2022年10月30日日曜日

なお一層繋がりにくくなるー見当識障害やジャーゴン

  また親の認知症の愚痴になるかもしれませんが…

 最近、本人は昼間寝ていて、夜中に起きている現象がけっこうあるのだが、直近は真夜中に起こされるようになってきた。

 既に本人の中では朝夜の区別がつかなくなっているだが、そこはデイサービスに一日行っている日などは昼間活動しているので、夜は寝てくれるものかと思っていたけれど、むしろ昼の刺激によって、目が冴える傾向もあるみたいで。ただ、週2回あるいは3回のデイ以外の日は日中はほぼソファーで寝ているので、昼夜逆転が普通ではあり。そこら辺は既に傾向としては見られて、この秋口くらいは朝起きたらベッドではなくいつも座っているソファーで寝ていることが多い。ただ、今までテレビなどはつけず静かに座っていてくれていたからよかった。

 でも、最近は不安や寂しさが募るらしく、真夜中に「ご飯はどうする」とか、食事がらみで深夜というか、早朝、端的に丑三どきに起こされることが増えてきた。朝が早い自分には大事な熟睡時間なので、生理的にかなり腹が立つ。その度に「今寝ないと困る時間だ」「何時だと思ってるの?」とどうしてもこちらはクレームしてしまうが、その度に本人は「知らないよ!」と不機嫌をむき出しにするので、どうしても当方も気が収まらないし、確かに「時間感覚がない中で一人で起きて、関係のある人が誰もいない」というのは不安や寂しさが募るだろうな。今まで黙って耐えながら夜中起きてたのかなと思うが、睡眠、熟睡時間の自分はそう考えるゆとりはなく、「眠りにつきたい!」と思うから、腹立ちが先に立つ。

 こちらへの行動が今までなかったから、先週から今週にかけてこういう深夜帯に関わってこられる現象に「今後もそうなるのか。これが常態化するのか?」という不安と、一時的なものであればいいが…という軽い祈りにも似た気持ちになる。そういうことを吐き出したかった次第。


 もう一つ気になるのは、専門用語で言うところの「ジャルゴン」と言われるものだろうか。「意味性ジャルゴン的」なものの始まりが見られるのでは?と思う。簡単に言えば、“話のセンテンスが崩壊している“ような傾向がみられている。なので、母もいろいろ喋るし、喋りたい、話したいという要求があるのもわかるし、それに応えていきたいと思うのだけど、何しろ話を聞けば主述の意図が掴めないし、最近ではテレビ出演者との関係が自分にも関係しているというような物言いで、それをきっかけに私を呼んで「どうこうして欲しい」(その「どうこう」も本人が話し始めると意味がさっぱり取れない)と言うのも大変困る。

 なので、正直、時々情を込めて語りかけられても自分の方では身体が母の語りを受け付けないことに気付かされることも多く、申し訳ないような、でもどうしてもそうなるのは致し方ないんじゃないか、という気持ちに引き裂かれてしまう。


 意味不明な言葉使いはきっと子どもを育てる過程で子どもも親などに一生懸命やっているんだと思う。でも親がそこで多分粘り強く聞けるのは、子どもがその繰り返しの中で自分達大人と同様なコミュニケーションに至る実験的な発達過程であって、一般に子どもたちのその実験的な発達過程は親にとって微笑ましく見えるから「愛情」と密接につながる要素なのだと思う。

 その逆の過程、悪く言えば崩壊の過程を人はどう捉えられるか、ということなのだ。最終的に「死」に近い老いの深部に向かう親を見てポジティブに捉えることは極めて難しい。

 ただ、だからこれは自己防衛的に思うことなのかもしれないが、私の少なくとも認知能力、感情能力を正常に育ててくれた母親がそのようにして、普通の社会的コミュニケーションに耐えられない脳機能の者となったとして、それは老いの最深部に突入しているゆえのものだとすれば、おそらくのちのち私自身も全く同じではないとしても、つまり認知症とならないにしても、何らかの形で自分で自分を立たせられなくなる、社会的に自立機能を維持できないことが非常に可能性が高いものになる、という認識を現前にかつて寝たきりとなった父親同様、教えてくれているとも言える。


 なかなかそう簡単には諒解できないことだし、今後も例えば夜中に叩き起こされることが常態化すればこんなことを書く余裕は無くなるだろうが、「こうして、人は生物機能として終わりへと向かっていく」と言う現実を見せてくれているとも言えて、「成長」とか、「勝利」とか諸々のことが人の生涯の全体の一部に過ぎないもの、あるいは相対的に見られるものだという実感につながっている。

そう思うし、だからこそ、「有意義なフィクション」として成功だとか、アートとか音楽とかスポーツとかの自分ができもしないことでの「目利き」のふりに熱意を持つ。それも終わりいく肉体におののかないための人間としての生態に関する応分の防衛反応として大切なものだという納得にもなっている。そんな気もするのだ。

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