2010年6月10日木曜日

感受性

今までの感受性ではなく、新しい感受性が自分には必要だと思い始めています。
今までの感受性、今より若い頃のものは鋭かったかもしれないが、結果的に社会的に無益なものが多かった。

いまでも積極的に他人と話していくのは苦手だけど、一つ一つの会話の中でそこに意味を見出していきたい。
若い頃は右から左に通り過ぎるものが多すぎました。
まがりなりにも今は、いまの社会システムに多少なりとも疑問を持ち新しい何かを始めたいと思う人の集まりでしょうから。

夢を見たあとの感覚が呼び起こす記憶も大事にしたい。
眠りから覚めた後の物思いも「次につなぐ何かのヒント」と思って大事にしたい。

いろんなことがつながっていると思ってそこに自己の倫理優劣はつけず、興味深さを基盤にモノを考えたいなと思いますが、でもそのベースは例えば「ビッグイシュー」などの記事がとりあげる世界でしょう。大きな意味ではそれとかケーブルテレビ、朝日ニュースターの「デモクラシー・ナウ!」の世界。より身近には意外に社会生活の最新事情にとって参考になる「ニュースの深層」。ある意味「クローズアップ現代」などよりも参考になります。(毎日じゃないですけれど)。

物事への関心、狭くて深い付き合い方。そのキャラクターは根本で変えようがないとするならば、そう生きるのが在る意味「運命(さだめ)」ととらえて生きることで、自分を社会的に生かすことが出来るかもしれないと。これは希望的観測の夢ですね。

つまり、皆がいいと思っている方向性に生理が合わせられないなら、オルタナな生き方を選択すれば精神的・社会的に自由になれるかも。他人に迷惑にならないかたちなら。

そしてもう一つは自分にとってオルタナな、自由な思想信条をあちこち口にしたがり共鳴者を求めたりせず、自分の中にしまっておく力。その意味での孤独に耐える力。それも今後必要な自分の力かもしれません。

感受性の方向性を少し変えてみないか?自分自身への提案です。

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