2013年5月15日水曜日

Continue読書会1-2『ポストモラトリアム時代の若者たち 第一章 戦後「青年期」の履歴』に参加。

 
昨日は「ポストモラトリアム時代の若者たち」読書会の第2回目で、本章の第1章目を資料を素に読み合わせ、参加者で自由討論しました。場所は勿論、NPO法人Continueさん。
 参加者は10名。世代的には20代から50代頭まで。非常に幅広い。参加者の立ち位置は、著者のお一人である村澤和多里先生と、教え子である大学院生おふたり、後は社会活動に軸足を置くサラリーマンの方や、社会的企業者、NPO運営をされている方々等で、自分は一応フリーターということで(苦笑)。ーそんな格好いい表現はできないけれど。。。

 テキストに基づいて話し合いする前に皆さん、それぞれある意味当たり前だけど、学習者の前に活動者でありますんで、その意味での語るべき言葉を持っておられるのが単純に羨ましかった。自分自身(余りよくない意味での)「評論家的な気質」がちょっと恥ずかしかったのでした。

 昨日は発表者の立場だったので、その場ではかなりアガってしまいました。半分頭が真っ白だとまでは行かないけれど、3割くらいは冷静さを欠いていたんじゃないかと思う。時間の制限もあるんでレジュメを手短にまとめようと思ったけれど、やっぱ、そうはいかず。内容はおおむね理解できているつもりではいたのだけれど、一層の要約は出来なかった。その点は反省点です。後は、そんなテンションのままでしゃべりすぎましたね。相手の方の話を誤解したり、ずれたところで話を繋てしまった部分もあったと思います。その点、反省の二番目です。

 昨日の内容はタイトル通り、第二次大戦後の日本社会の青年=若者の主観・客観の変遷について。著者の村澤先生が語るところによると、第1章を要約すると、日本の戦後高度成長を支えた「フォーディズム体制」(製造業中心の第二次産業時代)と、その後の「ポスト・フォーディズム」(サービスなどの第三次産業中心)。
 この2つの産業モデルによって若者たちの生き方、あるいは人間の生き方が規定されていく。ポスト・フォーディズム時代のあり方によって規定されるありようというのがあって、それがその前のフォーディズム体制の時代と違うのだと。フォーディズム体制では生産者/労働者になることが目的だった。それが青年期の機能だった。けれども、ポスト・フォーディズム体制になると、青年たちは一方では労働者になることを、もう一方では消費者になることを求められる。そこで若い人達の質も変わってくる。労働者&消費者の両面を求められることによる二重性の中に置かれた。それが社会側(企業側)から煽られる部分ではバブル世代という形で登場した。
 そしてバブルが崩壊したあとの90年代末以後は、労働者にもなれず、消費者にもなれない若者たち、という現象が起きてきた。そういう3段階、3つの区分でまず整理して考えてみよう、と。そういう問題意識で書かれた、と教えてくれました。

 であるならば、親世代(主にバブル世代以後)こそ今の若い人がこのポスト・フォーディズム社会のバブル崩壊社会の中で置かれた状況を認識しなければならないのではないか、つまりかなり意識の断絶があるわけで、そういう親の世代こそがこの本を読んでもらいたいとのContinue理事長さんの意見は深く頷けるところです。

 村澤先生も仰ってましたが、日本ではモラトリアムというものが、大人になることの回避、逃避だと一面的に捉えられていて、特に50代以降の世代は今でもその感覚が抜けないため、今の若い人は甘えてるとか、しっかりさせなければいけないと安易に言っている。けれど、「労働者にもなれず、消費者にもなれない」ポスト・モラトリアム世代の大変さをほとんど理解してないズレがある。そういう分析をされているので、尚一層のこと、50代以降が読んだほうが良い本でもある。この第1章は特に、と思いましたね。

 後で冷静になって考えれば、発表時間が長くて参加された人たちの自由発言時間を少なくさせてしまったかな、と考えたのですが、実は結構密度の濃い、シャープな話もかなり出てたと思います。こういう話し合いは冷静に考えてもなかなか他所では得難いと思う。かなり真正面からやるので。
 また、世代の幅が広いのも特徴。20代から40代、50代が一堂に介して意見のすり合わせを無理矢理じゃなくて合わせられるというのは、やはり得難いこと。
 やはり現役の学生さんや20代の人のリアルタイムな思いや意見は本当に貴重だし、傾聴に値しますし、斬新でもある。
 

 状況に合わせた肯定的な意見もまた貴重でした。例えば動画を一日見て過ごす若者が自分はそれで充実していると自己規定している人がいるとして、そのことをポジティヴに捉えて、その彼の関心を社会に引き出す回路を作るのが周りの人たちや大人の側の役割ではないかと思う、と。なので動画中心生活の人を、別の興味関心に誘導するというより、その子の関心をいかに外部にくっつけるようにするか。そのようなことを考える社会であってもいい。その接続させる社会は周りが作る。でもそれを選ぶのは本人の選択だという社会が望ましい、と。そのような意見にはハッとさせられますね。自分には出てこない前向きな回路なので。

 考えると、実は淡々とかなりハイレベルな話もひっそり盛り込まれていたな、と後で思い返す次第です。

 それはやはり表現能力が高い若い人がいることが大きいですし、著者ご本人が適宜適切なコメントをされたこともまた当然大きいです。

 発表者としては個人的には反省点もあって、特に現在に繋がるバブル崩壊後の青年たちの部分は多少しゃべりに疲れが出てしまって、一番強調したいところが一番おざなりな発表の仕方になってしまったのが反省点の3点目。
 でも、この日のメンバーたちであれば、いずれにせよ貴重な意見は今後も聞かせてもらえるだろうと安心しています。(ん?〆台詞はちょっと上から目線?w)

 ということで、次回は6月11日(火)のPM7時に第二章について話し合います。どうか今後も宜しくお願いします。

2013年5月3日金曜日

憲法記念日にー憲法改正議論に思う

 
 憲法記念日。この戦後憲法は自民党にとってはどうしても変えたいものらしい。
 まず、そのために憲法改正発議要件である96条規定を変えたいという。この辺りの議論では良く言われるとおり、国会議員の過半数で憲法が改正されるならば、その時々の政権が衆参で過半数を制した場合、その都度憲法改正発議がなされ、その都度憲法が変わる可能性がある。自民党なりは想定外のことと思うかもしれないが、もし仮に共産党が衆参で過半数を制したらどうなるだろうか。憲法改正で天皇制廃止の提案がなされたら?(国民が支持するかどうかはまた別の話として)。

 それよりもまず、最近の憲法改正議論で語られない条文がある。それは憲法第99条の【憲法尊重擁護義務】規定だ。

日本国憲法第99条 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法尊重し擁護する義務を負う」。

 アンダーラインをひいた「この憲法」はもちろん日本国憲法だ。この憲法を天皇摂政のみならず、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員は「尊重し擁護する」義務を負う、という。
 法律の世界では義務規定と努力規定があって、義務規定は文言に対する命令的な意味を持つ。法令などで罰則があればそれが適用される規定だ。対して努力規定はおおむね倫理規範にとどまり、罰則はない。それだけに憲法に義務として明文化されていることの意味は重い。
 憲法を改正したいというその選挙区の民意があり選ばれた国会議員がいるとして、その志を同じくする国会議員の一定程度の人間が憲法改正を主張するのは社会の運動や変化を促す自由があるわけだから、それは認められると思う。しかし国務大臣はどうか。そして国務大臣を束ねる一国の首相はどうか。彼らは現行憲法の規定の下で天皇から任命を受けた行政の長たちである。その任にある人たちが責任あるその立場で現行憲法の変更を謳うのは憲法99条の責務から言っても明らかに違反にならないか?

 自民党の憲法改正草案を読むと驚いてしまうし、深く憂鬱になってしまう。特に現行憲法にある「国民の権利及び義務」の章の改悪にはびっくりしてしまう。

 現行憲法では国民の義務は3つだけである。それは「納税の義務、教育の義務、勤労の義務」だ。そして、納税の義務以外の二つは権利と義務がセットとなっている。即ち「教育を受ける権利・義務」と「勤労の権利及び義務」である。両者ともその歴史的背景があって、教育を親や親族が受けさせないことによる子どもの社会上のハンディにならないよう、教育は主に養育者への義務の観念が強いし、勤労に関しては、昔の「強制労働」から解放させるため、勤労は義務よりも個人の権利であるという色彩が強い。だから憲法第22条には「職業選択の自由」がある。同22条には「居住移転の自由」も規定されていて奇異な感じもするが、それも封建制の遺跡なるのであって、昔は地主が小作人を土地に縛り付けて土地からの離散を許さないことがあったというイメージなのだろう。(これは私の推論)。

 戦後の憲法に関して、GHQが示した方向性が3つあった。一つは天皇制問題。国家元首としての天皇を廃し、天皇を日本国民の象徴とすること。もう一つは日本の封建制を無くすこと。そのために家父長制家族制度を排することを目指した。男女平等を明文化し、婚姻は両性の合意のみで良しとした。家父長制を明確に解体することは憲法24条に端的に明確に述べられている。もう一つは財閥解体。これは公職追放や独占禁止法などで実現された。

 さて、普通の人にとって尤も大事な憲法規定の一つは基本的人権であろう。その人権規定に関しても自民党の憲法改正のQ&Aでは、権利は「共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されたものだ」とし、現行憲法の人権規定には「西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見される」ため、「こうした規定は改められるべき」だと言う。これは非常に重要な心情暴露で、この基調低音が自民党の憲法草案のベースに一貫して流れているテーマといえよう。天賦人権説は「人は生まれながらにして平等であり、自由に生活の基礎を築き、幸福を追求する権利がある」という説で、自然法理論の影響を受けている、現在の近代憲法の骨格は皆この理論をベースに動いていると言っていい。これが西欧流の人権観であるとしていて、規定が改められ、(人の権利は)日本の伝統と文化の中で生まれるべきものだと考えるから、やたらと国民への義務規定が多い。
 
「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。」(改正草案第3条)
 
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(憲法草案第12条・タイトルは「国民の責務」)
 
「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」(憲法改正草案第13条)
 
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。」
「(2項) 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」(憲法改正草案第21条)
 
 このように国民の自由な活動に関して「制限付き自由」だったり、現憲法にはない「公益」が振り回されていたり、「禁止」規定や義務が盛り沢山だったりするのは、当然天賦人権説に対する拒否感がないと説明がつかない。
 この思想の流れでいくと、おそらく日本は北朝鮮はともかくとしても、中国を嗤うことは出来ない。そして現今の(自民党が好きそうな)「グローバル社会」のルールで生きていくことは出来ない。仮に本音ではそういうものが嫌いだったとしても、だ。
 近代憲法の思想は元来権力の抑止を国民が定めるもので、その逆はあり得ないことは改めて問題にすることもない、と思っていたのだが。。。

 さてさて。本当は自分の問題として、なぜ戦後の日本国憲法が大切に思うかを個人的体験に照らして書くつもりだったのだが、余りにも自民党の改憲草案がツッコミどころ満載なので、別の角度のものになってしまった。自分の問題と日本国憲法を擁護したいこととの関連は日を改めて書きます。

 最後に自民党にとっては日本国の「伝統と文化」がとっても大切で、憲法の前文の筆頭にも「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。 」なんて表現を(あえて)持ち出すほどの「日本国のプライド大好き」ぶりだけど、僕自身に照らせば、僕は自民党の考えと真逆な思想の持ち主であり、自民党の憲法改憲論者から見ればアブナイ「左巻き」だ思われるかもしれないが、日本の伝統と文化のど真ん中から程遠い北海道生まれの北海道育ちとして、僕自身が日本の伝統と文化を追いかけていて、それなりに結構な伝統文化好きだと思っている。

 今までも旅行先は京都、奈良、鎌倉、出雲大社がある島根、岡山県吉備路、土佐高知、萩、和歌山県熊野古道、奈良の飛鳥路、大和路などを歩いてきたので、自分の無意識の衝動として日本の古代史、中世史、近代史を作って来た人たちの来歴を辿ってきたつもりなのだろうと思っているし、辿るに当たり、それなりにその土地の歴史トピックスも簡単な程度には勉強してきたつもりだ。

 何を言いたいかというと、「日本の伝統や文化」をあえて憲法に明文化しなくとも、”美しい日本人”(?)なら、自ずから自分で自分の伝統や文化を探していくだろうということだ。「美しい国」日本を誇る現在の首相は美しい日本人を信頼できないのだろうか?もしかして彼らが愛しているのは、もう目にすることがかなわない過去の日本の伝統であって、今生きている日本人ではない、ということなのだろうか?

 こういったことを考え出すと、理屈上の矛盾が次々と連想されてくるので、とても終わらないのでやめておこうと思う。
 「この国のかたち」を著した司馬遼太郎氏が生きていたら、いったいこの種の憲法改正議論をどう聞くだろう?驚きと憂鬱を持って受け止めざるを得ないではないか!そもそも憲法を変えたい自民党議員や首相は司馬さんの「この国のかたち」をちゃんと読んでいるのだろうか?あるいは読んでいたとしても、単に自分に都合のいいかたちでしか解釈できないということであろうか。

 
 ということで、
 正直なところ、憲法改正議論の前に普通の日本人が憲法全文を読んで馴染んでいるのかどうか?という根本疑問もありますし、日本国憲法条文を解釈する過去の判例もある程度理解してないと、日本国憲法と生活とのつながりも見えてこないと思っています。でもまずは現行日本国憲法と、自民党の憲法改正試案に関するQ&Aをこの際は、ぜひ時間をかけても読んだほうが良いと思います。リンクを貼っておきます。

日本国憲法と自民党憲法改正草案の対照表

自民党憲法改正案Q&A(PDF)