2015年1月5日月曜日

自分のメディアがあるということ。

 わ!と。
 今年に入ってから書いたブログ記事のアクセスがいままでの記事より短期間でアクセスが多いのでびっくりしてます。おそらく、「ペコロスの母の玉手箱」にまつわる検索でヒットしてブログに到着していただいたのでしょうね。中身を読まれた方がどのような感想を抱いたか分かりませんが、まあ、面倒なことを書いているなと通り過ぎた方が多いのではないかと思います......。自己卑下ではなくてね。

 こんな感じなので。もう少し自己修正する分析が必要であるとも思っております。

 今年も(?)個人的にはいろいろありそう。日々の舵取りって難しいですねえ。この時代。時代のせいには出来ませんが、暗中模索ですよ。今年は本が出る予定なので、現状も間歇的に忙しいときはありそうではあります。間歇的だと思いますけどね。まだ分かりませんが。
ですから、自分のためになるべく吸収できそうなメディア探索をしています。特にインタビューや対話を中心に。昨年からその辺は意識的に見聞しているつもりですが。ネットには結構オルタナティブなメディアがありますね。自分のアンテナにひっかかりそうな。今まで気づかずにきたんですねえ。

 まあ、こういうブログも考えてみれば、自分発のメディアなんじゃないかと改めて気がついて。
 ちょっと無謀なことをしようかなと考えています。ま、いま現在ですけどね。
 無謀なことを考えてすぐ(個人の中では)突っ走ってしまい、度坪(『ドツボ』、です。度坪、っていいね。土坪とかもね)にハマルんですが。それなのにまた馬鹿なことを考えているのですが、もうちょっと頭を冷やして考えます。

今のところ、ヒントはこれ ↓
 
 
よければこちらも運営してますのでのぞいてみてくださいね。
 

2015年1月3日土曜日

「ペコロスの母の玉手箱」 感想


 
 明けましておめでとうございます。今年は少しブログもアップしていこうかなと思っています。さぼり気味だったので。今までよりも少し広げて刺激を受けた本や映像メディアについても書いて行きたいです。
 
 まず、今年のお正月に読んで素晴らしい才能との出会いを寿ぎたい、岡野雄一さんという方の『ペコロスの母の玉手箱』。表紙に描かれているように、これは老いて認知症になった母親を看ていく(観ていく)日々を綴ったショート形式の漫画です。母親が入所したグループホームを主人公の後期成年(60過ぎの人ですが、過ぎたばかりなので、初老とはいいにくい。後期成年という言葉を使いたい。老人という言葉は70くらいからが適当ではないでしょうか)が訪ねて伴にゆったりと過ごす時間を描いています。グループホームに母親は居住していますから、直接介護の場面はありません。ただ、本人のことを母親は思い出してくれません。ほぼ「まる禿」になった息子の名を母は思い出してくれず、「ハゲ」と呼ばれるところはやや切ないです。
 全体にユーモア漫画のタッチと、丸みを帯びた描線で認知症の世界の緊張感はほとんど感じませんが、作者の「母ちゃん」も含め、ホームに入っている人たちの描写はかなりリアルです。(ひとり、コミカルに描かれるレギュラーのおばあさんはいますが)
 にもかかわらず、ここに描かれる世界はどこか僕らの記憶の源流を思い起こさせる切ない郷愁が全編を貫いています。同時に、驚くほどシュールな世界を描いているともいえます。淡々としていながら、漫画の表現としてはかなり斬新な世界を切り拓いていることに気づかされ、僕は一度目通読したときは、その斬新な想像力の飛翔具合にびっくりしました。これが60越えの、しかも男性のものなのだろうか、と。作者自身の母が辿っていると思われる記憶や主観的な世界への感応力は、ともすれば社会秩序の体現であろうとしてしまう覚醒した世界の住人であろうとする中年以後男性の硬さをやすやすと乗り越え、母と伴に、母の若い頃に、そして母が酒乱のために悩まされた晩年少し前の父との安らかな語らいの世界に、作者自身が飛び込んでいきます。
 
 母を看るのは後期成年の息子のみで、その妻はおらず、客観的にその世界を描いているという意味では現代的な課題でもあり、リアルタイムな表現ですが、ここまで異性であり女性である母親の記憶の往復に寄り添う形の旅に付き添えることは普通なかなか出来ることとは思われず、ある意味では作者の「憑依する能力」というものさえ感じてしまいます。
 
 私がまず驚き唸ったのは冒頭にあるタイトルのように、「母の中に玉手箱があって その玉手箱の中に迷い込んでしまったような」世界からこの漫画のストーリーは始まりますが、車椅子にのった母と対面している初老の自分をもまるごと箱の中にしまってしまう穏やかな「大きな母」の描写でした。これは男性作者にはなかなか出来ることではないな、と思います。
 ストーリーの中で、主人公はいつも淡々とホームに現われ、母のなすがままに現実感から離れた母とのきれぎれの対話に寄り添い、時たま禿げた頭をなでられるがままに時を過ごします。
 作者の母は、上記したように酒乱の父に悩まされた人でした。父親は素面の温和さとは一変して酒三杯で人格が豹変します。それでも母の記憶の中で父は許され、そして酒が入ると乱暴になる夫を慕い、時には今でもすがっているかのようです。おそらくそれは現代では考えられないほど昔の「母親」というものにとって夫は「すがり、頼る」唯一の人であった、ということでしょう。作者の母は夫を看取ったあと、すぐ認知症になりますが、その症状が出てくること自体がおそらくその証明でしょう。慕い、すがり、頼る夫の存在を失ったとき、やはり子どもは父の代わりにはなれなかった。母はあくまでも母で、おそらく子どもは子どもです。時には甘えても心の中で頼りとなる「心から慕う手」にはなれないのでしょう。
 だから子どもである「ペコロス」さんは母にずっとかなわない。むしろ呆けるようになった母を看ながらまるで母が辿る記憶の旅の中に自在に翻弄され、いつまでも子どもであって、「未だに母ちゃんの掌の上にいるとやねぇ」と思い、会話のない母とのゆるやかな時間に「不思議なぬくもり」を感じる境地にいます。淡々とし、冷静に見える主人公の描写の中に母を恋いる世界(とてもシュールな世界)が展開する。こういう表現を出来る作者に今までの男性には出来なかった「乗り越え」をみた気がしました。そして「幼子を慈しむように、童女になった母を慈しむ」と、自分と母の相互の懐かしい記憶の往復を抑圧せずに描写していきます。
 まさに、幼子を見る若き母の姿がワープし、認知症が進んだ母の邪気のない笑顔がまるで童女のように描かれます。
 現実とのバランスをとりながらも、老婆である母親が童女となり、若い女性となり、そして自分の幼い頃の母となり、それらの時を往来する自分の母親への気持ちを絵で表現した人はかつていなかったと思います。漫画でそのような、真面目な問題や状況を軽やかな表現で描いた作者は、女性にはいたと思います。
 
 
 例えば、こうの史代さんは少なくとも、間違いなくそのひとりです。「夕凪の町 桜の国」「長い道」「さんさん禄」「この世界の片隅で」など、絶妙な作品をこうのさんは書いてきました。このような作品の系譜は女性にしか難しいとずっと思っていたので、まさか男性で、しかも母の介護で(いえ、母の介護ゆえ、かもしれませんが)、こうのさんの系譜を引き継ぎ、並ぶ作者が登場するとは思いませんでした。
 
 柔らかでしなやかに想像力が自在に飛翔する男性作者の登場は、僕自身も遠からず体験することとなる母を看ていく際の想像力の、こころの予習になります。でも、正直作者のような感応の力が自分に生じるようにはとても思えませんが.......。僕にとって、作者があとがきに書かれているように看ていくものへの「癒し」の力になってくれるかどうか。いずれにせよ、これは医療系、介護系などの名作漫画ですし、一般の漫画の世界にも古典となる作品といえましょう。(このシリーズの第一作は映画化もしたようです。作品の舞台の長崎弁が言葉の力を与えています。この辺はこうのさんの古里、広島を扱った物語同様の地方の言葉の力もあります)。