2011年12月10日土曜日

朝ドラ・カーネーション

 現在のNHK朝の連続ドラマ「カーネーション」はいいですねぇ。好きなんですよ。「ゲゲゲの女房」もとても良かったけれど、もしかしたらそれ以上かもしれない。

 実際は朝は見れないので、夜6時45分の再放送を中心に見ているんですけど、たまに土曜日にまとめてやる再放送一週間分も見ますね。
 関西系の朝ドラは北海道に住んでいると拝めない関西ローカルの見事な芸達者、役者さんがいるなぁということにいつも感心するんですけど、何というのかなぁ。今回のドラマが際立っているのは総合的にいいんですね。脚本はもちろんのこと、演出から、配役から。そして主人公も際立っていますね。今回はナレーションも本人自身ですから、いつも体当たりのぶっちゃけ、女性なのに「生身さらけ出し」演技も含めて凄いエネルギーを放出していると思います。

 その今までにない「周りに合わせない」「自分の思いに忠実に動く」「思いを率直にぶつける」「行動原理に従って生きつつ、感じる思いから(極力だけど)目をそむけない」「とにかくエネルギッシュ」というのは、ブログを書いている自分のキャラクターからは全く真逆で、近くにそのような存在の人がいられたら非常につらいし、逃げるだろうけど、不思議にドラマにそのアクの強さや臭みがないのが不思議で、爽快さがあるんですね。これはまだ自分でも理由が良く分からない。何故なのか。

 それにしても国防婦人会というものは、どういうキャラクターの人たちが率先垂範して動きだしたんでしょうかね?非常時になると、突然元気になって、何か言って廻ったり、規律を押しつけて歩きたいというのは戦後の「子どもに悪い影響を与えるマンガを追放する運動」(ゲゲゲの女房)にも通じています。実は平和裏においてもある。僕が子どものころにもハレンチな(死語)漫画をやり玉にあげる、というのがあって、子どもながらに大人のいや~なところを思いました。自覚してたわけじゃないけど。

 それにしても、本日の婦人会の台詞は凄かった。

 「日本人の妻たるもの、夫が死んで遺骨になって帰ってくるのが名誉でしょう」。
 
この驚くほどの言葉にならない鈍感ぶり。
真面目な話、人間がなぜ人の素朴なこころに平気で土足に踏み込めるのか、自分自身の問題としても考えなければならないと慄然とさせられます。

 その後、主人公の糸子は夫が浮気をしたまま出征したんじゃないかと疑いを持ちつつも、その鈍感な言葉に悩まされて寝つけず、寝床で夫の姿を想像しながら改めて夫に対する愛情を確認する台詞。

 「大きい背中。笑ったり喋ったりする顔。こころ。それが全部骨になって名誉。。。
こんなに石炭みたいにぼんぼん燃やして、いったい日本はなにが欲しい?戦争って何や?」

 この素朴な、想像力ある台詞にいろいろ大きな意味が込められていると思いましたね。いや、実はもっとも身近な自分の身体の一部になっているような人への思いから発する言葉こそ真実で、そこに不条理が介入すれば、一挙にこの社会、この世界への疑問が思い切り露出する。
 そんな見事なドラマ上の場面だと思いました。

 ややこしい、観念的な議論は実はすべて、自分自身と、この自分の身体の延長への愛情の思いから生まれるものと考えます。
 だからこそ、「国防婦人会」なるものが、糸子の自分の身体に即した豊かな想像力に対して、かくも貧しい鈍感さで人びとの生活に介入していけたのはなぜか。正しいと思いこんで、人のプライバシーに入りこんで行けたのか。関心を持たざるを得なくなりますね。で、もう少し嫌味を言えば、そのような人たちは戦後、自分らの行動をどう振り返ったのでしょうか。もしかしたら、「悪書追放運動」やっていたりしてね(苦笑)。
 全く反省せず。

 でもね。
 もしかしたら、その国防婦人会やらも、ドラマ上のデフォルメで流石にそこまであからさまな事は云わなかったかもしれないし、あるいは言葉の勢いでつい言ってしまったのかもしれない。
 しかし同時に、急にマスコミテレビの世界を引き合いに出すと何ですが、結構平気で想像力貧困なことを言っても許される状況が見受けられる以上、やっぱり国を後ろ盾に平気で人の心に刺さるようなことを言って廻っていたのかもしれないですね。

 気をつけるべきは他山の石。
 主人公の糸子も、戦争に行ってPTSD(今風に云えば)になって帰ってきた幼なじみに悪意なく傷つけるようなことをやって、その幼なじみの親にハッキリと「構わないでほしい。世の中はあんたのように強い人間ばかりではない。弱くても生きていかなきゃいけないんだ」というようなことを言われても、どこかで逆に、自分が悪かったとはいかない。自分が傷つけてしまったのだと分かりつつも、弱さは駄目だ、戦争という外圧も、人のこころの弱さにも「勝つんだ」という姿勢、スタンスで挑む。

 この辺も今までの朝ドラにはなかったリアリズムですね。
 現代の割と教養的な朝ドラや大河ドラマと違って。教養的な今までの朝ドラでは、悪かった自分を反省して謝罪するというノリなのですが、今回の朝ドラでは逆に主人公は「負けてなるか!」となります。このリアルさは納得感が強いですね。

 魅力の一つはドラマの主人公が外からの刺激で変化する、という分かりやすい展開にはならず、本物の人間らしく主人公の女性が自分の行動原理に従っていて、どう振る舞うか行動原理が掴み切れないところがいい。それが現実ぽくていい。計算臭がないのがよいのですな。

 ドラマですからね。ただ、コシノ三姉妹のご母堂が主人公というリアリズムも同時にある。先述したように現実に近くにこのような人がいるとしたら、個人的には辛いですが、いろんな意味で「わかる、わかる」感があるのですよ。
 ただ、これだけ自分に正直で、言葉通り身体的な姿勢も含めてここまでリアルな主人公が不思議と嫌味な感じが無い、それどころか颯爽とした感じがするのは自分でもいまだ解けない謎です。

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