2022年10月10日月曜日

敬老の日は過ぎた祝日だけど。

9月の最終週から母親が通っているデイサービスでコロナ陽性患者が多発して、デイは一週間休業した。

10月の入りたての月曜日の早朝に母はトイレからベッドに向かうところで転倒したらしく。その日は報告を聞いたくらいで、火曜日も普通にデイサービスの再開に行ってくれたため、それほど気にしてはいなかった。

水曜日にバイトから帰ったら、珍しくベッドに寝ていた。曰く横腹が痛いと。様子がつらそうなので、次の日に在宅リハビリに来られる人がきてくれている時間に電話で様子を聞いた。確かに本人に主訴はあるけど、外傷はなさそうだと。

で、金曜日もデイサービスに無事行ってくれて安心はした。帰宅後本人に聞くと、まだ脇腹が痛いとの事だったが。


このかん、しばらく自分も考えた。母の衰えはまず認知症という脳から具体的な衰えがきて、今年の12月に要介護認定からの6年目が始まる。初期にはさまざま了解不可能な訴え、ヒステリー、それに対する私の対応の悪さで口論になったり、良くない循環があったと反省もさせられたり。2020年にコロナがやってきた5月のGWは共に過ごす時間の多さに振り回されてとてもしんどい時もあった。


あの頃から2年以上経ち、96歳近い年齢相応な身体的な脆弱性も加わってきた。その分、逆にこちらを振り回す言動も徐々に減ってきたと思う。

脳だけでなく、身体のエネルギーの衰えが垣間見れて、それはまず脳の衰えに伴い現実現象の理解ができない、例えばテレビの内容が把握できないし、あるいは新聞も内容を理解できない。そのように、現実と向き合う手がかりがないゆえの退屈や寂しさのために在宅時はひとところに座ったまま昼夜過ごして夢現を過ごす。身体を意識的に動かすということがないので、自然に身体、脚力なども衰える、食事の量も減るなどで具現化する。そこには相互性と相乗性があると言える。


それゆえに、私にとっての救いはデイサービスに通ってくれることと、週一回来てくれ母親の様子を細やかに連絡ノートしてくれる訪問リハビリに来てくれる人の関わりだ。家人が自分しかなく、その自分も充分に関わってあげている自信がないので、珍しくソファーで寝てるのではなく、ベッドに昼夜ずっと寝ている姿を観て考えたのは、やはり寝たきり状態に近づくのはいつか、或いはそうそうそれはないのか。内臓疾患がないならば、今回のように転倒など不慮の事故で一度に悪化するのか。


今のところこれらは観念的な悪い想像だが、それはネガティブでもポジティブでもなく、冷静に母親のクオリティオブライフを考えたとき、同居の選択がいいのか、グループホームに移行するのがいいのか、リアルに考えるのは避け得ないなというポイントにきつつあるという思いだ。

そういう介護におけるネクストステージについていつになく考え始めた。そのような話を月に一度さまざま思うことを恩師のかたと電話で話したときに言われたのは、「100まで行くにはここから1年が勝負だろうな」という言葉だった。


そして今日、上記のことを自分としては洗いざらいケアマネージャーに話した。そして在宅の限界の次があるとすれば「老健を通過して特養か、それともグループホームか」ということを尋ねた。ケアマネさんがいうには「グループホームでしょう」と。やはりそうか。

いわばグループホームは、雑な例えで言えばデイサービスを生活の場とするようなイメージ。老人保健施設はどちらかと言えば医療福祉施設のイメージで、原則はリハビリ機関としてリハビリの目的は在宅介護に移行させる。それが正しい運用のようだ。だから、リハビリで日常を回復するのが医療枠で考えにくい認知症に関しては、むしろケアでの対応、生活介助の対応が向いていて、グループホームが適任らしい。


こうやって老いを見詰めていくことを自分の日常の大きな要素の一つに組み込みつつ、サービス調整をしてくれる存在と腹くれなく話せるのはありがたい。

ケアマネさんが歳が近いステーション責任者から若手のケアマネさんに代わって一年になるが、一生懸命に耳を傾けてひとつひとつの不安に応答してくれるのはありがたい。

不肖な子どもであるので、外部サービスへとほぼ依存なのだが、なんだかんだ長期にわたる介護サービス受給なので、基本的にこのまま人員がデイサービスを含めて動きがなければいいなと強く思う。


その意味では、ずいぶん自分は保守的になってきたなと思う。

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