2011年2月27日日曜日

YOUスペースフォーラムで語ってきました。

 というわけで、金曜日の夕方に行った若者たちのフリースペース、YOUスペースフォーラム第2回目で僭越ながらいちパネラーとして話に加わらせていただきました。体験発表を含めて。
 100名近く集まったようで、絶対緊張するよな~、と思っていましたけれども、これが思ったよりもなぜか落ちつけて。特に2部の聴衆の方との質問を通したやりとりにおいて、想像していたよりも冷静な自分がいたのは、少々驚きの発見でした。

 理由として、日頃集団の中にいることが少なく、ある程度人の集団を退いた目線で見ている傾向があるためなのか、それほど知った顔の人が少なかったこともあるか、と考えてみましたが、特に答えはそこに見つかりません。会場が広くて、圧迫感がない理想な空間だったことはありますかね。後は、私1人ということではなく、他に3名の若者たちがシンポジストとして同等にいたことが安心感を強めました。
 そのメンバーたちがまた、とても元気な人たちで。最初は気圧されるかと思ったほど。だけども心根の良さが伝わる人たちでした。自分が「わやわや」になっても、残りのメンバーで何とかなるな、と思った時点で安心。冷静になれました。
 もちろん、「知らなくて自信がないことを喋るわけじゃない」ということが一番大きいでしょう。そう、それですね。

 特に、横に座っていた青年は自分の言葉で非常に「自分の思い」を冷静かつ実感のある言葉で、原稿も持たずに語られ、すぐ横に座っていたためもあるでしょうが、私はとても好感を持っていちいち頷けて聞いていました。みんな事前準備なく、依頼の話だけを聞いてやってきて、あれだけ話せるのだから凄い。

 2部の質問コーナーは自分如き人間が随分僭越なことを話したな、と今では思いますが、ただ、歯の浮くようなことを語ったとは思いません。その時に思ったことは伝えたつもりなので、嘘はないと思っています。他のパネラーの人たちも実に良い答えをしていたと思います。

 ただ、突き詰めれば、ひとつひとつの事は本来あの場で簡単に応えられる話ではないと当然思っていますし、それぞれに時間のかかる話です。ご両親や支援者の方々にとって、どれだけ有益な話になったかは何とも言えないです。
 救いとなる言葉を出せなかったのは必定だと思いますが、的外れなことは語っていないと思いたいです。

 本当に、実際、質問のひとつひとつはそれぞれに時間をかけて、対話を深めていくべき話なんだろうなぁと思います。「時」と「人」の動きにおける流れの変化や、同時に変化が見えないことも含めての、本来は結構な課題なのだろうとは思います。

 私はでも、このようなフォーラムの場で本質的な話し合いが出来たのは有意義で本当にありがたいことだったと思っています。

 今回のフォーラムはひきこもりにこだわらず、若年者の無業という課題のことも大きなテーマなので、そこを乗り越えたパネリストの若者たちの話は横で聞いていて、(自分も含めてかもしれませんが)、何らかの問題を抱えているというよりも、10%近くにならんとする若者の失業率を考えれば、「ニート、ひきこもり」というカテゴライズのその境界線はどこにあるのか?

 そこが実は非常にあいまいになりつつあることを改めて考えさせられるものでした。もしも共通にそこに何かがあるとしたら、それは個別的な、主体的な悩みだけでしょう。そして、それはおそらく誰の中にもあることでしょう。極言すれば、世間の中に上手く埋もれることが出来たかどうか、という話になってしまいます。その意味では、自分自身と格闘してきたという意味で、あそこに参加されたメンバーたちは「自分がある」人たちです。

 その中で、別の意味で学ぶ点は間違いなくあります。すなわち、親友、恋人、真剣に関わってくれた大人の存在です。それがあったか、なかったか。

 ひきこもりに関してこだわれば、あえて「長くひきこもる」その苦しみは何かと云えば、「自分の内面を語っても誤解なく理解してくれる」そのような人の”不在”に根ざしていると言えるのではないでしょうか?そのような人間の関係性が一人でもあれば、その関係性の場が「居場所」であり、すでにそこでその人はひきこもりとはいえないのではないでしょうか。

 また、ひきこもりの人がおそらく外部に飛躍できる大きな要因は、「自分を表現する言葉を見つける」事なのではないかと思います。
 人は他者の世界で生きたいと思うとき、子どもの時の思いで社会に適応しようとしていても、気がつくと自分の中にその社会に適応するには「余りにも大きすぎる自分の中に生まれた力」を頭の中、こころの感受性の中に発見してしまう。その「発見」に無意識に気が付き、恐れる。この発見は社会にとって「危険」なものだと思って。その持て余す程の大きな力は社会や世間に受け入れられないものだと思って。そこでひきこもる。こう考えると形態として、状態像としてのひきこもりだけでなく、外に出ていても十分に「ひきこもっている」人はいますね。

 ですから、自分の内面の言葉に同意してくれる他人や大人を見つけること。そして持て余すほどの大きな力は、まずはけして恐れるものではない、と気がつくことから始まるのではないかと思うのですね。

 そこから先は自分の言葉を発見する、あるいは自分の身体で表現する回路が見つかることが大きな事なんじゃないかと思うんです。

 ややこしく書きましたが、結局ひきこもり問題とは、人間の実存に、あるいは人間と社会との関係における本質的なところに係る問題ではないかと思います。なので、その状態にある人には「あなたが悪いわけじゃないよ」という話ですね。個人には帰せない、もっと大きな、人間存在の本質に係る問題と言えましょう。もちろんそれがすべてではありません。病気や障がいの問題、ということもあるでしょう。
 ただ、上記したことは大きな要素は占めるのではないでしょうか。状態像から推し量るだけの表層的な問題ではないと思います。

 本当はその辺の話が公の場で出来るとかなり興味深いのではないかと思います。現実具体の話は非常に大切ですが、それはおそらくいろいろな所ですでに語られているでしょう。根本はもっと奥深く。子どもの中に「大人の自分を発見した」戸惑いに関するその表現問題と、それを受け止める社会(これはひきこもり支援者も含みます)であるのかどうか、に係る話だと思っています。

 一昨日の話が大きくまた線路をはずれました。人生は単線ではない、ということに無理にこじつけて、思考も単線ではない、ということにしておきましょう。
 今日は簿記の試験でした。この2月、復習する時間がなかった。結果はおして知るべし、です(苦笑)。

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