2010年2月23日火曜日

やっと春めいてきたかな?

 おだやかな1日となりました。春が近づいてきた、そんな気になる1日です。今日からまた中学の数学と漢字の問題に取り組み始めています。今度の日曜日にまた(何度目かな?)基金訓練校の選抜試験を受けるためです。「宝くじ」のような訓練校は1日遅れの通知。学校自体が準備遅れの感あり。受かってもあの学校では不安だったはず。

 夕方には「青年期の育ちを考える」というシンポジウムに行く予定です。2部構成で関心がある第2部から見ようと思っています。

 ところで作家で元精神科医だったなだいなださんがうつ病についてのブログを始められたようです。近年、同世代(もう七十代後半でしょうね)の友人たちがうつに罹っている率が高いというのをご自分のブログで書いていたので、それを憂慮して始められたことかもしれません。

 元々なださんは「くるいきちがい考」等々の本にあるように、ノイローゼやアルコール依存症なども社会心理、社会環境との相関関係で考えている人でした。いわばこころの病気に罹る人は特別ではなく、その時代時代の社会の人々が持つ自分の中で排除したいもの、怖れるものの反映、鏡のようなものとして捕らえる感覚があったのだと僕は思います。あるいは、ノイローゼにかかる人の倫理観が時代の変化に適応せず、そのために表現がノイローゼとしてのかたちをとるように。

 うつ病のノイローゼ化?というような疑問から始めておられるようです。ぼくの捕らえ方としては(本当のうつ病のかたには大変申し訳ない書き方ですが)「ライトな感覚のうつ病」という感じでしょうか。実際、現実社会の労働強度があがり、ハードな仕事に耐えられずストレスフルとなって燃え尽きた人にとって、会社がリストラせず、長期休暇をとれる手段はこころ医者にとっては現状「うつ病」という判断でしょう。

 けして社会がうつ病を厳密に理解しているわけではないと思います。また、それはそれでいい、と僕は思っています。それで最悪なところにまで追い込まれる前に休む手立てや手段は手に入るのですから。最悪な事態は回避されるはず。(いまの時代は休める社会が本当に必要だと思いますね)。

 社会はその時々で流行となるこころの病の言葉が氾濫します。それは社会が心疲れた人たちを厳密には理解出来ていないあかしであるでしょうし、同時になだ氏の著書をいくつか読めば、社会のほうが健全なのかどうか?という素朴な疑問に行き当たるはずです。

 そこらへんのことが了解できる人にとっては、なださんが今後新しいブログで書かれることを注視されるのも良いかと思います。

 

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