2010年8月30日月曜日

支援試論

 斉藤環の「社会的ひきこもり」(PHP新書)のような本は10年経って状況が多少変わっている面があるとはいえ、基礎概論としては良く出来た本だと思う。思うけれども、微妙な違和感が残るのも事実だ。医療的アプローチ、福祉的アプローチ等々あるだろうが、常に突き詰めると出てくる問題は、人間が人間を「かのように」切り取ることが出来るか、ということだ。人が人を客体のように扱えるか。というきわめてセンシティヴな問題である。ここは本当にデリケートなことで、一歩間違えるとパターナリズム(父権主義・温情主義)に陥ったり、研究者が客体として当事者たちを観察する、という罠に陥ってしまう。「支援者」と呼ばれている人が「仮に」自分の善意をほとんど疑っていないとすれば尚更危ない。

 そのような次第で、支援者は常に、自己のアプローチが相手方にどういう影響を与えているのかについての絶えざる検証が必要となるし、ヨリ以上に大事なのは支援している主体としての自分自身を疑ってみる作業であろう。自己が行っている支援の意味・譲れぬ思いを基盤に持ちながらも、自己の視点を離れたところで自分自身が、何らかの意味で「揺れて」いなければいけないのではないか、と私は思う。

 磐石として揺るがぬ支援者ほど怖いものはない。そのように思う。

 仮にひきこもりという定義があり、研究し、追求してもひきこもりから脱出した人たちが生きる社会がすでに半分病んでいるというケースもありうる。率直に言えば、ひきこもりから脱出しても仕事を探す段階において、すでに社会がその人を「浦島太郎」扱いすることで状況から抜け出せなくなっている、というケースも考えられよう。

 そのような際、医療や福祉の支援のアプローチはまた別の観点を持たねばならないだろう。医療者や研究者、支援者等がひきこもりは「弱い人たち」「手を差し伸べねば動かない人たち」と一般化して考えているかどうか。実際にはわからない。そこにもこころ医者、PSW,カウンセラー、NPO支援者うんぬん、うんぬんと一般化された名称として手を差し伸べる人たちが登場するわけだが、その人たちの心情の中にも考え方に濃淡があるはずである。それは他の支援が必要な人たちの種別(この表現も良くないが)の世界にもあるはずである。

 かくして、あらためて、人は人を客体として扱えない、というきわめて困難な、そして人間の本質に係わる問題が立ち表れる。そして時により、知らず知らず人が人を客体として扱いかねないのが、現代における「エンパワーメント」云々で表現されるカウンター的な真っ当な対抗(抵抗?)概念が現れる素地でもある。

 そして率直に言えば、当事者が「エンパワーメント」を高める、というのも言葉で言うのは簡単だが、現実にはそのような意識と結果が短兵急に立ち現れないのも事実だろう。しかし、やはりこういわねばならない。当事者はそこで折れてはならないと。

 支援する立場の強さについ繊細さを忘れ、研究者的アプローチやパターナリズムアプローチに陥り、そしてそのような支援の枠組みに追随するよりは、ささやかでも抵抗の表現をするほうが健全であろう。
 しかし、当事者はその「ノン」の姿勢を示すのが怖いのも確かだ。そこで支援者の援助の暖かさが冷えた関係に変質するのではないか?と不安になるからである。

 医療的アプローチにせよ、NPO的な世界にせよ、その世界観の中に一筋にハマルのはどうやらある種のドツボに陥る危険性もありそうだ。それゆえに、関係性の固定化の結果から生ずる長く引きずる葛藤の罠に陥らないためには、支援者・被支援者の関係性の果てに結果として生じてしまった上下関係を浄化するために、被支援者のつらい自己表現と、それを誤解して受け止めた場合の支援者との関係を調整するための「第三者」が必要となるのではないか。最近そのことを良く考えている。

 いずれにせよ、人間と人間の関係だ。どのように知的で精神的に健全な人間であっても、自分のアプローチを検証されきれないという事態はあるだろう。
 繰り返しになるが、肉体面はある程度ありえるかもしれないが、心理面に配慮せねばならない援助と被援助の関係において、援助者は相手の人を客体と見ることはできない。その点は絶対である。

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