そこで僕はあえて聞いてみた。
「では○○さんはそのような状況を想定しながら今の仕事をされてるんですか?」と。意外なほどよどみなく彼は「この仕事だっていつリストラされるかわかりません。それは当然考えられることですから」。その顔色、受け答えの態度を見てこの人は本気だなと思った。
実は僕がカウンセラーの先生から究極的に聞かされる話は、そして究極的に自分が逃げる話はこのような話なのだ。現実に別の場で、かつ自分に係わりのある場所で同じような考えの人に出会って良かったと思うし、同時に現実の中で現実に対してこうシリアスに向き合っている人はいまかなり多くなりつつあるんだろうなということも感じた。
「結局。。。自分の足で立って、なおかつ偏りのないバランス感覚も失わないということですかね?」今の自分には相当な難題だなと思いつつ聞いたら、深く頷いておられた。「しかし・・・。素朴に、いまの日本人の一般人的なレベルでそういう人というのはまれな感じがどうしてもしますね。」というと笑っておられた。「やはり早い段階からの教育が必要でしょうね」「確かに。ぼくは化石のような日本人でもう遅いけど、いまの若い人はそういう可能性があるわけですよね」「ただ、若い人を教育するのは大人ですし、大人が見本とならなければいけないんですよね」
ぎゃふんだ。確かに。そんな話をしながら僕はかなり僕自身をゆさぶられている感じがしていた。でもそのようにゆさぶってくれる人がいるのは有難くて、同時にキツイことだ。
帰り道、冷たい風にあてられながら「自分の足で立ちながら他の人と強調していく」という考えを反芻していた。とても難しい。自分にとっては人格改造的な話だから。
だから、自分のキャラクターと自分の器(ひとによりその大きさは違うはず)に照らして「そのような感じ」に結果的に近づいていくよう何とかしていくしかあるまい。不自然にならないように。
彼も僕には耳がいたい話であっても同等な存在としてとらえて自分の考えを述べてくれるのだろう。音楽趣味が洋楽で僕が愛聴しているCDを探したり、前紹介した(自分は忘れていたが)宮本太郎氏の『生活保障』を読み始めているとの事で、なんか相談ブースで余談で話したことに注意して受け止めてくれているのがありがたく思えた。
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