2012年6月8日金曜日

本日は泣き言

本日、野田首相の大飯原発再稼働に関する記者会見を見ました。
実質的に、原発再稼働宣言といっていいでしょう。
この記者会見を聞きつつ、菅元首相が311以後の原発事故で感じた危機意識が全く共有されていないのだな、と本当に悲しくなりました。
何よりも、今の野田首相の「政治生命を賭けて云々」という発言を元にした次々の普通の人たちの議論を無視していく決定の数々のその一つ一つが、総選挙に値するイシューであるのにもかかわらず、打ち上げていくその断行のありようは、もちろん最大野党が自民党であるという、対抗軸なき政治の上に乗っかっているが故であるといえましょう。
首相に自覚があるのかないのかわかりませんが、「国論を二分する」議論も野党の一層の経済界中心の発想に親和性がある限り、国民が見えなくても構わない危険性の中にあるということを考えないわけに行きません。
その点、昔の自民党で言えば、例えば宮沢喜一さんのような人は健全「野党の存在」を国民意見のバランスの点で大事なものであるという理解がある人でした。

まあ、そんなこといいのでしょう。僕自身、多くの人たちがそんな政治だの権力だのに余り関心がないというか、厄介事だと思うだろうし、楽しくもない話題だということを十分承知しているつもりです。

ただ、僕自身はこのように考えてしまう性癖はもう中年期を迎えて直しようがないことは知っているし、例えば先の「消えた年金」に関する第三者委員会が年金の訂正申し立てを抑制するように指示を出していたという驚きの記事がありました。普通、厚生労働省がそういうことをしていたというならばまだわかりますが、第三者委員会という元来消えた年金の調査審議をする機関がそういうことをしていたのが驚きです。しかもその第三者委員会は有識者、しかもその中には自分の仕事としたい社会保険労務士の偉いさんの人々が多数入っているのです。そういう話がまた一つ自分の気持ちを塞ぐのです。

最近、埓のない思い、妄想は「身体一つを資本に出来れば、少なくともほとんど人に迷惑をかけず、自信のなさも緩和され、聞きたくもない迷惑な話にかかずらわらなくても良いのではないか」という考えです。

体を資本とした技術があれば、例えばビルメン会社で現場労働で生きていけないか。あるいは農業、それも売るための農業ではなく、理想をいえば自給自足的な農業で生きていければ、と。
しかし、軟弱な身体とつまらない欲望に自分は支配されている。

軟弱な身体の自分としては、身体資本の仕事に自信がなく、社労士の実務能力の最低限を何とかかんとか身につけて就職が難しい時代にとりあえず活路を見出そうとする。
しかし、その仕事は自分の強いアイデンティティで事業者中心とはならず、冷静に働く人を守る法理を伝えながら尚、仕事を事業主からもらえるのか。
そのようなことを日々考えているのですが、そのような物思いも自分の核をけして強くはさせてないような気がする。自分の芯が自分を良しとする、自分を喜ぶものとさせるだろうか。

「国民生活」とか「経済生活」を守る云々と内省なく首相が言えるのは、日本の普通の人々の似たような弱みを知っていて、そして脅しをかけているように見える。

でももう、そんなことは分かっているし、分かっているから憤ったり、その種の情報にかかずらわるのは気がつかれる。ノイローゼになりそうになる。
ならばいっそ、自分の身体を資本に、情報社会から身を隠してしまいたい妄想にも駆られます。
もちろん、それは出来ないだろうとどこかで思いながら。。。

何かを知ったうえで、どうにも解せない政治が行われていることを自覚する。それは不快だし、知ってて知らぬふりをして生きていかざるを得ないのか、という気にもなる。
それらは疲れるから、逃げたくもなる。
実は、声にも言葉にも文章にもしなくても、そう考えているひとは多いのではないか。

まあ、そういうことです。

それにしても、これは日本にとって、あるいは地球環境にとっても由々しき方向性ですよ。経済成長という目の前のために、福島の悲劇の可能性を座視、維持してもいいのでしょうか。
それが民主党という政権で、そういう意味での政権交代だったのでしょうか。
僕は民主党に政権交代したとき、民主党に投票してませんが、とんだ茶番だったなと思いますね。

人は誰にも迷惑をかけずに生きてはいけないでしょう。でも、迷惑の範囲は小さくできるかもしれない。どれだけ人への迷惑を緩和させるか。今のままの自分の生きる模索は迷惑緩和に向かう道なのか。

首相会見をききながら、かなり暗澹たる思いで自分の今後を考えてしまいます。あまっちょろいんだよなぁ。いい年をして。本当に。

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