2011年1月28日金曜日

訓練修了

 本日無事に基金訓練の修了式を終えました。
 まぁ、あと2回ほど土曜日の午前中に簿記の補習に行きますが。とりあえず、皆さんと一端は和やかにお別れ。

 今後は個人としてはおおむね3パターンくらいの方向性を胸の内で考えていますが、NPOでのボランティア活動は続けたいですね。とりあえず、2月は急いで次の仕事を、と焦ることはないと思います。

 しかし学校の先生も「現在は新卒学生の方々に世間の注目が集まってますしね。しかし、同時に(彼らは)すぐ辞めてしまうということがあります。ゴールデンウィーク前後はなかなか厳しいでしょうが、6月になったら欠員補充が出てくるかもしれません。そこら辺が狙いどころかもしれません」と。

 おいおい、ということは6月まで求人がないということですかい?って思わず心中でツッコミを入れたくなりましたが(苦笑)。実際問題、そこは現実としてそうなんだと思っていて。学んだ後の問題というのはあるんですわね。ま、その点は学びに来ていた皆が共有していることだと思いますが。

 閑話旧題。
 昨日のパワポ。通路はさんだ隣のなんでも出来ちゃう優等生スーパーウーマンさんに「みなさんの前でのお喋りも上手ですねぇ」とお世辞抜きに話したところ「いや北海路さん(私・仮名)のナレーション、上手ですよ。」と意外なことを仰って。「そうですかぁ?いや、自分は滑舌が悪いことが本当にコンプレックスなんですけど・・・」と会話してたら、他の人も「いや、上手いよ」とか声をかけてくれて。自分の主観と違ってけっこうそういうところはあるのか?と思いました。グループワークでの発表でも音楽趣味が合う一回り下の男性にも「上手いですね」と言われているので、その場しのぎは意外とやれちゃうところがあるのかなぁ?

 というか、自分の対人緊張は思春期~青年期は「顔が醜いから」で、成人期は「社会体験が少ないから会話に入っていけない」で、後者は今でも根強いのですが、もうひとつは自分でICリコーダーで聴く声を聞いて、「あ~。声が悪い。発音がはっきりしない。だからきっと上手くコミュニケーションとれないんだな」と思っていたのですが。
 どうやらそこも現実が緩やかに喝破してくれたようです。
 つまり、きっと心中の不安が「おどおどした喋りになるから滑舌が悪い」と思い込みを生んだんだけど、それは僕にとっては正しく、客観的には違うのかもしれません。

 主題から逸れた後段の話ですが、今後もひとつひとつ人から学びつつ、人より遅い亀の歩みですが、歩みは進めていきたいと思っております。

 そう、ここからまた始まるのです。
 (トホホ・・・。(^^ゞ。)

2011年1月27日木曜日

感心したり、腹を抱えたり(笑)

 本日午後は訓練授業最後となるパワーポイントによるグループ発表。会場は系列専門校。立派ででかいスクリーン、音響設備もバッチリなところ。
 自分たちは他のグループが6人のところ諸般事情があって4人でグループ発表になったことに加え、先週は自分自身の検定を中心に置いていたこともあり、センスのいい初老の人生の先輩の人にかなりお任せ状態になってしまい申し訳なかったのですが、取り上げたものがプレゼンテーションというよりも、映像と音楽にナレーションをかぶせるような形。映像の綺麗さでなんとかボロが出させないですんだか、という感じに。いや、実際、出来は悪くなかったのではないかな。

 それ以上に他のグループのアイデア、凝り具合、最高でした!やっぱパワポの自由発表は「アイデア」と「センス」だな~。そして「3人寄れば文殊の知恵」じゃなけど、4人で、正直他のグループほどコミュニケーションが密ではなかったのですが、それなりの形で終われたのは、スライド作成と編集に熱心な人、それほどでなくてもアイデアが頭の中で明確だった人、などがいたおかげです。

 これが6人で上手く回せば、素人ともいえないほどのかなりなもの(かなり、を強調したい)が出来るということですよ。パワーポイントに対する可能性を感じましたね。

 幸い自分たちは一番最初という理想の展開だったのですが(印象が薄れてくれるという意味でw)、次のグループの発表は抱腹絶倒。もう、笑った、笑った。
 腹がよじれる、涙は出てくる。笑いが止まらない。ここ何年、いやもしかしたらこれほど自分自身腹がよじれて死にそうだ~、涙が出る~。助けて~w。と思うほど笑い転げたことはこの10年以上なかったのではないでしょうか。それぐらい個人的にはケッサクでした。

 何がおかしいのかわからないところが可笑しい。意図しない自分の笑いのツボというのがあるんだと思うんだけど、他の人たちも爆笑してたのでおそらく同じ笑いのツボがあったのでしょう。

 分析してもしょうがないんですけど(爆笑)。
 やっている人たちが「受けてやろう」と思っているわけでもないところがまず面白いですね。
 そして、記号的な意味を超えたシュールなものが強調されて、それが「繰り返し登場する」というのがまた、たまらなくおかしい(笑)。
 いかん、思い出したらまた笑いがこみあげてきました(笑)。

 何しろ、○○○の最後の授業。大いにカタルシスを与えてくれてみなさんありがとうというところですw。

 いや~。このソフト、「プレゼン」とか真面目に考えないで、こちらのNPO団体でも何か使えないものですかねぇ。というか、大真面目に作品作って、それをスライドに映してみんなで腹を抱えて笑いたいものですな。

 意味なんて、いらん(笑)。

2011年1月24日月曜日

検定も終わり

いよいよ基金訓練も最終週になりました。
あとは簿記の検定模擬問題と、グループでのパワポ・プレゼンテーションのみ。

エクセルの検定ですが、やはりきわめて難しかったです。
特に機能操作を問う知識問題。
でも、一緒に受験した訓練生仲間が「何あれ?難しすぎない?」とぼやいていた具体的な論点そのものが僕にはさっぱり分からないレベルなので、落ちるのはおそらく僕のみでしょう。運悪く、その日は学校行く途中に久しぶりに転びましたし(苦笑)。

冗談はともかく、やはり試験まで間に合わせることが出来なかった、というのが実感です。僕の感覚では良くて知識60点~実技70点くらいでしょうか。悪くて知識50点前後~実技70点前後くらいかな。それくらいは自分でも予測がつくので、他のメンバーは合格でしょう。仮に自分がラッキーにも合格できたとして、やはり付け焼刃の感はぬぐえないでしょうね。エクセルもキチンとやれば、力になる筈です。
 なんとなくエクセルって嫌いでした。特に条件関数で人の選抜をするようなイメージがあって嫌だったのですが、それはある面では正しくても、全面的なことではない事と気付かされたのは、他の勉強との兼ね合いの中で得られた気がします。まぁどこか気分として、苦手意識が抜けないのも事実ではありますが。

基本的に2級レベルは独学でやらねばなりませんでした。前も書いたかもしれませんが、学校では3級レベルまでしか教えませんでしたので。3か月の「横断コース」を修了していまの学校に移った人が大半なので、その授業内容に不満がゴウゴウだったのは、実はその前に6カ月の「基礎演習科」の人たちと合同の講義になったため。

基礎演習科の人たちがパソコンを触るのが初めての人が多いということもあり、基金訓練の量的な増大がきちんとした訓練生のモチベーションと釣り合いがとれる訓練設備上の整備が間に合っていないのかもしれない、という疑問は何となく感じることです。それは真っ直ぐ自分にも跳ね返るところ。多分に自分もこの訓練政策にすがっていなかったか?というところもあるので。

それにしても、自分がみるところ、事務総務的な能力の際立っている人が4~5名はいますね。それぞれに事情があるのでしょうが、高い実務能力が生かされず基金訓練を受けている現状、同時に高学歴の新卒学生さんも「社会に仕事そのものがない」という一般的現象のために競合的になり、であればやはり、年齢が高い層が不利になってしまう。率直に言って何とも切ない現状です。社会的損失そのもの。

もちろん訓練生として特に際立ったものがない自分も他人ごとではありません。
というか、その種の比較を持ち出す自分のさまも恥ずかしいですが。なかなか難しい現況だと、つい恥ずかしいことを書いてしまうものです。
申し訳ないことです。

2011年1月19日水曜日

基金訓練も佳境ですたい。

 今月いっぱいの基金訓練も残すところ、あと7日間。いよいよ総まとめの段階で簿記は3級の模擬試験練習。パソコンは自分はサーティファイという所が主催のエクセル2級検定が土曜日にありまして、それで今は頭がいっぱい。というか、頭が真面目に痛くなっています。頭のマッスル、使ってなかった。急に動かし始めたもんで、金属疲労ですw。今週は放課後残ってまして、今日あたりは休み時間、無い頭の使い過ぎで足元がマジ、ふらつきました(苦笑)。

 あとは来週のメインイベントはパワーポイントによるグループプレゼンですが、そちらはおおむねのスライド作ったところで、あとは検定を受けない人にお願いして続きをお任せして、自分は今週辺りからは検定一色です。
 なにしろ正直初めて聞くようなサーテファイというところ(失礼!)の検定は思った以上に難しく、とくにエクセル操作の機能について机上で問う(実際の試験ではパソコン上で)問題が難解を極めます。セルの右クリックでの「ユーザー設定」による変更の結果どうなるのかを問うたり、エクセルのオプションの詳細設定の操作の変化について問うたり。ほんの少し前、正月明けまで問題にまともに目を向けてなかったツケが今を招いています。恐ろしや。。。
 でも、授業も3級レベルまでしか教えてくれなったということもあるのよねぇ。。。と、ちょっと自己弁護。遺憾遺憾。よそのせいにしては。

 本当は、これらの操作イメージの理解も、本編の最もやっかいな実技問題も(ピポット操作やVLOOKUP関数、CHOOSE関数、複合グラフ、ゴールシーク、マクロ記録など)、繰り返しの付け焼刃でなく、意味を十分理解したうえで作業できれば、エクセルに対する自信も少しついたと思うのですが。むむむ、「残念な子」になってしまっています。

 まぁ、いま思えば結局随分昔になってしまった気もするのですが、年末調整や労働社会保険の実務、ワークガイダンスにおけるグループワークなど、総合的にきちんと全体像を把握出来ていれば、基金訓練の「なぜこういう科目の選択になっているのか」も明瞭になるところまでいく可能性はあったかもしれませんし、技術的な自信もついたかもしれません。(あくまで可能性であって、とんびが鷹を産まないので、いずれにせよ無理だった気がしますが)。
 しかし今はエクセルなど、その辺りがあいまいなところも多く、腹にすっと収まらないところがあるのはやはり残念です。今朝の新聞の健康欄に載っていた一節で「物事の理解が進まず、はっきりしない状態」という言葉に出会ったとき、そうだな。この言葉こそいまの自分には腑に落ちるな、と思いました。

 あえて良かった面と言えば、その「はっきりしない状態がある」という理解がある、ということでしょうか。(なんか、あいまいな表現ですね、これもw)。

 あとはやはりコミュニケーション能力については自分自身に関してはまだ難しい所はあるんじゃないかな。加齢のせいか、その場をそれなりに取りなすことは出来るようになりましたが、まだまだ人に対する信頼感が弱いんじゃないかな。本当の意味で胸襟を開いている人はごく少数だと思います。
 その意味ではいまの一緒に学んでいる人たちは、社会性がそもそも高い人が多いな、という印象です。一言でいえば、基本的に人間性が良い人が多いですね。

 この学校で趣味の合う人がいたのも本当に良かった。ずいぶん、たくさん良い音楽を聞かせてもらいました。CDを焼く、なんて作業もこの学校に来て以来初めて行ったことです。なんか「一番良かったと思っているのはそこかい!」って感じもしますが(苦笑)。
 む~。とりとめがないですねw。とりあえず、まとめに入りつつある訓練校の近況報告ということで。本日はこれで。

2011年1月7日金曜日

「ひきこもり系」の自意識

いや~。この2日、特に今日の天気はワイルドです。お元気ですか~?かなりの寒さ+強風+雪のトリプルパンチが出揃ったのは相当久しぶりです。ここ何年かぶりではないでしょうか?この寒さと吹雪の合わせ技は。

さて、基金訓練も残すところ一月ありません。自分の懸念はエクセル二級ですが、今日からパワーポイントのグループ・プレゼンのための話し合い+作成が始まりました。プレゼンは一人ひとりやった方が自由度も高いしバリエーションがあって面白いだろうに、とも思うのですが、協同でテーマを決めてプレゼンテーションまで行うという事自体に意味がある、という考えからでしょう。
自分のグループはひとりめでたく就職が決まって、人員が一人欠けまして、他のグループよりも平均二名が足りず、おまけに本日同一グループの人が一人休みましたので、今日は3名だけ。他のグループは6名でやっているのが多いせいもあるためか、他のグループはみんな元気なんだよな~。コミュニケーションが絶えない。

基本的に今の訓練校はみんな元気だと思います。というか、腹くれのない、真っ直ぐな人が多いですね。しみじみそう思います。中年の方が中心なので、社会体験を重ねた人が多い中にあって捻じれた感じの人がいないということ、少なくともそのような風情を見せない人がほとんどだ、というのはなかなか素晴らしいことです。

その中で唯一捻じれた人間がここに独り。。。ということもまぁ。別にないんですけれども(笑)。
ひきこもり系と精神的な健康は関連性があるといえば、あるともいえ、特別無いじゃん、といえばそうですね、とも言える。客観的に自分を見ればそんな感じかな。(ここでもボーダーラインだw)
ちょっと反応が遅いとか、コミュニケが慇懃だとか、なんとなく鎧をまとった感じがするね、という事は気づかれてるんじゃないかとは思いますけどね。

対人緊張などの神経症圏に属するひきこもり系の自分を含めたグループはいわば、「自意識過剰」な人びと。あえてあっさり言うなら中核はそこにあるんじゃないでしょうか。古風な日本人的な神経質で、森田療法で云うところの「森田神経質」という定義がおそらく一番しっくりくる。

だから、森田療法的なもの。不安や自意識過剰はそのままに、やるべき事をやる。恐怖突入。現実重視。極めて日本的な納得感がこの年齢になると分かる感じなんだけど、逆に個人主義化した社会となり森田が想定していた社会じゃすでに無くなっているんじゃないか?ということは強く感ずるんですね。
 おそらく森田が生きた時代からバブル期くらいまでは社会での働きの意味も、社会集団のありようも森田療法的なものがフイットできたと思うんですが、いまのコミュニケーション中心・第三次産業中心の職業選択余地がない社会になってくると、「日本的な文化」を基盤とした「森田神経質」改善も当事者にとっても納得感が弱いし、世の中も森田神経質を受け入れる余地や共同体的な場面が薄くなっている気は確実にしますよ。

あるいは認知療法。これはいいと思う。僕は長く精神分析療法を受けていますが、もはや自分をとことん見詰めてナントカ、って感じじゃありません。先生と会っても世の中とか社会の話ばっかり。ただ、いまや精神療法に特定の療法の基盤があって純粋にそれを中心に行っている治療などないんじゃないでしょうか。いろいろな治療の良い部分を折衷的にやっているはずです。ですから、僕も森田療法的なアドバイスも受けますし、時には認知療法的な認識の誤りについての指摘もあります。折衷なんですよね。

そもそも、この年齢になるといい加減に自分を見詰める作業も倦とましいものなんだ(苦笑)。疲れるわけですね。そう、精神も疲れます。というよりも、「考える作業」に疲れるんですね。あるいは、この年齢にしてやっと、自分を見詰めたところで、何かを発見する才能はなかったんだ!「ユリイカ!」という哀しい気付きがあったということであろうかと(涙)。

しかし、「自意識過剰」は神経症圏ひきこもりにとってキーワードだとして重要だと僕は思います。故に参考は作家でいえば、芥川龍之介や太宰治。そして橋本治とか(ここら辺は『M系』の神経症にね)。あるいは歌い手の好みとしては初期の吉田拓郎の歌の歌詞世界に近いもの。そこらあたりが理解の参考になるかも。(というか、もろ自分を基準にしてますけれどもw)。

あえて開き直っていえば、非常に古風な日本男性にありがちな性癖で、それが現代に存在すればどうか?という想像力のモデルケースになるかもしれません。この種の自意識過剰なモラリスト連はなぜ生きづらくなったか、女性に見向きされなくなったかを考えた時、現代日本社会の変遷を理解できるかもしれません。(こりゃまた、大きく出たぞ)。

認知療法的な角度から言えば、感情を認知で変えていくことが出来るか?という難問があります。ただ、確かに修正された認知が少なくとも嫌な感情を後々まで引きずらないという効果は自分にあったとは思います。それも、いたずらに馬齢を重ねたうえでの話ですね。少なくとも自分には時間がかかった。それでも同時に、最終的に理性で感情を抑えられるかは分からない、と自分は思っています。
もうあからさまにいうならば、上半身で考えることと、下半身で考えることのアンバランスが神経症圏の一番の葛藤であり、悩みですからねぇ。と、アッサリ僕は思うんです、間違っているかもしれませんけど。。。

ひきこもりは繰り返しますが、『状態像』ですので、いろんな形の原因があってひきこもりという現象がある、というのは基盤としなければならない。ですから、最近発見された発達障害系の人たちの抱える問題はまた別にあるだろうと思います。キャラクターの違いといいますか。。。

今回は自分自身の問題を一歩退いて考えてみました。
やはり、訓練校でも一番捻じれてるのではないかと(苦笑)。

ひきこもりの人の難しさ、困難は他者も当事者も、その状態が何故招聘したのだろうか?ということを上手く説明出来ないままでいることだと思います。それが誰にとってもひきこもりを分かりにくいものに(おそらく)している筈。
ベストは当事者が説明するのが一番説得力があるわけですが、当事者は社会が作ったある種の慣習的なルールのために上手く説明出来ない。あるいは、いまでも厳しい視線があると思っていて、説明する構造を持てない。
でも、意外とその当の社会は当事者が持つモラリズムよりも遥かに雑多な、自由と混沌に身を置いているのかもしれない。。。

可視化されたいと思いつつ、可視化されるのを恐れる。いわばスネオ君に近いのかもしれません。(少なくとも僕は自分自身はスネオくんだなぁと思っています。過剰な”照れ”は誰にとってもメリットがないんだよね。若い時は照れること自体が美学的に思えるのだけれども)。

2011年1月4日火曜日

おみくじ 大吉

照りつづく 日かげ なやみし 小山田に うれしく そそぐ 夕立の雨

枯れ果てた田の苗も夕立雨に逢いて 再び生き返り秋の収穫(とりいれ)も心配に及ばず安心できる運なれども 何事も正直にして他人を恨まず 仕事大事とはげみなさい

 はい(汗)。大吉ですが、2年連続です。この2~3年は世事不況ですので、大吉を増やしてるのかな?とか邪推は止めましょう。私の悪い癖です。この年齢になると、そういう発想は野暮を通り越して嫌味になるなぁとやっと少し思い始めています。

 映画で『ヤング@ハート』という、とても素敵でグッとくる映画があります。平均年齢80歳のコーラスグループ。ですが、年相応の歌を歌うわけではありません。リーダーの意向で、いまの世代が聞くロック、それもホンモノのパンクロックや、バリバリ、ジェームス・ブラウンのようなファンク・ソウルも唄います。


 その彼らのドキュメンタリーなのですが、20代や30代、場合によれば40代がロックを同世代として「イエイ!」などとステージ上でボディアクションで観衆のノリに応えるとだんだん「恥ずかしい」感じがしてくる年になってしまったな、と思ったのですが、このおじいさんたち、おばあさんたちが、その若い世代の歌を歌って観衆のリアクションに応える姿はかえってスッキリ胸に収まります。何故だろう?

 歌詞がまた、独特に深みを増すんですね。おそらくロックミュージシャンは将来や、同世代よりは少し醒めて意識的に老いた観点から運命的な事を唄ったりするわけでしょうが、その歌詞が同世代よりも逆に自然に腑に落ちるのは、加齢を加えていろいろな体験や肉体的なやつれとともにリアリティが歌詞に宿るからなのでしょうね。

 何よりこのメンバーたち、とにかくみんな明るい!身近となってきた運命すら受け入れようとするその姿勢。頭が下がります。この映画は笑って感動があります。歌が好きな人はぜひDVDのレンタルでみてちょ。



Fix You- http://www.youtube.com/watch?v=W_n0zvoHlVk&feature=related

映画好きの2人 2008年座談会8 『ヤング@ハート』

2011年1月3日月曜日

新年


 あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
 自分の正月の過ごし方はどうだったかというと、実際は昨年の年末、からですね。もう12月30日くらいからゴロゴロ。それこそ家に籠ってテレビを見たり、音楽を聞きながらネットをやったり、ちっくらBGMと一緒にエクセルの復習をしたり。。。

 久しぶりに腰が重い年末年始を過ごしてしまいました。(いや失礼。毎年のことでしたw)。
 思い起こせば、もう少し年末に掃除すべきところがあったんじゃないかとか、旧年中に済ますべきことがあったんじゃないかとか思い残すようなことも。まぁ、あんまり思い残すのも健康上良くないので忘れるようにしますが。

 年末年始は昨日までこれもここ何年かそうなのですが、「ジャーナル系」のCS、BSを見てました。今年新しかったのはそれらを見ながらツイッターに感想(感情?)を書き込んでいたこと。故にこの年末年始のツイッター書き込みはいつも以上に多し。これはあんまりいいことではないかな。

 まさに寝正月。

 今日から神宮まで歩いてお参りしたり、やっと外に動きだしましたが、朝の9時前から出たんだけど妙な雰囲気なんだな~。街に向かう道すがら、全然正月のような雰囲気がしない。今日が月曜とあって、どうも今日から初仕事というのがあるのか。コンコース前でビッグイシューの販売員さんと話しこみましたが、今朝は全然ダメとのこと。確かにコンコース前で話しながら人の流れを見ていても、晴れ姿の人はいないし、なんとなく平日の午前10時くらいの雰囲気でした。販売員さんの話ではおそらくJR札幌駅の方に帰省の往路、復路の人が多いんじゃないかな、ということ。なるほど、それなら分かります。午後から少し持ち直せばね、との話。僕もそう願うところでした。

 そのビッグイシューの新春1月1日号は上の写真のように「ゲゲゲの鬼太郎」が表紙で、インタビューが「ゲゲゲの女房」こと武良布枝さん。そして、特集は「いま当事者研究の時代-浦河べてるの家から」。
 これは売れるでしょう。販売員の方も「これは出ますよ」と仰っていました。
 実際、今回の号は面白い。中身が濃い。水木夫妻大ファンの自分ということに加えて、それ以外の人にとってはこのべてるの家特集は絶対価値ある内容です。
 少なくとも、僕たちにとっては意味と価値のある内容だと思っています。
 ぜひ、機会があれば販売員の方から購入していただきたいと思います。特に福祉系の専門家の方は。

 さて、明日からまた日常が始まります。年末年始にとてもためになるジャーナル番組をずっと見ていたわけですが、即時現実適用となる話とはまた別の話。時折、その世界に入ってしまい、ナマの現実がお留守になってしまうのが自分の悪い部分ですので、気持ちを変えて明日からまた始めます。