2011年12月26日月曜日

年内の簿記勉強

 年内の簿記の勉強はリアルタイム講座の日程におおむね合わせて本日にて終了にします。だいたい工業簿記の半分くらいまで。
 考え方はややこしいようだけれども、個人的には商業簿記よりも面白いかな。実際にモノを製造する過程に向かっての費用計算をしていくという意味では、中小規模株式会社会計での取引仕訳を中心とする商業簿記よりも、リアリティを持ちやすい想像が働いて、腑に落ちる感じがあります。

 結局工業簿記は出荷される製品となる過程のおおむねの完成品(仕掛品という)の「売価」ではなくて、製造原価はいくらになるか、という「原価計算」が中心でして、材料・賃金・経費をベースにして仕掛品にするためにいくらの原価費用がかかったかの過程を学ぶボトムアップ型の計算が中心になります。よって、商業簿記と違って仕訳の占める位置は小さい。多くは材料・労務費・経費を、製品にする際の原価を細分化して計算していきます。
 そして実際に掛かった費用と、製品を作るのにいくらかかるかの予想金額との差額(価格差異という)を求めるという作業が加わります。

 来年からは各部門の計算が終わって総合原価計算に入るところから。

 ただ、難しいところもあって、これを過去に学んだ記憶があるかどうか完全に飛んでいるのですが、「製造間接費配賦差異」(各種経費を各仕掛品に配賦するに当たって実際に配賦した金額と、予定金額の差異を求めること)の”分析”というのがあって、シュラッター図という数学のような図式が登場してびっくりしました。
 2級にしては高度な気がする部分です。数学的な要素が出てくると自分はもう駄目ですからね。

 明日からは極く少数の方々宛てですけど、年賀状を書いたり、流石に酷くなってきた今年の部屋の中の清掃・整理や買いだしなどの年末作業に入ろうと思います。
 今年は上手く出来ていて、土曜日が31日で元旦が日曜日ですね。そのため、バイトは30日まで。来年は3日から。

 寒さが今年は厳しい。今年は年明けまではここまで厳しくはなかったと思います。被災で来られている方たち、今の寒さはこたえていないだろうか。そんなこともちょっと気になる此の頃です。

2011年12月25日日曜日

今年のつぶやき(2)

 相変わらず何様なの?というつぶやきは年の半ば以降も変わりません。(苦笑)
 6月以降です。

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今年のつぶやき(1)

 ツイッターのつぶやきをミニブログ化した「ついろぐ」というのがあります。
 今年のつぶやきを月別にUPしてみます。
 どんだけ「お前何様なんだ?」という世界です。(汗)
 いろいろあった本年ですが、自分自身はそんな動きはないのに、偉そうに批評しているのが人間として問題があるのかもしれませぬ。
 まず、本年の1月から6月まで。

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2011年12月11日日曜日

本日は後退戦

 ああ、しまった。今日はやっと簿記の商業簿記があと2回分の講義のみになったので、復習をずっとしていない頭のほうから少しでも問題集を解くことで復習に入る予定だったのですが。。

 家の用事と合わせてショッピングモールに入ってる丸善で購入した講談社現代新書『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎×大澤真幸を読んでいるうちに、全く他のことが手につかなくなってしまいました。
 いえ、実際はこうやってブログに向かっているわけですから他のことが手につかないのではなく、面倒な簿記の復習問題から逃げた、って話ですけど。(苦笑)

 あとで感想を書けたらいいんですけど、この『ふしぎなキリスト教』という本におけるユダヤ・キリスト教の世界観は本当にぼくら日本人の世界観というか、世界の認識における解釈から大きくかけ離れていて、ある程度想定出来ていたとはいえ、改めて驚かされます。ですから、とにかく興味深くて面白い。

 簿記について、というか資格について書こうかと思っていました。「資格について」ではなく、資格の内容が高度になったのではないか、という話です。
 僕は1988年に一度日商簿記2級資格を取っていますが、あの頃よりも内容が深く、より一層簿記論的な所に入っている気がするんですけど。。。
 単にほとんど忘れかけているだけかもしれません。ただ、3級を基金訓練の時に勉強しても気づきましたが、勘定科目名が幾つか変わっています。
 もう20年以上経つと、簿記も時の経過とともに科目計上の方法論に変化しているところがあるのかもしれません。
 この間に世界の金融界を含め、変化がありますから、おのずと簿記もごくマイナーチェンジがあるのでしょうか。そして、やはり内容は高度な方向に向かっているのは確かなようです。WEB講座の講師の先生は1級を意識しているのか、かなり理論的な講義で、その方向性は個人的には興味と関心が持てるものではあります。

 とにかく意味などどうでもいいから、試験対策的にとにかく問題を解く、という過去の対策に比べると、現在はぼく自身の関心も変わってきていますし、それだけに理論的な話はなお一層有り難いのですが、いかんせん、簿記は記帳の実践なので、肝心要のそちらが駄目なのでは大変まずい。勘定科目が分からない、勘定の借り方貸し方科目を間違える、という素朴に問題が多いいまの段階では。。。

 簿記に限らず、例えば社会保険労務士などにおいても。学ぶ内容はより多く、細かくなっているのは間違いないのです。顕著なのは健康保険法です。いま復習は健康保険法の手前で止まってますが、健保は昔は最も理解が簡単なもので、点を取りやすい科目でした。ところが、このゼロ年代に医療保険制度の細かな改正(人の認識によって、改悪かもしれぬ)によって、入院医療費制度を中心に非常に細部な負担額の記憶が増え、テキストページは1.5倍くらいになっているのではないでしょうか。
 基本は医療費は増額の方向に向かっている訳ですが、それが広く浅く医療にかかる人の負担額が増える形になっているので繰り返しですが、細かいのです。

 行政書士もそうですね。とても高度になった。行政法、民法、憲法の判例解釈。かなり高度な事が問われるようになっているのではないでしょうか。そして大きな比重を占めるようになった会社法。
 行政法はより精緻になり、そしていま大阪で話題になっている地方自治法に関して占める出題の大きさはもう何年かまえから目立ってきているのではないでしょうか。地方分権的な意識と繋がっているのかは分かりませんけれど。。。

 僕が試験を受けた平成4年当時も行政書士試験は難易度が高くなったと言われましたが、どっこい、今では「屁」みたいなものかもしれないです。こういう比較は問題のある言い方ですが。。。

 何を言いたいかというと、社会がより複雑になり、かつグローバル・スタンダードの席巻によって、法律系や会計系もよりいろんな新しいことを覚えなくちゃいけない時代になってしまったんだろうな、ということなのでした。

 嗚呼、今日は自分に負けたな。『ふしぎなキリスト教』、読んで過ごします。講談社現代新書。税抜き840円也、です。




 しかし、工業簿記も含めて2カ月で全部終わらせるというのもやや無理筋なところはあるんだよな。本当は3か月くらいかけてやるのがスタンダードなんだけど。無料で勉強させてもらっているので、致し方なし。

2011年12月10日土曜日

朝ドラ・カーネーション

 現在のNHK朝の連続ドラマ「カーネーション」はいいですねぇ。好きなんですよ。「ゲゲゲの女房」もとても良かったけれど、もしかしたらそれ以上かもしれない。

 実際は朝は見れないので、夜6時45分の再放送を中心に見ているんですけど、たまに土曜日にまとめてやる再放送一週間分も見ますね。
 関西系の朝ドラは北海道に住んでいると拝めない関西ローカルの見事な芸達者、役者さんがいるなぁということにいつも感心するんですけど、何というのかなぁ。今回のドラマが際立っているのは総合的にいいんですね。脚本はもちろんのこと、演出から、配役から。そして主人公も際立っていますね。今回はナレーションも本人自身ですから、いつも体当たりのぶっちゃけ、女性なのに「生身さらけ出し」演技も含めて凄いエネルギーを放出していると思います。

 その今までにない「周りに合わせない」「自分の思いに忠実に動く」「思いを率直にぶつける」「行動原理に従って生きつつ、感じる思いから(極力だけど)目をそむけない」「とにかくエネルギッシュ」というのは、ブログを書いている自分のキャラクターからは全く真逆で、近くにそのような存在の人がいられたら非常につらいし、逃げるだろうけど、不思議にドラマにそのアクの強さや臭みがないのが不思議で、爽快さがあるんですね。これはまだ自分でも理由が良く分からない。何故なのか。

 それにしても国防婦人会というものは、どういうキャラクターの人たちが率先垂範して動きだしたんでしょうかね?非常時になると、突然元気になって、何か言って廻ったり、規律を押しつけて歩きたいというのは戦後の「子どもに悪い影響を与えるマンガを追放する運動」(ゲゲゲの女房)にも通じています。実は平和裏においてもある。僕が子どものころにもハレンチな(死語)漫画をやり玉にあげる、というのがあって、子どもながらに大人のいや~なところを思いました。自覚してたわけじゃないけど。

 それにしても、本日の婦人会の台詞は凄かった。

 「日本人の妻たるもの、夫が死んで遺骨になって帰ってくるのが名誉でしょう」。
 
この驚くほどの言葉にならない鈍感ぶり。
真面目な話、人間がなぜ人の素朴なこころに平気で土足に踏み込めるのか、自分自身の問題としても考えなければならないと慄然とさせられます。

 その後、主人公の糸子は夫が浮気をしたまま出征したんじゃないかと疑いを持ちつつも、その鈍感な言葉に悩まされて寝つけず、寝床で夫の姿を想像しながら改めて夫に対する愛情を確認する台詞。

 「大きい背中。笑ったり喋ったりする顔。こころ。それが全部骨になって名誉。。。
こんなに石炭みたいにぼんぼん燃やして、いったい日本はなにが欲しい?戦争って何や?」

 この素朴な、想像力ある台詞にいろいろ大きな意味が込められていると思いましたね。いや、実はもっとも身近な自分の身体の一部になっているような人への思いから発する言葉こそ真実で、そこに不条理が介入すれば、一挙にこの社会、この世界への疑問が思い切り露出する。
 そんな見事なドラマ上の場面だと思いました。

 ややこしい、観念的な議論は実はすべて、自分自身と、この自分の身体の延長への愛情の思いから生まれるものと考えます。
 だからこそ、「国防婦人会」なるものが、糸子の自分の身体に即した豊かな想像力に対して、かくも貧しい鈍感さで人びとの生活に介入していけたのはなぜか。正しいと思いこんで、人のプライバシーに入りこんで行けたのか。関心を持たざるを得なくなりますね。で、もう少し嫌味を言えば、そのような人たちは戦後、自分らの行動をどう振り返ったのでしょうか。もしかしたら、「悪書追放運動」やっていたりしてね(苦笑)。
 全く反省せず。

 でもね。
 もしかしたら、その国防婦人会やらも、ドラマ上のデフォルメで流石にそこまであからさまな事は云わなかったかもしれないし、あるいは言葉の勢いでつい言ってしまったのかもしれない。
 しかし同時に、急にマスコミテレビの世界を引き合いに出すと何ですが、結構平気で想像力貧困なことを言っても許される状況が見受けられる以上、やっぱり国を後ろ盾に平気で人の心に刺さるようなことを言って廻っていたのかもしれないですね。

 気をつけるべきは他山の石。
 主人公の糸子も、戦争に行ってPTSD(今風に云えば)になって帰ってきた幼なじみに悪意なく傷つけるようなことをやって、その幼なじみの親にハッキリと「構わないでほしい。世の中はあんたのように強い人間ばかりではない。弱くても生きていかなきゃいけないんだ」というようなことを言われても、どこかで逆に、自分が悪かったとはいかない。自分が傷つけてしまったのだと分かりつつも、弱さは駄目だ、戦争という外圧も、人のこころの弱さにも「勝つんだ」という姿勢、スタンスで挑む。

 この辺も今までの朝ドラにはなかったリアリズムですね。
 現代の割と教養的な朝ドラや大河ドラマと違って。教養的な今までの朝ドラでは、悪かった自分を反省して謝罪するというノリなのですが、今回の朝ドラでは逆に主人公は「負けてなるか!」となります。このリアルさは納得感が強いですね。

 魅力の一つはドラマの主人公が外からの刺激で変化する、という分かりやすい展開にはならず、本物の人間らしく主人公の女性が自分の行動原理に従っていて、どう振る舞うか行動原理が掴み切れないところがいい。それが現実ぽくていい。計算臭がないのがよいのですな。

 ドラマですからね。ただ、コシノ三姉妹のご母堂が主人公というリアリズムも同時にある。先述したように現実に近くにこのような人がいるとしたら、個人的には辛いですが、いろんな意味で「わかる、わかる」感があるのですよ。
 ただ、これだけ自分に正直で、言葉通り身体的な姿勢も含めてここまでリアルな主人公が不思議と嫌味な感じが無い、それどころか颯爽とした感じがするのは自分でもいまだ解けない謎です。