本日は久しぶりに空が穏やかに晴れ渡りました。
そして陽がずいぶん長くなりました。少し前までは午後4時過ぎくらいから暗くなったのですが、今は5時近くまで明るい。
札幌に住んでいるとやはり長い冬の12月から3月くらいまでは冬の自然な厳しさを肩を強張らせ我慢する、という感覚はあります。でもこの日の長さを見ていると、あたりまえのことですが四季の移り変わり、春の近づきを思います。
自然の循環、四季の移ろいは異変なく当たり前な現象で時の流れにしたがっていわば機械的に流れていくわけですが、それを受け止める僕らは「春の訪れ」を予感したりしてふと気持ちが晴れたりするわけです。これは人間の思いで、四季の変化のある局面を自分の内側に呼び止めるようなものでしょうか。
「ソフィーの世界」を読んでいるせいか、ちょっと現実離れしたことを書いてしまいました(苦笑)。
やっとそれなりに現代人もイメージがし易い、現代にも通ずる17世紀の合理主義者たち、例えばデカルトやスピノザ。そして18世紀のイギリス経験主義、ロックのあたりまで来ました。あくまでもこの本は彼らの哲学のエッセンスを抽出するところまでが限界でもありましょうが、やはり著者の手腕に感心します。
いろいろな評価があれ、現代人は21世紀に入ってついに地球全体の国家群の人たちが集まり「環境問題」で合意点を見つけようとする動きを始めました。地球ぜんたいの人類が「自然環境」に対してコンセンサスが必要だと考えるに至ったということ。これは今後の歴史の教科書に書かれるであろう「取り組みの一歩」の時代に現在来たのだ、ということなのでしょう。
例えば、ヨーロッパ世界ではスピノザの「汎神論」などは改めて見直される思想なのかもしれませんね。根強いキリスト教の「神」の世界とギリシア哲学を精神のルーツに持っている欧州の人々にとっては。
片や東アジア世界にはその根を探ると「石木山水」に神宿る、素朴な自然崇拝の思想がありそうです。また思想レベルでは仏教による煩悩寂滅の思想があります。
現代を生きる当事者のわれわれ、少なくとも私はそういう思想が過去あったから、それを自分のからだに改めてまとおう、という風に簡単に行くわけもありませんが、「環境問題コンセンサス」がぎくしゃくとした不自然なやり方の中であれ、一般論として世界の人々が「このままでは地球が持たない」という直感の合意がある以上、最初は自分にとって不自然に思えても、自分たちが過去持っていた精神基盤を改めて再び参照するというのは意味あることかもしれません。基本的には自然破壊は近代以降の問題であるのは間違いないので。。。
それを現代の社会でどう折衷するか。
「ソフィーの世界」のようなやさしい西洋哲学史に該当するような日本哲学史をどなたか書いてくれないものかな、とふと思います。
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