2010年11月28日日曜日

境界を行き来する時代が来るか?

 年齢がバレるので余り大声では言いたくありませんが、ぼくが思春期だった当時は「こころの中の嵐の季節」に対応する機関はハッキリいって全然ありませんでした。
 不登校という言葉はもとより、「登校拒否」という言葉さえない時代でした。
 対人緊張がひどかった16頃のときは、「境界例(ボーダーライン)」と呼ばれ、悲観した親父は「お前は精神分裂病になったのだ」と気持ちが荒れた私に言い、ショックを受けたものです。それは明らかな誤解だったのですが、当時は思春期心理に関する注目がまだ新しい段階で、的確な診断をつけられない時代ゆえのことなのでした。

 つまり、誰のせいでもなく、時代が思春期の内面の葛藤の理解が弱い時代だった。故にこころの病気としての私は、当時「ひきこもり」先駆例というわけ(笑)。
 やはり対応する理解がありませんから、対応する施設もないわけで、当時まだ「精神衛生センター」と呼ばれた時代に昼間はそのセンターで精神障害の方々と療養作業のようなことをしまして、かなりカルチャーショックを受けたものです。
 でも、同時に当時はセンターに素晴らしいカウンセラーの精神科の先生がいましたから、個人としては幸い、極端に道が外れたということはなかったのだろうと思います。

 いまは子どもには難しい時代だろうと、直に子どもに接点がなくても思います。何しろ子どもは少ないですし、ひとりっ子も多いでしょう。ぼくも昔の人間ですから、周囲の大人が平気で言う「一人っ子は社会性が育たない」というコトバをどこかで簡単に刷り込まれて育ってしまいました。

 ところで、私は一人っ子ではなく兄がおり、しかし元々は兄のほうが神経質で親父との関係が幼少期からなぜか悪かった。その確たる理由は分かりませんが、親父が石原慎太郎氏の「スパルタ教育」の影響を受けて育てて失敗したためもあるでしょう。親父は戦中世代ですから。

 故に、私側から言うと欠席裁判でズルイのですが、兄のストレスが私への日々のイジメに波及したわけで、けして兄弟がいるから社会性が育って良いんだ、とはいえません。そう言い切れる大人はよほど良好な兄弟関係があったのでしょう。でも、「カインとアベル」の話に象徴されるように、兄弟関係は時に激烈な闘争や、力関係の闇を見せるのもまた事実でしょう。

 なぜ今さら自分の過去をざっと振り返ったか、その後もいろいろあるんですが、思春期時期を一つの育ちのターニングポイントとイメージしてなぜこんなことを書いているかといえば、「子どもが難しい時代じゃないだろうか」という仮説と、でも「これだけ子どものことを考えるオルタナティヴな養育機関がある時代がちょっと羨ましい気がする」という両面を考えるためです。

 僕は自分のことしか実感として捕えられず、その実感は今の子供たちから大きくズレている面も多いと自覚していますから、上段・中段の文章のようなことを考えるのです。

 同時に一頃巷をにぎわした「無縁」のキーワードにある如く、もはや「不登校」「ひきこもり」「うつ」「貧困」等々の事柄は大きな社会的包み込みの中で考えねばならない、しかもそれは個別の専門的な面の了解があり、かつ広い枠組みで、と両面において考えねばならない時代に入った、ということを考えるのです。ある意味では重層的・多層的に考えなくっちゃいけないわけで、その意味で援助者は難しい時代にあるな、としみじみ思います。やはり「抱え込み」ではなく、「分かち合い(分担)」の時代に入ってきた、ということでしょうか。

 このところの一連取材の試みを手伝わせてもらって、そのような考えがず~と頭に残っていることです。

 今週の土曜日に「居場所の力」と題するシンポジウムがあるようなので、参加してみようと思っています。西野博之さんという方は存じ上げませんが、地域生活ネットワークサロンの日置さんや、フリースクール「漂流教室」の山田さんも登壇されて話をするようなので、今流行語になりつつある「居場所」の話や、ぼくが十代にはあり得なかった(その意味では自分にも「化石的な価値」はあるのかw)その世代への育ちのサポートの現在進行形について話を伺えればなと思います。

 良い面も悪い面も同時進行するのが現代のような気がしますし、それはいつの時代の「現代」でも同じなのかもしれません。だから、良い面を見ていきたいと思いますね。過去から学んで進んでいく面を。
 今度の土曜日のシンポに関するブログも出来ているようです。

「西やんプロジェクトのブログ」

 今回の文章は上手く書けなかったような気もするので、また改めて。

 そうそう、次の日はレターポストのグループ、「SANGOの会」が帯広でかの地の当事者の方々と交流する予定です。離れた土地の人たちと出会ってまた少しでも視界が広がればいいな、と思っています。

2010年11月21日日曜日

毛利甚八さんはいま何を考えてるかな?


 夫婦関係や家族関係の齟齬や相互のズレを家庭裁判所を舞台に描き(その中には深刻な問題も多いですが)、今読み返しても全く古くならない名作『家栽の人』。そして現代社会の中で忘れられた人間の野性的な強さをサル学者を主人公に描いた問題作、『ケントの方舟』の原作を描いた人。それが毛利甚八氏。

(『ケントの方舟』の感想については、もしかしたら、実在のモデルがいるのでは?という仮定で、「爆問学問」に出演されたゴリラ学の山極教授の回の感想で自分は別のブログで感想を書きました。こちらです。)

爆問のゴリラ学とケントの箱舟  Bridge

 そしてその後毛利さんの原作ではもっとも強烈な問題作、「たぢからお」という作品もありました。歴史的な過去から中央より疎外された土地の土着の神と、そこに訪れた過去にネグレストと関係性の激烈な貧困に置かれた青年が現代においてそのあらぶる神の「依り代」となって、過去と現代を貫く巨大で原初的な人間悪と怒りの表出。そしてその和解、という神話的とも言える力技的作品でした。
 『ケントの方舟』『たぢからお』は、作品そのものは毛利さんの神話的な世界を含む巨大な問題意識のため、ラストの収拾が思うようにつかなかった面もあり、作品としての完成度そのものは「家栽の人」ほどに上手くいかなかったかもしれないと思いますが、それだけ個別・あるいは社会的なるものの問題意識が非常に高かった時期を反映しており、ファンはその熱に引きこまれてしまう要素はあります。

 その後は毛利原作作品で目立ったものに出会った記憶は自分にはありませんが、ちょうど名作「家栽の人」が終了した後、当時の「不登校新聞」のインタビューで「今後は生活保護を受けているアル中のどうしようもないオヤジが不登校の子供たちのための塾を作って一緒に育っていくような作品を書きたいと思っている」と語っていたのが印象的でした。

 その予言はある面では、現代の先進的な地域で現実に実践され始めているともいえます。でも、改めてそれに類するような作品を書いて欲しいという思いはファンとしてありますね。
 そのインタビューでは「自分がわからないことは書かない。どうしても締め切りに追われて分からないことを書く時がありますが、そういう時は泣いて書きます」といった旨のことを語っていたのがまた、グッとくるほど印象的でした。

 その後上記2作の原作を書き下ろしたのちは少年法改正に反対する運動をしたり、裁判員制度の推進側の人として活動していたりしていた様子でしたが、いまはどうされているのでしょう。最近ふと「いまどうしているのか」と思う人です。

 というか、この方についてはいつもずっと「ふと、あの人はどうしているのだろう」と思う存在の個人的ナンバーワンなのです。

2010年11月17日水曜日

本日のSANGOの会は休ませていただいてます。

 どうも今回の風邪は長引きます。
 先週の金曜日からそれっぽくて、日曜日はずっと38度台の後半。
 月、火と訓練校を休ませてもらいまして、静養。
 (火曜日は微熱だったから迷ったけど、後を引かないようにと思って。月、火は年末調整の実務だったから本当は休みたくなかったのだが)。

 そんな次第で本日から学校に出ているのですが、今日は意外にグループワークが多く、いつも以上に喋っているうちに疲れてしまい、帰宅したらまた微熱が。(現在、36度7分)。

 ということで、レターポストの例会、SANGOの会は今週の訓練校のことを考えて無理せず、お休みさせていただくことにしました。いろいろ、話したいことはたくさんあるんですけど。。。

 安物のボンゴを購入しました。



 ボブ・マーリーなどが活躍した70年代のレゲエは「ルーツ・レゲエ」と呼ばれていまして、「ラスタ思想」というアフリカ回帰思想が背景にあるレゲエの豊穣の季節でした。ボンゴで3拍のリズム(アフリカンリズム)を我流で試しながら叩くと、当時のルーツレゲエのサウンドにおけるリズム隊が驚くほどアフリカンなことにびっくりします。
 考えてみるとそれはある意味、必然性があることなのですが。

 レゲエというと、普通連想されるのが「裏打ち」のリズムと呼ばれるギター。例えばリズムギターの「ジャン・ジャン」とか「ジャカ・ジャカ」ではなく、「ンッチャ、ンッチャ」というリズムに関心が及びますが、おそらくその独特のギターのリズムも含めてアフリカ的な音を志向していたのだと思いますね。当時のレゲエ音楽は。当然、ベースやドラムも含めて。

 DUBミュージックはそこにエコーやリバープをかけて独特の浮遊感をのせますから、なおさらミステリアス感を持ちますが、基本は彼らの中にあるアフリカ的なものやトランス状態を求める体感なんだと思いますね。

おや。
なんの話だったのやら。(^_-)-☆



2010年11月12日金曜日

わかっちゃいるけどやめられない

間にNPOの釧路取材を含めて基金訓練の新規事業分野訓練の学校に通い始めてから約1ヶ月半。総務・事務系のコースとして、科目数は多いのだけど実は格段に目新しいという科目は特にないんですよね。それでも一応はその日終わったことは目を通しておいたり、コンピュータは簡単に復習したり、簿記をやったり、年末調整のやり方をみておいたり。
特に社会保険は今後、社会保険労務士の資格をなんとか生かしたいのでね。
少し訓練給付のお金をためてます。ですから、そちらは出来るだけ復習を兼ねて大事に。

本当、社労士会とか入会すると馬鹿にならない金がかかるんで。
行政書士さんもそうですが、開業の敷居が高すぎる。この分野だけは何とか規制緩和してくれないだろうか。でないと、優秀な頭脳が(特に最近の行政書士の試験は別格の難しさ。僕が受かった頃とは比較にならない)埋もれたままになりまっせ。

その点、「カバチタレ!」「特上カバチ」の原作者、田島隆さんは凄い人だ。中卒でボトムの仕事を続けながら海事代理士、行政書士の資格を取ってあれだけレベルの高い作品の原作を書いているのだからなぁ。ああいう人こそ本物のインテリでしょう。

話がまったくそれました(汗)。
いま、一番苦労しているのが「WG(ワーク・グループ)」というグループワーク。基本は就職のための自己確認作業なのですが、今までは職業適性検査にせよ、キャリアシートにせよ、自己分析にせよ、自分自身がやって納得していれば良かったんだけど、今の学校ではこれをグループを作って「自分はこんな人間だと思っているんだけど、みなさん如何思います?」と相互に問いかけあいをしなければならない。
これはかなりキツイっす。

先生が最初に「この自己開示の授業は本当につらいとおもいますが」。と優しい笑顔で脅しをかけられたとおり、実際かなりツライものです。今の学校でやはり一番ツライですね。僕にはね。
今まで12時間受けたけど、疲労はしますね。人に出来るだけナマの「自分自身」を語るというのは。

今日は今まで出会って私に気にかけてくれた誠実な人すべてが言ってくださったアドバイス、「自分の殻を破ること」「固定観念に縛られないこと」を改めて言ってくれた形です。わかっちゃいるけど、やめられない。。。というか、なかなか難しいのだなぁ、これが。

前回のグループワークでも僕は「とてもわかりやすく」見える人だそうで。見た目か、動作か、語り口かはわかりませんが。。。見た通りの人なんだそうです、自分で自分の自己分析を語ったところによると。何か皆がそうだよね、って顔をしてそう言っておりました(苦笑)
意外とそこら辺は自分では気づけてないんだよね(涙)。

「真面目な人のようだから潰されないようにしないとね」「優しい、誠実そうにみえる」「繊細そうだ」「争い事が嫌いだよね?」仰るとおりなのですが、逆にそれが自分にとっての弱さ、脆さに感じてしまうよね。
だから、反転する自分自身に対する強さが必要だと思うのだけど。
言われて10年来、直せていない。まさにわかっちゃいるけど。。。

だからさ。
少しずつね。判っていることだし、客観的にもそう見られているんだから、自分の中で変えていく行動力を身につけていきたいと思います。(小声でそう唄ってみたぞw)

2010年11月10日水曜日

取材で釧路へと

行ってまいりました。
釧路は官民一体で生活問題に取り組んでいる地域であるという事前情報が頭の中で膨らんでいたこともあり、期待も大いに膨らませての行きの車中。結構高いテンションにてレターポスト副代表の吉川氏との尽きない会話で4時間の列車移動があっという間でした。

取材で伺った釧路市の生活福祉事務所保健所若者サポートステーション、民間の冬月荘ハンノキ林スクール・サポート・ネットワーク。皆様真摯で誠実に、そして真剣な対応で接していただき、実に学ぶことの多い2日間でした。

本来、レターポストフレンド相談ネットワーク代表の田中氏自身が副代表とともに取材に行く予定であった訳ですが、アンラッキーにも代表が足の骨折というアクシデントがあり、釧路の取り組みに関心があった私が手を挙げて同行させてもらった次第です。

副代表も、そのような経緯だったため、不安に思っていたとも思います。

とはいえ、今後記事化、原稿化の作業があるわけですが、私個人としては生活福祉事務所の主幹の方を筆頭に、自分自身の関心や問題意識とジャストにつながる6か所の取材先で、全体としても濃密なそして誠実で真摯な思いを伝えてくれた取材の旅だったと思いますので、とても良かったと思っています。

少なくとも、私には夢のような2日間で、この2日間の記憶は良き思い出として、消えることはないと思います。

最初の取材先で福祉事務所での先駆的な取り組みの話を聞けたことは大きなことでした。
その出会いがこの2日間の釧路取材の大きなガイダンスとなり、ラストの冬月荘で、一連の流れのまとめがあった、という感じです。(中学生たちの学びの日に取材できたことも大きなこと。そのような場で臨機応変に集いに取材モードで入って行った副代表は流石でした)。

もちろん代表の、田中先生が取材されたほうがより深い話を引き出せたでしょうが、個人的には「本当に、釧路に行くことが出来て良かった。ラッキーだった」と思います。

駆け足で6か所を廻ったため情報不足からくる準備不足の面は否めなかったかもしれません。それでも支援者たちの誠実な思いは十分に伝わってきました。皆様、真摯な取り組みをしているところでしたので、いずれの日にかまた伺えればと願うところです。

基金訓練に戻る私は、基本的にこれ以上新たな取材がないのでこのようなことを書いていますが、副理事や理事の人たちはいましばらく頑張らねばならないと思うので、どうか身体だけは気をつけてコンデションを保ちつつ、自分のペースでいどんでくださいね。と伝えたい思いです。

後は釧路で学んだことをこちらでどう生かし、フィードバック出来るか。感じたことを忘れずにいられるか。自分自身が試されるかな、と思っています。

2010年11月4日木曜日

文化の日に

文化の日の昨日、その名にふさわしく「札幌芸術の森」にて「文化庁メディア芸術祭-メディアアートの未来へ」という催しを観てきました。
これが無料で午前10時から午後6時まで2本のアニメーション映画作品と、その間にメディア研究している人や、いま現にクリエイターとして活躍している人を招いて講演やシンポジウムを行うというイベントで、その充実度が半端ではありませんでした。

貧乏たらしい話ですが、駐車料金500円かかるはずが、昨日に限っては駐車料金も無料!これはありえないぜ、と、いま・本日振り返って思います。
評価が高いと友人のハイロウさんから聞いたアニメ映画作品『サマー・ウオーズ』をラストに据えたこのイベントはその上映前に監督さん自ら舞台トークするというおまけつきでしたが、後半になってその監督が登場するころには客席はほぼ満員で、何も知らない自分にもその熱気は伝わり、「これは何事じゃい?」と思ったのですが。。。

作品を観てぶっ飛びました。いやいや、これは。驚きましたよ。
名作でした。デティールも、エンターティンメント性も、単なるアニメで片づけてはいけない。というか、アニメ作品を馬鹿にしてはいけない、と思いました。比喩として宮崎駿を継ぐ、という言辞は宮崎作品と表現のベクトルに違いがあるとは思いますが、まさに宮崎駿を継ぐ人なのかもしれない、と真実思いました。現代の中でエンターティンメントと問題意識を両者きちんと表現できる作者として。

シンポでの新しい今後の取り組みの話も興味深く、まだそちらの世界に疎い自分には整理がつかないところも多いのですけれども、如何にも文化の日らしい刺激的な一日だったのは間違いありません。
そうそう、新しいメディアを使った展示、それも見学者参加型の展示物もありました。そちらは子どもも楽しめる内容で、親子連れも多し。

詳しい内容、きちんとしたルポに関しては、このイベントを紹介してくれて一緒に見に行ったハイロウさんのブログが正確。どうか、そちらのレポートをぜひ読んでくださいませ。

Hi-log 2特別シンポジウム メディアアートの未来へ

2010年11月1日月曜日

どうやら。

先の土曜日のNHK討論「日本のこれから」に湯浅誠さんが出演されたようで、両親は見たそうです。私はクラークシアターで映画を見ていたので、そちらは観ていない。どちらにせよ中庸というより、ニコニコ「まあまあ」の三宅アナが苦手なので見なかったろうことは間違いありません。あのスタジオでの議論がかつて生産的に終わったという形跡もないし。結局、かみ合わないんですよね。。。

それはそれとして、最近「パーソナル・サポート・サービス」で検索が多く引っかかっています。親に「湯浅さん、パーソナル・サポート」について何か説明してた?」と聞いたら説明していたよ、ということなのであの番組を観た人が関心を持って検索しているのでしょう。

ことほど左様で、今のところパーソナル・サポ-ト・サービスモデル事業は世間認知されているとは思えません。もしかしたら、テレビの全国放送ではほとんど一昨日が初の公的な認知の場だったのかも?
それほど知られていないのが大変残念ですね。

来週の8,9日と先駆モデルである釧路に取材に行く予定です。