁいつも昼時は確かにそういうところがあるのですが。本日は自分にいささか呆れましたよ。

次の95歳になったむのさんの元気なこと!獅子吼のような叫び?は身体的には強烈な刺激となって目覚めさせられました。いや~。凄い。本当に元気です。

(お二人の話はここだけの話、ちょいと後で聞き返し。。。)

その後本日最後の取材。今日はフォロワーとしての参加。
この3日間、いろいろなタイプ、個性のある場所を見聞出来て、お話もじっくり伺えて有難かったです。
胸に染み入るような言葉、味わい深い話にもいくつか出会えましたし、本当に良い機会でした。
10月から訓練校に通うので後自分で行く場所も1箇所か2箇所でしょうが、本を作る際にすべて内容に関して機を同一にするかどうかということはまた別ですが、個人的にはとてもいい機会を得た、というのは間違いないです。
具体的に出会いに行って、思いを伝え聞くというのは自分にとっても大事なことでした。1回の取材とはいえ、もっと深めた部分まで聞くこともできたのでは?という反省点は多々ありますが、普通の対話もインタビューと考えれば、すべては応用編かもしれません。いろいろ伺ったことはヒントとなり、今後の何ものかに繋げていければと思います。

とはいえ、やはり緊張もどこかあったか。あるいは秋らしくなり、夏の緊張感が解けたのか。舟漕ぎ時間がやたらに多い此の頃なのです。
基本的に眠り病なんだよね。

2010年9月14日火曜日

911が過ぎて。



首相の続投が決まりましたね。今後の政治運営は大丈夫かな?
自民党としては与し易いでしょうね。

今回の代表選挙はテレビなどのマスコミとネット世論が分裂していた、というのが私の印象で、結果はマスコミの伝えた印象がサポーターにも影響を与えたという感じが大いにします。
期待薄ですが、菅首相には市民派だった自分を取り戻して欲しいですね。(どう考えても期待薄ですが)。

生意気な前段の文章でした。
訓練校から連絡がありまして、不肖、10月5日より再び私、職業訓練に戻ります。
我が恩師の毒舌で云えば、「これも新しい公共事業だな」だって。
そうかもね。生産労働には従事しないけれども、公共事業かも。少なくとも、委託校にとっては公共事業だな。
でも、しっかり勉強します。はい。

木曜日以後、3件取材があります。そちらからも良い刺激となるお話を伺えれば有難いな、と思います。

2010年9月10日金曜日

やばいかも?

今回の基金訓練は率直に言って受からない人が一人か二人なんですけれども、何かその中の一人になるような気がしてます。

行ってみたら驚いた。かなりの数の方がやけにリラックスしている様子。
すでに訓練生としての一体感の一部が垣間見えているかのよう。
こんな雰囲気は今までいろいろ訓練試験受けてきたけれど(苦笑)、初めて。
なして?もしかしたら、他の基金訓練が終了してから今日受験したところに移って来ている人が何名かいるのかもしれませぬ。

横耳で聞くと結構社会人としての風格がある感じの方ばかり。
(そう見えただけかもしれませぬが)。

落ちたら「丸出だめ夫」の写真、こちらのブログに貼ります。

面接の最後でワード、エクセル、上級を目指すのであれば、必要経費以外で別に教材購入できますよ、自習も出来ます。講師も対応できますからぜひ頑張ってくださいなんて。緊張感が無い(嘘、嘘。失礼!)面接の最後に喜ばせ。もしも喜ばせだけだったのなら、「魔太郎がくる」の写真も貼ろう(笑)。

失礼いたしました。(^_^;)

2010年9月9日木曜日

簡単ですが。。。

NPO法人の関係で、このところ関係団体、関係機関の取材にうかがわせて戴いています。
皆さま、誠実なお答えをいただき感謝しています。
私は自身の問題としても別の意味でもいろいろな刺激をいただいています。
つたない取材にお応えしてくださった関係諸団体の方々に改めて御礼を申しあげます。
明日は改めての職業訓練の面接に行ってまいります。
競争率低いんだけど、落ちたらどうしよう?
立ち直れないほどの倍率の低さなのでありマス(苦笑)。
明日も頑張ってきます。
頑張るという言葉は好きじゃないので、なんとかなるように、なんとかしてきます。ハイ。

2010年9月5日日曜日

ここ2日のツイッターから

昨日はビックイシューさっぽろの3周年記念講演でありまして、4時間近くの会合であったことも含めて、自分自身整理しきれないほどいろいろなことを身に染みて考えさせられた良い1日(その後の友人との時間も含めて)になりましたが、なかなかその会合の様子をレポするには自分の中でまだ客観的になりえないところもあり、一応少し時間を置こうと思います。

そこで最近流行のツイッター。
自分は昨年の9月から「これ」を利用していますが、どんな感じの書き込みしているか、ということでここ2日のつぶやきをコピペさせていただきます。

2010年09月04日(土) 6 tweets ソース取得:




お早うございます。やっと今日は初秋らしい、空が高めの柔らかな日差しの朝だ。例年ならこの空の天気は8月中旬過ぎにはおとずれ、爽やかな気分が嬉しいと同時に、長い冬の予兆にどこか寂しさを感じたものだが、今年は心底、この空と天気に「ほっ」とする。
しかし全国的にはまだ酷暑でしょう。どうかどうか、お身体ご自愛くださいませ。


posted at 07:11:35




気持ちのいいインスト曲が冒頭だ。ウィークエンド・サンシャイン。


posted at 07:12:14




気配を感じ取る能力を取り戻したいものだ(欲しいものだ)。現実生活には役に立たないものだろうケド。現実の枠組みを越えねばならないときにきっと。#gegege(※ゲゲゲの女房を見て)


posted at 07:20:46


ウィークエンドサンシャインに帰還。(※ピーター・バラカン氏がDJの音楽番組)


posted at 08:03:10




私たちは今、自分が人生でバランスを保っていることを自慢すべきじゃないと思う。バランスを崩すには、うまくいかないことが一つだけあれば足りる。(カーラ・ブルーニ仏大統領夫人)。


posted at 08:03:42




2010年09月05日(日) 3 tweets ソース取得:




昨日のビックイシューとエンパワーメント的な話しとなったNPOのシンポを聴きながら、自分の中の「足りなさ」を客観的にも情緒的にも両面で感じた。年齢を過ぎ、良かれ悪しかれ自分の個性というか癖は直らないだろうが、極力白紙で人の語りを(言外の意味も含め)体感しながら聴いていかねばと思った


posted at 10:30:19




価値観は変えられなくても、考える過程の方法を学ぶことは出来る。今からでも遅くない。そう思いたい。それだけでも先行きが見えない時代でも幾筋かの希望が垣間見えてくる。。。


posted at 10:32:35




RT @komachan9: RT @syashingo: 【拡散希望】定期的に湯浅誠さん(@yuasamakoto)から送られてくるお知らせがすごくいいです。個別に配信登録することも出来ます。ツイッターってこういう使い方ができるから便利 http://bit.ly/dh94JD


posted at 10:47:37

※RT=リツイート、人のつぶやきをいわば、そのままコピーする機能。フォロワーに広げたいメッセージや自分が共感するつぶやきなどをマークして自分のツイッターにメモるような感じ。

湯浅誠さんからのお知らせブログ

湯浅誠さんのほうから全国での社会的課題を考える会合や、市民活動系の講演、シンポジウム、映画、その他アート情報などの最新情報を伝えるブログを見つけました。こちらでもご紹介させていただきます。

湯浅誠からのお知らせ

直接のメール配信も受けられる様子。まずはブログを覗いてみてくださいませ。

2010年8月31日火曜日

NPOの質を問う-別刊朝日新聞(4月23日分)

NPOの質を問う (10分)

≪ゲスト≫
工藤泰志(言論NPO代表)
田中弥生(独立行政法人・大学評価・学位授与機構准教授)

≪司会≫
坪井ゆづる(朝日新聞編集委員)

鳩山政権は、参議院選挙マニフェストのたたき台に
「新しい公共」の概念を加えました。

「官が独占してきた領域を公に開き、
新しい公共の担い手を拡大する」とし、
NPOなどの役割拡大に期待を示しています。
しかし、行政の下請け化が進むといわれるNPOが、
「新しい公共」の担い手になることはできるのでしょうか。
そこで、今回は、NPOの現状と問題点、
またこれからのNPOのあり方について
「エクセレントNPO」を提唱し、改革を訴える工藤氏と
日本や諸外国のNPOの支援、研究を行っているの田中氏と考えます。
(Yahooビデオの解説よりコピー)

2010年8月30日月曜日

支援試論

 斉藤環の「社会的ひきこもり」(PHP新書)のような本は10年経って状況が多少変わっている面があるとはいえ、基礎概論としては良く出来た本だと思う。思うけれども、微妙な違和感が残るのも事実だ。医療的アプローチ、福祉的アプローチ等々あるだろうが、常に突き詰めると出てくる問題は、人間が人間を「かのように」切り取ることが出来るか、ということだ。人が人を客体のように扱えるか。というきわめてセンシティヴな問題である。ここは本当にデリケートなことで、一歩間違えるとパターナリズム(父権主義・温情主義)に陥ったり、研究者が客体として当事者たちを観察する、という罠に陥ってしまう。「支援者」と呼ばれている人が「仮に」自分の善意をほとんど疑っていないとすれば尚更危ない。

 そのような次第で、支援者は常に、自己のアプローチが相手方にどういう影響を与えているのかについての絶えざる検証が必要となるし、ヨリ以上に大事なのは支援している主体としての自分自身を疑ってみる作業であろう。自己が行っている支援の意味・譲れぬ思いを基盤に持ちながらも、自己の視点を離れたところで自分自身が、何らかの意味で「揺れて」いなければいけないのではないか、と私は思う。

 磐石として揺るがぬ支援者ほど怖いものはない。そのように思う。

 仮にひきこもりという定義があり、研究し、追求してもひきこもりから脱出した人たちが生きる社会がすでに半分病んでいるというケースもありうる。率直に言えば、ひきこもりから脱出しても仕事を探す段階において、すでに社会がその人を「浦島太郎」扱いすることで状況から抜け出せなくなっている、というケースも考えられよう。

 そのような際、医療や福祉の支援のアプローチはまた別の観点を持たねばならないだろう。医療者や研究者、支援者等がひきこもりは「弱い人たち」「手を差し伸べねば動かない人たち」と一般化して考えているかどうか。実際にはわからない。そこにもこころ医者、PSW,カウンセラー、NPO支援者うんぬん、うんぬんと一般化された名称として手を差し伸べる人たちが登場するわけだが、その人たちの心情の中にも考え方に濃淡があるはずである。それは他の支援が必要な人たちの種別(この表現も良くないが)の世界にもあるはずである。

 かくして、あらためて、人は人を客体として扱えない、というきわめて困難な、そして人間の本質に係わる問題が立ち表れる。そして時により、知らず知らず人が人を客体として扱いかねないのが、現代における「エンパワーメント」云々で表現されるカウンター的な真っ当な対抗(抵抗?)概念が現れる素地でもある。

 そして率直に言えば、当事者が「エンパワーメント」を高める、というのも言葉で言うのは簡単だが、現実にはそのような意識と結果が短兵急に立ち現れないのも事実だろう。しかし、やはりこういわねばならない。当事者はそこで折れてはならないと。

 支援する立場の強さについ繊細さを忘れ、研究者的アプローチやパターナリズムアプローチに陥り、そしてそのような支援の枠組みに追随するよりは、ささやかでも抵抗の表現をするほうが健全であろう。
 しかし、当事者はその「ノン」の姿勢を示すのが怖いのも確かだ。そこで支援者の援助の暖かさが冷えた関係に変質するのではないか?と不安になるからである。

 医療的アプローチにせよ、NPO的な世界にせよ、その世界観の中に一筋にハマルのはどうやらある種のドツボに陥る危険性もありそうだ。それゆえに、関係性の固定化の結果から生ずる長く引きずる葛藤の罠に陥らないためには、支援者・被支援者の関係性の果てに結果として生じてしまった上下関係を浄化するために、被支援者のつらい自己表現と、それを誤解して受け止めた場合の支援者との関係を調整するための「第三者」が必要となるのではないか。最近そのことを良く考えている。

 いずれにせよ、人間と人間の関係だ。どのように知的で精神的に健全な人間であっても、自分のアプローチを検証されきれないという事態はあるだろう。
 繰り返しになるが、肉体面はある程度ありえるかもしれないが、心理面に配慮せねばならない援助と被援助の関係において、援助者は相手の人を客体と見ることはできない。その点は絶対である。

2010年8月26日木曜日

北海道NPO情報最新号

北海道NPO情報最新号(PDFです)

自分のポイントは「【札幌開催】の就労・スキルアップコース(福祉コース)」だったり(^_^;)

本日は「反貧困ネット北海道」の学習会に参加してきます。

2010年8月22日日曜日

ゲストをお招きしてユーストリーム実験

 今回は映像配信実験としてツイッターのフォローさせてもらっており、友人でもあるハイロウさんをお招きしてライヴ動画配信サイト「ユーストリーム」の配信実験をしてみました。ライブでも配信しましたが、録画もしておりますので以下からクリックして宜しかったらご覧下さい。(109分とやや長尺ですが)。

USTREAM 録画

 ハイロウさんのブログでご自身が「まだまだ」という感じで書かれておりますが、どうしてどうして、今回は私のほうが自分自身に対して課題を多く実感しました。ありがたいことに、今回はハイロウさんの友人がライブ中継にチャット参加されたこともあり、やはり、いまこの場での喋りが「届いている」「配信されている」ということが初めての体験で冷静さを少し失ってしまったのではないかと思います。視聴してくれていることのあり難さの中に埋没してしまったのは聞き手、語り手としてはまだ、「なっていなかった」な、と思います。改めて聴きなおしてハイロウさんの伝えたかった点をその場でちゃんと受け止めていなかった部分も発見しました。
 今後の反省点です。申し訳なかったです。

 そしてハイロウさんが準備されている状態ほど、自分が配信に際して準備していなかったのだな、ということも録画を聞き返して実感したことでした。

 自分のことばかりは止めましょう。
 ハイロウさんのネットメディアのかかわり、ipadを実際お持ちいただいての使い勝手とこの作品の出来るまでの過程、ツイッターやブログの役割などの話を聴きながら、いかにハイロウさんという方がソーシャルメディア等々に意識的に係わっているかが分かり、大変勉強になりました。(これは配信した以外の雑談の中でもいつも教わることです)。

 それだけ意識的に係わっておられる方だけに、今後このようなメディアをどう活用していけるのか、逆にその限界はどこか、等々アドバイスやインスピレーションは受ける機会を今後もいただければ、と思っています。

 ぜひハイロウさんには今後もこのような形で協力をいただければと思いますし、良ければ他にもこのようなネット配信等に係わってみたいという人があれば大歓迎でございます。この1年くらいの間にリアルに意味ある出会いも増えましたし、別の角度からも学ばせていただいている人からそれを「配信していく」というチョイスが一つ生まれたともいえると思います。そのようなフォーマットが面白いという方があればお付き合いいただけると嬉しいです。

 すると今後、私もかたちを二つきちんと考えたほうがいいかもしれません。ちゃんと「聴く」という流れと、あくまでも「雑談」という流れと。長い目で見て、その両方が出来たら理想的ですね。夢のような展開といえるかと思います。
 

2010年8月19日木曜日

宮本太郎 『生活保障』書評



 この1月にNHKニュースのシリーズ「無縁社会」ドキュメントの中でSANGOの会も紹介されたが、そのプリ取材の際、記者から聞いた話で印象に残るものがあった。一つは政策的な支援を持たない35歳以上のひこもり者が相当数潜在しているのではないかということと、職場を離れざるを得なくなった40歳過ぎの人たちが居場所を持たず、再就職先を得られぬまま相当数ひきこもりを余儀なくされているらしいということ。社会的な体裁を重んじる世間の傾向に抗いがたく、中長期に渡るひきこもりの人たちと同様に手段を持たぬまま呆然とひきこもりに至ってしまった人たちが同列に浮かび上がる。そんなイメージを持った。その取材の成果が「無縁社会」というキーワードのシリーズの一環となったのは個人的にはいささか暗いイメージとなってしまったなと思いもしたのだが、最近の100歳以上の所在不明者の「消えた高齢者」問題の出現により、まさに「無縁」のキーワードは時代と完全にリンクし、どの現役世代の未来展望をも考え合わせると、今や誰にとってもこのキーワードを無視できなくなった感がある。

 さて、本書・宮本太郎氏の『生活保障』である。サブタイトルの「排除しない社会へ」という言葉に込められた思いがこの社会福祉政策学者の時代の渦中の中における祈りのように響く。今までのやり方では通用しなくなった戦後社会保障政策の沿革を述べた上で、新たな時代の社会保障政策について特にヨーロッパ、北欧の社会保障政策などを紹介しながら格差社会に苦しむ普通の日本人へ向けた渾身の書となっている。
 この本の特徴は『生活保障』という古風ながらも耳新しい用語を使うことにより、仕事で収入を得る、いわゆる「現役世代」の福祉に焦点を絞っているところが画期的である。かつて新書などにおける福祉啓蒙書はおおむね高齢者福祉の論点(医療、年金、介護等)が中心であった。しかし特に今世紀に入って明瞭化してきた企業経営の転換に伴う労働環境激変の結果、労働形態の変化や失業により生じた格差や貧困、医療や年金などの企業内福祉からこぼれ落ちる非正規労働者の問題などを踏まえて、”失業者対策”や”就業訓練”についてなど、「雇用の保障」について真正面からきめ細かくかつ総合的な論考がなされた政策提言となる新書は、待ち望まれながら意外にも今までの日本からは登場しなかったものである。つまり、それだけ雇用と労働の問題はシリアスな局面にあるといえよう。

 産業の変化と労働形態の多様化で働く人たちの分離が例え進んだとしても、人が人として生き生きと存在し、過剰労働にあえぐことなく適切に働いて生きていくことは、今までのシステムが通用しなくなっても当たり前の人間としての権利のはずであり、宮本氏はその”当たり前の再構築”に真剣な論考を深める。人は人生において何らかの過剰なストレスや人間関係において「心の弱まり」に陥ることがある。そのような条件に陥った際においても雇用や生活の保障、人の居場所ありようを考えていく。その際のキーワードは社会からの排除ではなく、社会が人を包み込んでいく「社会的包摂」の概念である。この本のもっとも惹きこまれるところはこのような概念を抽象論で落とし込むことなく、この社会での現実適用を真剣に考えている点にある。難しく絡まってしまった糸を丹念にほどいて行くような筆致が、この本全体を貫き、読む者に著者の誠実さと真剣味を感じさせる。

 私も社会問題や社会的事業等に関するシンポなどに参加するとすでにこの本をベースに各種の課題が考えられているなと思うことが多い。しかし、その個別の問題も現実の壁に阻まれおり、現状ではなかなか難しい状況にあるのが分かる。同時にこの本に描かれる方向性が道筋だというのも社会保障研究者や政治学者たちのベーシックなコンセンサスになりつつあるようにも思う。
 阪神大震災の折に発揮されたボランタリー精神のように他人に対する思いが篤い日本人が、政治や行政が間にはいるや途端に相互不信に陥ると宮本氏は論じているが、消費税導入論議も政治の側におけるお粗末な結果となったのは実にむなしく、氏の論考を証明している。

 「社会の風景が変わる」ことをわれわれ日本人が本気で望んでいるのかということも考える余地が大いに必要だし、「格差」は経済の格差のみならず「問題意識の格差」でもあるのだな、としみじみ思う。しかし繰り返しても良い。この本で書かれた宮本氏の思索と政策提言は当面、全く古くはならないはずだ。多少専門的で読みづらいところもあるかもしれないが、現代日本社会保障論の古典的テキストがここに新たに一冊生まれた。これは請け負っていいと思っている。

PS.
 一度内閣参与の職を辞した湯浅誠氏が参与職に復帰し、失業者のパーソナル・サポートのシステム構築アドバイサーとして働いているはずであるが、その後の進捗状況は分からない。ただ、パーソナル・サポートも現状では貧困に陥る状況を押し留めるサポーターの印象があり、本書で宮本氏が強調するアクティベーション(積極的就業支援)の理想からは少し遠いかもしれない。しかし、方向性は同様のものであり、今後このシステムがより洗練強化される状況を望む者であるが、現政権の休眠状態(情報が前内閣に比べても著しく届かなくなってきた)を見ると、そのポジティヴな動きの第一歩も危うく感じてしまうのが個人的には危惧の念を持つところである。

2010年8月16日月曜日

自分用メモ 今後のシンポジウム、勉強会等。

■8月26日(木) 18時30分より:反貧困ネット北海道 連続学習会【8月学習会】会場 札幌市教育文化会館301号室
◎テーマ「精神障害と貧困」講師 鈴木浩子さん(植苗病院PSW、日本精神保健福祉士協会理事)
参加費 500円 
http://www015.upp.so-net.ne.jp/hanhinkondo/

■8月23日(月)~28日(土)
札幌学院大学経営学部公開講座 「ソーシャルビジネスが社会を変える」
開催日時 8月23日(月)~ 8月28日(土) 連続6日間
9時10分~12時20分 D301教室
コーディネーター:河西邦人(経営学部教授)
無料。事前申込不要。

8/23(月)→ねおす専務理事・宮本さん「社会的起業な生き方」
24(火)→グリーンファンド事務局長・鈴木さん「エネルギービジネスの経営戦力」
25(水)→ビズカフェ石井さん「社会を変える!を仕事にするには?」
26(木)→元NPO法人さっぽろチャレンジド・現札幌市市民活動推進課長・加納さん「ソーシャルビジネスで成功したいあなたへ!」
27(金)→北海道NPOサポートセンター小林さん「社会起業家稼業30年と北海道NPOサポートセンター」
28(土)→地域生活支援ネットワークサロン事務局顧問・日置さん「地域の課題を宝に
http://www.sgu.ac.jp/news/j09tjo0000001gcn-att/j09tjo0000001glh.pdf

■9月3日(金) 北星大学 社会福祉夏季セミナー「現代のわが国における生活保障のあり方とその課題」
受講料:2,000円(学園生:1,000円) 申込:8月20日まで。
http://www.hokusei.ac.jp/research/lifelong_learning/seminer01.html
9:50 開会式
10:00 【基調講演 I】『社会福祉の生活保障機能を考える』宮本 太郎 氏(北海道大学 大学院 教授)
11:15 質疑応答   司会/杉岡 直人(北星学園大学 社会福祉学部)
11:45 昼食・休憩
13:00 【パネルディスカッション】『生活保障から見る実践現場の課題』
司会/佐橋 克彦、伊藤新一郎(北星学園大学 社会福祉学部)
(1)『就労・雇用の観点から見る生活保障』重泉 敏聖 氏(就業・生活応援プラザとねっと センター長)
(2)『医療サービスの観点から見る生活保障』星野 由利子 氏(札幌麻生脳神経外科病院 医療生活相談室長)
(3)『介護サービスの観点から見る生活保障』芦崎 祐公 氏(特別養護老人ホーム青葉のまち 相談支援課長)
15:20 休憩
15:35 【コメント+総括討論】コメンテーター宮本 太郎 氏(北海道大学 大学院 教授)都築 光一 氏(岩手県立大学 社会福祉学部 准教授)
16:15 終了

■9月4日(土)  14時半:【ビッグイシュー札幌販売3周年記念講演会・シンポジウム】北大学術交流会館にて
講師:ビッグイシュー日本 佐野章二代表 コーディネーター:北大 中島岳志准教授 入場無料・事前予約不要
http://www.bigissue.jp/news_kakudai04.html

■9月18日(土)14時 【堤未果・むのたけじ札幌講演会】
-現代の「豊かさ」と「その裏側」を考える-
会場:共済ホール 参加費 1,000円
主催 堤未果・むのたけじ札幌講演会実行委員会事務局 医療九条の会北海道(011)758-4585
http://iryo9jyo.dosanko.org/

などなど。なかなか興味深い内容。全て参加するのは難しいですが、出来る範囲で極力参加したいと思っています。特に、堤未果&むのたけじ氏の講演会は見てみたいものです。「むのたけじ」さんという名前はほとんど伝説化してますからね。失礼ながらまだご存命だとは思わなかったです。これを機会として逃すわけには。堤さんも同様です。なかなか北海道に来られることは無いでしょうし。

2010年8月10日火曜日

グダグダUst実験。

 今流行り?つつあるかにみえるユーストリームを録画実験してみました。内容はグダグダ、歯切れ悪い喋りですが、おヒマな方は視聴してちょ。



social janitress 08/09/10

(PS.つまらないよ。眠くなる。途中から生意気そうだし。42分グダグダ)

「新しい公共」シンポ感想?

(こちらは本格的にボロボロ。約15分。”やっつけ”です、申し訳ない!)

2010年8月8日日曜日

一次産業に関する矛盾

 昨日は夜遅い時間から間歇的に鉄砲雨のような激しい雨がありました。間隙を縫って友人宅から傘を差しながら自転車で帰ってきたのですが、花火大会のように光るわ、雷音が割と近くで鳴り響くわ、雨が滝のようにふるわで大変。

 この2~3日猛暑でしたからねぇ。その反動はあったと思います。今日も雨がひと時激しく降ったし、今はまた結構気温が高い。

 そのおかげか、今年はおコメの出来が大変良いらしく、北海道は全国でも最高とのこと。豊作は喜ばしいはずですが、新聞記事は決まったようにすぐ「不作だった昨年から一転、豊作の今年は米価下落が心配」と続きます。
 素人からすれば、本来作物がその年良く出来たなら喜ばしい話。豊作踊りでもして道民みんなでお祝いすべき話ですw。しかしそうはならないのだな。江戸時代じゃないからね。市場経済は余るぐらい米が出来たら市場価格は安くなるという論理。
 
 素朴になんかおかしくありませんかね?普通に会社だったら業績が上がってボーナスだ、ベースアップだ、ってなる話でしょうに。みんなでお祝いして新米を大いに食するべきでしょうに。

 同日の夕刊には秋刀魚が道東沖に来なくなり、漁民の人たちが大変だとの話あり。明暗のコントラストなのに、どちらも困る構図のストーリーになっています。農民も漁民も。

 「これからの日本は一次産業」「北海道は日本の食糧基地」などとおだて上げてもこういう社会構図では結局どうしても夢を描けない、という話になります。
 もしも一次産業が大事、北海道を食糧基地にしたいと思うなら、見合った今までに無い政策を立てる必要がありましょう。市場任せにするのではなく。

 サブプライム問題が起きる前、物凄い勢いでローンから逃げたカネが石油や食糧にたかり、一次産品が高騰し庶民も政府も真っ青になったのはたかが2年ちょっと前の話です。米粉パンとかね。でもすでにそんな事態は忘れられたが如し。

 いいのかな~いいのかな~いいのかな~。
 ん~、どうなんでしょう、一色さん?

2010年8月5日木曜日

SANGOの会・8月1回目例会

SANGOの会ブログに8月3日の例会の模様がアップされています。

農業は私の恩師からも何年か前から人間の自然として一番真っ当、とよく言われ、「自給自足のススメ」を囁かれるのですがね。
やはり躊躇がありますよ。現実的な問題も当然含めて。

ただ、現実原則のみに意識を縛られず、自由に発想を広げれば、
行き着くところに自給自足農業というのは十二分にアリだとは思っています。
ヒキコモリストの遺伝子の一つには元々農耕の民の遺伝子があるような気もしたりして。
昔のフィルムなど見ると、本当に農村の家族の暮らしは寡黙で夫も妻も常に黙々と何か手仕事なりなんなりしている。

冬は「陸の孤島」なんて言葉があったりして、文字通り山村農家は引きこもらずにいられない(でないと死んでしまう)状態で。おそらくそのためもあって「漬物文化」なども発展したのでしょう。

例えば今では北海道の道路整備事情は一頃に比べて著しく、札幌、石狩~浜益なんてスイスイ、ラクラクですが、昔は石狩から北にある厚田と浜益の間は冬は隔絶されてたもんです。通行は船で、という時代もあったんですよね。ほんの30数年前のことです。道路整備の事業というのはその意味ではスゴイ。

ただ、その農村的なるものがまた、長き思春期を過ごした(特に80年代いっぱい)時代にはイヤでイヤで仕方なかったのですね。フィルムで観るだけでも。
あるいは教育テレビの「明るい農村」とか。

でも、今では自分には出来ないと思っている人が多数派であるにしても、農業に対するいわれない偏見はすでに無くなったのではないでしょうか。質実で地に足がついた時代になってきた。そんな気がします。
園芸市に来る若い人たちもどんどん増えている様に思いますし。

2010年8月3日火曜日

ONE SHOT ONE KILL 〜兵士になるということ

 
 本日の昼のSANGOの会に参加する前に見てきた映画です。今週の金曜日まで、午前中1回のみの上映ということもあり。
 一言で云うと、アメリカ海兵隊員に入隊した新兵たちの訓練の様子を描いた作品です。「自由と平等の国」?アメリカにおいて、軍隊についてはその理念の治外法権にあることを明かすようなドキュメンタリーでありました。

 徹頭徹尾、昨日まで民間人だった若者が入隊したその日からキレタ状態の上官から徹底的に怒鳴られ、それに対する答えもほとんどスクリーム(叫び)に近い状態で応じなければなりません。「声を出せ!」ってシツコクシツコクやられるのでね。
 基本的に戦争が続いている国の当事国としての軍隊である、という認識に基づくのかもしれませんが、戦前の日本軍隊の「精神主義」を笑えません。二昔前の街頭での雄たけびを上げる新入社員研修、大学応援団の先輩から後輩の特訓どころの騒ぎじゃない。

 普通に見れば完全なる狂気です。狂っています。
 入隊した者で脱落した人間がいたのかは明らかになっていませんが、もとより普通よりちょっと困っている程度のアメリカの庶民の若者にとって海兵隊員は国の誇りであり、同時にそこで時を過ごすことは大学まで進学させてくれる社会的キャリアを与えてくれるところでもあり。その意味では日本の自衛隊にも近いのかもしれません。しかしそこで与えられるものは、彼らが望むデシプリン(規律)の精神じゃなく、合理性を失った、精神主義とさえもいえないような世界です。



 入隊する若者自身が自分自身の自己変革を願う、という動機の側面もあるかもしれませんが、上官たちに朝から晩までしつこく雄たけびの命令を受け、スクリームの応答をする姿は、もしかしたら戦前の日本の軍隊にも負けじ、あるいはそれを優に勝っているかもしれません。
 日本が負けたとき、アメリカの兵隊さんの余裕なり明るさなりに日本人が魅了されたところもあると聞き及びますが、今も昔もアメリカの新兵さんの入隊訓練は同じなのでしょうか?仮にそうなら、日本軍隊のみが精神主義とはとても思えませんね。
 あるいは、現代のアメリカ軍隊のほうが昔に比べて精神の余裕を失っているのかもしれないという仮定も立てたれます。だとしたら、アメリカ軍隊の士気の危機ぶりは相当なところにまで来ているのかな、と思ってしまいましたね。

 先週見た「アメリカ戦争する人びと」のいわば同系列で、こちらは軍隊の入隊訓練のドキュメンタリーですが、いずれもアメリカの暗部をえぐっています。

 もし、唯一この”アメリカのヘビーなリアル”が価値があるならば、この新兵訓練の様子を映像をじっくり寄りながら映しても良しとした「公開する態度」と、両作品とも日本人の監督がとった作品である、という点でしょうか。よくぞやった、という感じです。

 政治の大きなかけひきの裏で、小さなミニシアターではリアルなアメリカの一面を見ることが出来る。そして考える事ができる。これは大きな意味あることだと思います。

 そういえば上映前にこの作品の監督が挨拶を述べる、という意外なサプライズがありました。現在キャンプシュワブ基地に滞在する海兵隊員とつい最近話す機会があったとのこと。アフガンでの戦闘に備えて日本全国の基地を気象条件や地理的条件に合わせて移動しながら訓練しているそうです。

 私はこの映画を観ながら軍隊の狂気や戦争をしたがる馬鹿な人たちを嗤うことが出来るかもしれませんが、それを押し留めることが出来ない点において、未来の世代から「野蛮人の時代」に加担した人間の一人として記憶されることでしょう。未来から軽蔑される人間のひとりとして。忸怩たる思いがありますが、致し方ない。罪を背負って生きるしかありません。。。

2010年8月1日日曜日

広報ー「新しい公共」シンポジウム

●「新しい公共」シンポジウム
日時:2010 年8 月10 日(火)18:00~
会場:はっさむ地区センター 札幌市西区発寒10 条4 丁目(JR 発寒中央駅向かい。)
会場電話011-662-8411
入場料:無料 参加希望者は直接会場にお越しください。
プログラム
基調講演 18:30~19:15 寺脇 研 京都造形芸術大学教授
シンポジウム 19:15~20:30
シンポジスト
鈴木 寛 文部科学副大臣
逢坂誠二 内閣総理大臣補佐官(地域主権・地域活性化及び地方行政担当)
寺脇 研 京都造形芸術大学教授(元文部省官僚で「ゆとり教育」を推進)
山口二郎 北海道大学大学院教授
コーディネーター 中島岳志 北海道大学大学院准教授

●わが国の教育政策を考える 星槎国際高等学校主催 星槎大学共催
寺脇 研 氏 講演会 「教育はどう変わるのか」~「コンクリートから子どもたちへ」の視点から~
日時:2010 年8 月10 日(火)12:50~14:20
会場:星槎国際高等学校札幌学習センター3 階 札幌市中央区北5 条西12 丁目16
参加費:無料 (定員70 名)
問い合わせ電話(星槎国際高等学校) 011-208-3111 fax011-281-9611 mail:sapporo@seisa.ed.jp

だそうです。参加しようかと思っています。

これは北海道NPOサポートの8月号通信から知ったのですが、うむむ。何だか熱そうなメンバーのてんこ盛りですね。おじさんのような醒めたタイプも熱くなってしまえるでしょうか。。。(ただでさえ暑い日日にねw)。

ところで、9月から始まるNPOへの職業訓練ですがこの回は20名で福祉系NPOへの就業希望ということらしい。少し方向性に修正が加わりましたかね?(詳しくはリンクを貼った通信8月号で確かめてください)。

2010年7月31日土曜日

無茶苦茶身体がだるいです。

今年の気象は異常だとしか思えませんね。
全国ニュースの天気予報を見るだけで頭がくらくらしそうです。
本日は午後あたりから晴れてきたと思ったら滅茶苦茶暑い。
冷麦食べて、モナカアイスを食べて昼寝。まずい、これは数年前のメタボ症候群に近づく道だ。
起きたら腹がもたれて。やはり食べなれないことをするとイカン。
でも、今日はとにかく本能に従いたい日でした。とにかく何故だか知らないけれど。
階下に降りたら、母親鬼の形相。あさってまで電化製品の無料回収業者が来るとか。たまには家の手伝いをしろ、と。しかし、親父が古いものを投げたくないので。結局かんばしくない結論しか出てこないと思うのだがなあ。
最近、年とともに母親の直情的な怒りが抑制なくなっている気がします。そろそろ気をつけないといけないですねぇ。
ヒキコモリストの試練は自分の両親を普通に相対化して見て、例えば介護などにもどうかかわれるかですね。(介護の形もいろいろある上で)。

昨日の「反貧困北海道」のシンポは少し茶化した形で書いてしまいましたが、中小企業の社長さんの悩みは本当にシリアスで私も考え込んでしまいました。
特に先端産業とは違う中小企業は大変。誠実な会社運営をされているだけに尚更のように見えました。地域別でない一律最低賃金上昇の方針がきわめて中小企業にとり悩ましい課題であることが分かるだけでなく、ここ最近、仕事がどんどん減っているのにもかかわらず、ほんのちょっと前にも考えられないくらい求職応募が来る、例えば一人採用にひとりしか来ない状況から今は一挙に30人、40人が応募に来る状況に戸惑っている様子でした。

もはや「自由市場」とか「労働市場」とかの限定条件でこの社会の閉塞を何とかできる状況なのだろうか?と素朴な疑問が強まるばかりでしたね。
職業訓練も根本的な問題として職そのものが無ければねぇ。その点もとても考えさせられることでした。

おじさんも顔を出している『SANGOの会』もいよいよブログが出来ました。サイドバーにもリンクを貼りましたので、宜しく。
この社会のアウトサイダーやマイナー扱いをされてきた人たちはいま思えば「炭鉱のカナリア」だったのかもしれません。その声をやっと少しずつ届けようという動きが秘めやかに始まりつつあるのでもあろうかと。

2010年7月29日木曜日

明日は反貧困ネット北海道のシンポ。

昨日は市内の学習会で学園大の先生が雇用問題を語ったんですが。
前提の話はみんな分かっているというところで実際にどうしましょう?という話で〆まして。本当にどうしたらよいのでしょうか?という感じです。最低賃金の引き上げを説いても中小企業は仕事すらない現状。北海道は大変だどう。
機械化の波、世間の嫌われ者となった公共事業と公務員。だけど一つ一つ地方や身近な問題(買い物難民や中心部に集まってくる高齢者の孤立、あるいはサービス現業の分離化、アウトソージング化)を考えると効率性が強まれば強まるほど反対に社会課題が増えて、経済的にはデフレ圧力は強まるばかり。
本当にもつれた糸ですな。

明日は反貧困北海道のシンポに先月に続いて行ってきます。
おじさん、暗いですか?答えは勿論Yes! ええ、暗いですとも。なにせ経産省のデーターでは未だ90年のバブル以降の需要不足が終わってないっていうじゃないですか。
やったぁ、暗いおじさんの時代が主流化しつつあるぞよ。w

冗談はさておき、反貧困北海道では8月の学習会として精神障害者と貧困問題らしい。むしろ関心はあすよりこのテーマにあります。


 ポスターの「おー!」も何となく頼りなげなのがポストモダン以降の運動らしいトホホな相対感覚ですな。ご自分が正しいと思い込んで思いが成就すると楽天的に考えられる時代じゃないよと感じられるイラストで、おじさん的にはとてもフイットするのですが、それが正しいことかどうかはわからんことではあります。

2010年7月27日火曜日

此の頃。

 先週の金曜日、札幌市の官民全体のイベントとでもいうのでしょうか?「カルチャーナイト」という催しに行ってきました。

 とはいっても、基本は日頃夜には開いていない、用事がなければ行くこともないような公共施設などを開放する日、という感じでしょうか。乱暴に言えば。
天気が残念ながら雨模様だったですが、「道庁赤レンガ、市民活動促進センター、市役所、札幌市時計台内」というコースで友人と見学してきました。

 市民活動促進センターでは別の友人が主体者として係り、発足しているNPO法人の過去の通信誌をどうすれば置いてもらえるか聞いてきました。

 その後は札幌市市庁舎内ツアー。文字通り職員の方の引率で市役所内の日頃見ることが出来ない、立ち入れない場所を見学します。
屋上階の展望から市内の歴史を語るつもりだったと想うのですが、折悪しく(良く?)花火大会が始まり、子ども連れさんが多い参加メンバーはあっという間にそちらに釘付け。仕方がないですね、余りにも花火を見るには良い展望なので(笑)。

それから市会議員の席に座って市議会の説明や、自由撮影。同様に市長室見学などをさせてもらいました。子どもたちはおみやげをもらい、夏休みが始まる当日としてはいい思い出になったことでしょう。

その後は隣の時計台に。市内に住んでいると時計台にしろ、道庁赤レンガにしろ入る機会は滅多にありません。時計台があるこのあたりは元々明治には札幌農学校の敷地だったこと、時計台は「演武場」と呼ばれ、どうもミリタリー系の施設だったらしきことなど、札幌市民でありながら、知らないで来たことを学ぶことが出来ました。

二階のチャペル形式の講堂は如何にも明治の面影を感じますが、なかなか座り心地の良いものです。奇妙にまどろみの感じを持ったのは何ゆえか?自分にも良く分かりません。

その後友人と話しながらアイパッドを含め、ネットと市民活動的なものや新たなるコミュニケーションや仕事のあり方など、妄想を含めてあれこれと。知的関心を得たなかなか面白い夕方から夜でした。

あ、そうか。イベントのタイトルも「カルチャーナイト」なんだっけ。そういえば。(^_^;)

そして昨日は共にNPO就業研修を学んだ仲間でNPO法人レターポストフレンドに関心がある男性と同団体の副理事長に引き合わせ。うむ~。風格がある語り口と説明能力です。友人でもある彼が改めてとても頼もしく見えました。

私も会いに来た彼も、事例研修会の講座に来てくれたNPO代表の話を聞くのとそん色ない印象を受けたのではないかな?と思いましたね。まずは良かった良かった。

2010年7月20日火曜日

社会的事業就業研修レポート

 先日の記事で先の6週間研修の修了レポートをリンクしましたが、外からのパソコンで見ると専用のソフトがないと開けないようです。よって、改めてコピペしてこちらのブログに貼ります。
 ・・・しかし、最後の一節の辺り、私のひねくれ者の傾向が現れてしまっていますね。前向きなところで終わらない傾向というか。あと、その日の2時間の中で文書を綴ったのでところどころ分かりにくいところ、破綻している部分があるかもしれません。その点はどうぞご容赦を。

 <研修終了レポート>

 この度の社会的事業コースの訓練がもう終了するということで、自分自身の食い付きが弱かったのか、もう少し自分の中で「これ」というものが掴めなかったかものかな、と残念な思いもあります。現代社会においてNPOで働くこと、ソーシャルビジネスで働くことというのはやはり自分にとってもまだ安定性を基盤とすることが難しい、大変新しい働き方なのだろうなと思います。会計について学んだとき、年度末で収益が正味財産となり、基本的に収益をベースとした発想がNPO法的には無いのだと気付き、とはいえやはり一般の企業のようにニーズの把握とマーケティングが必要であるとなれば、適正なNPOの事業規模はどの程度であるべきかという悩みというか、疑問も起きます。この場合のニーズとは営利企業も行政も拾うことが出来ない生活のデティールにおける生活者の悩みであり、あるいはまた生活弱者の人が持つ困りごとであろうかと思います。営利もコストがペイしないから商売とせず、行政は税金を投ずることができない世界。そこをNPOやソーシャルビジネスが拾いあげ、「利潤」のルールに基づくこの社会に対して、元来の社会の在り方(お互いさまの世界)を提示するオルタナティヴな生活や社会を作る先駆けになるのだろうと思います。

 その意味で私自身この社会の新しい、同時に元来存在したコミュニティの復権の両面に基づく意識を活性化させていただいたわけで、大変貴重な学びの時間を得たと、とても嬉しく感じています。

 しかし、さりながら私自身の受講動機がもともとNPOや社会的事業を行っている法人や団体に就労することにあったわけで、その点では上記の会計理念でもあるとおり民間企業では利潤といわれる部分は来年の社会的事業の継続へ廻すわけで、そこには専従の職員の最低限な確保というところに気付きます。民間企業のように新規事業を目論むために従業員を先に雇って先行投資をする、というわけではありませんから。

 するとそこにはNPOにおいてはどうしても「労働マーケット」は小さいと見るのが普通であるはずです。そこは私自身この講座を通して受講して改めてハッと思ったことでした。NPOで就労するというのは甘いことではないな、と。

 しかしながら、就労実習後多くのNPO団体の方々の事例研修を聞くなかで思うことは利潤追求ルールの社会の中では社会的課題が想像通り沢山転がっているし、その課題は今後の人口構造や世界の経済構造のダイナミックな変動の中でますます増加するのは目に見えているということでした。そして、先に書いたとおり営利企業や法律に縛られる行政では拾えない課題に取り組み、また彼らの当初思い描いた構想を超える新しい課題を前にその課題を「なるほど」と知的に受け止め、解決や新しい課題として新しい事業を始めるような、そんな仕事を楽しめる姿勢と企業のように自分では主体的に係れないことにもかかわっていけそうな可能性でした。

 大きな意味で市場という面では今後NPOが労働市場の大きな一角を占めないといけないと思います。つまりそれはたくさんのNPOが存在している社会であり、そのNPOが競合するよりも各層、各般に渡ってそれらの課題に向き合う多様なNPOが存在する社会でしょう。そのような社会が来るのか?

来ると思いますし、傍観者のように自分がそのようなことを言っていてはいけないとも思います。

 現在の市場社会では異業種交流は別として、やはり同業であれば分断された社会であり、その活動は秘密化され、その会社のCM面のみ、つまり光のみが情報として流布され、不祥事の際に不祥事隠しがわかって謝罪する、というような消費者を幻滅させることが続いています。政治も同じでしょう。職業政治家も。それらは競争をルールの基盤に置いているから、秘密が横行し、社会の中に疑心暗鬼がどこか基底に流れているのだろうと思います。そのような疑心暗鬼が時々社会病理現象としてあらわれているのだろうと私は思います。

 その点においても、NPOの理事長さんたちのお話は非常にオープンで、困っていることもすべてというわけではないでしょうが、明らかにされておられましたし、それゆえにその内部的課題をどうするかという悩みも率直にされていたような気がします。

 NPOのような組織の可能性はそこにあるのではないかとこの6週間を通して、一番思うことはそれでした。ある課題が活動を通して把握される。しかしその課題は自分たちの団体では解決できない。ではそこは他の団体に相談してみようというオープンな感覚。

 NPOが常にいちばん大事にするミッションが自分たちが出来る範囲での「社会的課題の解決」であれば、そのような他の団体や専門機関、時には営利企業にも投げかけられるのではないかと思います。そこに今の経済社会のルールが作り出した経済外問題が広範に広がる社会においての、一番の未来性だし、業種において一番誇れることの一つなのかもしれないな、と思いました。

 2週間の振り返りレポートで私は「NPOにおけるプロとは何か?例えば福祉の専従職員や臨床カウンセラーとの違いは何か?それは自分にはまだ見当がつきません。しかし「思い」だけではいけない。それが何なのか?」と書きました。その答えはまだ明確になりません。

 しかし、上記縷々書き述べたことが一つのヒント程度にはなるかもしれないかと思っています。今更大学に戻って専門的にNPOやソーシャルビジネスについて専門的に勉強するのは不可能ですが、この講座が自分の今後の指標になるのは間違いないような気がします。それが自分の個人的な人生にとって幸せなことかどうかはわからないことなのですが・

2010年7月14日水曜日

ちなみに、です。

 私はもちろん、社会の目に見える現場で働く人たちをとても尊敬しています。
 沢山応募に来る人たちを次々と受け付ける市職員たち、車に乗っていると迷惑に思ってしまう道路で僕らを誘導してくれる道路作業の人たち、ビルの清掃職員、市のゴミを回収する清掃職の人、宅急便を配送してくれる人、意外なほど接客態度が良いネットカフェの店員さん。
 私は彼らは凄いな、偉いなと思うし、自分にサービスしてくれる人たちに本当にありがたいという思いを抱いています。
 逆に自分が彼らの立場でお客や道行く人々がそう思ってくれたら面映くも、とても嬉しいでしょうが。

 かれらの目的がその際に「お金」や「生活」でも、その仕事がいつか何か別の、次元を超えてその人の精神を高みへ持っていく可能性もあるかもしれないとも思います。

 僕が納得行かないのはそれら全体を覆いつくすこの世界のゲームのルールなのです。それを憂いても詮無いことですが。

 僕にとっては自分で望んでやったこととはいえ、学生時代に創価学会に入信してしまい、誤って学生幹部になってしまい、昼夜問わずそのことばかり考え、そのことばかりで動き回った末、20代いっぱい逃げ出したそこでのマインドコントロールが抜けなかったこと。その種の目に見えないマインドコントロールがこの現実経済社会に蔓延しているのではないかと思ってしまうのです。

 創価学会それそのものを批判するとか今はあえてする気もありませんが(政教分離では全然ないことは多くの人が想像するとおりのものですけれども)、ただ新興宗教以外のこの現実世界もひとりひとりの人間に過剰にきついルールを強いていないか?それが疑問です。「働けない人」と「働きすぎで燃え尽きそうな人」の二極分解へと向かっているような。
 だから飛躍すれば、自分が「何故頑張って働かないといけないか?」の理由付けとして「国を愛する気持ち」が徐々に前面に出てくるのかもしれません。こうなれば憂うべきことです。(この場合、自分のために自分が好きで忙しく働いている人は除くべきでしょう)。

 現代社会は僕を含め、情報社会となり、人は観念にヤラレル傾向は強まっています。

 ワールドカップやチャンピオンズリーグで活躍するようなサッカー選手は野生の優勝劣敗の原理で良いのです。私はあすこにヨーロッパ人の野生の本能を見ます。でもそれはそれでよく、そこに現代的な戦略が当てはまるから面白いのでしょう。
 そしてまた、あれほど凄い野性の本能(例えば「ゴールをこじあける」という言葉で象徴されるような)をどこかで自覚するからこそ、ヨーロッパは「社会」のシステムに関心を寄せ、社会保障のルールを合意を得て適用できるのではないか。
 彼らは長く、そして近代では第一、第二の大戦争を、もう極限状態まで行う、という愚行をしてきました。それで自分たちの野性本能にさすがにとことん懲りた、というのもあるでしょう。だからサッカーのようなスポーツに自分の生理を解放し、「ケ」である日常で理性的な社会制度を形成しているのではないかと思われます。
 これが僕の見立てです。

 さて、ヨーロッパから最も遠い私たち日本人は本当に自分の野生に懲りているのかな?私は疑わしいと見ているのですけどね。特に最近の世論というのを見ていたり、政治家の質を見ていますと。

社会的事業就業コースが終わって。

 6週間に渡る社会的事業(NPO、ソーシャルビジネス等)に係る就業希望訓練が先週末で終わりました。そこで得たもの、課題などの具体的な内容は以下に譲るとして、30人のメンバー全員がすべてが無事全員卒業しました。その中では今まで営利企業で普通に営業マンをやっていて、どうも営利企業での働き方に納得がいかない、NPOといわれても良く分からないが、非営利事業という言葉に惹かれて受講したという人、初めからきわめて問題意識が高い人、ニート・フリーター系の人、さまざまでした。
 おじさんはひきこもり代表というわけです。いや、別に宣言したわけじゃありませんが(苦笑)。ただ、NPOとなったレターポストフレンドの紹介は最終日にさせてもらいました。どれだけの人に記憶されたかは疑問ですが。

 今日は市の臨時職員募集、春に続いて初夏の第二弾。今回は国勢調査に関する事務職員募集、55名です。受付にいったらば、まあ長蛇の列。就職戦線の厳しさを春に続いてまたひしひしと身に迫ります。ただ、今回は見たところ女性が7割くらい。男性は割と年配の人が多い。女性のほうが意外にも今の就職戦線は厳しいのか?それこそ仕事があればその種の調査に係わってみたいものです。聞き取り調査とか。ないものですかね~。基金訓練も落ちまくった昨年の冬から今年の冬までの身に染みる寒さを知っている身の人間にやらしてもらえないものかなぁ。
 春は春でまた、たしか100何十人のところに10倍くらいの応募があったんだよね。雇用問題は深刻。

 おじさん自身を振り返ると、仕事をしないといけないとしぶしぶ自覚が高まった30代に二つの課題がありました。一つはまず入職できるかどうかの戦い。もう一つは入職できたら今度は入職先で仕事が継続できるのか?の戦いです。
 この時期、職場は清掃現場で4箇所くらい変わってますね。朝と夜の清掃ダブルワークをしてた時期もありました。社会福祉士の勉強してたときですね。仕事自体は30代だしまだ今より元気だったので、その日その日のやりがいはありましたが、やはり清掃の現場特有の庶民おばさん中心の難しさをしみじみ実感させられるばかりで、余りにも直截な心の中に踏み込む態度の人と人事管理の問題に最終局面でぶつかり、一箇所で続けることは無理でした。清掃の仕事は人事管理が大きな課題でそこがクリアできれば精神健康上もいいんですけどね。ただ、ルーティーンワークが多く、どうしても自分の頭で考え、クリエイティヴな要素はないから、そこで結局人間関係や、人間の感情問題がストレートに露見していき、伝染していくんですよね。

 40代になり、職業訓練も含め、やっと社会保険労務士資格を生かして国民年金関係の仕事に就いて安定するはずでしたが、そこで自分でぶち壊し。本当に自分自身を疑いましたね。

 上記の話に戻りますが、いまの競争社会では別に「NPO」など名乗らなくとも、却って会計上「利益」を持ってはいけないNPO法上の法人では雇用を拡大できない要素が多いわけで、社会の格段・各層においてNPOが多様に誕生しないと雇用は増えようがないと思います。そこが自分でもNPOに可能性を強く感じつつ、悩ましく思うところでした。
 NPO的なものが「未来の可能性がある仕事」だと学んで実感しても、それが「直近的な未来」なのか「まだ見えない遠そうな未来」なのかは見通しがつきません。
 少なくとも、鳩山元首相の退陣により、現在砂漠のオアシスは蜃気楼のように遠のいた気がします。

 個人商店のような小商いが成り立つ時代はとっくに終わりましたが、私はNPOやソーシャルビジネスは生活ニーズに対応する「小商い」的な世界の復権、という角度でも見ています。しかし、このカネがカネを生む競争社会では小商いはあっという間に潰される運命にあります。

 オルタナティヴな働き方に注目する人たちはさきがけかもしれませんが、確実に増えている気がしています。この潮流はチャンスなので、世界を覆うゲームのルールに潰えないよう、ただ祈るのみです。

 日常話からずれました。(汗)。今週は土曜日のエクセル検定を前に「やばい!」という思いに満ちてそこに入れ込んでいます。これも現代的な病に冒されている自分の姿を半面に見つつ、ですけれども。

 最後に、私が学校?で学んだことの最終レポートをここに転載して本日は終わります。

 修了レポート

2010年7月5日月曜日

じたばた訓練日誌-新しい公共と新しい働きのあり方を模索しつつ-

 4月から受講を始めた基金訓練のOAビジネス科から6月にNPOなどの社会的事業に就業するためのインターンシップつき訓練に転校して7月に入り、いよいよ受講期間も終着点まで来ました。

 最初はNPOとは何か?NPOの理念とは?あるいはソーシャルビジネス、コミュニティビジネスとは何か?という概論的なものを学び、その後実際にNPO団体で2週間のインターンシップを行い、現在は実際にNPOを運営している各種団体の理事長から運営の実態と実情を伺いながら具体的なイメージを膨らませる作業を行っています。それに加えてオフィスPCの使い方や労働社会保険について。簿記、会計帳簿の読み方や税務など、NPOの管理運営の具体的な方法を学びます。これらが6週間の学習期間における全体的な内容でした。

 ここへ至る前のパソコンスクールで学んだことは訓練の方法に過去の蓄積がありますし、就業に向けたオフィスソフトの検定合格を目標とし、履歴書を書けて面接技法を学ぶという具体性があり、それなり大変ではあっても、就業に向けた目標のために得るスキルが具体的で、受動的な目標設定を設けた勉強のしがいはありましたが、今の学びはその点を比べれば大学の講義を受けるような感覚であり、自分の関心にあった分野を学ぶという「自由の感覚」と同時に、就業への具体的なイメージにおいては、今ひとつ明確にならない難しさがあるのも確かです。今回初めて始まった「新しい公共」のための就業訓練は端的に言ってまだ主催者も受講生も手探りの面があったと云えるかも知れません。しかし私にとっては元々関心が強かった領域であったので、NPOという、大きな力ではないにせよ「社会問題解決に結びつく仕事」に日々動機づけられてきたという点では、意義深い日々を過ごす喜びがありました。同時に受講後のかたちがNPOという存在がまだ収益事業として難しい分野であるがゆえに、その分野で働くことを目指すその意味を自分に問い続けながら、自分の頭で探り、考え続けなければいけません。自分が持っていた問題意識はけして孤立した考えではなかったという一種の安心感があるとともに、まだまだマイナーな「新しい公共」に携わる仕事の領域で経済的な自立は得られるだろうか?という「折り合い」の問題は心の中に常にあるものであり、いろいろと難しい課題があるのもまた事実だと思います。

 そのようなことを考えつつも、率直に言えば私の頭の中ではいつもこの3月にNPO法人化を果たした「レターポストフレンド」をイメージしながら各種の話を聞いていたのも本音です。やはり具体性のある何かをイメージしないと聴講の動機を強く組みにくいものです。今後、もしも学んだことを同団体に生かせる機会があれば大変うれしい事でしょうね。学ぶ仲間も社会的な関心の高さの点では一致するのでどこか同胞意識が感じられ、一般的な就業訓練より面白いのは確かです。

 年内に同様の6週間訓練が今後も3回に渡って行われます。関心のある人はぜひ受講されてみたらいかがでしょうか。ただ、鳩山首相が退陣した後、めっきり「新しい公共」という言葉が聞こえなくなりました。官も民もそれぞれの理由で対応できないニーズが地域や社会に膨大に広がっているのですから、今後の内閣もこの旗を下ろさず、むしろより推進する方向で進んで欲しいと切に願うところです。

2010年6月27日日曜日

ネットカフェに行ってみて。

昨日は6月なのに真夏の暑さ。
そのせいも半分ありますが、エクセル自習のためにネットカフェ「自由空間」に会員登録しました。
なるほど、これは便利だ。
コンピューターが古いよという話も聞いていましたが、実際はパソコンも調子が良く、エクセルも試験に出る「2003」でありジャストです。
それにサービスがいい。漫画も読み放題だし、テレビも見れる。
私は会費300円払って千円の3時間パックを利用してみましたが、結局そのうち最後の1時間くらいはネットを利用してしまったなぁ(汗)。
自分で作っているブログやマイスペースなどのソーシャルネットが他でどう見えるか確認してました。
やっぱりデスクトップ型のパソコンはいいなぁ。

ただ、問題は席はリラックスできるように背中を奥深く落とす形のソファーになっており、ソファーの高さも調節できないので事務作業をやるには明らかに不向きであるところ。むしろ何かを眺めているような形が一番快適に出来ている、という印象です。
それともう一つ往生したのは店内のクーラーの利きすぎ。
正直、これ以上は勉強できないと思ったのは半袖ポロシャツ姿では余りにも寒いから。今度行くときはカーデガンかセーターが必需です。これって、カラオケ店などもそうですね。燃費はもう少し節約したほうがいいと思うのですが。

ネットカフェが便利だというのは否定しがたく、「ネットカフェ難民」という言葉が出てきたときある種の貧困に対する否定的見解が噴出したのはそのような一見の客としての便利さ、快適さの印象としてそういう風に感じられるということでしょう。
でも、自分としてはここで半日生活するのはせいぜい最高でも2,3日だと思う。
いろいろなアプリケーションが揃っていて大変便利ですが、それは家庭の生活の延長線上にある便利と贅沢でしょう。そしてそれに見合った安さがあるということでしょう。

その点では比喩に誤解があるのを承知で言えば、昔の「パチンコ屋」などに近いものかもしれません。
(誤解を生じたらゴメンナサイ)。

2010年6月26日土曜日

振り返りという言葉にこだわりて。

最近日が昇るのが早くなったのと暑さのために早く目が覚めます。
特にせっかく実習が終わったのに今朝は五時にお目覚め。故に連投です。

昨日は文書検定の合格証と、エクセルの3級検定を受けようと基金訓練に通っていたパソコンスクールに久しぶりに行きました。実は今の訓練を受けるようになってから、全くエクセルの自習はしておらず。
日商試験にはそれでは厳しすぎるということで、試験は7月17日に伸ばすことにしました。3日は無謀すぎるという結論に達して。
今の訓練が9日までなのでそちらが適切なんですよね。ただ、自分がそれまで意志が持つのか不安だったのですが、教室は平日は5時から7時まで自習で使わせていただけるとの事。甘えてそこで自習して検定に備えようと思います。

自習室にて前一緒に学んでいたメンバー4,5人と遭遇。笑顔で迎えてくれたのが素朴に嬉しかったです。
やはりエクセルは相当深くやっている様子。横で同世代の元営業マンだった方の作業を見ていましたが、パワーポイントも見事。話したところ、「エクセルはかなり使えるよ」との話。やはりエクセルはビジネスには奥行きが深いみたい。その人はもっと突っ込んで勉強したいとのことで、OA6ヶ月の深堀りコースを今の学校が終わったら同じ学校で受けたいとのこと。明るい人ですが真面目な人なので、ぜひ希望がかなうことを祈りたいところです。

彼と話していて、ネットカフェでオフィスソフトを使えるかどうかの話。今日自分が行ってみようかと思っていたネトカフェにその人も会員登録している様子。PCは古くて使いにくいよ、という話ですが。
今日行ってみようと思います。実はネトカフェは初めて。ネトカフェと漫画喫茶併用の店で漫画喫茶にいたことは何回かあるけれど。

ところで実習先では全部で5名で出かけましたが、やはり他のところに行っているメンバーも含めてみんな人生のターニングポイントに立っている人たちだと思うんですね。
やはり仕事も自分中心ではなく、社会のためにもなることで生計を得たいという考えかたは新しいと思うし、そう思うにいたるには個々人の価値観や、それ以外にも社会的環境の変化でどうも少しずつ地殻変動が起きはじめているんじゃないかとも思うのです。

結構ちゃんとした仕事をしてきた人も多いですから。
私は今でも自分で生きてきたというより甘えて生きてきたことをを隠してますけど。
ですから、第一期の社会事業コースのメンバーの多くは人生のターニングポイントで新しい公共の仕事に向き合いたいと思う人たち。そして僕は迷いの中でターニングポイントに立っている、人。
あえて云えばそんな感じでしょうか。

一応、職場実習が終わりました。

 昨日で職場実習が終わりました。ひと言で感想を言うと過去福祉関係で行った実習を超えるようなことはなかなか難しかったかな、というのが本当のところです。籍を置かせてもらったNPOは事業系NPOとして市内でもおそらく突出して成功している場所なので、各職員の方も仕事に追われていて与えられた仕事をこなす以外の部分で接点をもらうという風にはなかなか行けなかったし、立ち入れなかったというのが正直なところです。ただ、自分なりにモチベーションは下がらないように意識的にデティールを見るように努めるつもりではありました。

 1週目と違い、当事者や利用者の方との接点はほとんどなく、事務仕事をすることが中心となった2週目でした。メインはNPO設立10周年を記念したイベントパーティに参加する人たちに向けて「チャレンジする人たち」、つまり当事者の声を通信誌から拾い上げて1冊の冊子にまとめる作業、もう一つは約1500名にのぼる通信読者に対し、時代を反映して紙による発行からメール配信に移行するなかで紙媒体での郵送希望者の名簿作り、そして3番目にその他の細かな作業(重度肢体不自由の方のための通信機器用補助具のメーカー検索や、「通信」の紙からメールへの移行に関してどちらを希望するかで戴いた返信の中でメールアドレスを忘れた方に電話してメルアドを確認するなどの作業)です。

 形が最終的にどうなるか分からない中での与えられたことを試行錯誤でやる作業のなかには、細かなことをいえば初めてやることもあり、そこではITに詳しい元・有能なサラリーマンの方が仲間にいてくれたことが大いに助かることでした。
 しかし小冊子を作るための両面刷り印刷は高速コピー機を使うだけなのですが、最初は手間がかかってビクビクものでしたし、差し込み印刷でラベル貼りを頼まれたときは往生して上記した人にほぼ全面的に頼るような按配でした。
 昨日も最終的にはそれら150人集まるパーティにお渡しするものを並べて流れ作業で一つの手提げ袋に幾つもの資料を入れていく作業で、実は私の苦手分野である「数がそろっているか確認する」「流れ作業で最終的な形まで持っていく」等々の仕事があり、ほとんどNPOに来ているという気分が抜けちゃってましたね(苦笑)。余裕がなくなっていた気がします。

 結局、オーラスの昨日一番自分らしさを出せたのはメルアドが分からない方に電話で確認する作業かな。電話でお願いする仕事は一番苦になりません。そこはまぁ、コールセンターで発信の仕事をやっていたせいでしょうか。そのように過去の仕事で得たものがある種の習い性なら、大きな意味で事務的な仕事を望んでいる私にとって、まだベーシックな課題があるな、と思いました。
 事務に限らず、たな卸しのような作業は本当に苦手でして、社会人としてもっとも基本的な仕事の一つであるのに、これでは困るな、と再認識しました。

 少し愚痴っぽくなってしまったでしょうか?でも、このNPO「札幌チャレンジド」は水曜日に地元紙、北海道新聞にも一面公告を打ってまして、これは少なくとも道内では画期的ではないでしょうか。また、その協賛企業や団体、個人の方々はなかなかそうそうたるメンバーで、NPOとしての経営センスが相当に高い、ということは事務仕事をさせてもらいながらつくづく感じることでした。

 ITに特化した障がい者自立支援のNPOですが、言葉が悪く響いてしまうかもしれませんが、その時代時代のトレンドとなる障がいの問題にいち早く気づき、そのような方がたにどんな仕事をやってもらえるか、そしてそのためには何を学んでもらえそうかを考え、法令に関しても常に敏感に向き合う姿勢がいまの事業の成功に結びついていると。そう考えて間違いなさそうです。

 来月の上旬に理事長が今度は座学の際に事例研究としてお話をされるようなので、自分としてはこの2週間を自分なりに振り返り整理して、また新たな気持ちで理事長の話を伺えればと思っています。

 何しろ突然の訪問、受け入れ団体の事務局の方々もインターンの人間に任せる仕事を作らねばならないし、足を引っ張っちゃった面もなきにしもあらず、という気もします。ほんの少し、猫の手ぐらいにはなれたならいいな、と思っています。
さて、今度は「振り返りレポート」を書かないとね。

PS.ブログ「札チャレ日記」にもこの1週間の忙しさに触れていますね。数日前に遡って読んでくだされば触れている部分があります。
 また、ホームページも全面的にリニューアルされています。
 障がいの枠組みも医療の進歩や、何だかんだ行っても福祉の焦点の当て方が細かく広くなったおかげで普通に一般人と言われている者たちとの間の垣根が低くなったと感じています。その意味でも今回のインターンのみでは消化不良の面もあった自分ですが、一般の人にとっても、とても興味深い団体として在るといえるのではないでしょうか。
 私もお世話になったこの団体のことは忘れず、緩くとも今後も何らか係わりやつなぎが出来ればいいなと思っています。

2010年6月18日金曜日

研修折り返し。

NPOのOJT、丁度半分が終わりました。
この間、週2日半の一般就労を目指す人たちの就業訓練の参加と、NPO法人の事務作業を
手伝うことで過ごしました。

やはり一番印象に残るのは当事者の方々が参加する就業訓練でしょうか。
現在ワードは行っておらず、コミュニケーションスキルの勉強が丸一日と、残り1日&半日は
エクセルの勉強をされておられます。
エクセルを教えていらっしゃるのは障がい当事者の方。
多くのメンバーが苦もなくオフィスコンピュータを操作できるので、後半は私たちも完全な
受講生として過ごしました。
最初は障がいをお持ちの先生に対する気遣いが参加メンバーにあるのかな、と思っていましたが、
どうもそうは思えません。
言葉が出てくる機能面も含め障がいが、外的にもはっきり分かるのは当事者の講師の先生ですが、
その先生の明るさに生徒さんたちの情緒的なつながりを感じます。
何というか、お互いの支え合いのような優しさを感じるんですねぇ。

私自身、こういう就業訓練なら受けてみたい、と思いますね。
ある意味ではオルタナティヴな職業訓練で、普通の職業訓練生のほうがむしろ情緒的には醒めている
ともいえそうで、それは私にも有ることでありまして。
ここで普通だの、そうでないのという区分けもおかしいような気がします。
まさにオルタナティヴなありかたで、こういうかたちが一つ、社会の大きな位置を占めて欲しい気も。

あとはいろいろなものがつながっていけばいいなぁと思いますね。
問題意識の共有であれば、どんな組織形態でもいいと思いますね。要はそれを考える個人がいろんな
場所で「居る」ということなのでしょうね。

さて、あと5日の職場体験。もう少し何かつかめるかな?
不思議なもので、障がいがある人も普通に仕事に来るスペースだとそれが当たり前になってしまいます。
もちろん、コミュニケーションだって当たり前なんですよね。
だから、世の中に当たり前に障害を持つ人がいれば、それは皆にとっても当たり前のものとなるでしょう。

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今日は暖かく、道庁赤レンガ前で昼食。
沼からあがったカモがとても平和です。ここにはカラスから鳩からカモからスズメまで。
みんな平和に共存中。このまどろみこそが天国なり。

2010年6月14日月曜日

研修一日目。

障がい者支援事業系のNPO、昨日HPを紹介したNPO団体の実習に入りました。
もちろんまだ研修初日ですから、様子とかは掴めないのですけれど、基本的に私は1年間の就業訓練コースの様子を見させてもらうことになりそうです。
オリエンテーションを受けた後、早速受講風景の中に入ったのですが、コミュニケーションスキルの授業は本格的なビジネス・コミュニケーションの先生が教えており、メンバーの人たちの雰囲気も明るく、正直言ってどこに問題があるのか。一目する限り、分からないほど普通な感じの若者たちです。

デジャブ感的にいえば、初めてひきこもり当事者の会「SANGOの会」に参加させてもらったときと同じくらいの意外感でした。

印象としては、いわゆる発達系の問題を抱えている人たち中心で一般就労を考えている人の職業訓練という感じを持ちました。ただ、それもその性格が目立った雰囲気ではありませんし、講座の内容も私自身が聞いていて勉強になる、普通に職業訓練を受けていても参考になるだけのレベルです。それだけにアイスブレーキングやコミュニケーションゲームを含め、私自身のテンションも高くなってくる授業の中で、多少午後遅くなると疲労の色があるとはいえ、みんなキチンと講座を受けている様子を見ると、「あ、いけるんじゃない?」と素朴に思ってしまいました。1年間とはちょっと大変な感じもありますが。(但し週3日)。

というか、自分とどこに違いがあるのか。違いがあると考えるのがきっとおかしいのだろう。ではなくて。違いがあるのではなくて、個々の普通の人間に普通に個別の悩みがあるように、ここに集っている人たちみな就労を求めつつ個別に自分の苦労を持っているのだろうな、と考えるのが自然なものの気がしました。

つまり、それって自分と同じじゃない?ということです。
-というのをまずベースにして考えるのが正しいような気がします。
その上で何か個々に固有に困っているところをちょっとお手伝いするような感じになるのかな?
いや、マジに自分自身が受講生になったほうがいいみたい(笑)。

まずはファースト・インプレッションですから、今後どう変わるのか、変わらないかという感じですね。
考えるよりも感じてください、と団体の方からお伝えがありました。ぜひそうしたいと思います。

その上で事業が順調なこの受け入れ先団体ですが、そして午後詳しい概要を聞く中でやはり相当考え抜かれているな、と思いましたが、とはいえやはり何らか運営上の悩みもあるはず。実習の最終局面でそのようなことも質問できるまで馴染むことが出来れば、と希望しています。

ブログ・札チャレ日記

2010年6月13日日曜日

実習受け入れ先のホームページ

明日から実習に参加させていただく障がい者とITを結ぶ「札幌チャレンジド」のホームページを拝見しましたが、これが実に大変立派なものです。
NPO団体組織としてこれだけ完成度の高いホームページと、その運営内容は改めてちょっとした驚きを感じました。ここには周到な準備と入念に練られたタクティックスがありそうです。
ブログや利用者の方の声のページも読み応えがあります。
ぜひ一覧一読していただけたらと思います。

NPO法人 札幌チャレンジド

2010年6月10日木曜日

感受性

今までの感受性ではなく、新しい感受性が自分には必要だと思い始めています。
今までの感受性、今より若い頃のものは鋭かったかもしれないが、結果的に社会的に無益なものが多かった。

いまでも積極的に他人と話していくのは苦手だけど、一つ一つの会話の中でそこに意味を見出していきたい。
若い頃は右から左に通り過ぎるものが多すぎました。
まがりなりにも今は、いまの社会システムに多少なりとも疑問を持ち新しい何かを始めたいと思う人の集まりでしょうから。

夢を見たあとの感覚が呼び起こす記憶も大事にしたい。
眠りから覚めた後の物思いも「次につなぐ何かのヒント」と思って大事にしたい。

いろんなことがつながっていると思ってそこに自己の倫理優劣はつけず、興味深さを基盤にモノを考えたいなと思いますが、でもそのベースは例えば「ビッグイシュー」などの記事がとりあげる世界でしょう。大きな意味ではそれとかケーブルテレビ、朝日ニュースターの「デモクラシー・ナウ!」の世界。より身近には意外に社会生活の最新事情にとって参考になる「ニュースの深層」。ある意味「クローズアップ現代」などよりも参考になります。(毎日じゃないですけれど)。

物事への関心、狭くて深い付き合い方。そのキャラクターは根本で変えようがないとするならば、そう生きるのが在る意味「運命(さだめ)」ととらえて生きることで、自分を社会的に生かすことが出来るかもしれないと。これは希望的観測の夢ですね。

つまり、皆がいいと思っている方向性に生理が合わせられないなら、オルタナな生き方を選択すれば精神的・社会的に自由になれるかも。他人に迷惑にならないかたちなら。

そしてもう一つは自分にとってオルタナな、自由な思想信条をあちこち口にしたがり共鳴者を求めたりせず、自分の中にしまっておく力。その意味での孤独に耐える力。それも今後必要な自分の力かもしれません。

感受性の方向性を少し変えてみないか?自分自身への提案です。

2010年6月9日水曜日

社会的企業人材創出インターンシップ事業、今後も継続。

私がいま受けている訓練は上記タイトルの訓練ですが、今後も継続的に行われる予定であることが、本日いただいた「北海道NPO情報」で分かりました。

現在無職でNPOやソーシャルビジネス、コミュニティ・ビジネスに関心がある方は検討してみたら如何でしょうか。少なくとも年内に3回は今後も期日も確定して予定されています。(定員30名)。志望動機をA4紙にて記入し、履歴書と共に提出しましょう。詳しいことは新しい「NPO情報」(PDF)か同団体のブログで確認してください。

社会的企業人材創出・インターンシップ事業
受講生募集中です。


【札幌】「就労希望6週間コースⅡ」募集30名
(北海道NPOサポートセンター担当)
◎開講日8月2日(月)~9月14日(火)

【函館】就労希望6週間コース 募集20名
(NPOサポートはこだて担当)
◎開講日9月13日(月)~10月25日(月)
●【札幌】「就労希望6週間コースⅢ」 募集30名
◎開講日9月21日(火)~11月4日(木)

●【旭川】就労希望6週間コース 募集20名
(旭川NPOサポートセンター担当)
◎開講日10月4日(月)~11月16日(火)
●【札幌】「就労希望6週間コースⅣ」 募集30名
◎開講日11月8日(火)~12月20日(木)

●【北見】就労希望6週間コース 募集20名
(北見NPOサポートセンター担当)
◎開講11月予定(詳細未定)
●【帯広】 未定(秋以降開講予定)募集20名
●【札幌】「就労希望6週間コースⅤ」 募集30名
この件の問い合わせ先:北海道NPOサポートセンター(担当:上口、出村)電話011-299-6940
受講終了者のうち低所得など一定の条件を満たす方には「活動支援金」15万円が支給されます。
上記の他、釧路、黒松内~札幌でのコースを実施中です。

●詳しくはHPで 検索「HIT コンソーシアム」

北海道NPO情報・2010年月号(PDF)
NPO法人 北海道NPOサポートセンター

2010年5月31日月曜日

ブレーントレーニング?

本日から社会的事業に従事する人材養成の訓練校が始まりました。
まぁ、印象としては予想通りであるような感じでもあります。
初日なので確定的なことはいえませんが。

先週まで通っていた訓練校はカリキュラムが出来上がっており、職業人になるためのスキルとして「何をすべきか」というのは明確です。つまりワード、エクセル、パワーポイントの技術習得。会社に入るときに「やれます」といえる極めて具体的なもの。

それに対して、このNPOやソーシャルビジネスという定義を基盤として社会をフォローする仕事をしよう、というのは、この国の社会にとってやはり現状とっても新しいものなんだと思うんですよね。
それだけに前者と後者を比較した場合、仕事を探しを考えている人間にとっても自分の頭で考えなければならない要素が相当増えるだろうという気がしています。もちろん、前者とて訓練が終われば自分で考えて探さなければならないことは同じなんですけどね。その意味では、「今のうちから」という意識は早くから持てるかもしれない。

初日だけの感想でモノを見渡すことは出来ませんが、前に通っていたところが純粋に技術的な訓練校だとすれば、新しいところは「大学」に近い感じがします。
午後、グループワークとかをやりましたが、みんなやっぱり問題意識が高いです。社会とか、現実とかを見て。

今後理念を教えるところから始まって組織運営、経営、あるいはある程度の活動に報いる経済的なフィードバック(つまり賃金)について現実において位置づけられるかたちを作れること。そのための人材を作ろうじゃないか、というのが今回の人材育成事業の目的なんだと思うんですね。(その背後には政府が掲げる「新しい公共」公約があるわけですが)。

ただ、やはりある意味ぼくの大好きな「理念型」の仕事について考えてみよう、トライしてみよう、という世界だと思いますから、手探り感は主催者側も受講者のこちら側もあるといえそうです。

細かなことは今後追加レポートしたいと思いますが、講師として出会っていき、話を聞ける人たちはやはり今後自分の関心領域に近い人たちのようなので、個人的には「やはりこちらかな」という感じです。

馴れたらワード、エクセルの続きもしなければならないなと思いますが、まずは助走からということで。
一旦、そちらは。

改めて午後のグループワークでは「就労支援」テーマを感じている数名メンバーで話し合いしましたが、非常に深いところに話がいけてよかったです。ただ、同時に思いましたね。
自分の傾向性。「狭く深く」なんですよね。これは自分のキャラクターなのでしょう。後、話し出すと、ともすると頭の中にあることを全部吐き出そうとしてしまう。これは短所。このキャラをいい方向に出せるようにしませんとね。

ただ、こちらのほうが自分が個人的に好きな社会性のある話題は出来そう。
で、就業というリアリズムはちょっと落ちるかも。つまり両方手にするというのは難しいということでしょうね。

こちらの訓練のほうが枠組みがカッチリしない分、偶然性の中で何かが起きるかも?
まぁまだ良くわかりませんが。そんな感じです。