2012年5月26日土曜日

ビックイシューのバックナンバーを。



 最近懇意にしてくださっているビックイシューの販売員さんから、すでにソールドアウトになっているビックイシューのバックナンバーがまだあるということで、少しずつ選択して今後バックナンバーを揃えていこうと思っています。

 最近いろいろとビックイシューを通して学ぶこと、考えること、意識化されていることが増えているので今から考えると相当古いもの(購入したものでは5年ほど前のもの)も、今読むと実に問題の先取りをしているなぁと感心させられることしきりなものですから。

 バックナンバーを読み返そう、と思っているのですが、ただ読み返したまま自己満足しているのも勿体無いし、自分の中で簡単なアウトプットをしたい。そこでブログに簡単な読後感想を書こうと思いたちました。
 しかし、こちらのブログはどちらかと言えば、自分の生活の実態を反映したい。

 実は僕は現在ブログを3つ所有しています。贅沢な話ですが。一つはこのブログ。もう一つは趣味の音楽(時に音楽に絡む映画など)中心のブログ。もう一つ、社会的なことの思いを書き続けていた「夢のでこぼこブログ」というのがあるのですが、自分自身、日々の物思いはツイッターを多用することでそれらが解消されてしまい、すっかりそのブログは更新を止めていました。

 よしならば、この止まった状態のブログを利用して、ビックイシューのBN(バックナンバー)を出来るだけ負担に感じない程度で読後感想をアップしようと思い立ちました。ですので、随時そちらにビックイシューBNの感想を書いていく予定ですので、もし宜しければそちらも時折覗いて戴ければ幸いです。まあ、自分も一応は別のことで忙しくもあるので、そんなに頻繁に更新もないと思いますが。。。どうなりますやら、ですね。
「夢のでこぼこブログ」 です。

 ついでに宣伝。音楽、端的に洋楽ロックを中心にした洋楽ポップス専門のブログも開設してますので、宜しければそちらも。
「Bridge」

2012年5月23日水曜日

ことばの定義

本日、自分もボランティア的に?活動しているNPO法人から新しい会報が送られてきました。
毎回、表紙に団体の経緯と活動の概要が出ているんだけど、どうも自分としてはすっきりとしない言葉があります。それは「ひきこもり者」ということば。ひきこもりしゃ。と読むんだろうけど、こういう名詞は成立するのだろうか?なんとなく、気持ちがいいことばではない。これが「ひきこもりもの」と呼ぶとしたら、一層不快だろうなぁ。昔の芸能人が「河原者(もの)」と呼ばれた頃と同じ差別的な印象を抱くと思う。

「若年の範疇に入らない、青年期・壮年期の「ひきこもり者」に軸足を置きながら、ひきこもり者が社会に出ていった時、自信や希望を持ちながら歩めるような」

普通に読んでも、どこかおかしくないだろうか。ひきこもりしゃ、ひきこもりしゃ。
自分の中でつぶやいてみる。「ひきこもりしゃ、かぁ。。。ひきこもりしゃ、ねえ。。。」

当団体の代表自らの熱意で呼んだ昨年の芹沢俊介氏の講演シンポの時も、講演者の芹沢氏は「ひきこもり」という名詞形は使いたくない、と仰っていました。ひきこもり、という名詞形はある状態像のみを捉えた言葉にすぎないから、といった趣旨で。そして自分では「ひきこもる」「ひきこもっている」という、ヨリ動的アプローチのような側面で使いたいと仰っていた。

確かにその通りで、僕はこの種の話が出来るメンバーともよく話すんだけど、「ひきこもり」と顔に書いた人間が存在して、歩いたり食べたりしているわけじゃない。
あたりまえの人間がひきこもる、という行為を選択しているわけです。あるいは、現状はひきこもらざるを得ない人たちが増えてきているということかもしれない。

このような名詞が生まれる背景には、こう書くと身も蓋もないけど、10年来の長い歴史がある会報が当時のひきこもりに対する社会認識上の問題もあって通信タイトルもダイレクトに「ひきこもり」になっている以上、何というのかな。そのことばの流れで自然と「ひきこもり者」という表現になるのかもしれない。
そうなのかもしれないけど。でも、それがいまだに生きている、というのはなんだか違和感があるんだよねぇ。

表現の固定化であり、表現の固定化は悪くすると、あるいは慣れが進むと「評価の固定化」になっていかないだろうか?という一抹の懸念を感じます。一層恐ろしいとすれば、それを当事者というか、当事者として意識している人たちがそれをそうと受け入れてしまうこと。
それが「自分はひきこもり者だから」とネガティブな内面化のみをしてしまうとすれば、それは生産性のない思考パターンに陥ってしまう気がするんですよね。

現代社会がいろんな社会的な課題が出てきたり、あるいは多面的な切り口が必要になってきたがために、ある種の属性や分類化が必要になってきたのだろうし、課題の可視化にも役立ってきたのだろうと。その意味では理解するのだけど、いまは、いま一度、ことばの使用方法から再考すべき時にきているのかもしれない。

ひきこもり、という言葉もひと頃の偏見から逃れたとはいえ、顔を持つ当事者たちの本質を捉えにくくなっているのが事実だし、当事者自身がどこかで包括的な用語から抜け出ていく局面がある。
それを考えた場合、不思議な一般化されたことばはそろそろの改めて考えてみる時期に来ているような。そんな気がしてなりません。

2012年5月10日木曜日

ボブ・マーリー/ロックパラスト1980

ひと月余りぶりの書き込みになります。この間、基本的に落ち着いた生活をしています。(まぁ、低空飛行の安定、というべきでしょうかw)。個人的には6月末まで一応目処を立てたい勉強を続けています。今月中旬過ぎには実務的なものを手がけていく予定。

今はその過去取得した資格の復習を主に時間を割いていますが、その中でも自分の時間の中で趣味の音楽を楽しんだり。
最近は自分の中でボブ・マーリーを再度真剣に評価するモードに入っていまして。自分が持っていないベスト盤のレンタルし、今年出たマーリー特集のムック本を読み込んだり。

彼が亡くなって昨年で30年で、ボブ・マーリーのドキュメント映画が出来たようです。日本でもぜひ公開してもらいたいものです。

最近、YouTubeで発見して衝撃を受けたのが癌で亡くなる前年の6月、ドイツでのライヴを同国の貴重なテレビ番組「ロックパラスト」で収録されたボブ・マーリー&ウェイラーズのおそらくライヴ全編の映像。これが上がっていて、二日かけて観て、そのテンションの高さ、エネルギー、本気の演奏に食入いるように見入りました。

おそらくここ何十年かでも映像記録としてはベストのライヴ・パフォーマンスに属すると思います。ボブ・マーリーのライヴ・パフォーマンスはその音楽とともに、あるいはそれ以上に得難い体験との話は聞いていましたが、過去のボブ・マーリーの映像記録でもここまでの迫力のものは僕も知りませんでした。

偉大なパートナーたち、ウェイラーズのメンバーも最高です。ベース&ドラムスのカールトン&アストン・バレット兄弟、キーボードのタイロン・ダウニ、ギターのジュニア・マーヴィンに加えて、おそらくこの時期、初期のインターナショナル契約をしてからの初期のメンバー、ギターのアル・アンダーソンとキーボードのアール・リンドがバンドに戻ってこのライヴにも参加しているはずです。彼らは皆、当時の素晴らしいジャマイカのレゲエ・レコードの多くでバック・バンドを務めた偉大なセッションミュージシャンたち。
そして、すべて本国ではソロアルバムを出しているこれまた偉大な女性歌手たち、ボブ・マーリーの妻であるリタ・マーリー、そしてマーシャ・グリフィス、ジュディ・モワットの3人のスターを揃えたバックコーラスグループ、「アイ・スリー」。

この頃、すでにボブ・マーリーは皮膚がんが告知されていて、患部を切除せずその後がんが全身を転移して次の年に亡くなりますが、それを予感していたか、あるいは一度聞いたという癌の完治を信じていたか。それは分かりませんが、とにかくパワフル、エモーショナルで憑かれたような演奏ぶりと、バックの演奏のタイトで縦横無尽に流れていく自在さには本当に恐れ入ります。

1時間33分とボブ・マーリーの好きな人でも忙しくて全編を一度にじっくり見れる人は少ないかもしれません。かつ、このブログの流れにはちょっと合わないかもしれませんが、これほど感動したライヴ映像はほどんど見たことがないものですから紹介せずにはいられませんでした。このブログの久しぶりの更新挨拶として。
それにしても、動画サイトでライヴの全部が見れるのですから凄い時代です。

映像を貼りますが、出来れば直接リンク先に飛んで、ディスプレイが大きい家庭の人はぜひ大画面で見て欲しい。「ジャミング」という曲におけるカールトン・バレットのドラムスの音の重たい迫力といったら!そしておそらくライヴ映像では滅多に見ることが出来ない今や後世へ繋ぐ名曲のひとつである「リデンプション・ソング」など、聴きどころが満載です。

ドキュメント映画もぜひ日本で公開してもらいたいが、このライヴもDVDで発売してもらえないだろうか。




http://www.youtube.com/watch?v=G_0jsIpfL18&feature=related