2010年12月21日火曜日

今日は模擬面接

 今日の基金訓練。午前3時間は模擬面接。
 事前の周知があったせいか、出席者は半分に減りました(苦笑)。
 形はおおむね18人のメンバーが6人ずつ3グループに分かれて、集団面接スペースと、左右に分かれて面接を受ける人たちを観察する形を作る。
 そのひとグループの6人がキャリアカウンセラーから1,2の質問を受ける。おおむね「自分の長所と短所を挙げてください」という質問ですが。 
 それを他の同席の人、例えば真ん中の3人目であれば右、左に座った3番目の人、つまり2人がその印象を、良いところと直したほうが良いところに分けて記入する。それを順繰りに廻して同様のことを行って全グループが受ける側と見る側を引き受けます。

 面接、という現在非常に過大に評価されているものに対する意味と疑義は後段に書くとして、自分の客観的評価は以下のもの。やはりそうか、というのもあれば、これは気づかないクセだった、というものの両方がありました。その意味で客観視されるのは悪くないことです。

<直したほうが良いところ>
○「え~と」「あの~」という言葉で話を繋ぐ癖は直したほうがいい。
○猫背のところがある。もっと背筋を伸ばしたほうがいいと思います。
○もう少しハキハキ喋るとなおよい。
○目線が上を向く癖がある。(これは気づかなかった。ありがとう!)
<良いと思うところ>
○要領を得て話している。
○話すスピードはいい。メリハリもある。
○落ち着きがある。
○物腰が柔らかい。

 上記で面接に関する過大な評価と書きましたが、それは履歴書の書き方(女性の場合、どんな映りの写真を貼るかに始まり)、職務経歴書の書き方も同様です。
 そのこと自体の意味に反論はないし、現下厳しい企業の採用枠の中では他者との差別化競争的な意味もなしとしません。そしてもちろん、面接もインタビューも他者との対話の一つですから、客観的にどう見えるかということの役割練習の意味の重大性はなお否定しません。
 それでも、例えば面接上において、腕の置き方がどうだとか、姿勢の細部にこだわる。あるいは書類の書き方の「細部における型」について時間を多く割いて云々するに至る点に関しては、心の中で率直にクエッションマークが起きます。
 本当は当然ながら語られる内容が大事なわけで、その「大事」は面接官と応募者の「大事」の押し引きの駆け引き要素があると思います。それが短い「面接」という枠の中で凝縮されるされちゃうわけですね。ある意味、不条理にも。

 それを僕は自分なりの押さえと考えたい。として、さて。

 例えば、素人として人を見ていて、訥弁でも素朴で率直に思えるわか者と、「上司には反対されたが、私の一存でやってみた仕事が成果を挙げた」と答えるキャリアのある人、二人の応答を見ていながら頭の中で連想するのは、人や面接官はどちらをどう評価するのだろうか?ということです。
 当然、それはどのような業種であるか、職場、職場の構成員、会社哲学はどうであるか。によって違うでしょう。同時に、面接官は確かにプロが多いかもしれません。プロ的であるということは、客観的にある程度人を見抜く、その一人ひとりが会社に入って他のメンバーとどう仕事をこなせるかという見通しもある、ということかもしれません。

 同時に、その見抜きや見通しもある一定の「型」を持っているかもしれません。
 しかし、あえて素人的に言わせていただければ、どちらとて、人として問題は何もない。どちらも貴重な人材だ、という言葉に尽きます。(あえて個人的な趣味を言えば、素な感じの若者に好感を持ったりする)。

 率直に言って、入職に至るための通過儀礼的な勉強はキャリアカウンセラーも、その方から学ぶ私たちも、ある種の「一般性」や「中庸」に陥らざるを得ないのと同様、会社の人事担当者もある種の一般性や中庸に陥ってはいないか。

 でなければ、これほど馬鹿みたいな就職活動本は出回らないはずです。本当にオリジナルな採用者はそのような本を真面目に勉強して挑む人を軽くは観ないが、尊重は出来ないでしょう。もちろん、奇をてらってはダメでしょう。でも凡庸で善しとすることも出来ない時代でしょう。(これも採用局面によるでしょうが)。同時にしかし、それもリスクを犯す行為です。オリジナリティある採用者がオリジナリティある人間を採用するというのは。(いつでも辞められてしまう可能性がありますし)。

 ですから「落ち着くところに落ち着く」ともいえるでしょうし、それゆえに「落ち着くところに落ち着いたまんま」”就職強迫観念”のときは過ぎていく、と考えるのは意地悪すぎるでしょうか。

 コミュニケーション能力とか、ストレス耐性とか、面接における技術とかをキャリアコンサルの人(とても雰囲気が良い人ですが)から学びながら、同じ先生から「いま新卒の学生さんを見る採用担当の人が一番信用できるのはペーパー試験らしいです。結局、思考力とか常識とか、その人の丁寧さが分かるのはペーパー試験だとのことです」という話を聞きました。すると「なんじゃらほい?」という感じです。

 勿論、馬齢を重ねた私のごときベテランロートルには遠い話ですが、キャリアコンサルの話は前の訓練校(最初の基金訓練、二度目の訓練)で聞いて感じてきたのと同様、どこか常に矛盾が孕んでいて、なんらか揺れています。厳しい言い方になってしまいますが。
 それは採用側からの情報を収集して伝授する以上、ある意味当然かもしれません。企業の採用基準が揺れている、ということの証明でしょうから。

 私が受けている訓練は職業に入職するための訓練で、ぶっちゃけ技術的な訓練です。特別、哲学的なことやら、込み入った議論やら、社会的なことやらを学ぶ場ではありません。だから大人の集まりである訓練生の私たちは口にせずとも何かを割り切っているか、割りきれなくてもあえて疑義を口にしないでしょう。

 ですから、幾つになっても幼児性が抜けない自分は後段(中段?)以後、言わずものがなのことを書いてみたのでした。

1 件のコメント:

  1. とても魅力的な記事でした。
    また遊びにきます。
    ありがとうございます。

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