2017年12月19日火曜日

こちらのブログ、また超久しぶりです。

新聞の夕刊には月イチプラス程度に社会時評(批評)が載るのですが、私は吉見俊哉さんという人の時評のファンなのです。で、今月の時評、出だしから超キャッチーだった。
「1人の人生が、その社会の歴史の大きなまとまりと一致することなどめったにない」。

何ごとか?と思われるかもしれませんが、齢重ねると、まさにそうだ、というしかありません。社会意識の傾向は、自分が社会に意識的になった頃合いとは大きな変化がある。その意味で自分の人生と、いまの社会の歴史とはズレがあるわけです。文章はこう続きます。
「たしかに古代の王国では、民は王の治世と国の運命が一致するとの幻想を生きたから、実際にも一定の対応はあったかもしれない」・・・祭政一致の世界と言うことですね。
で、「それでも侵略や災害、疫病は突然やってくるので、優れた王の治世が必ずしも幸せな時代とはならず」「残忍な王でも幸せな時代を人々はすごすことがある」。

察しのいい人は何を伝えたいのはもう分かるのではないでしょうか。つまりは天皇の交代と元号の改訂の話です。

「『平成』があと1年数ヶ月で終わる。来年、2018年にはメディアで「平成の終わり」が盛んに語られていくだろう。それにつれて、人々は「平成」をひとまとまりの時代と見なしていくい違いない。はっきり言えば、これは幻想である。メディアが盛んにそう語るから、「平成」が一個の連続的な「時代」に見えてくるわけで、つまりはメガネが「現実」を出現させるのだ。」

メディアというのは、人々にある歴史のひとまとまりを構成させる、もっといえば幻想させるということでしょう。そして資本主義社会におけるメディアはどういうものか。

「この「現実」を製造していくメディア側の論理は明白である。(中略)より多くの人が共通して関心を向ける「話題」が必要で、間違いなく「平成の終わり」は、「昭和の終わり」との比較でも、天皇「退位」という新機軸でも、大いに市場価値のある話題なのだ。だからメディア資本としてここに目をつけない理由はない。

なるほど。とはいえ、なぜメディアにとってこれが商品価値が高いのか。つまりこの話題を大いに消費したい、端的に「ノリたい」私たち一般人側にも大きな理由があるのです。

「大きく言うなら、社会がその年を数える仕方には2通りある。一方は西暦のようにある出来事が起きた年からの経過年を示す直線的方法。他方は、干支(えと)のように、一定の年数で循環する方法である」

キリスト教起源の西欧では西暦による時間が直線に向う意識のとらえ方。だから、いつか終わりが来る。
対して日本を含む元号を持つ東アジアでは循環方式で、かつ元号という形で一回昨日までの時間をご破算し、新しい治世になるという方法でしょう。古代から明治以前までの元号は実際、天災事変等々でひとりの天皇の中で元号が変更されることがあったわけです。「改元」はかつて厄災の過去をいったんご破算にする方法でもあった。「ご破算で長いましては~~~」ということでしょう。しかし、それは循環式のアジアにおいても、西欧式の近代国家を構築すると変化が起きてくるわけです。

「ただ、近代に近づくと建国や革命、統治者の人生と「ご破算」になる原点を一致させる傾向が強まり、歴史の時間とは、要するに国家の時間であると信じられるようになっていった」
・・・フランス革命暦はその典型だと。

「日本人が西暦を受け入れつつなお元号で歴史を捉えることにこだわるのは、この「歴史をご破算にする」魅力が理由かもしれない。(中略)
「だが、私たちの生きる現代は、そのようには歴史が成り立っていない。未来は過去との連続と切断の交錯の中にある。」

そうなのでした。あしたは、昨日との切断ではなく、実際は「時間」は人々みなに平等に、フラットに、ただダラダラと同じ時間が続く。それが客観的事実です。
ですが、客観的事実とは別に人の生きる時間は実は社会の現実とはまた別に、一致はせず、主観と現実が交錯し、連続性を実感し、かつ切断を実感するそれぞれの「個人の時間」を生きているのでした。

吉見さんの結論は平成は語感とは逆に失敗が連続する時代だった、という認識で、それは僕も共有します。

そして僕が感じる大事なことは、歴史の時間を国家が規定する時間に合わせない、あるいは別に合わせる必要も無かろうということです。ですので、それを基幹として腹据えてさえあれば、国家やメディアのイベントもひとつのネタとして相対的に観ればよいのでないかというところに落ち着けるのではないかと思うのです。
その意味でこの吉見さんの批評は目が覚めるような筆致でした。ありがたいことです。

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