2012年9月25日火曜日

芹沢俊介氏講演「いじめ根本解決への提言」質疑応答

 
 芹沢俊介さんの講演、質疑応答の部分です。講演の主部分は大枠を伝えるために「だ、である」体を使いましたが、質疑応答の中に一番芹沢さんの誠実な部分、聞き手に微妙なニュアンスを伝える繊細な丁寧さが見えると思いましたので「です、ます」体に変えています。
 質疑は講演で考えられたものを超えた芹沢さんの一層、考え考えされた部分が表現されているため、出来るだけ忠実に再現してみました。故に多少読みにくさがあるかもしれません。
 ただ、このためらいや、聞き手に伝える思いが結構大切な感じがあります。
 質問を受けている際の芹沢さんの姿勢は本当に真摯で、これが本当のジェントルマンというものかなあと思いました。(記載した二番目の質問は、私がさせていただきました)。
 その後、芹沢さんを囲んで懇親会が用意されていましたが、そちらは参加していませんので。その場でより具体的で実践に即した話があったかもしれません。
 主催のNPOはいじめに関する仲裁(メディエーター)、和解のための話し合いを実践志向しているNPO法人のようです。団体のHPはこちらです。

Q1.「レジュメのいじめ防止策のところに、『一人になれる子どもをどう作るか』という言葉がありました。この点についてもう少し詳しく聴きたいのですが」

 実はここは書こうかどうか迷ったところなんです。書いた理由は、「いじめが終わるとき」という本の末尾にかなり激しい身体的・心理的暴力を受け続けながら、ほとんど報復感情を抱かずに済んだ子どもさんとの出会いについて書いたんです。
 言葉を交わした時に彼がなんと言ったかというと、「お母さんが居るから」と言ったんですね。僕はその言葉を象徴的に受け止めました。それはお母さんのためにとか、お母さんに申し訳ないからということじゃなくて、お母さんがいてくれたから報復感情を抱かずに済んだという風に僕は受け止めたんです。なぜそう受けとったかというと、僕が好きなイギリスの児童精神科医でドナルド・ウイニコットという人がいます。彼の言葉の中に「子どもは誰かと一緒の時に本当にひとりになれる」という至言があります。つまり、一緒の誰かというのは漠然とした誰かではなく、特別な「誰か」なんです。これは子どもにとっての特別な誰かというのは、よほどのことがない限り「お母さん」なんですね。お母さんが一緒にいるときひとりになれる。このお母さんは基本的に絶対的信頼の対象としての母親です。こっから先は僕の養育論になってしまうんですけれども。
 

 要するに絶対の信頼の対象になるためには、それは子どもが本当の危険の時、絶対な対象としていてくれる。ひもじい時に食事を与えてくれる。どこか痛いときにすぐ飛んできてくれる。常にそう言う関わりの中で子どもはお母さんを絶対的信頼の対象にしていきます。
 そしてその絶対的な対象は子どもの中に内在化されます。つまり「信頼」という言葉が内在化される。すると子どもはお母さんが具体的にそこにいてくれなくても、常に絶対という対象と一緒ということを意味するんですね。このように内在化された信頼感があるので、絶対の対象が内在化してさえいれば一人になっても大丈夫。
 ひとりになれるということは右往左往しないということです。つまり群れの動きに動かされず、自分の欲求や主体性を大事にしながら行動することができる。子育て養育の肝はそこにあります。出会った時のその20歳の男性、おそらく彼は絶対的対象を内在化出来ているために報復感情を持たなかったのだと思います。そう理解しました。

 普通、いじめに遭うと多くの場合は報復感情を持つんですよ。僕も持っています。そして僕は対人的に人が怖いですね。つまり傾向としてはひきこもりです。ここでこんな風に喋ってますが、これは役割なものですから。でも根っ子は人が怖いですね。これは傷です。60年前のことを思い出して、まだ「あの野郎」という報復感情を捨てられないですね。ですから、群れの中の安心感と引き換えにやりたくないことをやってでも群れの中で安心したい。このように、いじめが群れから離れる恐怖に由来するのは責められないことです。
 でも、その「責められないこと」自体がいじめのベースになっていると考えていったとき、いじめって本当に厄介だなと思いますね。そういうことをひっくるめてやはりそれを対抗させる力としてひとりになれる力、ひとりになれるベースをどうやって作るか。それは早期の親子関係の中で作られるのか。これは何かテーマになるような気がします。

 でも、まだ自分の中では言い切れないですね。そこへ繋いでいくための対話がまだ不足しているところがあって。でも言い切りたいな、とは思いますけどね。そんなところでいいですか?

Q2. 「現代社会での学校、生産手段としての会社がある限り、いじめの構造はなくならないという風に受け止めました。仮に集団がそうだとすると、それを変えることが出来るのか?ということが一点。あと、いじめられたお子さんが学校をアイデンティテイの拠り所としたり、社会的な居場所と考え、ギリギリまで追い詰められても頑張るんだとの話がありました。同時に私は昨年、芹沢さんのひきこもりに関する講演を聴きまして、その時、ひきこもることについては十全に引きこもるべきと語っていたと思いますけれども、先ほどの学校でいじめられているお子さんについては、学校へこだわっていくことについての情実と言うか、そこへの厚い気持ちがあるように思いました。その辺りはひきこもりの方への角度とは違いがあるように思いまして。その点の違いについて芹沢先生のフォローをいただければ」

 いいところを突いてくれたなと思うのですけれども(笑)。
 どうして子どもが逃げないか。「逃げなよ」というのは割と簡単です。でも本人が「逃げられないよ」「逃げたくないよ」という気持ちもあるんだということ。これは押さえておきたいんですね。なぜならば、学校や職場はいじめはいつでも起きる状況があるけれど、同時に学校や職場は抑止する場を同時に作れると思っているんです。

 職場であれば上司の力で十分にできますし、学校であれば教員が出来ると思います。で、今日お話したのはこの程度の知識を持っていれば、後は子どもへの愛情で何とか出来ると思っているんですね。だから多少の余地、子どもにとって小さくても居場所はあるよ、教室の中に居場所があるよと感じられるものがやはり学校は用意しなければいけないと思いますし、用意できると僕は思っているんですね。そしてそれは難解なことではなくて、子どもへの愛情をベースにしていじめに対するしっかりした知識を持って、いじめに対しては絶対に許されるものではないという姿勢を貫くのであれば、そんなに難しくなく子どもたちが生きられる場所に持っていけると思うものですから。

 
 
 ひきこもりは個的な動機が強くて、いじめの場合はむしろ僕がウエイトを置いたのは、深刻な心理的な傷というところにウエイトを置いて考えてきたものですから、そこに居続けることと心の傷の絡みで考えると心の傷をさらに深めるけれど、なお学校へ行き続ける。間違えれば自分の死を招いてしまうことと、それを存在の深いところで感じていて、でもなお学校へ足を向けてしまう。また居場所のない自分の席に座ってしまう。ある種のどういったらいいのでしょうかねえ....。いじめで追い詰められるか、自分の社会的居場所を失うかみたいなせめぎ合いみたいなものですけれども、その気持ちへの幾ばくかの配慮はしなければならない。

 配慮をした上で、でも「学校へ行くのはやめなよ、行かない方がいいよ」とは言いたいですね。言いたいですけど、でも子どもが「行く」と言った時に僕たちはなにができるか。やはりいじめに対してはっきりと、じゃあいじめに介入するよという態度を教師が取れるかどうかですね。
 今日は親のことは話しませんでしたけれど、親も日々の様子を見ているならば、これは?と思うわけですね。いろんなネガティブな変化が子どもさんに生じますから。そうしたときに親御さんがそこに踏み込めるか。つまり、「休みなよ」「休んでどこかへ行こうよ」というところまで踏み込めるかどうかですね。
 子どもはそれでも抵抗するだろう。でもそこで抵抗することで対話のようなものが親子の間で出てくるならば、それはすごく子どもにとって生きる力になると思います。ですから微妙な発言を確かにしたわけで、前回に来たときの話と今日の話に落差を感じてくださったということで、非常に鋭いご指摘を頂いたと思います。

『見えるいじめと見えないいじめの話があって、囲い込み型のお話とか、もう少し詳しく教えていただけますか?』

 はい。囲い込み型というのはですね。外側からは同一グループに見える。でも内側では四人によってひとりの標的が作られている。これが愛知の大河内君の事件のいじめの構造なんですね。外側からは同一グループに見えるのでわからないんですね。見えないんですね。外からはいじめられていることは見えない。だけど内側では四人によって排除されて分離されている。そしてここにさまざまな暴力や金品の奪取があった。この構造のいじめは結構多いです。これがわかったのは大河内くんがメモを残していたんですね。あいつらにこれだけのものが取られたとか。これで初めてわかったんですね。
 こういうことは、この囲い込み型の構造が知識として持っていれば、子どもの状況で、子どもの変化を見ることで学校や家族が知識として持っていてくれると全然いいですね。いじめの三層構造や四層構造は外側から見えますからよほど不注意でないとわかりますけど、囲い込み型は厄介なので。いじめがどうかを見出すことは、こういう構造があるんだということが知識としてないと見えないですね。それくらい厄介だということです。


 

 
 

2012年9月24日月曜日

芹沢俊介氏講演『いじめ根本解決への提言』

 9月22日。NPO法人フレンズネット一周年北海道記念講演で評論家の芹沢俊介氏の講演を聴きました。今回は大津のいじめ自殺事件に端を発した4度目のいじめ社会問題化に即し、昨年のひきこもりに関する講演に続いて、もうひとつの芹沢氏の追求テーマであるいじめについて。今回もかなり原則的な話をされました。貴重だと思うので、長いですが、その話の大枠全体を記載します。
 
 
 まず、芹沢氏は個人的体験として、自分もいじめを受けてきた経験を端緒として話を始められました。

●私自身の経験として、小学校5年、6年の時、いじめを受けた。ともに3週間くらいの短期で済んだけれども。身体的なものではないが、あるときクラスの男子全員に無視された。幸いなことに当時は地域社会に子どもが多く、放課後の世界での遊び友だちがけっこうあって、学校外で地域の仲間が待ってくれていたので救われた。
 1986年、岩手県で鹿川(しかがわ)君という子のいじめ自殺事件があり、その頃から自分はいじめに関心を持った。実はその時まで自分が受けたいじめのことを忘れていた。鹿川君の自殺で自分のいじめを思い起こした。それから僕は本格的にいじめ問題に関心を寄せ始めた。

●いじめを事前に防ぐのはまず困難だ。なぜならいじめが起きるのは同じ顔ぶれが一日同じ場所の一箇所で拘束されるところから起きる。その顔見知りの関係でいじめが起きる。故に、学校や会社でいじめが起きるのは避けられない。図書館のように自主的に自分で選んで来る場所ではいじめは起きない。
 学校、会社が解体されるとき。もしそれが来たらいじめはなくなるかもしれないが、両者が共に機能している限りは、いじめはなくならないだろう。ならばその場所自体にいじめが起きるモメントがあるわけで、だからいじめを事前に防ぐのは困難だと考える。
 そうであるならば、起きたいじめを深刻化させないことのほうが重要だ。どういじめを深刻化させないか。

 
●また、いじめられた子が標的になったことによってのちのち傷を抱えることに心を寄せなければならない。その傷を抱えるというのは、対人関係において必要以上な怖れを抱くことになる。それを抱くことはのちのちひきこもりの要因になりうるし、実際にもある。
 それから、いじめを受けた人、特に身体的ないじめを受けた人はほぼ100%近く「報復感情」を抱く。これはきつい問題を当人、周囲、家族に残す。いじめた当人に報復できればいいが、それが不可能だと報復感情を満たすため、攻撃性を向けやすい家族、例えば弟、妹、母親に攻撃を向けてしまう。あるいは他人に攻撃を向けられなければ自分自身に向ける。それが自殺念慮となる。他者攻撃の反転が自傷行為。
 報復感情の処理の難しさというものをひしひしと感じる。それをどう考えたら良いだろう?と僕は思う。いじめが深刻化する、というのはつまりそういうことだ。

●だからいじめの深刻化は防がなければいけないし、それは可能だと僕は思っている。そのための幾つかの提案をしたい。
 大津のいじめ自殺事件の社会問題化を考えると、これは以前3回、いじめの社会問題化があったと考える。1回目は1986年の鹿川君いじめ自殺事件。2回目は94年の愛知の大河内君のいじめ自殺。3回目が北海道滝川の2005年少女いじめ自殺事件。この時に、自分は今までいじめを考えて本などで書いてきたことが不十分だったと気がつき、もっと徹底的に根本から考えなくては、と懸命に考え直した。今回話すのは05年以降に考えたもの。

●実は今回の報道でも一点、どうしても気になることがある。それは「いじめ」という言葉が実態を欠いたまま飛び交っていることだ。実態を欠くとはどういうことか。それはいじめに関する丁寧な知識を欠いたままいじめという言葉だけが飛び交っているということだ。いろんな人、識者がコメントしているがどうもピンとこない。彼らはいじめの自明性を疑っていない。もし「いじめ」が自明なら、もう30年以上社会問題になっているのに同じことが続かないはずだ。もっとましな対応が出来ているはずではないか。
 僕が多くの人にいじめって何?どういうものをいじめというの?と問うてみても上手く答えてくれない。実態的な答えが返ってこない。それくらいに僕らはいじめという言葉を感情的・情緒的な言葉としてのみ使っている。それではいじめの深刻化・困難化を変えられないではないか。

●まずはいじめの明確な定義が絶対必要だ。定義がなければいじめか、いじめじゃないかの区別ができない。大津の事件もいじめの定義を教師が持てなかったゆえに教師は最初けんかとみていた。定義があいまいなまま、いじめについて勝手な解釈が横行する。それゆえにいじめの定義が大切で、定義を明確にしないと有効な対策を立てられない。

●86年以降、現在まで定義は出揃ってきている。私が定義として過不足なくよくまとまっていると思うのは警察庁少年保安課の定義である。それは二つの条件。この2つを満たせばいじめだという定義である。
 一つはいじめの標的の座に座らされる人が「特定化」されていることである。もう一つはその特定された標的に対して物理的・心理的暴力が「反復継続して」加えられていること。「暴力の反復継続性」。これを抜きにしては、いじめの本質が全くわからない。反復は繰り返すこと。継続はずっと続くこと。いつまで続くのかはわからない。参加メンバーにもわからない。ここがとっても厄介なところだ。
 このような明確な定義が一本化されていないことが、いままでいじめが適切に対処できない結果を生んでしまっている。

●いじめはけして「弱いもの」に特定されるものではない。集団を背景にして個人を孤立させる形が本質的なものだ。だから「反復」と「継続」ということがとっても重要。
 ところで、この警察庁の定義はいじめ参加の側には一言も触れていない。実はこれはとても含蓄のあることで、なぜいじめ参加者に触れていないか。僕が推測するには、いじめに参加する側は、加害者が固定している場合と、流動化している場合があるからだ。
 86年の鹿川君の場合は、いじめ側は朝と昼と、放課後と、いじめ参加メンバーが違っていた。数も多くなったり少なくなったりしている。
 そのあたりも認識して、参加側の明確な定義をしなかったのであろう。

●ところで、いじめの標的に対して心理的物理的な暴力が目的であろうか。苦痛を与えることが主目的だろうか?僕はここから考え直しをしようとしてきた。そしていま、僕はどうも暴力が主目的ではないぞ、とはっきり思っている。
 それはどうしてか。それはなぜ標的が特定化するのか。なぜ反復継続するのかの問いかけがポイントになる。つまりこの問いの最も有力な答えは、いじめという集団暴力に参加している人たちが自分が標的の座に座らされないために行なっている、ということだ。
 いじめは誰が標的になるかはわからない。誰がどういう風にして標的の座に座るのかの答えは導き出せない。だからひとたび定義に沿ういじめが始まった時、自分が標的の座を固定化していく側につくのが一番簡単な方法となる。つまり「標的であり続けてくれ」ということ。標的であり続けてくれれば自分は助かる。つまりは防衛行動なのだ。
 「みんな」の側にいるために「ひとり」を固定化する。いじめが終わらない理由の大きなポイントはここである。

●いじめは子どもたちの鬱積、ストレスが転化したものという見方があるが、僕はそれを取らない。イライラが暴力に転化するなら、それは一過性のもので終わるはず。その形はドメステックバイオレンスに似ている。それはいじめとは質が違う。いじめはもっと人間の弱さというか、僕ら自身の弱さに”根”を持っている。その弱さとは、「ひとりになるのを恐れる」ということ。群れの中にいたい。群れの中にいれば安心だということ。もちろん、これがいじめの原因の全てではないが、いじめ問題の根っ子だとは言える。それは「ひとり」を恐れるがゆえに「ひとり」を犠牲にするということ。自分たちの世界から分離しようとする。
 いじめの要因はそう考えたほうが良い。そう考えるといじめは子どもたちの世界の話ではない。大人の僕らを含めた、人間としての根源的な弱さの話であって、そこまで視野を広げて考える作業が必要ではないか。でないと、自分とは関係のない、自分の外側の問題として排除した形のままで終わってしまう。
 しかし、この弱さは子どもたちの世界にしっかり写されていく。大人の弱さがしっかりと子どもたちに根ざされていく。

●次に、いじめには「見えるいじめ」と「見えないいじめ」がある。いじめの「四層構造」というものがある。中心に被害者があり、その周りにいじめの加害者があり、その外側に煽動者がある。そのまた外側に傍観者がいる。それをいじめの四層構造という。
 これは「見えるいじめ」である。大津事件は「見えるいじめ」だ。ただ、今のところ報道でわからないのはここに煽動者がいたのか、傍観者がいたのか。どうだったのかというのは気になるところだ。鹿川君の事件はこの四層構造が増えたり減ったりしていた。先生も葬式ごっこに参加していた。これで分かるとおり、いじめは犯罪と等価ではない。暴行・恐喝があった場合は犯罪だが、煽動・傍観は犯罪で捉えられない。
 また、無視だけで人を自殺に追い込むことは出来る。クラス中が無視することで自殺した人はけっこういる。これを犯罪として立件できるか。犯罪は「行為」である以上、立件はできない。無視をいじめとしてしっかり認識できても厳罰処分にすることは全然現実的ではない。
 

●もう一つは「見えないいじめ」。見えないいじめに僕が気づいたのは94年の大河内君の事件のとき。大河内君は先生たちにクラスで騒ぐメンバーの一人だと思われていた。誰も彼がいじめの対象だとは思わなかった。でも、仲間の中でいじめがあった。標的・分離され、お金をせびり取られていた。これは外側から全く見えてこない。これが「見えないいじめ」だ。ではどうしたらわかるか。それは「見えないいじめ」という構造があるんだ、ということをしっかり理解し、認識すること。この認識を持っていないと見えない。僕はこの構造を「囲い込み型」と名付けた。この型は結構ある。
 「見えるいじめ」はクラスに関心のある先生であれば分かる。でも「見えないいじめ」は構造を理解していなければわからない。そういう意味では、いじめは巧妙になってきているなと思う。故にこの「囲い込み型」のいじめ自殺はとっても厄介だ。

●誰がいじめの標的になるかは述べた通り、わからない。今までいろいろいじめられやすい人の指摘があるが、実際は誰でもが標的になると考えるのが正しい。だから、いじめは起きるという前提で、傷が深くならないうちに見つけて、上手く調整するのが肝要だ。

●いじめがなぜ標的を自殺に追い込むのか。実はいじめと自殺の因果関係を辿るのは絶望的に不可能だと考えて欲しい。また、そういう視点からいじめと自殺の関連性を問うのは不毛だと思う。それよりも、いじめによって標的にされた子がどういう状況に追い込まれるかしっかり知るということの方が大事だ。これを通してしか、いじめ自殺に追い込まれた子の理解に届かない。
 いじめは標的を「ひとり」にすることだ。これは、もう少し説明のいるところで、ひとりになったら本を読めばいいじゃないか、といったコメントを語った識者がいるが、いじめというのは、そんな簡単な精神状態に置いてくれたりはしない。いじめはひとりなるのだけれど、「独りなんだ」ということを常時知らされるものだ。「お前は独りだぞ、独りだぞ」と。「お前に居場所は無いんだ」ということを常時知らされる。すると授業を聞いていても腰がいつでも浮いていて、授業もまともに聞いていられる状態になれない。家に帰っても同じで、読書なんてとんでもなくて、テレビを見ていても上の空だ。
 僕はこれを「我なしの状況」と呼んでいる。自分がない。
 自分があるというのは、自分の居場所がある、ということ。自分がないと居場所がない。この「我なし状況」に耐えられる人はよほど強い人なので、ほとんど不可能なことだ。「我なし状況」。これはすごい屈辱で、屈辱感でいっぱいなので、「いじめられてないか?」と問うと絶対そんなことはない、と真っ向から否定するほどのものだ。

●いじめはこの「我なし状況」を常時知らしめられるわけで、尽きるところ、この世界にいたくないと思うのも、ものすごく自然な流れだ。大津の男の子は自殺の練習をさせられていたが、自殺の練習をさせられたから自殺したのではない。そんな練習をさせられる屈辱こそが自殺をさせる。
 そこで初めて「自殺といじめ」が関連する。因果関係ではなく、人間の存在の仕方の話である。人間論であり、人間理解の話。これがないままでいじめを考えるのは不可能である。

●最後に、いじめられる子どもはそれだけの屈辱感を与えられながら、どうしてその場を離れられないかを考えたい。なぜ学校に行かないという選択が出来ないか。
 僕が2007年「いじめが終わるとき」という本を書く少し前に杉並区の親たちがいじめのある学校に通わせないという方針を固めた。それはひとつの考え方だと思ったし、新しい事態が起きたなと思った。でも、僕はもう少し子どもに即して考えなければな、と思った。不登校らの子たちから問わず語りに話を聞くうちに、最近そう思うようになった。
 子どもにとって、学校に行くというのはやはり一種の安心感・安定感と結びついている。だから彼らは学校に行く。そこを絶たれてしまうと自分が何者かわからなくなってしまう。だから命を削るまで彼らは行ってしまう。こう考えると、本当に大人が配慮しなくてはいけない。教員が配慮しなければならない。今まで話したことを教員がしっかり理解していけば、そういう対応が出来ないはずはない、と僕は思っている。
 そこまで深くかかわれば、深刻化する前に何とか対処できる。そして教師は子どもたちに対して考えているぞ、弱さの現れの形がいじめだということを教師は考えているぞ、真剣だぞということを示すだけでもいじめの最悪化の抑止力になる。
 いじめは子どもたちのなかで起きる問題だが、同時に僕ら人間の弱さの現れだと自分を見つめることでしか、いじめの相対化はできない。
 でも、大人が自分をみつめれば、いじめの軽減になると私は信じる。

※1時間半超の講演のあと、40分の質疑応答がありましたが、すでに長文になりましたので、その質疑応答部分は後日アップさせていただきます。

 

2012年9月20日木曜日

映画「SWEET SIXTEEN」などなど。


 
一貫して英国の社会問題を背景にした社会派監督の名匠、ケン・ローチ監督の02年作品、「SWEET SIXTEEN」をレンタルで観ました。

 感想はひと言、「切ない」。もうこの言葉しか浮かばないほど切ない映画です。ケン・ローチは好きな監督なので、それほどの映画ファンでない自分でも結構この監督の作品は観ている筈です。特にベテランになったこの10年以上の間はノリにノっている人なので、どれも見逃せないです。ただ、かの人の作品におけるベースは報われない確固たる岩盤、”階級社会英国”で一貫して労働者階級の立ち位置から作品を紡いでいる人であること、また、作品自体が非常なリアリズムなので、映画にわかり易い救いが用意されていないといったことがあるので、社会背景とかがわからないと楽しめないかもしれません(かくいう自分も英国に行ったこともないので、偉そうなことは言えないのですが)。

 
 スコットランド田舎町?に住むストリート未成年リアム。作品は冒頭天体望遠鏡で子供たちからお金を巻き上げて星をみせてやる風景から始まりますが、かのようにリアムという15歳の少年は家庭が極めて複雑です。母親はおそらく麻薬密売に手を出して刑務所に入所中。母の父親と、母の恋人は二人とも完全にドロップアウトしている大人。何と母への面会に少年リアムを使って麻薬を刑務所内で密売させようとする、そんな工作を考える大人たちです。
 ゆえにリアムには帰る家がなく、同じ養護施設に入っていた真面目な姉の家に転がり込んだり、行動規範が崩壊しているような親友、ピンボールのところに転がり込んだり。
 リアムは学校に全然行かない少年ですが、ストリートの知恵というか、機転と勇気を持ち、母のためにモービルハウスを購入しようとして頑張ります。彼の素顔はとても家族思いで、母親に対する愛情が人並み以上に強く、普通の大人以上に母を救ってやりたいと考えます。

 しかし、ニュー・アンダー・クラスというか、何のまともな大人の手立てがない場所で彼が考えることと言えば、結局のところ、麻薬を大量に密売してそのお金で家を買ってやるという乱暴な考え。逆に言えば、そういう短絡的な思考しか持てません。能力がないのではなく、彼に必要な社会的な手立てを持てないでいるのです。

 考えてみれば、この映画では彼、あるいは彼とその友達たちをサポートする大人は全然出てきません。出てくるのは社会の裏の世界で生きる大人たちや、麻薬を買う人間や、すぐ暴力でカタをつけようとする大人たちばかりです。能力も、思いやりもある彼が、なぜ教育の世界から遠く隔たっているのかの理由は、周囲の大人たちがどのようなものかで透けて見えてきます。

 この映画のラストもケン・ローチらしく(?)、救いのないものです。ただ、余韻が残るのは主人公リアムのハードなライフスタイルの中でも、彼自身が失わない信義則や、家族に対する愛情が本物であるという事実でしょう。それだけに「切ない」のです。

 この映画に関しては、ブログなどを当たれば素晴らしい批評に数多く出会うはずです。ただその中で友人、ピンボールの切なさにも言及されていると、なお良いなあと思います。親友・ピンボールもリアムが彼を強く求めているように、ピンボールも彼を強く求めているのです。
 リアムが悪い大人たちによって立派なワルに育て上げられそうになる過程で捨てられる。そのことが心細くて心細くて、リアムが求めた家に火をつけ、彼の前で麻薬で酩酊しながら自傷行為に走る。
 そう、タフなワルなフリをしても、まだ彼らは16歳になるかならないかの普通の「少年」であるわけです。

 僕は何年か前にこの映画を初めて見たとき、ケン・ローチの名を世に広めた60年代の名画「ケス」と比べて、同世代の余りもの環境への置かれ方の違いに愕然としたものでした。

 もちろん、同世代を主人公にした「ケス」も普通の意味で大変な環境に置かれる少年の話でした。その作品は英国北部の小さな田舎の炭鉱町で閉塞するような環境の中、母子家庭の母親もダメ、かつ暴力的な兄の支配、閉ざされた炭鉱町の労働者たちの窒息など、少年が置かれたシンドイ環境は同じでした。ただ60年代の「ケス」には、小さな希望として、主人公ケスの野生の鷹の飼育という生きがい(それは少年の土地からの飛翔を暗喩しているのかもしれません)、そしてそれを認めた先生が鷹の飼育についてクラスで彼に発表させ、彼に人としての尊厳と役割を与えた点が救いとして残されていました。

 しかし、今作では学校もなく、彼を育てる責任を持つ大人もいません。もはや彼らは彼ら同士だけで何とか必死に生きているのです。彼らがバイトしているピザ・ショップでさえ、大人らしき人は見かけない。そしてドラッグ(麻薬)がすぐそばにある。日常のそばにある。

 ですから、初めて本作品を観た数年前には、ケン・ローチの作品といえども(彼の作品はドキュメント・ドラマ、略してドキュ・ドラマという呼び方がされます)、これは余りにも現実的では無いのではないかと思いましたし、同時に新自由主義以降の「社会などない。あるのは男と女と家族だけ」のサッチャイズムへの極端な批判、「これがあなたが作った結果だ」というメッセージ性だと思っていたのです。

 ですが、前にも記事にした高岡健さんのインタビュー本「ひきこもりを恐れず」で述べられているとおり、英国の新自由主義は新しい新中間層を作ると同時に、労働者階級を分化させ、「ニュー・アンダー・クラス」(新下層階級)を出現させたというのです。その中では10代の妊娠、母子家庭、貧困その他で10代後半に進むにつれ、ヘビーな環境の青少年たちがストリート・ピープルとなったり、学校においては校長先生が血だるまで倒れている、そんな学校に警察官が張り付いている。それくらいのバイオレンスな状況があるらしく、かの国の一番の課題は青少年の「非行と犯罪」だというのです。学校で麻薬の取引が行われているというのですから。。。

 その点、日本にはまだ全然社会的な秩序と余裕があるというのが高岡氏の主張です。

 その意味で、この作品「SWEET SIXTEEN」もケン・ローチのドキュ・ドラマの観点は変わっていないということなんだ、と再認識し、今回改めて見返した次第です。

 もう一つ持っているブログで紹介した「この自由な世界で」も、ポーランド移民労働者の話が出てきますが、5年ほど前のビックイシュー・バックナンバーでも英国に向かったポーランド出稼ぎ労働者の苦境が紹介されていて、基本的にドキュメンタリースタイルのケン・ローチのアプローチは変わっていないと思います。

 
 先ほどの高岡健さんの本の話に戻ると、社会の工業化からいち早くサービス産業化に移行した英国ではこのように労働者階級にしわ寄せが移行し、ブレアによる荒廃した学校の教育改革もむなしく、ニュー・アンダークラスを生み出し、安定した社会環境を持たない白人の若者たち、そして主に南アジアからの移民の不遇な環境に置かれた人たちが不満層として堆積し、今年盛り上がったロンドンオリンピックの前にロンドンから各地に派生した暴動という形で噴出したと言えるでしょう。

 高岡氏によると、犯罪・非行という反社会・非社会的な問題は英国で深刻ですが、日本でのひきこもりやニート(英国のニートとは質が全然違います)と数字的にはおおむね対応するそうです。

 高岡氏は経済的な蓄積や余力を持つ日本は自分と向き合う時間を持つ形態であるひきこもりが出来る日本という国はよほど上等であるという評価をしていますが、今後懸念されるとすれば、家庭が子どもを育てる経済的な余力を持てない、持たない状況が日本に普通にあるという光景です。そうなっては絶対にいけない。しかしすでに日本の少子化や晩婚化、非婚化はある意味でそういう直感や本能、あるいは実態的に経済的に家族を持てないかたちとして出ているのかもしれない。
 ただ、早々と家を出され、社会のケアを受けられないまま同じような仲間とサバイバル的に生き、子どもを産んで、父親がいないような状況が生まれやすい社会でないこと。これは唯一の救いでしょう。

 話を映画に戻しましょう。「SWEET SIXTEEN」。何とも皮肉が聞いたタイトルですが、主人公のリアム少年が時代や社会の波や構造に翻弄されながらも、人間の原形質を必死に守りながら、傷ついていく。そこにやはり希望のなさと同時に、ある種の人としての感動があります。だからこそ感想の全ては「切なかった」というところに行き着きます。明るくはないけれど、心に深く残る映画です。
 主人公役の少年がDVDのボーナスインタビューでこのような趣旨のことを語っています。
 「リアムのような子に共感できる。この国は教育に力を入れてほしい。彼のような子が報われるために」。
 おそらく、監督のメッセージもそこに尽きるところがあるでしょう。

 機会と場所と、人と人とが相互に依存しあえること。人間関係に分断線を引くシステムを考え直すこと。そんなことを深く思わざるを得ない。そういうことを考える契機にもなる映画だといえるでしょう。

PS.
 映画の舞台となったスコットランドはグラスゴーの02年の社会的現実に関心のある方はこちらのサイトを参照してみてください。10年経った現在のグラスゴーはどうなのでしょうか?もしも詳しい方がいれば教えていただきたいところです。

2012年9月8日土曜日

こんな時代だと。

大事な言葉も、何もかも消費されて終わってしまうよ。

勿体ない。

やはり、消費されずに自分の中に残るのは深い「対話」か、自分の中が崩れるほどのカルチャーショックしかないのではないか。

自己混乱とか自己崩壊しそうなカルチャーショックは、いわばハードランディングなので、ソフトランディングには本当に大切な人との対話の継続が良と思う。

その出会いの対象の選択センスも実は前段として、その人の中にある何ものかに負うところがあるような気がするんですけどね。。。ムムムのム。。。

2012年9月7日金曜日

客観的に見れば大丈夫なはずだよ。

ひょんな拍子に久しぶりに自分のブログをず~と見返す機会を持ちました。
要は、やるべきことをさぼったということなんですけどねw

で、「ふ~ん」と思った。
なかなか、書けてるじゃん、と。
素性柄というか、いろいろある関係上というか、表現が回りくどいところがあるけれど、回りくどい分、穴も少ないとも言える。もちろん、いつでもそうだとは口が裂けても言えないが。

ーこれは、自分の書いたものを客観的に第三者的に見てそう思うわけです。

どうも生きにくいなぁと思うタイプの人間の常として、自分に自信を持つのは難しいもの。むしろ自分を過小評価しているとも言える。
まして文章なんかにこだわっているいい歳をした人間、ともなればそれが稼ぎと直結するものでなければ、社会生活上役立つことも余りない面が輪をかける。

でも自分の考え、感じたこと。
「悪くないじゃない」と素直に認めれば、生きにくさの幾分かは薄れるでしょう。
自信家とは無縁ですが、実態以上に自分を低く見せるのは、「勿体ない」どころか、といいますかね。
何か、一神教の世界で生きているとすれば、「この地上において神に対する裏切る行為であるぞ」、とかね(爆笑)。一神教なんか全然、知ったこっちゃないですけどね。まあ、そういう人間側のアクロバッテングな理屈もあるかも知らん。

おっと、また横道にそれそうだ。

生きづらさを抱える他の人と話していてもそう。皆んなあるわけです。美点がね。良さがね。
それを他者も自分自身も評価出来ないのはなぜなのか。

昨日、話していて改めてそれだろうな、と思うのは、もう誰でも気づいている他者とのあいだでの評価で生きる学校から始まる社会生活。

こんな当たり前のことが、ひとりひとりの能力や自尊感情を毀損する。
自分に言う。
「もったいないことをしてるなあ。明日から変われなくても、いいさ。このこと、忘れないでおこうよ」と。

ね?