2015年11月24日火曜日

追悼・毛利甚八さん

 
 漫画「家栽の人」の原作者,毛利甚八さんの訃報に接して、ただただ驚いています。もはや「家栽の人」という作品も古くて知らない、という人もいるかもしれませんが、全十五巻の中に人のこころの深い部分を誤解や何かを乗り越えて本質の部分を見抜いていく家裁の裁判官を主人公にした素晴らしい漫画でした。漫画界の古典と言っていい。
 私はこの漫画に出会ったのは最初は主人公を片岡鶴太郎が演じたテレビドラマ。鶴太郎が優しげで真面目そうな裁判官役をやってるんだなあと思って何気なく見ているうちに、その内容の深さについ引き込まれ、そのまま原作の漫画に走った。単行本を中古で買い求めているうち、強烈に引き込まれていったのです。1994年頃だったろうか・・・?おそらく30代の半ばに入る少し前の頃だったので、いろいろと苛立ちを感じつつ、でも自分のその攻撃性だけではいいことがないぞ、だけどこの苛立つ気持ちをどう方向付けたらよいのか?と思いが揺れていたころに出会った作品だったと思います。
 
 主人公は植物栽培が趣味で、いつも時間があれば木を眺めていたり,植えてある花や植物を眺めていたり,官舎のまわりに花を植えたりしていて端からは変わり者に見える。でも、裁判を一旦はじめると非常に仕事が出来る。なぜ出来るかといえば、その洞察力の深さゆえ。
 だからこのマンガの裁判官は法務実務家にして、心理学者みたいな人でもある。桑田判事というこの裁判官、「見えない背中」が見える人のようで、その話の展開はアッと驚くこと多々。
 
 家裁で扱う問題である少年非行や離婚調停を通して、家族の問題を植物や木を比喩として大変巧みな大岡裁きを行っていく。ただ、事柄はそういう分かりやすい余韻を残すばかりではない。木々や植物が育つように、家族が育つことを考えている裁判官である主人公を配し、人の弱さ、弱いように見えての強さ、愛情の裏返しの悲劇、わかりやすくはない優しさ、などなど、人のこころのひだや綾を巧みに描き出す。。コミックス版では全15巻、一作も駄作なく説得力のある作品を続けてきたものと驚嘆するし、読者側としては教えられたり、心の洗濯をしてくれたり。本当にあらゆる面で感謝するばかりでした。
 しかし、この作品から得られる気付きを得てもまだ、現実にうまく適用できない自分に情けない思いを抱いたこともたびたびありましたし、中には読んだ作品にはこういう展開は納得いかない、という思いを抱いたこともありました。
 
 その頃、岩見沢の心理クリニックの先生が93,4年頃いわゆるインターネットの前、「市民ネット」と呼ばれた時代に自分の所に通う若い患者さんたちを対象にコンピューター通信ができる若者交流掲示板をはじめたことを知り、実際にその先生に会いに行き、その市民ネットの掲示板の交流に加えてもらうことができました。で、その中で「家裁の人」の一作品でこういうものがあるんだけど、内容がこれでいいのか僕にはわからない、納得できない、と問いかけたことがありました。
 それはいわば返答を期待しないモノローグのような書き込みだったのですが、驚いたことにその作品を読んでいる人がいて、「私はこのように読んだ」というレスポンスがあり、「自分以外にもこの作品の原作をファンとして読み込んでいる人がいるのか!」といたく感動し、一時その岩見沢のクリニック掲示板にのめり込んでいたこともいま思えば懐かしい思い出です。いずれにしても、なかなか一筋縄でいかないリテラシーを要求する作品で、精神分析療法をしていた自分には人の深層心理を考える上でも大変勉強になる作品でした。
 
 内容は巻を重ねるごとにより複雑でシリアスになり、一話完結だったものがそうではなくなり、最初のコミックスでは13巻~15巻にあたる部分で一旦休筆になり、満を持して3巻分の最終話までは学校で問題児とされた子が学校を相手に裁判を起こす過程、その中学生と付き合い始めた主人公桑田判事の息子が不登校になってしまう過程、学校で秀才の優等生である子が体育教師のパワハラに耐えられず、学校に放火したことを隠しているという子が近くの森に隠れ家を作り、お互いの思いを語り合う自然の森が作品をまわしていくトポス(場所)として登場します。この最終三巻の連続シリーズは部分部分に神話性も帯びていて、どこか河合隼雄さんの語る物語性に通ずる要素がかいま見えます。わかりにくい、「感受性」に訴える要素が増えてくるのですが、それが自然との響き合いの中でというか、木のざわめく音や、沈黙した場から発せられる論理とはまた別のモノローグのような言葉、それを受け止める人など苦労を背負う人々の中で交感されるやりとりはかなりリアルなものを感じました。そのように、日常性と非日常性が常に交流させる絵の見せ方が実に見事なものでした。
 
 そう、作品は舞台は家事調停が種となるので(後に話は少年非行=少年の苦労に主軸が移りますが)、現実判断の厳しさというものも忘れていない。聖人のような主人公でありつつ、理想と現実の狭間でまさに「裁判官」という「バランス」の仕事をどう観察と洞察と判断で行うかというのも読み手のスリリングを非常に喚起するものでした。
 
 さて、「家栽の人」に字数を割きすぎましたが、その後にゴリラ学者を通して現代社会を照射する「ケントの箱舟」。(おそらく主人公のゴリラ学者は、現在京大総長をされている山極寿一さんをモデルのイメージにしてるんじゃないかと思う)、そして現代の若者の抱える困難と古代的な世界でいまのマイノリティに立たされる若者とかつてマイノリティとして国家から搾取された狩猟系部落の人たちとの民俗学的な呪力も引き出す野心作「たぢからお」などの原作も手がけてこられた。
 最近の活動は知らなかったけれど、いつも頭の片隅にあった作者だし(民俗学者、宮本常一の歩いた道を辿るノンフィクションなどもあり、やっぱりそうか、と思わせる)、「家栽の人」はいつでも立ち返って読み直したいと思える僕にとっては古典というか,精神的な原点的な作品。
 
 あまりにも若くしての死(57歳)に今でも驚きを隠せないし,あまりにも勿体ない、これからの人だったと思うけど、大事な三作(家栽の人、ケントの箱舟、たぢからお)を残してくれたので、作品の中に毛利さんの精神は生き続けるからよかったと思うようにするしかない。
 
 ちなみに僕は「不登校新聞」を創刊号から確か1年ちょっと購読していたけれど、その中で毛利さんのロングインタビューが載った号もあった。「不登校の子は繊細で純粋。それだけにこの世界に生きていくのは図々しさが必要になるので大変な気がする」とか語っていたと思う。
 あと、そのインタビューで非常に心に残ったのは「家栽の人」の連載について、「自分の中でこれは嘘だと思うことは書きたくない。でも、どうしても必要に迫られて書いてしまうことはあった。そういう時は泣きながら書く」といった趣旨の言葉もあって、プロの意気というものに震えたものでした。 「居酒屋を経営するダメ親父が不登校の子のための学習塾をする話を書きたい」といったことも語っていましたっけ。その構想はおそらく果たせてなかったとおもうけど、もしそれが書けたら、現在に接続できるロールモデルになる作品としてのこったかもしれません。
 
 本当に惜しい人をなくしてしまった。こころより、そう、こころよりご冥福をお祈りします。

2015年11月15日日曜日

貧困と人の育ち -人文社会科学からの挑戦ー

 
 今日は友人の誘いで久しぶりに本格的な講演会に行ってきました。
「貧困と人の育ちー人文社会科学からの挑戦」と題した発表者が5人に及ぶ日本学術会議の人文社会科学分野研究者たちの講演会です。
 タイトルにあるとおり、いま注目を集めている子どもの貧困、いえ、正確にいえば「子どもと貧困の関係」に関する研究発表という感じでしょうか。場所は北大の学術交流会館。
 
 トップバッターは日本学術会議会長の大西隆さん。まず日本学術会議というものの性格について具体的な紹介。学術会議の役割のひとつとして政府への提言があるようですが、その中では2014年の9月に人文社会科学分野の研究者で「いまこそ『包摂する社会』の基礎作りを」という提言を行っているという話がありました。また、社会意識調査のデーターが紹介され、日本人の生活意識として自分は「中の中」に属すると答える人が圧倒的に多く、次に「中の下」と答える人が多い。つまり日本人の「中流意識」に変化はないとのこと。この生活意識データーの発表は個人的には少し意外で、驚きでした。
 
 続いて心理学を研究するお茶の水大学名誉教授の内田伸子さん。研究のテーマは「学力格差は経済格差を反映するか」。
 結論からいうと、経済格差が学力格差に直結するものではないというものでした。それよりも、家庭における親の教育において「共有型」か「強制型」かがのちの学力に反映するのではないかという推論でした。
 氏は、主に幼児期の教育を中心に議論を進めましたが、「思考」には「収束的思考」と「拡散的思考」というものがあり、前者はおもに想起、つまり暗記力に象徴され、後者は「想像力」に関係するとのこと。そして大事なのは後者の想像力による思考で、それは後に「PISA調査」と呼ばれる文章問題に有意に反映してくるそうです。想像力が伸びるのは類推(アナロジー)の力と関係し、類推する力は自分が「良く知っているもの」と「知らないものを関連付けられる力に関係するそうです。
 その他、意外にも運動能力の発達に関しても、「バレエ、ダンスなどを習う子」がむしろ発達の力が弱いとか。つまりそれらは特定の身体の部分を使う訓練的な運動であり、また、説明時間が必然的に長くなるため、子どもたちに運動に対する苦手意識を与えることが多いとのこと。ですから子どもの場合、まず「自由な遊び」が大切との話でした。それは先の想像力とも共通する話のようで、絵本の読み聞かせでも子どもの感情に寄り添う「共有型」が大人が子どもの自由な想像を摘んでしまう「強制型」よりも後々の学力の伸びに与える影響の違いが出るので、結論的には「経済格差と学力」よりも、「子どもの自由度と学力」のほうが相関性が高いと伝えたいのではないかな、と思いました。(あるいはいわゆる「文化資本」といわれるもの?)
 それゆえ、なかなかこの話題は興味深かった。
 
 続いて「社会的排除と子どもー外国につながりのある子どもの支援から」というテーマで近大姫路大学の松島京さん。社会学から見た「日本に滞在する外国系の子で保育園に通う子どもたち」のフィールドワークです。外国系の子どもたちの国籍などの背景から始まり、姫路市の保育園での外国系の子どもたちの保育の問題のかなり細やかな生活背景の分析などの研究が語られました。細かい話になるのでここでははぶきますが、保育園側の模索、葛藤、支援者の問題意識などが後半に語られ、子どもたちの親御さんの不安定な就労状況を含め、「さもありなん」というべき問題提起型の研究発表でした。今回は時間がなかったので質疑応答や登壇者間の議論がなかったので、その点が一番惜しかった研究発表でした。
 
 短い休憩を挟んで貧困研究を行っている北大の松本伊知朗さんの発表。関西弁イントネーションの明るい語り口。本日最もダイレクトで、貧困問題のストライクな研究発表です。冒頭で「「貧困の再生産」は宿命論ではありません。みなで考えて、そうならないような修正を考えて行きましょう」という呼びかけをされました。そして現代社会の貧困問題は「食べられない」という絶対的窮乏に陥る「絶対的貧困」ではなく、豊かな社会における「相対的貧困」であるということ。「相対的貧困」は貧困研究の先駆国であるイギリスで1960年代に「貧困の再発見」という形で登場したということです。
 また、「子どもと貧困」はけして近代の話ではなく、大昔からずっとあった歴史的イシューであるということでした。
 議論は日本国の所得再分配機能が弱いために格差が広がること、母子家庭の貧困率が非常に高いこと、子どもの貧困に対する社会政策が遅れていることを指摘。そして現代的な課題として、「家族」機能に関する市場化、生活手段の商品化が進んでいること。そのようになってきているにもかかわらず、なお公共的な支援ではなく、「家族」と「市場」に依存させようとする政策が続いていることを問題にされていました。
 「家族だけで子育てをした社会はない。家族なしで子どもが育った社会もない」という言葉が印象的でした。
 
 最後は同じく北大の教育学研究者で臨床心理士でもある間宮正幸さん。間宮さんの活動領域は若者支援で、就労支援の枠組みでの活動の実践が豊富な方です。間宮さんの話は私たちが今回出した本の内容にかぶる部分が多いので、極力かぶる部分は省きたいのですが、間宮さんは欧州では若者の失業問題に関しては、若者による「暴動」や「異議申し立て」という社会への表現として出ているのに対し、日本では「就労の困難」と同時に「人格的自立の問題」の二重の困難に見舞われている、と憂慮されていました。間宮さんが言われる「人格的自立の問題」は端的に言えばひきこもりなどの若者の内向化の問題で、その傾向が日本固有の難しさと考えておられるようでした。そのようなとらえ方をした上で、ご自身の「ヤング・ハローワーク」での若者の相談支援の実践を通じた報告。その中で就労活動以前に発達障害などの問題が見落とされている可能性や、社会不安が強い若者たち、いじめ被害に苦しんできた若者など、就労以前の問題を抱えている若者たちの事例が多いことに驚きと危機感を持っているようでした。
 ですから、就労への動機付け以前に人間力を高めることのほうが先決、とのこと。それが間宮さんがこだわる「人格的自立」という言葉に象徴されるもののようです。このあたりは自分も本作りの過程などで種々監修の先生とも議論してきたことなので、「うんうん」と頷くことが多かったのでした。
 間宮さんの提言としては●求職活動を「人格的自立」の要求と考え、仲間作りや異質な他者からなる共同体での体験と捉えなおす●彼らの自己信頼の要求に応える●日常の成功体験の積み重ねが必要、というような内容でした。
 
 また、議論の前置きとして若者の抱える困難を「ひとつの構造としてとらえる認識が必要である」「憲法9条、21条、25条とワンセットで考えるべき」「貧困と戦争が現実にセットされている(堤未果さんのことば)」「深層構造の「傷つき」を見るべき」と述べられたことも大変印象的でした。
 
 全体には約四時間近い長丁場にもかかわらず、いろいろなテーマを持つ話者が五人語ったので、時間が経つのもあっという間で。最初に予定された質疑応答の時間はなくなり、また仮にあったとしても予定が十五分で、これだけ広く深い各種のテーマでは意見の集約は難しいだろうなあと思いました。私自身もいろいろな課題をつまみ食いした感じもあり、深い理解にいたるものはありませんでしたが、今後いろいろ考えていく際に広い角度の問題提起が沢山あって、多くの刺激をもらえました。このような内容が無料で聞けるというのは非常にありがたかったと思っています。

2015年11月8日日曜日

インタビュー第六弾:姉崎洋一さん(北海道大学名誉教授、特任教授)

既に掲載して数日が経ってしまいましたが、インタビューシリーズの第六弾を掲載しました。今回は北海道大学名誉教授・特任教授で教育学を研究されている姉崎洋一さん。http://ethic.cloud-line.com/interview/21/
 今回は教育学の話よりもアクチュアルな話題である「安全保障関連法案に反対する学者の会」の北海道を代表する中心メンバーのおひとりとしてお話を伺いたいというかたちで、初めて今回はツテなしでお願いしました(但し、昨年三月に出版した自費本を買ってくださったご縁はあります)。
 インタビュー当日は安保法案の特別委員会で強行採決されると思われた日でしたし、当初は先生も超ご多忙と思い、反対の心境と法案への思い、その他9月16日というまさに法案成立直前の気持ちを伺って即時記事化しようと。いえ、実はそうするしかないほど時間がないだろうなという思いでインタビューに伺ったのですが、結果、何と約束の時間からデモへ出かける(!)時間まで大丈夫ですということで、結果三時間半にわたりお話を伺えました。結局、掲載はあの時期のリアル状況からは時間は経ちましたが、むしろいまあの時を改めて振り返るのには良かったのではないでしょうか。
 安保関連法案をめぐっては、冷静に考えると幾つか民意が揺れる局面があったと思います。そして僕自身もそうでした。昨年の時点で閣議決定される頃には公明党に淡い期待を抱きつつ、結局閣議決定は規定の政治的な事実で、その後長く衆議院の議論が始まってまでは私個人として「あきらめ」の感覚があったのは恥ずかしながら否定できません。それよりも安倍政権の周辺や安倍首相を擁する日本の政治家の人たちの幼稚さのきわまりに嫌悪感が強かったから「全ては彼らの思うとおりに」という諦めと何ともいえない忌避感があったのかもしれません。
 それが変わる潮目がもちろん1つは衆議院における憲法学者の憲法審査会での自民党推薦も含む「全員違憲」の発言で、そこからそれに対する与党の稚拙なリアクションや、学生の安保法案反対のデモであるSEALDsの動きであったわけです。
 折りしもこの法案を通して自分でも自明視していた「立憲主義とは何だ?」「民主主義とは何だ」「われわれはどういうものによって集団統治されているのか」という根源的な問題を考えさせられたわけです。
 国政選挙がない以上は民意が反対の声を何とか届けるしかない。それが国会をとりまくデモであったり、安保法制に反対する学者の会であったり、ママの会であったり、いろいろです。で、自分として考えたのはやはり「インタビュー」ということでした。自分は基本的にシュプレヒコールにあまり乗れるタイプではないし、サウンドデモには好感持っていますが、それに乗れるほど若くも無いし、どうしたらいいか?という方法の模索の結果が「反対する学者の会」の姉崎先生に反対の根拠を伺おう、アプローチでした。
  先生は一貫して優しく、しかし硬骨の精神で日本と世界を覆う現状を語ってくれ、あっという間に時間が過ぎました。実は今回のインタビューがいままでで一番よどみなく自分自身が聞いて話せるものでした。それくらいかなり興味関心が似通っていたので。。。時間が瞬く間に過ぎ、先生は6時半から始まるデモに行かれる30ほど前までお付き合いいただきました。おそらくその後は準備が大変だったことと思います。本当にありがたいことでした。
 それにしても、インタビュー内でも語っているSEALDsの方法論は画期的でした。「立憲主義とは何だ」「民主主義とは何だ」という根源的な問いかけをするデモのアプローチ、新規のシュプレヒコール。音楽のリズムと政府批判デモの融合はかつての日本にはなかったのではないでしょうか。また、彼らが過去の教養をきちんと吸収し、現在のポップカルチャーをもって人々に思いを伝えて巻き込む。対決というよりも表現。過去の知性へのレスペクトと、多忙な人たちへ思いを伝えるための方法論の構築。結局、その表現に対して稚拙な政府側はあまりに幼稚な反論をしたりした。
 現実の議論のフィールドという場面で言えば、どちらに分があったか歴然でしたね。まあ、そんな批評家めいた物言いはこの一度限りにします。それはいい年をした大人のとる姿勢ではないので...。