2014年12月13日土曜日

インタビュー第三弾 野村俊幸さん(不登校・ひきこもり支援活動家)

お待たせしました。インタビューの第三弾をお送りします。
http://ethic.cloud-line.com/page27253/

 今回は函館で精力的な若者支援、及びその家族支援をされている野村俊幸さん。その活動の内容とバイタリティはぜひインタビューで確認していただきたいですが、函館にうかがった際は午前から4時まで会合参加をコーディネートしてくださり、それからすぐに二時間近くインタビュー、そしてそのまま夜に当事者メンバーも含めた親睦会をセッテングしてくれた上、ホテルに帰る市電が来るまでずっとお付き合いをしてくれるサービスぶりで、すごいなあと恐縮するばかりでした。
 それは和歌山の宮西照夫先生の病院にうかがった際も似た感じで、場に集う若者たちと諸々雑談したあと、病院終了後、食事をご馳走してくれた上、帰りはホテルがあるJR和歌山駅から結構離れた南海和歌山市駅まで行くバス乗り場まで案内してくれた上に、次の日の和歌山城見学にその日付き合ってくれたリーダー格の当事者の方に「君、お城の紹介してあげたら」とまで。ちょっと躊躇してしまいまして、冗談交じりで「観光はひとりが好きでそれに慣れてるものですから」と言ってしまいましたが、とても真面目で読書好きな感じの人でしたから、いろいろ話が合ったかも知れず、今思えば少し残念だったかも。ただ、次の日は飛行機の早割り切符の関係から、午後の早い時間に帰る必要があり、ということもありました。

 話を戻すと、今回のインタビューは「不登校」と「ひきこもり」の違い、というざっくりといえばそういう流れでしたが、野村さんが言う「不登校は行かない、という選択肢だけれども、ひきこもりの場合は「何かしなければならない」回答を常に求められる」という整理は深く納得することでした。
 ひきこもりに関して言えば、和歌山の宮西先生は中南米の民間精神診療のフィールドワークを長く続けてこられた人ですから、視線には「文化精神医学」というものもあり、その国、社会の文化的な苦悩の表現、それを「文化結合症候群」といいますが、ひきこもりも日本の文化結合症候群という捉え方もされています。元々、日本には「ひきこもる」ことを美徳とする文化があった。ですが、グローバリズム、新自由主義経済の過剰な競争主義によってひきこもる美徳がひきこもる「問題」となって一層こじれが起きている、そんな見立てです。来年8月末に出版予定の自分のインタビュー集もこの観点が基底としてあると考えてくれても良いです。あくまでも見立ての一つですが。ひとり、ただ宮西先生だけのものではありません。

 さて、函館の野村俊幸さんのエネルギッシュな活動は実践とともに著書にもまとめられています。文庫『カナリアたちの警鐘』はとても分かりやすく、かつ誠実さに溢れる本です。野村さんはお子さんの不登校を経た結果、いまの精力的な若者支援をされているわけですが、葛藤やご自身が反省されていることもまっすぐに書かれていて、読んでいる僕はその真率さにまず深く打たれました。文章もその真率さが一貫して流れています。平易ながら内容は不登校、ひきこもりに留まらず、いじめ、フリースクールの歴史、子どもの権利条約、ソーシャルワークの原則など非常に幅広く勉強になります。サポートステーションでの相談員も勤める野村さん。直近の若者支援の行政を含めた支援情報が含まれ、そのアクチュアリティにも感心しました。多くの人に手をとって読んでもらいたい本です。お勧めです。


2014年10月12日日曜日

穴があったら入りたい 自己責任の世界

「穴があったら入りたい Ohh 俺の人生何だか~♪」
という失敗をしてしまった。
金曜日、搭乗すべき飛行機に搭乗できなかったのだ。
その日にすべき大事な仕事に間に合わず、航空会社のカウンターで既に初日の主業務の仕事にいけない無念を秘めて午後の空き席を待ちながら、それにしてもどういうことだろう?この三連休前日のこの10時台後半の人混みは。観光客と出張客がバッテングしたのか、搭乗手荷物検査ゲートでアウトを食らわした飛行機会社に言いたいこともあるが、落ち度は余裕を持ってチェックインしなかったこちらにあるのは間違いない。
それにしても。飛行場という場所は自分がそういう状況に陥って落ち込んだぞの主観から見てしまうせいかもしれないが、何とも機械的で機能的に見える場所だ。寄り集う多数の人々のほとんどが地下鉄、JRと同じように飛行機への搭乗が日常の場に見え、年に一、二回しか乗る機会がない自分には非日常の場だと感じる。ここには温度差とか、落差、というものを皮膚で感じる。
 
飛行場を後にして、悔しい思いを何時になく強烈に感じながら、夜が明けて朝、自宅のベッドの上でかなり別の切り口でぼんやりあの場の印象を考えた。以下は印象論のこじつけがましさに過ぎないのだけど、何か感じてくれる人が居たらありがたい。以下、突然具体の話から、観念的な話に飛躍します。
 
個人主義的自由の究極の言葉であるといえそうな「自己責任」という言葉と、あえてそれに対概念として「連帯」という言葉を対置してみよう。すると、そのどちらに人々が親和性を抱くのかということは、まさに「共有する時間」の多寡に尽きるのではないだろうか。共有する時間が長くなれば「連帯」へと傾き、短くなれば「自己責任」のフィーリングに近づく。
 
その究極が飛行場だ。あの短時間で遠くへ。物理的に人が長距離移動をする場所。空の上に向かって人々が移動する場所。
飛行場の変化はここ十年くらいで著しい。自動券売機、バーコードによる搭乗、ゲートで差し出される通信機器。見渡すとほとんどの人が操作するスマートフォン。
 
個々が黙々として、機械の操作を理解して、ドジなことをしない。少なくとも金曜日に限って言えば、客の数に比例する搭乗事務職員はいない。そう、飛行機が日常化しているようで、乗りなれない人に目をつけて声をかける余裕のある人などいないのだ。奇妙にも、平日の銀行や病院など、日常的な空間のほうが立ち止まって場所の様子を眺めていると黙っていても向こうのほうが声をかけてくるくらいだ。父親の入院していた病院が常にドアマンみたいな人が居た、という奇妙な光景が記憶に焼きついているせいもあるが。。。
で、飛行場はまさに「自己責任」という言葉がピッタリ来る世界が展開している。それがまさに普通の風景であり、景色。
「連帯」とは全く無縁の世界。
 
空席待ちだって優先順位はクレジットカードつきの「会員」だ。そう、もうひとつの世界は「クレジットカード」そして「会員カード」の社会。ポイントメリットのとしての会員。個人的にとても鬱陶しいくらいの、どこもかしこもの会員制。
これらもいつの間にかそれを、そういうシステムを「知る場」にいないと、いとも簡単に取り残される。つまり教え、導き、協同しようとする「連帯」とは無縁の世界だ。
都市は「自己責任」という言葉が実感としてピタリとはまる感じがあるのは、日常が都市化している人々にまさに日常を表明する言葉としてそれがあるからなのだろう。
思い返せば、空港に立ち尽くした僕はしみじみそう思ったのだった。-もちろん、すべてはどこまで言っても自分のぼんやりぶりに尽きるのだが......。そう、どこかから聞こえてきそうだ。「自己責任だろう」と。
 
先に記述したように僕にとって飛行機に乗るのは基本的には非日常的な世界。そして出張族や移動者たちには地下鉄、JR並みの日常。それは空港職員ももちろん。とはいえ、真逆に「田舎暮らし」というのもまた僕にとっては非日常の世界。いい年をして情けないが、一つの極端ともう一つの極端を持ち出しているのかもしれないけれど、「ああ、拠る部がないなあ」と、そういう時、感ずるのだ。
 
例えば、地下鉄だっていつの間にか「ウイズユー・カード」が一方的に廃止されてしまった。おそらく「サピカ・カード」に変えざるを得ないだろう。都会の特徴であるゲートを通り抜けるときには光コードを重ね合わせて、ピッ、ピッ、ピッだ。これほど「自己責任」という言葉が似つかわしい自分移動のありようじゃなかろうか。そしてスマホ。空港での人々の実務的な営みはスマホ中心に行われているように思われた。
 良き倫理的な人たちが公共空間でのスマホ覗きの営みが他人への想像力欠如の入り口として嘆くように、僕も風景として好きじゃない。そして僕はスマホじゃなくて、携帯モバイルでアイパッドだから、同時にスマホの便利さがうらやましくもある。これはほんの何年かの間の形態の変化だ。社会がスマホにあわせ、ICに合わせているのに、日々を都市で過ごす、稼ぎに出てくる人たちがスマホ社会に背を向けることなど出来るだろうか?ソーシャルネットの抱える問題はそのひとつの副産物に過ぎないようにも感じられる。常に向き合わされる機械と共に動いていく近未来。
 
ネットでYahooなどの質問に対して「ググれよ」という返事が返ってくるのは「お前の自己責任だろ。情報は自分で探せ」と明らかに突き放していると同時に、そういう潜在的な声がごく普通の人にも共有されているのではないかと思う。自己責任。その言葉が実感を感じている多数の人々によって、あるいはそう名づける人によって日々突きつけられてくる感じはある。

2014年10月4日土曜日

エレカシライブレポ。

 
 エレカシの単独ライブに行って来ました。ZEPPサッポロ、一階オールスタンディング。
 結構ステージ前の方に陣取ることができたので、フォトジェニックな4人(+30代ギタリスト1名)を拝めることができた。映像で見るのと全く同じで格好いい。特に宮本。48才、とても見えない。見た目、若すぎ。そして唄うその姿は男から見てもセクスィ。稀有な存在ですわ。
 それにしても音がでかかった。1時間以上経った今もこちらの耳がまだおかしい。高音、効かせ過ぎかもしれない。ポップなシングル曲では宮本の声の素晴らしさが生きていたのだから(特に今日の『悲しみの果て』は出色)、もう少し宮本の声を生かすサウンドバランスがあって良かった気がする。まぁでも、宮本の声もでかいが、そのミヤジのギターの音もデカイよ(笑)。石くんのギターはだから、とてもノーマルなんだよな。


 今回のステージはキーボードの蔦屋さんが帯同してないせいか、ポップな曲、バラード曲が控えめで、硬派な楽曲が多かった気がする。初期の曲も多い。特に「星の砂」をやったのにはおお、と思った。それよりもっと古い曲として紹介された曲もあったが聞いたことがない気がする。なんでも高校時代の夏休み頃に作った曲とかで、後の和風独自路線を思わせる。ステージでの宮本の動きもこの曲では初期っぽい。(後で分かった。その曲は『BLUE DAYS』)

 何しろキャリアが長いから気合を入れて次から次へと曲をやる。そして意外とタイトに一曲一曲をまとめてる。曲間のナレーションも、ほとんどない。
 「明日に向かって走れ」発売前のGW頃に来た96年のライブでの曲とその熱量との落差があるとっ散らかった宮本喋りに爆笑したものですが、もはや彼ら王道なのでそういうのはなく、とにかく曲を聞かせる。アンコールラストは花男。ファーストから知る限り4曲。(※『BLUE DAYS』を入れて5曲)。彼らのファーストアルバムは基本的にシンプルで分かりやすいメロディのロックンロールに「それを言っちゃあオシマイヨ」の歌詞がドンと乗っかる痛快な名盤なので、素直に嬉しい。
客掴みを狙わない王道ロックを聞かせたエレカシ。そういえば、今回は石くんいじりもなかったなあ。
gにしても、音がでかかった。本編ラスト近くで宮本の耳からイヤホンが落ちたので、防音イヤホンを使っているのかもしれないが…。

 とにかく宮本&エレカシの全力投球ぶりには頭が下がる。言葉も力強いがそのバンドの姿がそのまま勇気を与えるバンドに違いないです。凄過ぎでした。有難うございました。(9月21日)

PS。この曲はライブではやりませんでしたが、実に痛快な大人の世界を揶揄するお茶目な曲。怒り、苛立つ宮本がこういう形で現実を共々の問題としてかつユーモアも織り交ぜて展開するまで成長するとともに、その大人になっても野太い力量に僕は思わずガッツポーズを取ってしまいます。

 

2014年9月13日土曜日

インタビュー第2弾 平野直己さん(教育大学札幌校准教授)

 インタビューの第2弾。北海道教育大学札幌分校の平野直己先生の原稿が出来ましたので、「インタビュー・サイト ユーフォニアム」掲載させていただきました。
http://ethic.cloud-line.com/interview/04/

 平野先生も精神分析ベースの臨床心理の先生ですが、ざっくばらんなお人柄で、元原稿のリコーダーを起こしたら2時間のお話でワードで55ページにもなったという(笑)、何だか今まで最も会話の相互作用が頻繁だったとてもリラックスした笑いの絶えない時間でしたが、そういう雰囲気の中にもキラッと光る鋭い分析が随所にあって、纏める際もなかなか捨てる部分がないな、と思うばかりでした。

 結局4回に分けて掲載させていただく形をとりました。お話は平野先生の語り口を極力活かす形をとっています。領域的に関心のある方にとっては堪らない内容になっていると思いますので、是非時間がある際にご覧になってくださいませ。

 特に4回目にまとめて内容を挙げた壮年期の子どもが老いた両親を見ていく「下り坂の心理」、下山の心理学は自分のリアルタイムの関心にまさに応えてくれる貴重な内容です。この件に関しては教えを乞う側に留まらず、平野先生も同列に考えられる話題として語ってくれたのは個人的に非常に嬉しくもありました。内容も、あまり今のところ語られていない斬新な内容だと思います。世代が近くないとあまりピンと来ない部分もあるかもしれませんが、注目に値するものと久しぶりに自賛してしまいますです

2014年8月8日金曜日

第一次世界大戦から100年

今年は第一次世界大戦勃発から百年ということらしく。この第一次世界大戦というのは、現代を知る上でも非常に意味あることなのでしょう。少なくとも欧州におけるインパクトは大きくて、甚大なる死者の膨大な数に収まらず、「理性主義」を強く信奉し始めていた西洋人にとって理性主義に対する懐疑を与えることになりました。日本人にとってみれば、膨大な被害と加害を受け、与えた太平洋戦争敗北を含む第二次世界大戦のほうがインパクト大でしょうが、ヨーロッパにおいては第二次大戦は第一次大戦の続編、という趣きがありそうです。

 当時、オーストリア皇太子がボスニアでセルビア主義者によって暗殺された問題が発端で、事柄自体はオーストラリアとボスニア、セルビアという局地的な問題でした。ですから、当時は誰もこの戦争が4年以上に及び、世界中を巻き込み、欧州内だけで死者が一千万にも及ぶ大戦争になるとは思われなかった。未曾有の大戦争、そして国家を挙げた総力戦になったのが第一次世界大戦から始まる二十世紀でした。 いま、盛んに集団的自衛権が活発に論じられていますが、まさに当時は「同盟国」の同盟関係が引っ込みがつかない状況を作ってしまい、相争うという膠着の図式を描いた側面があり、その問題こそ「集団的自衛」の危険性にまるまるトレースできるでしょう。

 第一次世界大戦が虚無と怒りの総体であるヒトラーを生み出したとも言えるでしょうし、西洋的な「理性主義」への新たな懐疑が第一次大戦後に生じたのも確かです。社会主義の人たちは資本主義の矛盾が国家間の戦争を生み出すと見て、後にソ連邦を生み出し、社会主義や共産主義への対抗の論理が生み出される契機にもなりました。

 しかし、人間の社会が維持されるのには知性と理性しかないでしょう。如何に理性を強くするか。それが二つの大戦を経過した心ある世界の人たちの問題意識ですし、その方向性で動いている世界でもあります。同時に、たとえ先進国でも理性主義を鍛える契機を失いつつある部分もあるのが現在、ということでもありましょう。

2014年7月16日水曜日

大人も社会を学ぶ

今後のことも見据えて拙編書インタビュー集「ひきこもりを語る」を読み返していて、ある識者の「大人も今の社会を学ぶということですよ」という言葉に出会って、これだな、と思いました。

もと当事者として社会が分かっていない、多彩な各自の専門分化した仕事などの領域が広大で大人の年齢になっても社会が分かってないという漠然とした不安は常にありました。分からなさ過ぎることがハンディになっているのではないのか、とも。

でも、最近の物凄い勢いでの社会変化、特にテクニカルな環境が与える人々の意識変化など、もはや多くの人が社会を見渡せないんじゃないかな、と思うのです。

であれば、おそらく機能分化した各分野で物思いながら仕事をされたり、役割を果たしたり、あるいはそれらをキャンセルしている人たちの考えって一つ一つが価値があるんじゃないかなと最近思うようになりました。

私としては、それらの一つ一つが自分が思うことと一致する点や思いもよらぬ点などさまざまだと思いますので、それをインタビューという形で不器用ですが、お伝え出来ればなと思います。
「大人の人も学ぶ社会」のサイトがもし構築できたら凄いことですね!
夢だなあ。でも一人では限界がありそうです。長い目で見たら誰か協力者がいればなぁと思います。

あと、ネットは不特定多数なので、ネットに上げられることに関して困りますという話も今後出てくると思うので。。。その点も課題になるかな、と思っています。

2014年3月22日土曜日

新書「ひきこもりを語る」販売中


 新書『ひきこもりを語るーひきこもり経験者が訊く八人の有識者へのインタビュー』、先週土曜日に完成本が届きました。
 348ページですと、流石に分厚いのですが、定価500円で販売しております。
 
 
 幸い関係者を中心に評判もあり、現在残部数が35部程度になります。
 通して読むとさすがに軽い疲労感を感じるかもしれませんが、冒頭最初の精神分析の考えから問題を考える安岡譽先生と、最後8人目の釧路で地域生活福祉の先駆的活動をされている櫛部武俊さんのインタビューが円環状につながっているような思いに駆られます。
(編者自身がそのように書くのもおこがましいですが)。

 下の長文記事に記したように、話を伺った先生たちの専門領域はこの種の本にしては結構幅が広いと思いますが、多様性とともにある種の共通性があると思います。其の辺も組み上げてくれれば深甚なる幸いです。

 本がやや厚めのため、クロネコメール便が使えず、やむを得ず「ゆうメール」にての発送になりますが、関心、興味がある方はぜひ当方にメールにてご連絡ください。その際、お届け先の郵便番号、住所、お名前をよろしくお願い致します。
連絡先:tituart@gmail.com

 郵便振替用紙(青色の払込取扱票)を同封させていただきますので、そちらに口座番号等をご記入の上、振替用紙にて書籍代(一冊・500円)を送料込みでご納付ください。ATMですと、振替費用が80円で済みます。
 

口座記号番号 02710-0-101624
加入者名 杉本 賢治

<ゆうメールによる送料の概ね>
1冊 215円
2~4冊 340円
4冊~7冊 450円
8冊以上 590円

※尚、ローカル月刊雑誌のフラッシュニュースに掲載される予定があるようですので、関心のある方はお早めにご連絡をいただければ有難いです。また、配送封筒の準備等がありますため、やや配送が遅れるかもしれません。そちらは準備出来次第、迅速対応致します。

2014年3月3日月曜日

インタビュー集『ひきこもりを語る』3月中旬刊行予定。


 
 この度、個人出版ですが、『ひきこもりを語る』というインタビュー集を新書にて刊行する運びとなりました。完成は3月14日を予定しています。
 
 このインタビュー集の原点は、おおむね35歳以上のひきこもっている人たち同士をピア・サポートするNPO法人、「レター・ポスト・フレンド相談ネットワーク」の隔月通信会報誌にあります。通信会報での企画を考えていく中で、「ひきこもりに詳しい有識者に当事者視点からインタビューを行っていくことはできないだろうか?」というアイデアが出た中から始まりました。
 
 インタビューは助成金を戴いて作成した同NPO法人会報誌『ひきこもり』2011年11月号から2013年3月号掲載分まで、7人の先生方にお話を伺いました。実質、11年9月から13年2月にかけて行われたインタビュー7本の原稿であり、この書籍においては基本的に各先生の語られた内容をそのままの形で起こしてあります。そこに幾人かの先生が若干の補足加筆校正を加えて下さり、幾人かの先生は編者の起こした原稿そのままで構わないというかたちで書籍化させていただきました。また、加えて2010年10月に釧路で行った、当時釧路市生活福祉事務所主幹であった櫛部武俊さんの生活保護行政における「釧路モデル」についてのインタビューも加えてあります。
 
 発刊に思い至る理由として、通信会報ではやむを得ず盛り込めなかった多様な論点があり、それが公表されないままに完結するのは余りに惜しいこと。それが平均約二時間の各先生のお話を起こした原稿を幾度となく読み返しながら、全体を通し(ごく小さな枠ですが)、世に問う価値があるという思いが募ったからです。
 インタビューアーとのやりとりで臨場感を与え、大事な話をやさしく伝えることができる。論文のように肩肘張らず、さりげなく深い話を伝えることが出来ているのではないか。ならば、理解を得られそうなひきこもりに関心のある人たち、家族の方々、当事者の方々にも本書を通して伝えていきたい。.これが編者の本書刊行の動機です。
 
 この本は3部8章から成り立っています。第一部は「ひきこもりを語る」第二部は「発達障害を語る」第三部は「社会的排除の観点から」という構成になっています。社会的引きこもり圏の議論。発達障害とひきこもりの関係について。そして現在の社会状況の中で排除型社会が生み出す問題としてのひきこもり。そのような多様な観点から成り立っているのが本書です。
 幾人かの先生がインタビューで語ってくれていますが、ひきこもりへ至る原因は実に様ざまです。その様ざまにアプローチする際において、各専門分野の先生方により幅広く、かつ質の高い話を聴くことが出来ているのが本書ではないかと思います。無論、私たちはインタビューアーとしては素人であり、あくまでも元ひきこもり経験者としてのスタンスですから、先生方が持っているポテンシャルを上手くすくい取ることが出来きれていない、鑑識のある人にとっては引き出しに物足らなさを感じる場合もあるかもしれません。そこは是非ご確認いただいて、客観的な評価をいただきたいところです。
 
 編者の問題意識を反映して、援助の方法よりもひきこもりの人と向き合う際の援助者側の持つ姿勢や理念を感受しつつ、主にその観点から話を伺っています。ですから、即効的な話を求める人には余り役に立たないかもしれません。むしろ「ひきこもりという現象が起こること」の”意味”を重視する姿勢が全体を通してあると言えましょう。
 
 インタビューは全面的にNPO法人レター・ポスト・フレンド相談ネットワーク副理事長の吉川修司氏に同席をいただいて、要所要所で適切、かつ要となる質問をしていただきました。友人でもある彼の同伴が編者である私にとってどれだけ心強いものであったか、筆舌に尽くしがたいものがあります。いわばこれはインタビューで語ってくれた先生を含め、吉川氏も含めたコラボレーションの成果です。そして、場を提供してくれた、レター・ポスト・フレンド相談ネットワークのおかげでもあります。

ひきこもった人たち葛藤が著しい時期はまず自分自身の混乱から抜け出す必要が確かにありましょう。そして混乱から抜け出したあと、どう社会との接点を持っていくか。この問題が次に巨大な壁として立ちはだかります。多くのひきこもり界隈の議論は就労などの「経済的自立」と絡め、ここが議論の最大のポイントになっていると言えるかと思います社会的な参画の仕方について。
しかし多くの場合、当事者がその議論の主体にはなってはいませんこの点も今後考えていかねばならないポイントでありましょう。支援のある環境においては、支援の枠を継続していく中で支援と非支援の関係性が新たな課題となって浮かび上がっている時代だと思います。また真逆に、現にいま、支援そのものが届かない環境にある地域もあるでしょう。
このように、率直に言えば難題がないとは言えなくて、当事者自身がいま、議論の主体になるのもまた、なかなかハードルが高いと言えましょう。最大限理想的かつ夢想的な可能性は、自分の言葉を持ち、表現を持ち、社会の中で敢然と声をあげる自分自身になってしまうことなのですが、それはおそらくあまり現実的ではないし、夢想的な話にも思えます自分自身省みて、まさにそうですから)。
つまり、今の自分が出来る代替案はこのインタビュー集のような方法でしかなかった、とも言えます。個人としての引き出しの限界ではありますが、成し遂げたいことでした。
 
 インタビューをさせていただいた方の何人か方々とは今でも緩やかに接点があります。それはこのような小活動をしたことの最大メリットでしたですが、いわゆるひきこもりのゴールとか出口は先に述べたようにそう簡単に見えてくることではありません。就労期を大きく過ぎた多くの当事者や親御さんたちが厳しい未来を予測せざるを得ないように、確かに年を重ねれば一層大変になっていくのも事実ではあります。しかし、インタビューを続けていく中でどうしても考えてしまうのはこの社会の経済状況も含めた閉塞性であり、それは自らの過去の後悔なりに拘泥する領域を超えた部分であって、逆に考えると「新たな生活の方法をひきこもり当事者が先頭を切って調べていく選択肢や、前向きな勉強への契機たる役割があるのではないかと思えてくるわけです
 
 全ての人々が、とは言いませんが、多くの人たちが人生で悪戦苦闘を強いられる現状ですそのような社会で苦闘する中で、少なからず人をいじめてはじき出す人もいれば、もろく崩れてはじかれていく人もいるわけです。メディアを通して語られる不穏な言葉や動きとはまた別に、日々、人と人との関係がもつれたり、そのもつれを再構築するために頑張る人がいたり、あるいはそういう微細な援助の眼前に立ちはだかる大きな壁の前でくじけそうになる誠実な人たちがいるのだろうと思われます。そのような人たちの「こころの汗」は目に見えないところで続いています。世の中に「見えていかない」可視化されない苦労とともに歩みつつ。。
 
 インタビューに参加してくれた方々は、こころの最深部から考える精神分析理論ベースから、社会と心理のつなぎ目で考える研究者の方。心理テストを元にカウンセリングを行う新しい実践研究者。発達障害の特別支援教育の先生から、自閉症スペクトラムの臨床と福祉の実践者の方。そして社会的排除の観点からの社会教育的見地の先生から、釧路の先駆的生活保護行政を行ってきた支援と非支援の循環型福祉を考えてきた実践者、と。多彩な顔ぶれの話が聞けたと多少の自負はあります。
 
 インタビューを続けながら、各先生のお話を伺って新たに思うことは、民主主義の成立条件は、もっとも小さな、もっとも目立たない人の苦労の声に耳を傾けられるかどうかにかかっているのだろうということでした。そして、最も良質な社会の形はそういうところにあるとも思うのです。「ひきこもりの問題」を考えることは、そのような社会構想ともリンクしているだろうと思われます。おそらくひきこもった経験を持つ私たちが日々自らを問いかけ、試されているように、社会も問われ、試されているのではないでしょうか

 前置きが大変長くなりましたが、本書は新書サイズで348ページ。定価500円で配布致します。200部作成し、現在、献本分を含め、約150部弱の予約があります。残部数を配布させていただきたいと思っていますので、関心のある方はご注目いただければ幸いです。
 具体的なご納金の方法は改めて取り急ぎお伝え致します。まずは関心のある方、情報の詳細を知りたい方、予約をご希望の方はメールにてご連絡ください。
 
以下、インタビューさせていただいた先生方の顔ぶれを紹介します。
第一部 『ひきこもりを語る』
・札幌学院大学大学院 臨床心理学科前教授 安岡 譽
・札幌学院大学 臨床心理学科准教授 村澤 和多里
・札幌学院大学 臨床心理学科准教授 橋本 忠行
・こころのリカバリーセンター所長 阿部幸弘
第二部 『発達障害を語る』
・札幌学院大学 人間科学科准教授 二通 諭
・発達相談室「なっつ」発達支援室「ぽらりす」 相談員 山本 彩
第三部 『社会的排除の観点から』
・北海道大学大学院 教育学研究院 教授 宮崎 隆志
・釧路市生活福祉事務所 前主幹 櫛部 武俊

ご連絡はこちらにて。 メールアドレス:tituart@gmail.com

2014年1月10日金曜日

年末年始に見た洋楽ドキュメント

 
 今年の大晦日と元旦、そしてここのところ、久しぶりにレンタル作品でミュージシャンのドキュメンタリービデオを見ていた。今の自分は映画は基本、ドキュメンタリー系が一番馴染みやすく、かつ洋楽音楽ファン(クラシック除く)。それゆえ、一本のライブ映像以外、3本の洋楽ミュージシャンのドキュメンタリー映画を見たが、実に、どれもが染みた。
 その三作はジョージ・ハリソン「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」、ジョン・レノン「ジョン・レノン・ニューヨーク」、ボブ。マーリー「ルーツ・オブ・レジェンド」、そして「シュガーマン 奇跡に愛された男」。
 いずれも最近DVDレンタル化された音楽ドキュメンタリーなのだけど、特に「シュガーマン」を筆頭にたまらなくよかった。
 
 ジョン・レノンのドキュメンタリー関連の作品は実に多いんだけど、今回はソロ二作目以後、妻、ヨーコの第二の故郷、アメリカニューヨークでの生活を描く部分に特化した作品。当時ニクソン政権下のジョン・レノンは政府のブラックリストに載っていて市民権をなかなか持てなかったことは有名だけど、いままでこの辺のアメリカ政治との確執は詳しくなかった。二作目のソロ、「イマジン」発表後に渡米するレノンだけど、今回これらの映像を見て驚いたのはアメリカ上陸直後からかなり強烈な政治運動家としてのレノンの姿が映し出されていること。アメリカのベトナム戦争などの反対運動を行なっている若者や、反体制運動の若者たちもレノンに対して上陸する前後から期待をしていた様子だし、レノン自身もこの時期が最も政治運動家、反戦運動家として自己表明をしたい要求に駆られていたと思われる。上陸して、すぐアジテーションを始めるレノンはかなり激しい。その激しさには彼自身の説得力のある声や姿勢(スタンスとルックス)がある。一言で言えば、カリスマ性がある。それゆえ、ニクソンに睨まれ、ブラックリストに載り、常に強制送還、あるいは露骨な嫌がらせで自らアメリカから離れるようにさせることを望んでいた政権の動きがあった。それでも踏んばるレノン夫妻。
 
 しかし、ニクソン再選の知らせの直後、完全に落ち込んだレノンはオノ・ヨーコが目に見える場で別の女性と寝てしまう。僕は今までヨーコと別居して青年期に戻った堕落?期の”ロスト・ウィークエンド”期は彼らのあいだに紆余曲折があっての末、と思っていたんだけど、意外とダイレクトでストレートなレノンの背信行為?によるものと知って、レノンの直情径行ぶりに、変に拍子抜けしてしまった。それだけ自分自身と外部の圧力で緊張が高まり、シリアスになりすぎてしまった反動が出たのかもしれない。レノン場合、それが普通よりも余りに振幅が激しいし、エネルギーがパワフルなので、追いつけないところもある。まあ、その後またジョンはニューヨークに戻ってヨーコと再会、ヨリを戻して子どもが出来て、ハウスハズバンド。一時引退状態、となるわけで。。。それが、80年。まさにStrating Over。「ダブル・ファンタジー」で復帰した途端、射殺されてしまう。。。
 
 こう考えるとアメリカでのジョン・レノンの経過は、激しい政治アジテーター⇒放埒なナイトライフ(西海岸へ)⇒穏やかな子育て期⇒音楽業界第一線に復帰。その途端に殺される。。。という何とも振幅の激しいアメリカでの生活。でも、この生活もすべてニューヨークに上陸した30代前半に起きたわけで、短い一生、20代で英国ポップの王様、そしてニューヨークを軸に全く違うような第二の人生という感じで、実に密度が高い生涯だったと言えるし、ビートルズでの青春は他のメンバーと共に歩み、アメリカでの生活では一層、妻であるヨーコに依存してたカリスマだったんだなあと思う。
 そんな感想を持ちました。

 持ちました、とさ・・・、という感じで、実は「シュガーマン・奇跡に愛された男」について書くのが主目的だったハズなのに、ジョン・レノンだけでここまで書いてしまった。。。
 昨年の「秘密と謎」も放り出したまま、別のテーマに取り掛かったら、これも一回で終わるはずが予定外。
 こちらの音楽ドキュメント映画の感想は続けられると思うので、中途放棄せず(なるべくね)、今後も書きます。書きたい気持ちはありますので、すみません。

 なお、今寝かせてしまっているほかの二つのブログがあります。そのうちの洋楽中心ブログにこの記事は同様に載せます。常に同時に書くかはわかりません。「シュガーマン」は味わい深い他の作品と比較しても、格別に感動した映画なので、このブログには感想を書きます。それ以外の二作はこちらのブログを選択して書くかもしれません。