2010年3月5日金曜日

夢のもつれ

 今朝起きたら重たそうな雪が積もっていました。
 最近自然に目覚めが早くなりました。朝早くから仕事の準備されている人には眉をひそめられるかもしれませんが、大体6時半くらいに自然に目が覚めるようになりちょっと驚きですw。実は先月の頭くらいは実に良く眠れて。朝起きるのが7時半過ぎ、二度寝して8時過ぎということもざらだったので。
 不思議ですね、人間にも体内リズムがあって、寒い冬は深く眠ることによってカロリーを備蓄し、春の季節とともに体内リズムが活動的になるように促すのでしょうかーなんて、自分勝手な理屈作りです(苦笑)。

 年度末になると今まで習慣的に読んだり見たりしていたものが終了したりします、今やっている朝ドラもこの3月末まで。
 新聞夕刊に定期的に連載されていた鷲田清一さんという哲学者の人の連載も終わりです。「夢のもつれ」というタイトルのものですが。まぁ、関西、確か大阪出身で京都の大学で教えている方で、哲学者といっても一種の普通の人のための人生哲学、生き方実践的な部分が多々ありまして、文章は読みやすいのです。読みやすいのですが、どこかひっかかり、余韻が残るタイプの文章。時には関西の人特有の(失礼!)世の矛盾も飲み込むような二枚腰的な思考法が自分には馴染まないな、と思うときもあったのですが、基本的にはわりと一生懸命読んでいました。
 大阪や京都の人たちはおそらく絶対「原理主義」には走らない土壌でしょうね(苦笑)。それはともかく。

 ラスト回は読み応え十分でしたので、一部その内容をお伝えしたく。私もこの回のこのセンセの考えに深く同意です。
 いわば「今どきの子ども」論から始まり、思考の自由を述べる立論です。
 ランダムに引用させていただきます。

*************************************************
 いまどきの子どもは、まわりから期待されすぎているのかもしれない。対話やコミュニケーションを求められすぎているのかもしれない。ことが何であれ、なにがしかの反応を、対応を、そしてその成果を、すぐに求められる。云ってみればじぶんをニュートラルにしておくことが許されない。友達同士のあいだでも、気を配ること、神経を使うことが要求されるらしい。
 他人をほっておいてやるという思いやりがもっとあってもいいのではないかと思う。

 今の社会には、だれもがあたりまえのように感じているが、ちょっと考えてみれば理がないすぐにわかることが多い。・・・問いをだらだら並べていると、理屈ばかり言って、と咎められる。
 わたしばかりが病気するのはなぜ?働くことの意味がわからないのに働かなければならないのはなぜ?なぜ成功しなければならないの?こんな問いには、あたりまえのことを訊くな、答えは出ないから考えても無駄だ、などと言われる。

 しかし、生きてゆくうえで大事なことにはたいてい答えがない。生きることの意味、わたしが存在することの意味、社会に漂う閉塞感の理由・・・。答えが出るまでああでもない、こうでもないと思い惑うしかない問題群である。なのに考えるなと言われる。答えをすぐに出せと言われる。そして滑りの良い思考ばかりが求められる。ここで否定されているのは、あれこれとぐずぐず思い迷う権利である。

 生き方を軌道修正するためには、身につけている思考の初期設定を変え、フォーマットを変える必要がある。そのためには、新しいフォーマットを作れるまで、ああでもないこうでもないと不確かな状態でいつづけられる思考のタフさがいる。無呼吸でどこまで深く潜水することができるのか。それが験される。その験しの機会が、わたしたちにはなかなか許されない。
 ニュートラルでいられる場所。あるいはぐずぐずしている権利。それを私たちはもっと主張してよいのではないか。

 マニュアル本やハウツー本、指南書が溢れているが、ぐずぐずするためのマニュアル本はない。どうしていいかわからない人のために書かれるのがマニュアルだから、あたりまえと言えば、当たり前か。

0 件のコメント:

コメントを投稿