2016年11月23日水曜日

映画「この世界の片隅に」


(註:この映画の感想は、ネタバレがあります。まっさらな姿勢でこの映画を見たい人は、この感想は映画を観るまでは、見ないで下さい。)

映画、「この世界の片隅に」をもう一度観た。
一回目を観たときもアニメーションとして非常に素晴らしいと思ったし、どこまでも原作に忠実なのが嬉しかったけれども、作品後半に向かう主人公すずさんに降りかかる悲劇のあと、心に刺さってくる、原作のモノローグによる「痛み」。小まい(こんまい)すずさんが夫が不在の後で「家」を守りきれなかった負い目の負債ゆえに広島に帰りたいと言い出す20年7月の「いっこも聞こえん!広島に帰る!帰る!」と叫びだすまでの重み。そのあたりのすずさんの(心理状態を含めた)描写は映画で表現し切るのはやはり難しいのか、「安気で」「ぼんやりとした」空気を声優として表現し得たのんさんでも、そこは難しかったか、と考えたから、その後ネットで目にし続ける終らない高評価は、ぼくの鑑定眼のなさゆえか?と思って再び観にいったわけである。

再見してどうだったか。やはり改めて素晴らしいと思った。観た時間の映写がたまたま「日本語字幕つき」であったので、「これは厄介なことになったな」と思ったが、実は意外にも広島弁や、戦時下当時の言葉を字幕を見ることによって理解がリアルタイムで深まったこともあった。
そしてアニメも原作に忠実だなと改めて思い、好感が持てた。そしてぼくが一度目に見て限界を感じてしまった姪の「晴美さん」を失った後の世界。それが二度目に見たときには、「ああ、これが監督の解釈なんだな」ととても良い感じで納得した。
全三巻の原作では、最初の二巻はおおむね、大東亜戦争の戦時下の日常を丹念に、丁寧に描く「生活マンガ」の様相があるわけだが、三巻で早い段階で起きるハイライト。原作ではあの名作、「夕凪の街」のように、絶望を知ってしまった主人公がしばらく沈むこむ「右手を失った世界」は、意外とあっさりと過ぎ、原爆投下の広島まで日常の中に含みこまれている。そして原爆投下後の世界も、むしろ日常のほうが淡々とでもいうべき形進んでいく。僕は実はそれが監督の狙いだったのでは、と思ったのである。

この作品に「反戦」の要素が仮にあるとすれば、「国家」という大きな世界(戦争のために使われる飛行機、軍艦、兵器などを製造するための労働世界を含む)がどんな風になろうとも、「日常」は変わらずに続く、もっと言えば、「変えては行かない」という意志表明であるかのように、淡々と日常の描写は戦争が終っても続くのだ。
主人公が嗚咽慟哭し、娘を失った義姉が玉音放送後も平然としているかのように見せて、人影無いところで娘の名前を叫びながら号泣していたとしても、その「時間」が過ぎたら、また平然とした日常へみんな返っていく。(但し原作では日常に帰るためのクッションとして「遅れてきた神風」=「台風」の話が挿入されている)。
その日常とはあくまでも食事を作ること、着物を縫いかえること、小さな畑を看ること、防空壕を作ったり、配給の列に並んだりすること。そんな循環する衣食住の「生活のための営み」で、それはけして変えたりしない、変わらないという、主人公やその家族、隣組の人たちの強く、しなやかで、また、あえてそういうことを言葉にはしない人たちの営みだ。その意味でそのパワーは、(どうしても言葉が軽くなるけれど)やはり女性たち、婦人たちを描くことで一番の表現力となるだろう。

映画を改めて見返してみて、監督のひとつの狙いとして、上記のような、「日常を生きる人びとの強さ、しぶとさ」そしてそこから生まれる「やさしさ」が、国家という大きなものの病んだ威信や事業=「戦争」に対するアンチなのだ、と伝えているように思う。

もうひとつはいのちの循環への意識が強い、ということ。それを感じる。舞台は空襲に晒され続ける呉。そして原爆が投じられる広島がサブの舞台なので、当然、人の死(事件死)が大きな比重を占めるけれども、これも現代人の自分が言葉にするのは憚れるけれども、その死すらこの作品にとっての大きな比重なのか?と思えるときがある。戦後初めて主人公すずが祖母が住んでいた草津に帰ってくる。そこでは妹の「すみ」が体調を崩して寝ている(彼女の手首にはケロイドの後がある)。その妹の口から「新型爆弾」で父親が病死したこと、8月6日以降広島市中で母親が行方不明であること。そんな現代人の僕らが聞いたら衝撃的な語りが、(悲しみとしてありながらも)日常のひとコマのことばのように受けとめていくすずを通して映画は進んでいく。

そのように表層には見えてこない悲しみを救う要素は、ラストの被災者孤児を連れて帰り、おそらく養子に迎えるかたちでエンディングを迎える。その子どもはむろん、「晴美さん」の生まれ変わりであるし、同時におそらく遊郭に住む「リンさん」の身代わりでもあるだろう。だからこそ連れて帰られた子どもは晴美さんの実母の径子さんではなく、すずさんが育てることになるのだろう。(すずさんがおそらく子どもを生めないからだである可能性もあるだろうが)。こうして失われた人々は記憶の中で新たに、生者の行動の中で生き返るのだ。(映画では描けなかったすずさんとリンさんの関係の深さは、エンディングのクラウドファウンディング協力者名紹介の部分で描かれている)。

それにしても、原作者のこうの史代はこのような「日常」を描かせたら、そのセンスの卓抜さたるや、他に右に出るものはいまい。こうの氏のうまさは、ふとその日常の丹念な描き方の中に、非日常が忽然と湧きあがったり、ひょっと驚かせると思ったら、日常性の中に回収したり。なかなか一筋縄でいかない、不条理な部分を垣間見せる作家なのだ。「長い道」というコメディマンガの中での「道さん」が時折見せる正体のつかめなさ(この作品も、親が勝手に甲斐性がない息子に「道」という女性を妻に送り込む、という現代にはまずないストーリー)などもそうだ。

「夕凪の街 桜の国」も先ほどの「いのちの循環」の観点から言えば、「夕凪の街」で不条理な死を描いたとしても、「桜の国」二編で、再生されたいのち、桜の春の舞台という明るさに舞台は展開する。そして死者は生者の記憶の中で、物語る親や親族たちの中で再生する。
「記憶の中で生きる」というモチーフは一貫してこうの作品のいろいろな作品の中でどこか通低しているように思われるのだが。だからこそ、ほのぼのとして「安気」に思えるこうの作品の中に自然と現われるドキリとするような暗い影も、それは「循環」や「記憶の中で生きるもの」を想起させるためのもので、同時にそれらのものを含めての生である、という信条がこうの氏にあるように思えるのだが、如何だろうか。そして「決意」。決意を内側に秘めて生きるのだ、という感覚はこうの作品の日常ユーモア作品にもあり、それを晒していくともっとも強力な力を発揮するのがこうの氏の戦争を描く作品かもしれない。

多くの、良質な映画鑑賞者はこの作品にすごく感動したと同時になんとも言えない言葉のしがたさを感じることが多いのではないかと思う。この作品は日常を切り裂く戦争の中をしぶとく、やさしく、人間性を失わず、人びとの、そして夫婦の愛での負けない生活者を描ききった感動だと思うけど、同時にこの時代の丁寧で丹念な日常は、ほとんどが今の僕らの日常から失われてしまったものだ。繕い物や足りない食材を少しでも美味しくする工夫。これらはみな、正直、貧しさと表裏の関係でもあった。だからこの時代のすずや、呉の田舎街の人びとは強くてやさしく、すずは自分のおばあさんのようになる未来が予言されているようだけれども、問題はいまのぼくたちがこの映画の中で観るおじいさん、おばあさん世代、あるいはもしかしたら曾祖父母の世代たちからどこまで遠く離れてしまい、そしてどこにおいて繋がっているのかを考えてしまう、そういう描写が多い気がする。

そんなことを思えば感動の中にもさまざまな思いがあり、そのひとつに「生活の丁寧さ」への溜息もあるということでもある。少なくとも僕にはそれを感じたが、それはもうほとんど自分で取り戻せないもののように思う。いや、取り戻せないことはないだろうが、現代ではそれは自分でつかみとる主体的生活の方法となる。今ではそれは、ひとつの「選択」の時代として生きている。そういうことも思い起させてくれる映画でもあるだろうと思ったのであった。