2013年2月24日日曜日

もやい代表理事・稲葉剛さんの講演。

 久しぶりのブログ更新です。

 昨日、路上生活者支援で有名なNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの代表理事、稲葉剛さんのトークイベントを聞いてきました。
 札幌の紀伊国屋書店の1階店舗のフロアでの講演です。

 内容は日本の貧困の実態、ワーキングプアやハウジングプア(不安定な住環境生活)、そして生活保護制度や生活保護費切り下げ、それに伴う政策としての「生活支援戦略」や、現政権の家族重視の方向性など、論点は多岐といえば多岐なのですが、貧困をキーワードにして相互の関連を丁寧に説明してくださり、わかりやすい講演でした。問題意識が高い人が多かったのか、30分の質疑応答も質の高い質問が多かった気がします。

 個人的には新味のある、あるいは新たな発見のある話ではありませんでしたが、国としての最低生活保障である生活保護制度に陥る前に、まず社会としてあるべきセーフティ・ネット網がほとんど機能しなく無くなっている方が問題なのではないか、というのが講演を聴きながら一貫して考えることでした。

 講演の最初の方で、もやいへの相談が若い人が増えていること、その話に付随して、期間限定の非正規雇用。そのような雇用形態の方々の職業的スキルが伸びないこと、またその逆に正社員として雇用されていても、若い人達が合言葉として「ブラック企業に気をつけろ」と言われるように、残業は当たり前、パワハラ等でメンタル面がやられるような企業がどうも増えているらしい話もありました。

 私自身、いつか、新聞で企業内定の若者のうち、25%近くが3年以内に内定企業を辞める考えがある、という記事を読んだこともあります。
 企業が若い人を使い捨てにすることがあるように、若い人もそのあたりさえ見越して、自分のサバイバル戦略を密かに考えている。否、考えざるを得ないということでしょうか。

 実は社会全体を考えた場合、このような労働市場が当たり前であるというわけではない筈です。まず、残業に関しては労働基準法で週40時間労働が定められていますし、残業に関しては36協定を結んで労基署に届けなければならない。そして当然割増賃金が発生します。割増賃金が発生しないとすれば、それはサービス残業なわけで、それを強要されるとすれば、会社を軸にした社会のルールがひとつ、逸脱していることになる。

 失業に関しては、この10数年の間に失業給付の制度が変わって、リストラ整理解雇が広範に及ぶにいたり、失業給付の給付期間が2分化されています。
 リストラ、解雇の「特定受給資格者」と契約社員の契約満了後の契約打ち切りによる「特定理由離職者」と、一般の自己都合退職などによる普通受給資格者の間に支給期間の格差があり、前者にはとりあえず分厚く、後者は10年まで働いても失業給付は3ヶ月まで、20年働いても6ヶ月しか支給がありません。
 そして、「自己都合退職」の中には結構、本来的には会社都合、いわば退職勧奨のような形で退職する人が自己都合に甘んじているのではないか、という想像も働きます。(典型は出産退職でしょうか)。

 また、後半、稲葉さんは高齢者の低年金による生活保護受給にも少し触れていましたが、年金は今後大きな問題で、国民年金にせよ厚生年金にせよ、保険料を取るのには頭打ちが必要なため、国は今後人口動態から年金給付は保険料納付の「5割まで」という設計を立てており、05年から100年までしか計画が建てられないという状況です。ですから、遠からず、年金の支給年齢を上げる検討にも入っています。そのためにまずは65歳までの雇用を会社に実質義務付けるわけです。

 経営が厳しい企業は出来るだけ社会保険料負担を減らしたいわけで(普通のサラリーマンも社会保険料負担は重たく感じるでしょう。税金なども含め、3割くらいは優に天引きされているのでは?)、するとおのずと社会保険料を納付しないで済む、非正規雇用、細切れ雇用を望むことになるというわけです。(現在、非正規雇用で働く労働者は35.2%、女性では55%近くになります)
 そうなれば当然、今後「年金」という形での生活設計が当てにならなくなります。厚生年金にかかっている人と、かけられなかった人との給付格差は歴然だからです。社会保険加入の正社員で居続けたい、正社員になりたい、というモチベーションは、その人の生き方というよりは、「生きていけるのかどうか」の選択になってしまうのかもしれません。

 このように労働法、社会保障法が法の実態と離れて、働く人たちなどのセーフティネットの機能を果たせないならば、おのずと安定した基盤を持たない人たちはナショナルミニマムたる生活保護にあっという間に転落していくと思わざるを得ません。生活保護がスティグマだとか、受給者が増える一方なので、受給者への給付を下げよ、とか。このような感情論とかアメとムチの政策を実施したりするのは如何にも近視眼的だよなぁ、と思います。

 国の保護を受ける前に、その手前の社会的セーフティネットが機能していないのですから。

 稲葉さんが着目し、詳しく調べているハウジング・プアの問題も、日本では公的住宅扶助制度が未発達であるがゆえでしょう。
 僕が小さい頃はもっと公的な住宅政策はあった気がするのですが。。。

 上記つらつら書き連ねたことで伝えたいことは、やはり因果関係がひっくり返っているからではないのか、ということです。結果としての生活保護制度をバッシングしても仕様がないわけで、そこへ至るプロセスの社会的政策に穴があるところ見なければならないと思います。でないと、おそらくどんなに生活保護に絆創膏的な政策を打っても、生活保護を受給せざるを得ない人たちは増え続けるでしょう。

 なぜこうなったのか。これはやはり日本が製造業を中心に据えた高度成長社会モデルから抜けられないまま、今に至っているからだと思います。70年代の2回のオイルショックで製造業や労働集約的な産業に打撃を受けた西欧では、標準世帯モデル=稼ぎ主・夫、主婦・妻、ふたりの子どものモデルとなる高度成長型モデルから、第三次産業中心の低成長モデルに合わせ、社会政策を重視する傾向になっていると言われます。そのような経緯があって「社会的包摂」という言葉が定着したのではないでしょうか。でないと、高失業である若い人を中心に社会の基盤が崩れてしまうだろうからです。

 これは僕の乱暴な想像ですが、特に西洋で社会政策、特に若い人への教育を含めた社会政策や職業政策が重視されるのは、第二次世界大戦の教訓が大きいのではないでしょうか。
 民主主義が成熟し、知的レベルも高かったドイツがナチスを呼び込んだのは、第一次大戦の膨大な戦争賠償金や大恐慌などによるホワイトカラーを含む失業者の増大。良き時代を全然知らない若者。そして戦争帰還者たちの寄る辺のない見捨てられた思いでした。

 そういう問題、つまり「仕事がない」状況が民主主義社会を内側から崩壊させる。その危機意識があるのではないかと。つまり現状、仕事がなくても、未来はあるような政策。社会で生きているという実感に結びつく政策を立てれば、社会システムが崩壊するところまではいかないだろう、と。。。
 すみません、これは僕の勝手な「想像の飛躍」です。

 いつもどおり、話が横滑りしていますが(苦笑)、稲葉さんの話を聴きながら一貫して思ったのは、まずは日本の場合、「高度成長社会モデル」と「標準世帯モデル」はとても良かったものですし、社会基盤の安定には理想のモデルで、そういうモデルが今でも通用するのであれば最高なのですが、実態上、今後はそのモデルは通用しないことを前提として、新しい社会政策を立て直すこと。そのためにどういう制度が必要か、足りないところは何かを考えるべきなのではないかな、ということです。

 当面、この状況では上からの生保運用をしたところで、生活保護受給者は増えこそすれ、減りはしないだろうと思いますし、また、此の所なんとは無し、誰かバッシングしたくなるような情緒で社会基盤を自分たちで切り崩す方向ではなく、まず社会としてのセーフティネットを貼って、相互のあら探し社会を何とか弱めていけないものかと思います。本当にそうしないと、日本の国も内側から民主主義が切り崩されていかないか。そのようになっていくことを、普通の人々の意識が加担して行かないか?と不安です。

 そんなことを頭の中でいろいろ考え、感じながらの稲葉さんの講演を聞いていました。