2013年10月27日日曜日

釧路でミーティングしてきたレポ

・今からひと月ほど前、釧路で元生活保護行政のリーダーをやっていた櫛部武敏さんから電話をもらいました。釧路で「外へと開く生活保護行政」「してあげる/してもらう」関係からの脱却を目指し、支援者・当事者相互の関係が循環する「循環型福祉」を標榜し、それを実践して、国内的にも『釧路モデル』として福祉界では有名になった釧路の生活保護行政の現場のリーダーです。
 3年前に関係させていただいているNPOの情報誌作りのインタビューでお話を伺って以来の僕は櫛部ファン。
 新しい方法論を現実化させた実績に惚れ込んだというのもありましたが、それ以上に感銘を受けたのは実際にお会いした際のその飾らないオープンな人となりと、実は行政マンとしての自分には行政マン的な殻があったのだ、との自己反省の弁を真摯に話してくれた、その誠実な人柄。その率直な姿に惚れ込んだのでした。
 状況的にひきこもりに関するインタビューに対して行政は特にガードが硬いことは知っていましたし、まして生活保護の福祉事務所といえばなお一層ガードが硬いだろう、と考えるのが普通。それだけに僕らの普通の発想から言えば、すべてが型破りな方で。そのくせ語る内容はいちいち筋道が通っているものだから何も知らない底辺側にいる自分のような人間には、舞い上がって惚れ込んでしまうのも、いま思い返しても無理のないことだったと思います。

・その櫛部さんからかなりカジュアルな様子で「今度『生活困窮者自立制度』っていうのが出来るからさぁ。そこにひきこもりとか無業孤立者の問題も含めて考えていきたいと思っているんですよ。だからあなたにひきこもりについて思っているところ、何でもいいから話してくれない?」との話が舞い込んできたときには、もう前のめりにぜひ喜んで、という感じで。

・実はその後に何度かメールや電話でやり取りするうち、制度枠が明後年、新しい法律になることとも絡んでいると分かってからは、一時結構考え込んでしまい、いろいろ調べたりもしたのだけど。結論としては自分の経験ベースにプラスアルファ、社会的なひきこもりの人の心理の中心を占めるものがある、という仮説を上手く伝える本にも出会えたので、理屈はそこから持ってくることにしました。(悩めば、ギリギリで意外と役に立つものは見つけられる!という発見でした)。まぁ、制度運用の肝は櫛部さんたちが実質、考えることなので。。。

・この間の、10月の釧路に行く週までは結構自分としては今までになく、というべきか、今まで以上にというべきか。ディープなひと月だったな、と思います。人に会い、本を調べ、過去のインタビューに当たり、専門家の人の話を聞き、友人たちにアドバイスを受け・・・。自分にとっても大事な蓄積の時間だったと思います。

・当日、バイト終わってまっすぐ丘珠空港に向かったら霧のため釧路空港に降りれないようだったら丘珠に引き返す、というアナウンスがあり、目の前が一瞬真っ暗に。祈るような思いで飛行機に乗ったのだけれど、案外簡単に釧路着。飛行機も揺れなかったし。でもそっから空港発バスが全然出発する気配なし。なんで?という感じ。40分くらいたってから出発したので会場まで三十分くらいしか時間の余りがなかったりするのか?食事する時間はあるのか?と不安に思ったらこちらもなんて事なく、ほぼ当初の予定通りにJR釧路駅に着。風がだんだん強くなっています。

・先に釧路入りして一緒に話をするハイロウさんと食事後、すぐ社会的起業家の一角に加わった櫛部さんの所属している事務所に入ったらもういきなりフレンドリー。「やあやあどうも」、という感じで暖かく歓待されてコーヒーを戴いている間にも既に櫛部節が炸裂。あっという間に緊張する間もなく会場入り。

・会合自体は自分に関してはまあまあ、かなぁ。喋りすぎて途中でフェイドアウトするあたり、人前で喋り慣れない問題点炸裂。かたやハイロウさんは論理的かつ自ら体験したことの具体例を交えて完璧なトーク。フォーマルな方々相手に納得の表情を手に入れてました。流石だなぁ。妬けるぜ(笑)。    
 後半の櫛部さんが勤務している社会的企業創造協議会の職員さんの仕切りもお見事。本当は二つのグループに分けてミーティングする予定が、しゃべりすぎてしまったために時間がなくなり、全体ミーティングとなったんだけど、キーワードを用いた話し合いは後ろのホワイトボードがいつの間にか活字で満杯に。本当にいつの間に?この人たちの頭の回転の速さは、なに?みたいなことを鈍重な自分は写真を撮ってから初めて気づいた次第です。ああ、社会的スキルがないぞう。


 喋りとか、質問に対して頭が真っ白になることはなかったけれど、ラストの方でつい熱がこもりすぎて暴走発言をした気がする。関係者の皆さん、申し訳ないです。どこかでアナーキーな癖があるもので。。。この質疑タイムでのハイロウさんの受け答えも完璧で見事だったなあ。改めて自分の少年臭さに思い至ります。社会性がぁぁあ。

・終わってから、新田さんという方が来られて「相談事例があるんですけど」、との話。すっごい洗練された美人の方。ん?新田さんとは。あのぉ、もしかしたら釧路福祉事務所で発行した『希望を持って生きる』の第二章を書かれていたあの新田さん?本を通して「この人、すごい!」と思ったあの、あの、自立生活支援員の新田さんですか?
 「そうです」というお答え。思わず「ええ!」と大感動。今は櫛部さんのもとで生活相談員をされておられます。「いや~。こんな、美しい方だったんですね!」と思わず、自分。ミーハー精神、全開です。ご相談戴いた悩ましい部分に関しては、結局僕はど素人なので、釧路に来る前に相談に伺った市の障害者支援相談員の方を紹介するに留まってしまいました。役に立たない自分です。
 後は別れ際にツーショットをお願い。いや~、嬉しい。憧れだった人とのツーショットだぁ。


 
 
 
 
 

 

・櫛部さんと会合終了後、いまは生活保護受給者の方々の生業作りのために釧路の基幹産業である漁業で後継者不足に悩む魚網作りを手がける仕事をされているのですが、その工場を一緒に見学させてもらいました。まずは地域に根ざした産業を守り、仕事とし、雇用を作り、と。しかし魚網作りは熟練工の仕事なので、一人の熟練工の仕事を何人もが時間をかけて行うため、今のところ月収にはそれほど結びついてはいない。それでも毎日午前午後と仕事をやっているし、受給者の方々の生きがいにもなっている。少しでも自分のお金で受給費を返還したり、生活の足しにする。そういう人の生きかたやありよう、そして地域とお金と仕事の意味について熱く語ってくださいました。非常に納得させられたり、考えさせられたりする話。その工場で立ったまま1時間くらい僕らとやりとりしてくださった。この話しもインタビューで収録して置きたかったなぁとの欲目が又。。。
 
 まあ、冗談はさておき、櫛部さんはこの釧路という土地、地域に根を降ろす福祉に本気だ、と改めて確認できた次第。
 おそらく、櫛部さんはそういう人だろう、と思っていた通りでした。地域の中で苦楽をともにする人だろうから、と。あああ、その立ち位置は凄すぎる。
以下、魚網工場の写真です↓



 

・夕飯までご馳走になったその日。なんという充実した日だろう。いろんなものをもらったし、同時に自分への宿題も沢山もらった気がする。「お前はどうだ?」どうだろう、どうするだろう、どうなるだろう?変わるかもしれない、変わらないかもしれない。変えられないかもしれない?
 でも、いろんなものも今も過去も見せてもらってきたはず。良い言葉も山ほど聞いてきたはず。その事実を改めて思い知る感じがある。別に肩に力を入れる必要はないけれども。

・と、答えがあいかわらずの曖昧なままの、とりあえず第1回釧路ミーティングレポートでした。
 


2013年10月19日土曜日

ブログの更新滞り。

最近、全然ブログ、更新してなかったなあ。
前は個別なことをよく更新してた気がするんだけど、最近しなくなりました。
なんか、昔の書き込みをちらっと読むと世界観が狭すぎて恥ずかしい。まぁ、それもまぎれもない自分なんだけど。

■ 9月23日、誕生日を迎えた。年齢は不詳としていたい。ただ、40になった時ほどショックが減った?ショックはショックなんだけど。ショックする力量も減ったかもしれない(苦笑)。40になったときは辛かった。本当に辛かった。自分が40で、こんなに展望がないなんて、信じられなかった。

 この日、「夜回り先生」の講演を聞いた。「あなた達は昼の住人、私は夜の住人」という言葉で始まって一貫して聴衆に刃を向けるような?口調は説得力があったけれど、その喋り慣れぶりはちょっと冷静に考えると妙な感じ。感極まって泣いている女性たちも何人かいた。いろいろあるのだろうな。

■ 9月末頃。いきなり釧路から電話を戴いた。有難い注文だけど、その時はかなり楽観的に聞いていた。るんるん。

■ 少し覚醒してきたら、課題が結構大きいかも?と気づいてごそごそ資料集め始める。一義的には自費出版を最初に、と思っていたのだけれども、優先順位が変わる。

■ 10月に入った。週末、少しずつ人に会い始める。いつもの人、たまに会う人、と。また、しばらくぶりの人にも相談の連絡をする。

■ 課題が明確だと人に相談やお願いをしやすいことに気づく。幾つになって?と自分にツッコミを入れるのも控えよう。そういう人間で生きてきたのだもの。しゃあない。

■ 体験発表とか、親の会とか身になりそうな場にちょこちょこ出てみる。体感が必要な局面だというところがあるので。

■ 煮詰まっていたところになんとか大枠の出口が見つかりそうだ。今日やっと来週金曜日に向けた原稿が出来る。これを次の金曜日まで見ないで喋れるように練習したいのだが、そう思った途端に別のところに逃げたくなるという必然。
↑
今風に言えば、「イマココ」ってやつ?
 ちょっと自分と無縁な人たちを前にしゃべることになりそうなんだけど、アドバイスを受けて、いつものお宅の雰囲気でよろしいのでは?という言葉にすがって行こうと思ふ。

■ エレカシも復活しそうじゃない?今年ももうふた月だけど、良い年末にしたいね。

2013年8月29日木曜日

8月12日の日記:「もののけ姫」再見

(このブログの内容は、8月12日に書いた日記を修正して転載したものです)。

   
8月12日 曇り、一時強い雨。

 昨日の「心理学と宗教」に関するインタビュー起こしをずっとやった後、関連として宮崎駿の「もののけ姫」を見る。そこで改めて宮崎駿の力量に驚く。宮崎は主人公のひとり、「アシタカヒコ」がもともとは大和にいた縄文人の末裔で、ヤマトに攻め込んできた現天皇家から逃れ、東北にて縄文的な生活を続ける部族の若者として描かれていると思われるし、西方にあり、タタラ場の近くにある森の神と対立する場所は、おそらく山陰、島根地方あたりなのだろう。もしかしたら出雲のあたりだろうか。そしてタタラ場の情景や、すでに鉄砲の原型がそのタタラ場で活躍するのを考えると、舞台は足利末期か戦国時代初頭だろうか。(その後、宮崎監督のインタビューを読むと15世紀の室町時代らしい。応仁の乱の頃?)。

 宮崎駿の凄いところはそのように時代背景がかなり綿密に、考証をごまかさずおり込んでいること。歴史的社会的構造を認識しており、それを決しておざなりにしないこと。歴史の表舞台の中心から排除されたところで生活している人びとを描いていること。そしてそれらを「アニメ」という要素の中でやりとげたこと。これは凄いことだ。この後の宮崎作品や、その前の作品を通しての論評は出来ないけれど、日本人の精神文化をアニメで表現し得た意味で、映画監督としての歴史に残る作品を作ったと言えるだろう。この作品ひとつだけでも歴史に名が残る映像作家だと言える。

 ただ、この森山に宿る自然、アニミズム、精霊世界を自らの手で殺した人間界の原罪のような物語は、日本人以外にはなかなか理解が難しい気がするし、そして実に一層深刻なのは、日本人の多くも深い部分までは簡単には理解が難しいのではないか、ということだ。正直自分自身、今回見返すまで、かなりの部分が見えていなかったことに気がついた。実に何も分かっていなかったのだな、この背景を、と。
 
 

 
 ちなみに、ラストシーンのもののけ姫とアシタカヒコが山と里でお互いに生きると誓う場面での風景は日本の「里山」の原風景で、この原風景も15世紀の頃に初めて出来たらしい。すると、この森の精霊と製鉄事業を行う人間との対決で(結果として)森の神を一度殺した人間が作る里山風景の前は、現在と相当違った日本があった、別の日本の風景であったということなのだろう。

 あと、宮崎監督の奇想がいつもながらに独特だ。タタリ神などの造形に漂う気味の悪さは異臭とでもいうべきものを感じさせるものだし、その現代的カタルシスとは違うラストへ向かうスペクタクルは観ていても、グロテスクに近く、その着想を理解するのは凡人の自分に難問は難問ではある。
 ただ、それがやはり「もののけ」であったり「たたり」であったりだとすると、自然そのもの・すなわち森の精霊たちが騒ぐことで、森から製鉄のムラへの激しい非日常の動きをすることを考えると、誠に不敬ながら、311の大津波を比喩的に頭に浮かべることでリアリティが増すのも確かな感じがする。ーいや、これは誠に不適格な例えであるが。。。

 「千と千尋」以降の宮崎監督の新作は余り関心が持てなくなった。もののけ姫のインタビューを読む限り、タタリ神のグロテスクな取り付く蛆虫みたいなものは、宮崎監督の中にある怒りを描写したものらしいが、その後千と千尋の「カオナシ」のグロテスクな描写を見て”もういいのかな、自分的には”という感じが正直あった。
 最新作は見ていないし、実は関心もほとんどない。個人的には「もののけ姫」がスペクタクル性と歴史描写の深みで最高傑作だと思う。いまの宮崎監督はそこから尚一層前進している、と言えるのか余り確認への関心を持てずにいるのだ。
 僕には「もののけ姫」の力技でピークを一方的に感じるだけで。あとは機会があればより温和で如何にもジブリ的な「魔女の宅急便」とか「耳を澄ませば」のような世界を清らかで美しいなあという感じで見てればいいかぁ、と思っていたりするのです。

2013年8月7日水曜日

姫田忠義さんという方を改めて追悼します。

 
 
 
 ブログは本当にお久しぶりです。8月に入ってしまったから、もう2ヶ月ぶりくらいですかね?
 8月も入った頭は「あれ?涼しいぞ」という感じだったのですが、ここ数日は8月らしく暑くて。昨日は初めて寝苦しくてなかなか寝付けませんでした。ちょっと昼間に冷たいものを取りすぎて腹を冷やしすぎた感があったため、扇風機を廻して寝てたら寒い感じが有り。かと言って、止めたらもわ~と暑くて寝苦しい。結局、タイマーセッテングで扇風機を回していました。今日も湿度が高い。
 
 まとめたいなと思う内容も無きにしもあらず、なのですが、本当に夜の8時過ぎないと頭がまともに回らない。ぼんやりして。暇があると、いわゆる、ルーツ・レゲエといわれる「DUB」というサウンドばかり聞いています。30度を超えると、このゆったりした土着的なドラムでループするようなトランス系の音楽が一番しっくりくる。時折、ドラムやベースが常識はずれに前に出たり、ボーカルに深いエコーがかかったり、さながら、密林での秘境音楽ですw。
 水木しげる大先生もこのタイプのレゲエが好きなんだって。なんか、、水木先生が大好きなニューギニアの密林での未開人の音楽のようで好きらしい。一方的に、嬉しい。
 
 さて、真面目な話。
 
 しばらく前に「あっ!」と思ったのですが、民俗文化映像研究所の姫田忠義さんが亡くなったという話を新聞で見つけて。そのまま放置は出来ない。日本の文化収集にとって貴重な仕事をされた方です。正確には「のはず」です。専門家ではないので、あまり断定的なことも言いづらいのかな、というところで、一応。
 
 
 
 もう20年近く前になるんじゃないでしょうか。NHKの教育テレビ、今のETVで見た「姫田忠義・日本文化の基層を求めて」ともう一編、「姫田忠義・ピレネー文化を見つめる」には強烈な衝撃を自分は感じたのでした。
 それらは、日本の厳しい風土でも特に厳しい山村などで生活を営む人々の風景を映像で捉えたもので、間違いなく現代が捨てた世界でした。
 
 夫婦だけで行う山焼きの焼き畑農業。真冬のマタギの冬山行の映像。そしてアイヌのイヨマンテ。その映像では若き萱野茂さんがアイヌの知性として、イヨマンテという熊送りの神事を、現代の僕らに了解できる形で説明をしてくれていました。それにしても、それぞれが圧巻な映像ばかりでした。自然とまさに格闘するような人々。自然と動物への畏怖と畏敬の感覚。
 
 そこに自然の大きさ、厳しさの中での小さな人間が必死に生きる生活のための営みが荘厳にみえました。自然の大きさの中に小さな人間の風景といえば、山水画を思い浮かべるけれど、そんな墨人の理想とは違うものだけれども、ただ息を呑むようでもあり、また美しいような感じもあり。。。
 それはピレネー山脈で羊牧を行う人たちの姿も共通性がどこか見えました。勿論、姫田さんは日本の基層文化との共通性を見たからこそ、その映像を撮ったのだと思ったけれど。
 いま、内容の詳細は忘れたけれど、VHSのビデオには取っていて、自分的には宝物なのです。
 
 姫田さんは名著『忘れられた日本人』を著した民俗学者・宮本常一氏のお弟子さんです。
 姫田さんの弟子としてのありようは、民俗学を聞き取り採取ではなく、映像として記録に残す方向性を自分の生き方として採用されたのでしょう。その姫田さんのナレーションやインタビューの朴訥とした語りのリアリティ、説得力にも当時の私は圧倒されたものです。何故かしらん?と思うほどに。
 
 ところで宮本常一氏の『忘れられた日本人』もとても美しい、こちらも日本人の基層文化をなす人たちの記録で、僕にとって大事な一冊。岩波文庫ですぐ手に入ります。お勧めです。
 
 Twitterで検索したら、民俗文化映像研究所もちゃんとツイッターをやっていて嬉しかったです。そしてどうやら、今月下旬に姫田さんの回顧映像展をやるらしいのです。
 
 
 いや~、見に行きたいものです。こういう文化素材に接せられる意味では東京は凄いですね。少し東京に文化的なものが偏しすぎている気もしますけれどもね。。。
 
そしてこちらが↓
民族文化映像研究所のサイトです。
 
 こう、自分の関心領域が右左上下しているような「変人」ぶりを感じる人もいるかもしれません。まぁ、自分でもそうだと思っていますが、でも一度この民族文化映像に触れたら結構普遍的な感銘を多くの人が受けると思うんですけどね。日頃気づかれていなかった失われたものということを思えば。いつかNHKのBSアーカイヴスでもいいので、姫田さんの「日本の基層文化を求めて」を再放映して欲しいものです。(民俗文化映像研究所でもDVDが手に入るようです)。

 
 


2013年6月18日火曜日

「大逆事件とその時代」、映写上映会


 
 今日は午後6時半から北大クラーク会館でドキュメント映画『100年の谺(こだま) 大逆事件は生きている』を鑑賞する。映写の前に中島岳志北大准教授の手短かな講演。30分で手短かにまとめる手腕はさすが喋りなれている人。やや北一輝の話に偏りすぎていたキライもあるが。
 
 映画は大逆事件に関与したと言われる人々の軌跡を丹念に追う非常に誠実な作り。
 だがまあ、大逆事件そのものを知らないと何のことやらさっぱりわからないかもしれないだろう。その説明は面倒なことだ。
 
 ただ、戦前の大日本帝国の仕組みは現人神・天皇を超越者として日本国民は万民平等なのだという中島先生曰く、「トリッキー」な統治の仕組みだったということ。日本としてはそういう形にしないと江戸時代封建制の身分社会から脱却できないということで、天皇のみを国家における生ける超越者・神として見立てることで、「四民平等」を作りあげるという仕組みだったのだけれど、実は明治政府も結局のところ、藩閥政治。具体的には薩長二藩が政治を牛耳る世界。四国高知の土佐は下野組で、「薩長土肥」とは言いながらも、明治政府の中軸から排除され、逆にそこから板垣退助などの政治家や、中江兆民などのルソーなどを翻訳した民権派思想家を生んでいく土地柄(植木枝盛なども土佐高知)。
 その中江兆民の書生をしていたのが幸徳秋水。彼ら自由民権運動の「遅れてきた世代」というべきか、世界の労働運動の高まり、あるいは日本の産業革命のひずみの高まりの全盛期たる明治30年代に社会矛盾を見つめ・突き詰めした人。その幸徳秋水は「平民新聞」という日露戦争の最中に「非戦論」を掲げた言論新聞を発行することで、非戦や社会矛盾やヒューマニズムにこだわる人たちの裾野を広げ、その結果いわば日本の広い各地に社会主義や民権主義を広げることとなり、政府に睨まれる存在になる。

 
 
 その裾野は和歌山県新宮市に、岡山に、他の土地へと広がっていく。
 大逆事件はいわば極く4~5人、言論弾圧を受け、常に監視されて鬱屈していた幸徳と同居していた菅野須賀子を中心にした半分夢想的な「天皇も赤い血が滴る同じ人間である」ということを証明したかった長野の宮下太吉という人間の爆弾実験から出た瓢箪から駒のような、当事者たちも半信半疑の行動主義で、幸徳はそれに乗っかるつもりは全くなかった。
 
 まして新宮の赤ひげ医師、ドクトル大石誠之助を中心にしたいわゆる「新宮グループ」という4~5名は、ただ幸徳を呼んでアナーキズムについて論じ合っていただけで、芋づる式に引っ張られて連座させられた。まさにそんなテロの謀議は寝耳に水。
 そんな人たちが24名も一斉検挙され、うち、22人が死刑判決されるという、戦前最大の思想犯事件であり、刑事事件、刑事手続の上においても近代日本最大の汚点。
 
 特に紀州熊野の新宮は、当時被差別部落の人たちへの差別意識がものすごく、大石誠之助のような医師は貧乏な人からお金を取らず、被差別部落にも往診に出かけた、洋行帰りのヒューマニストだった。他に新宮には高木顕明や峰尾節堂のような仏教徒もいて、特に高木顕明のような人は最初は被差別部落の人たちに明らかに差別意識を持っていたのだけれど、その土地に住み仏教徒として生きると考えたときに、根本から考えを変えていかざるを得なくなる。そういう中で平等主義や無政府主義に傾倒することになる。
 
 他に箱根には内山愚童のような硬骨のお坊さんがいて、その人も死刑。僕が何よりも悲しみや憤りを感じるのは、長く戦後の1990年代までこのような「大逆」のお坊さんたちは宗門からずっと破門されていたこと。こういう話を聞くと、一体仏教界、宗門の世界はどの大乗仏教系も含めて何と国家と一体化していたことか、と改めて思う。本来国家といういわば「人為」を超越して、民衆のために宗教で救済するための存在のはずなのに、国家と一体化するというこの矛盾はどういうことかと思う。これはおそらくキリスト教の教会組織も変わらない。近代国家とそこで職業として宗教を生業とする人たちの中での最も大きな葛藤と桎梏だと思うけれども。
 
 映画を見ていて戦後仏教徒として深く自己反省し、「仏教者の戦争責任」を書いた市川白弦という人を思い出した。
 市川白弦氏の自己反省の深さは徹底的なヒューマニズムにあるわけだけど、いわばこの大逆事件に連座させられた人たちには恐怖のテロの欲望が誰にもあるわけじゃない。

 ほとんどはみな、ヒューマニズムを展望した人たちだ。ただ、時代と国家が対外戦争と資本主義国家として大きくなる過程の矛盾を内政に抱えて国家そのものが複雑巨大化する過程で権力も抑圧的になってきており、ヒューマニズムを穏便に実現する思想的な手立てがなかった。勢い、急進的と見られる無政府主義に走ったわけだけど、おそらくそれはヒューマニティを担保する観念で、実現の手段が別にあればそれで実現できたはず。それは医療かもしれず、言論活動かもしれず、宗教的救済かもしれなかった。
 あまりに時の明治政府は山縣有朋の人のごとく、過剰に社会主義恐怖症が強い人が元老の位置を占めて官憲側もその以降に沿うしかなかったかもしれない。司法判断の無法はおそらく当時の行政権力側も理解していたのではないか。それでも彼らは犠牲の生贄にさせられた。

 ドキュメンタリーは丹念に誠実に、その連座された代表的な人たちのゆかりの土地や人々を訪ね、学者たちや識者たちのコメントをとっていく。これは昨年大逆事件から100年のまさに無念を晴らす贖罪の映画に思われた。
 僕は大逆事件がその後の治安維持法の前駆だったり、社会主義恐怖症の始まりだった戦前の言論弾圧の歴史の始まりだったと思う。この事件での当時社会的文化的な位置が高かった文学者たちへの衝撃は大変に大きかった。そして多くは余りの横暴さに沈黙した。その中で徳富蘆花の講演、「謀反論」は大日本帝国下の講演の中でも夏目漱石の有名な講演に並ぶ名講演なので、機会が持てる人はぜひ読んでもらいたいもの。

 何しろ、僕はこの映画をひとりひとりの人間から国や共同体を作ろうという、今では不思議とはされないと一応は思われている考えと、国家が人々を従えなければならないという、ヒューマニズム知識人に対する権力主義の側の最初のむき出しな暴力のありようのストーリーとしてとらえました。
 これを現代の「なにものか」にまで引き当てて考えるのも故無しとしない。とも、また思いました。

 幸徳秋水が生まれた土地の四万十川も、幸徳と大石誠之助が川下りしながら語り合ったと言われる熊野川もともにとても美しい川です。ましてあの時代は自然も雄大で尚一層美しかったでしょう。
 そしてときに共に台風が訪れる土地として、荒れ狂う自然の恐怖も知っていたでしょう。当時のモダニストたち。その生涯が全うされれば、幸徳も大石も、その他個々に連座された人たちも、天寿全うすればそれぞれの考え方にも変遷があったかもしれない。それもまた社会の大河の大事な一点としてだったことでしょう。徳富流にいえば、いかにも若い。若すぎる。その若い命が散らされたという意味では、吉田松陰が首をはねられた「安政の大獄」をも連想されるのが大逆事件です。
 
 松下村塾に学びつつ、乱暴に言えば吉田松蔭から始まったとも言える維新運動に馳せ参じた側の人によるネガティブなこの「知識」弾圧事件は同じく徳川300年とは違う新しい思想から生まれた、「人の側に立つ」運動の萌芽に過ぎないものであったはずなのに、老いて国のありかを怖れた元は松下村塾の近くにいて、奇兵隊を率いた山縣狂介こと、山縣有朋のある種の権威によって弾圧の形で行われたとは、実に皮肉な話です。
 

2013年5月15日水曜日

Continue読書会1-2『ポストモラトリアム時代の若者たち 第一章 戦後「青年期」の履歴』に参加。

 
昨日は「ポストモラトリアム時代の若者たち」読書会の第2回目で、本章の第1章目を資料を素に読み合わせ、参加者で自由討論しました。場所は勿論、NPO法人Continueさん。
 参加者は10名。世代的には20代から50代頭まで。非常に幅広い。参加者の立ち位置は、著者のお一人である村澤和多里先生と、教え子である大学院生おふたり、後は社会活動に軸足を置くサラリーマンの方や、社会的企業者、NPO運営をされている方々等で、自分は一応フリーターということで(苦笑)。ーそんな格好いい表現はできないけれど。。。

 テキストに基づいて話し合いする前に皆さん、それぞれある意味当たり前だけど、学習者の前に活動者でありますんで、その意味での語るべき言葉を持っておられるのが単純に羨ましかった。自分自身(余りよくない意味での)「評論家的な気質」がちょっと恥ずかしかったのでした。

 昨日は発表者の立場だったので、その場ではかなりアガってしまいました。半分頭が真っ白だとまでは行かないけれど、3割くらいは冷静さを欠いていたんじゃないかと思う。時間の制限もあるんでレジュメを手短にまとめようと思ったけれど、やっぱ、そうはいかず。内容はおおむね理解できているつもりではいたのだけれど、一層の要約は出来なかった。その点は反省点です。後は、そんなテンションのままでしゃべりすぎましたね。相手の方の話を誤解したり、ずれたところで話を繋てしまった部分もあったと思います。その点、反省の二番目です。

 昨日の内容はタイトル通り、第二次大戦後の日本社会の青年=若者の主観・客観の変遷について。著者の村澤先生が語るところによると、第1章を要約すると、日本の戦後高度成長を支えた「フォーディズム体制」(製造業中心の第二次産業時代)と、その後の「ポスト・フォーディズム」(サービスなどの第三次産業中心)。
 この2つの産業モデルによって若者たちの生き方、あるいは人間の生き方が規定されていく。ポスト・フォーディズム時代のあり方によって規定されるありようというのがあって、それがその前のフォーディズム体制の時代と違うのだと。フォーディズム体制では生産者/労働者になることが目的だった。それが青年期の機能だった。けれども、ポスト・フォーディズム体制になると、青年たちは一方では労働者になることを、もう一方では消費者になることを求められる。そこで若い人達の質も変わってくる。労働者&消費者の両面を求められることによる二重性の中に置かれた。それが社会側(企業側)から煽られる部分ではバブル世代という形で登場した。
 そしてバブルが崩壊したあとの90年代末以後は、労働者にもなれず、消費者にもなれない若者たち、という現象が起きてきた。そういう3段階、3つの区分でまず整理して考えてみよう、と。そういう問題意識で書かれた、と教えてくれました。

 であるならば、親世代(主にバブル世代以後)こそ今の若い人がこのポスト・フォーディズム社会のバブル崩壊社会の中で置かれた状況を認識しなければならないのではないか、つまりかなり意識の断絶があるわけで、そういう親の世代こそがこの本を読んでもらいたいとのContinue理事長さんの意見は深く頷けるところです。

 村澤先生も仰ってましたが、日本ではモラトリアムというものが、大人になることの回避、逃避だと一面的に捉えられていて、特に50代以降の世代は今でもその感覚が抜けないため、今の若い人は甘えてるとか、しっかりさせなければいけないと安易に言っている。けれど、「労働者にもなれず、消費者にもなれない」ポスト・モラトリアム世代の大変さをほとんど理解してないズレがある。そういう分析をされているので、尚一層のこと、50代以降が読んだほうが良い本でもある。この第1章は特に、と思いましたね。

 後で冷静になって考えれば、発表時間が長くて参加された人たちの自由発言時間を少なくさせてしまったかな、と考えたのですが、実は結構密度の濃い、シャープな話もかなり出てたと思います。こういう話し合いは冷静に考えてもなかなか他所では得難いと思う。かなり真正面からやるので。
 また、世代の幅が広いのも特徴。20代から40代、50代が一堂に介して意見のすり合わせを無理矢理じゃなくて合わせられるというのは、やはり得難いこと。
 やはり現役の学生さんや20代の人のリアルタイムな思いや意見は本当に貴重だし、傾聴に値しますし、斬新でもある。
 

 状況に合わせた肯定的な意見もまた貴重でした。例えば動画を一日見て過ごす若者が自分はそれで充実していると自己規定している人がいるとして、そのことをポジティヴに捉えて、その彼の関心を社会に引き出す回路を作るのが周りの人たちや大人の側の役割ではないかと思う、と。なので動画中心生活の人を、別の興味関心に誘導するというより、その子の関心をいかに外部にくっつけるようにするか。そのようなことを考える社会であってもいい。その接続させる社会は周りが作る。でもそれを選ぶのは本人の選択だという社会が望ましい、と。そのような意見にはハッとさせられますね。自分には出てこない前向きな回路なので。

 考えると、実は淡々とかなりハイレベルな話もひっそり盛り込まれていたな、と後で思い返す次第です。

 それはやはり表現能力が高い若い人がいることが大きいですし、著者ご本人が適宜適切なコメントをされたこともまた当然大きいです。

 発表者としては個人的には反省点もあって、特に現在に繋がるバブル崩壊後の青年たちの部分は多少しゃべりに疲れが出てしまって、一番強調したいところが一番おざなりな発表の仕方になってしまったのが反省点の3点目。
 でも、この日のメンバーたちであれば、いずれにせよ貴重な意見は今後も聞かせてもらえるだろうと安心しています。(ん?〆台詞はちょっと上から目線?w)

 ということで、次回は6月11日(火)のPM7時に第二章について話し合います。どうか今後も宜しくお願いします。