2012年10月22日月曜日

ハートネットTV:過労死した若者

本日のNHK・ETVの「ハートネットTV」はかなり衝撃的なものでした。
学生時代から優秀だったSEの若者が過労でうつによる医療薬の過剰投与で死亡したというもの。
彼の労働環境は月に100時間を有に越える時間外の労働時間。
かつ、作業環境は劣悪。休憩室もなし。

ある意味、特殊とも言えるかもしれない労働基準法違反と労働安全衛生法の違反。
いくら現代社会の最先端で働く若者たちと云う、仮に相互了解的な幻想があったとしても、そもそも人のいのちを軽々に扱うような企業のあり方は絶対にあってはいけません。
見ていて、法令がどうこういうよりも、人倫に反する、と思いました。

しかし、非正規の働き方がやんごとなくとめどなく広がっていき、その穴を埋めるように正社員の人たちの働き方が厳しいものになっている話はよく聞くことです。いびつなことだと思います。

私たちの社会は、もはや、現在過労で命の不安を感じないとしても、人として自然な家族を持ち、仕事をしながら平安に過ごすことが手に入らない未来の不安を感じながら生きるのか。
それともお給料は良くても、手に入れたプライドや企業の要請、他者をライバル視しながら命を削るように仕事に自分の人生時間を預けるのか。
そんな極端な二者択一の社会に生きているのでしょうか?信じたくはないですが。

いずれにせよ、最も抜本的なところから考えるべき地点に立っているのかもしれません。

亡くなられた若い人のみならず、二人の同僚の方たちも病気で休職ののち、退職。そのうちお一人は今では生活保護を受給されているという話も非常に残酷な話で、有意な若者たちが戦傷兵のように打ち捨てられる。
これはやはり改めて大きな課題の前に自分たちは立っているのではないかと思いました。

2012年9月25日火曜日

芹沢俊介氏講演「いじめ根本解決への提言」質疑応答

 
 芹沢俊介さんの講演、質疑応答の部分です。講演の主部分は大枠を伝えるために「だ、である」体を使いましたが、質疑応答の中に一番芹沢さんの誠実な部分、聞き手に微妙なニュアンスを伝える繊細な丁寧さが見えると思いましたので「です、ます」体に変えています。
 質疑は講演で考えられたものを超えた芹沢さんの一層、考え考えされた部分が表現されているため、出来るだけ忠実に再現してみました。故に多少読みにくさがあるかもしれません。
 ただ、このためらいや、聞き手に伝える思いが結構大切な感じがあります。
 質問を受けている際の芹沢さんの姿勢は本当に真摯で、これが本当のジェントルマンというものかなあと思いました。(記載した二番目の質問は、私がさせていただきました)。
 その後、芹沢さんを囲んで懇親会が用意されていましたが、そちらは参加していませんので。その場でより具体的で実践に即した話があったかもしれません。
 主催のNPOはいじめに関する仲裁(メディエーター)、和解のための話し合いを実践志向しているNPO法人のようです。団体のHPはこちらです。

Q1.「レジュメのいじめ防止策のところに、『一人になれる子どもをどう作るか』という言葉がありました。この点についてもう少し詳しく聴きたいのですが」

 実はここは書こうかどうか迷ったところなんです。書いた理由は、「いじめが終わるとき」という本の末尾にかなり激しい身体的・心理的暴力を受け続けながら、ほとんど報復感情を抱かずに済んだ子どもさんとの出会いについて書いたんです。
 言葉を交わした時に彼がなんと言ったかというと、「お母さんが居るから」と言ったんですね。僕はその言葉を象徴的に受け止めました。それはお母さんのためにとか、お母さんに申し訳ないからということじゃなくて、お母さんがいてくれたから報復感情を抱かずに済んだという風に僕は受け止めたんです。なぜそう受けとったかというと、僕が好きなイギリスの児童精神科医でドナルド・ウイニコットという人がいます。彼の言葉の中に「子どもは誰かと一緒の時に本当にひとりになれる」という至言があります。つまり、一緒の誰かというのは漠然とした誰かではなく、特別な「誰か」なんです。これは子どもにとっての特別な誰かというのは、よほどのことがない限り「お母さん」なんですね。お母さんが一緒にいるときひとりになれる。このお母さんは基本的に絶対的信頼の対象としての母親です。こっから先は僕の養育論になってしまうんですけれども。
 

 要するに絶対の信頼の対象になるためには、それは子どもが本当の危険の時、絶対な対象としていてくれる。ひもじい時に食事を与えてくれる。どこか痛いときにすぐ飛んできてくれる。常にそう言う関わりの中で子どもはお母さんを絶対的信頼の対象にしていきます。
 そしてその絶対的な対象は子どもの中に内在化されます。つまり「信頼」という言葉が内在化される。すると子どもはお母さんが具体的にそこにいてくれなくても、常に絶対という対象と一緒ということを意味するんですね。このように内在化された信頼感があるので、絶対の対象が内在化してさえいれば一人になっても大丈夫。
 ひとりになれるということは右往左往しないということです。つまり群れの動きに動かされず、自分の欲求や主体性を大事にしながら行動することができる。子育て養育の肝はそこにあります。出会った時のその20歳の男性、おそらく彼は絶対的対象を内在化出来ているために報復感情を持たなかったのだと思います。そう理解しました。

 普通、いじめに遭うと多くの場合は報復感情を持つんですよ。僕も持っています。そして僕は対人的に人が怖いですね。つまり傾向としてはひきこもりです。ここでこんな風に喋ってますが、これは役割なものですから。でも根っ子は人が怖いですね。これは傷です。60年前のことを思い出して、まだ「あの野郎」という報復感情を捨てられないですね。ですから、群れの中の安心感と引き換えにやりたくないことをやってでも群れの中で安心したい。このように、いじめが群れから離れる恐怖に由来するのは責められないことです。
 でも、その「責められないこと」自体がいじめのベースになっていると考えていったとき、いじめって本当に厄介だなと思いますね。そういうことをひっくるめてやはりそれを対抗させる力としてひとりになれる力、ひとりになれるベースをどうやって作るか。それは早期の親子関係の中で作られるのか。これは何かテーマになるような気がします。

 でも、まだ自分の中では言い切れないですね。そこへ繋いでいくための対話がまだ不足しているところがあって。でも言い切りたいな、とは思いますけどね。そんなところでいいですか?

Q2. 「現代社会での学校、生産手段としての会社がある限り、いじめの構造はなくならないという風に受け止めました。仮に集団がそうだとすると、それを変えることが出来るのか?ということが一点。あと、いじめられたお子さんが学校をアイデンティテイの拠り所としたり、社会的な居場所と考え、ギリギリまで追い詰められても頑張るんだとの話がありました。同時に私は昨年、芹沢さんのひきこもりに関する講演を聴きまして、その時、ひきこもることについては十全に引きこもるべきと語っていたと思いますけれども、先ほどの学校でいじめられているお子さんについては、学校へこだわっていくことについての情実と言うか、そこへの厚い気持ちがあるように思いました。その辺りはひきこもりの方への角度とは違いがあるように思いまして。その点の違いについて芹沢先生のフォローをいただければ」

 いいところを突いてくれたなと思うのですけれども(笑)。
 どうして子どもが逃げないか。「逃げなよ」というのは割と簡単です。でも本人が「逃げられないよ」「逃げたくないよ」という気持ちもあるんだということ。これは押さえておきたいんですね。なぜならば、学校や職場はいじめはいつでも起きる状況があるけれど、同時に学校や職場は抑止する場を同時に作れると思っているんです。

 職場であれば上司の力で十分にできますし、学校であれば教員が出来ると思います。で、今日お話したのはこの程度の知識を持っていれば、後は子どもへの愛情で何とか出来ると思っているんですね。だから多少の余地、子どもにとって小さくても居場所はあるよ、教室の中に居場所があるよと感じられるものがやはり学校は用意しなければいけないと思いますし、用意できると僕は思っているんですね。そしてそれは難解なことではなくて、子どもへの愛情をベースにしていじめに対するしっかりした知識を持って、いじめに対しては絶対に許されるものではないという姿勢を貫くのであれば、そんなに難しくなく子どもたちが生きられる場所に持っていけると思うものですから。

 
 
 ひきこもりは個的な動機が強くて、いじめの場合はむしろ僕がウエイトを置いたのは、深刻な心理的な傷というところにウエイトを置いて考えてきたものですから、そこに居続けることと心の傷の絡みで考えると心の傷をさらに深めるけれど、なお学校へ行き続ける。間違えれば自分の死を招いてしまうことと、それを存在の深いところで感じていて、でもなお学校へ足を向けてしまう。また居場所のない自分の席に座ってしまう。ある種のどういったらいいのでしょうかねえ....。いじめで追い詰められるか、自分の社会的居場所を失うかみたいなせめぎ合いみたいなものですけれども、その気持ちへの幾ばくかの配慮はしなければならない。

 配慮をした上で、でも「学校へ行くのはやめなよ、行かない方がいいよ」とは言いたいですね。言いたいですけど、でも子どもが「行く」と言った時に僕たちはなにができるか。やはりいじめに対してはっきりと、じゃあいじめに介入するよという態度を教師が取れるかどうかですね。
 今日は親のことは話しませんでしたけれど、親も日々の様子を見ているならば、これは?と思うわけですね。いろんなネガティブな変化が子どもさんに生じますから。そうしたときに親御さんがそこに踏み込めるか。つまり、「休みなよ」「休んでどこかへ行こうよ」というところまで踏み込めるかどうかですね。
 子どもはそれでも抵抗するだろう。でもそこで抵抗することで対話のようなものが親子の間で出てくるならば、それはすごく子どもにとって生きる力になると思います。ですから微妙な発言を確かにしたわけで、前回に来たときの話と今日の話に落差を感じてくださったということで、非常に鋭いご指摘を頂いたと思います。

『見えるいじめと見えないいじめの話があって、囲い込み型のお話とか、もう少し詳しく教えていただけますか?』

 はい。囲い込み型というのはですね。外側からは同一グループに見える。でも内側では四人によってひとりの標的が作られている。これが愛知の大河内君の事件のいじめの構造なんですね。外側からは同一グループに見えるのでわからないんですね。見えないんですね。外からはいじめられていることは見えない。だけど内側では四人によって排除されて分離されている。そしてここにさまざまな暴力や金品の奪取があった。この構造のいじめは結構多いです。これがわかったのは大河内くんがメモを残していたんですね。あいつらにこれだけのものが取られたとか。これで初めてわかったんですね。
 こういうことは、この囲い込み型の構造が知識として持っていれば、子どもの状況で、子どもの変化を見ることで学校や家族が知識として持っていてくれると全然いいですね。いじめの三層構造や四層構造は外側から見えますからよほど不注意でないとわかりますけど、囲い込み型は厄介なので。いじめがどうかを見出すことは、こういう構造があるんだということが知識としてないと見えないですね。それくらい厄介だということです。


 

 
 

2012年9月24日月曜日

芹沢俊介氏講演『いじめ根本解決への提言』

 9月22日。NPO法人フレンズネット一周年北海道記念講演で評論家の芹沢俊介氏の講演を聴きました。今回は大津のいじめ自殺事件に端を発した4度目のいじめ社会問題化に即し、昨年のひきこもりに関する講演に続いて、もうひとつの芹沢氏の追求テーマであるいじめについて。今回もかなり原則的な話をされました。貴重だと思うので、長いですが、その話の大枠全体を記載します。
 
 
 まず、芹沢氏は個人的体験として、自分もいじめを受けてきた経験を端緒として話を始められました。

●私自身の経験として、小学校5年、6年の時、いじめを受けた。ともに3週間くらいの短期で済んだけれども。身体的なものではないが、あるときクラスの男子全員に無視された。幸いなことに当時は地域社会に子どもが多く、放課後の世界での遊び友だちがけっこうあって、学校外で地域の仲間が待ってくれていたので救われた。
 1986年、岩手県で鹿川(しかがわ)君という子のいじめ自殺事件があり、その頃から自分はいじめに関心を持った。実はその時まで自分が受けたいじめのことを忘れていた。鹿川君の自殺で自分のいじめを思い起こした。それから僕は本格的にいじめ問題に関心を寄せ始めた。

●いじめを事前に防ぐのはまず困難だ。なぜならいじめが起きるのは同じ顔ぶれが一日同じ場所の一箇所で拘束されるところから起きる。その顔見知りの関係でいじめが起きる。故に、学校や会社でいじめが起きるのは避けられない。図書館のように自主的に自分で選んで来る場所ではいじめは起きない。
 学校、会社が解体されるとき。もしそれが来たらいじめはなくなるかもしれないが、両者が共に機能している限りは、いじめはなくならないだろう。ならばその場所自体にいじめが起きるモメントがあるわけで、だからいじめを事前に防ぐのは困難だと考える。
 そうであるならば、起きたいじめを深刻化させないことのほうが重要だ。どういじめを深刻化させないか。

 
●また、いじめられた子が標的になったことによってのちのち傷を抱えることに心を寄せなければならない。その傷を抱えるというのは、対人関係において必要以上な怖れを抱くことになる。それを抱くことはのちのちひきこもりの要因になりうるし、実際にもある。
 それから、いじめを受けた人、特に身体的ないじめを受けた人はほぼ100%近く「報復感情」を抱く。これはきつい問題を当人、周囲、家族に残す。いじめた当人に報復できればいいが、それが不可能だと報復感情を満たすため、攻撃性を向けやすい家族、例えば弟、妹、母親に攻撃を向けてしまう。あるいは他人に攻撃を向けられなければ自分自身に向ける。それが自殺念慮となる。他者攻撃の反転が自傷行為。
 報復感情の処理の難しさというものをひしひしと感じる。それをどう考えたら良いだろう?と僕は思う。いじめが深刻化する、というのはつまりそういうことだ。

●だからいじめの深刻化は防がなければいけないし、それは可能だと僕は思っている。そのための幾つかの提案をしたい。
 大津のいじめ自殺事件の社会問題化を考えると、これは以前3回、いじめの社会問題化があったと考える。1回目は1986年の鹿川君いじめ自殺事件。2回目は94年の愛知の大河内君のいじめ自殺。3回目が北海道滝川の2005年少女いじめ自殺事件。この時に、自分は今までいじめを考えて本などで書いてきたことが不十分だったと気がつき、もっと徹底的に根本から考えなくては、と懸命に考え直した。今回話すのは05年以降に考えたもの。

●実は今回の報道でも一点、どうしても気になることがある。それは「いじめ」という言葉が実態を欠いたまま飛び交っていることだ。実態を欠くとはどういうことか。それはいじめに関する丁寧な知識を欠いたままいじめという言葉だけが飛び交っているということだ。いろんな人、識者がコメントしているがどうもピンとこない。彼らはいじめの自明性を疑っていない。もし「いじめ」が自明なら、もう30年以上社会問題になっているのに同じことが続かないはずだ。もっとましな対応が出来ているはずではないか。
 僕が多くの人にいじめって何?どういうものをいじめというの?と問うてみても上手く答えてくれない。実態的な答えが返ってこない。それくらいに僕らはいじめという言葉を感情的・情緒的な言葉としてのみ使っている。それではいじめの深刻化・困難化を変えられないではないか。

●まずはいじめの明確な定義が絶対必要だ。定義がなければいじめか、いじめじゃないかの区別ができない。大津の事件もいじめの定義を教師が持てなかったゆえに教師は最初けんかとみていた。定義があいまいなまま、いじめについて勝手な解釈が横行する。それゆえにいじめの定義が大切で、定義を明確にしないと有効な対策を立てられない。

●86年以降、現在まで定義は出揃ってきている。私が定義として過不足なくよくまとまっていると思うのは警察庁少年保安課の定義である。それは二つの条件。この2つを満たせばいじめだという定義である。
 一つはいじめの標的の座に座らされる人が「特定化」されていることである。もう一つはその特定された標的に対して物理的・心理的暴力が「反復継続して」加えられていること。「暴力の反復継続性」。これを抜きにしては、いじめの本質が全くわからない。反復は繰り返すこと。継続はずっと続くこと。いつまで続くのかはわからない。参加メンバーにもわからない。ここがとっても厄介なところだ。
 このような明確な定義が一本化されていないことが、いままでいじめが適切に対処できない結果を生んでしまっている。

●いじめはけして「弱いもの」に特定されるものではない。集団を背景にして個人を孤立させる形が本質的なものだ。だから「反復」と「継続」ということがとっても重要。
 ところで、この警察庁の定義はいじめ参加の側には一言も触れていない。実はこれはとても含蓄のあることで、なぜいじめ参加者に触れていないか。僕が推測するには、いじめに参加する側は、加害者が固定している場合と、流動化している場合があるからだ。
 86年の鹿川君の場合は、いじめ側は朝と昼と、放課後と、いじめ参加メンバーが違っていた。数も多くなったり少なくなったりしている。
 そのあたりも認識して、参加側の明確な定義をしなかったのであろう。

●ところで、いじめの標的に対して心理的物理的な暴力が目的であろうか。苦痛を与えることが主目的だろうか?僕はここから考え直しをしようとしてきた。そしていま、僕はどうも暴力が主目的ではないぞ、とはっきり思っている。
 それはどうしてか。それはなぜ標的が特定化するのか。なぜ反復継続するのかの問いかけがポイントになる。つまりこの問いの最も有力な答えは、いじめという集団暴力に参加している人たちが自分が標的の座に座らされないために行なっている、ということだ。
 いじめは誰が標的になるかはわからない。誰がどういう風にして標的の座に座るのかの答えは導き出せない。だからひとたび定義に沿ういじめが始まった時、自分が標的の座を固定化していく側につくのが一番簡単な方法となる。つまり「標的であり続けてくれ」ということ。標的であり続けてくれれば自分は助かる。つまりは防衛行動なのだ。
 「みんな」の側にいるために「ひとり」を固定化する。いじめが終わらない理由の大きなポイントはここである。

●いじめは子どもたちの鬱積、ストレスが転化したものという見方があるが、僕はそれを取らない。イライラが暴力に転化するなら、それは一過性のもので終わるはず。その形はドメステックバイオレンスに似ている。それはいじめとは質が違う。いじめはもっと人間の弱さというか、僕ら自身の弱さに”根”を持っている。その弱さとは、「ひとりになるのを恐れる」ということ。群れの中にいたい。群れの中にいれば安心だということ。もちろん、これがいじめの原因の全てではないが、いじめ問題の根っ子だとは言える。それは「ひとり」を恐れるがゆえに「ひとり」を犠牲にするということ。自分たちの世界から分離しようとする。
 いじめの要因はそう考えたほうが良い。そう考えるといじめは子どもたちの世界の話ではない。大人の僕らを含めた、人間としての根源的な弱さの話であって、そこまで視野を広げて考える作業が必要ではないか。でないと、自分とは関係のない、自分の外側の問題として排除した形のままで終わってしまう。
 しかし、この弱さは子どもたちの世界にしっかり写されていく。大人の弱さがしっかりと子どもたちに根ざされていく。

●次に、いじめには「見えるいじめ」と「見えないいじめ」がある。いじめの「四層構造」というものがある。中心に被害者があり、その周りにいじめの加害者があり、その外側に煽動者がある。そのまた外側に傍観者がいる。それをいじめの四層構造という。
 これは「見えるいじめ」である。大津事件は「見えるいじめ」だ。ただ、今のところ報道でわからないのはここに煽動者がいたのか、傍観者がいたのか。どうだったのかというのは気になるところだ。鹿川君の事件はこの四層構造が増えたり減ったりしていた。先生も葬式ごっこに参加していた。これで分かるとおり、いじめは犯罪と等価ではない。暴行・恐喝があった場合は犯罪だが、煽動・傍観は犯罪で捉えられない。
 また、無視だけで人を自殺に追い込むことは出来る。クラス中が無視することで自殺した人はけっこういる。これを犯罪として立件できるか。犯罪は「行為」である以上、立件はできない。無視をいじめとしてしっかり認識できても厳罰処分にすることは全然現実的ではない。
 

●もう一つは「見えないいじめ」。見えないいじめに僕が気づいたのは94年の大河内君の事件のとき。大河内君は先生たちにクラスで騒ぐメンバーの一人だと思われていた。誰も彼がいじめの対象だとは思わなかった。でも、仲間の中でいじめがあった。標的・分離され、お金をせびり取られていた。これは外側から全く見えてこない。これが「見えないいじめ」だ。ではどうしたらわかるか。それは「見えないいじめ」という構造があるんだ、ということをしっかり理解し、認識すること。この認識を持っていないと見えない。僕はこの構造を「囲い込み型」と名付けた。この型は結構ある。
 「見えるいじめ」はクラスに関心のある先生であれば分かる。でも「見えないいじめ」は構造を理解していなければわからない。そういう意味では、いじめは巧妙になってきているなと思う。故にこの「囲い込み型」のいじめ自殺はとっても厄介だ。

●誰がいじめの標的になるかは述べた通り、わからない。今までいろいろいじめられやすい人の指摘があるが、実際は誰でもが標的になると考えるのが正しい。だから、いじめは起きるという前提で、傷が深くならないうちに見つけて、上手く調整するのが肝要だ。

●いじめがなぜ標的を自殺に追い込むのか。実はいじめと自殺の因果関係を辿るのは絶望的に不可能だと考えて欲しい。また、そういう視点からいじめと自殺の関連性を問うのは不毛だと思う。それよりも、いじめによって標的にされた子がどういう状況に追い込まれるかしっかり知るということの方が大事だ。これを通してしか、いじめ自殺に追い込まれた子の理解に届かない。
 いじめは標的を「ひとり」にすることだ。これは、もう少し説明のいるところで、ひとりになったら本を読めばいいじゃないか、といったコメントを語った識者がいるが、いじめというのは、そんな簡単な精神状態に置いてくれたりはしない。いじめはひとりなるのだけれど、「独りなんだ」ということを常時知らされるものだ。「お前は独りだぞ、独りだぞ」と。「お前に居場所は無いんだ」ということを常時知らされる。すると授業を聞いていても腰がいつでも浮いていて、授業もまともに聞いていられる状態になれない。家に帰っても同じで、読書なんてとんでもなくて、テレビを見ていても上の空だ。
 僕はこれを「我なしの状況」と呼んでいる。自分がない。
 自分があるというのは、自分の居場所がある、ということ。自分がないと居場所がない。この「我なし状況」に耐えられる人はよほど強い人なので、ほとんど不可能なことだ。「我なし状況」。これはすごい屈辱で、屈辱感でいっぱいなので、「いじめられてないか?」と問うと絶対そんなことはない、と真っ向から否定するほどのものだ。

●いじめはこの「我なし状況」を常時知らしめられるわけで、尽きるところ、この世界にいたくないと思うのも、ものすごく自然な流れだ。大津の男の子は自殺の練習をさせられていたが、自殺の練習をさせられたから自殺したのではない。そんな練習をさせられる屈辱こそが自殺をさせる。
 そこで初めて「自殺といじめ」が関連する。因果関係ではなく、人間の存在の仕方の話である。人間論であり、人間理解の話。これがないままでいじめを考えるのは不可能である。

●最後に、いじめられる子どもはそれだけの屈辱感を与えられながら、どうしてその場を離れられないかを考えたい。なぜ学校に行かないという選択が出来ないか。
 僕が2007年「いじめが終わるとき」という本を書く少し前に杉並区の親たちがいじめのある学校に通わせないという方針を固めた。それはひとつの考え方だと思ったし、新しい事態が起きたなと思った。でも、僕はもう少し子どもに即して考えなければな、と思った。不登校らの子たちから問わず語りに話を聞くうちに、最近そう思うようになった。
 子どもにとって、学校に行くというのはやはり一種の安心感・安定感と結びついている。だから彼らは学校に行く。そこを絶たれてしまうと自分が何者かわからなくなってしまう。だから命を削るまで彼らは行ってしまう。こう考えると、本当に大人が配慮しなくてはいけない。教員が配慮しなければならない。今まで話したことを教員がしっかり理解していけば、そういう対応が出来ないはずはない、と僕は思っている。
 そこまで深くかかわれば、深刻化する前に何とか対処できる。そして教師は子どもたちに対して考えているぞ、弱さの現れの形がいじめだということを教師は考えているぞ、真剣だぞということを示すだけでもいじめの最悪化の抑止力になる。
 いじめは子どもたちのなかで起きる問題だが、同時に僕ら人間の弱さの現れだと自分を見つめることでしか、いじめの相対化はできない。
 でも、大人が自分をみつめれば、いじめの軽減になると私は信じる。

※1時間半超の講演のあと、40分の質疑応答がありましたが、すでに長文になりましたので、その質疑応答部分は後日アップさせていただきます。

 

2012年9月20日木曜日

映画「SWEET SIXTEEN」などなど。


 
一貫して英国の社会問題を背景にした社会派監督の名匠、ケン・ローチ監督の02年作品、「SWEET SIXTEEN」をレンタルで観ました。

 感想はひと言、「切ない」。もうこの言葉しか浮かばないほど切ない映画です。ケン・ローチは好きな監督なので、それほどの映画ファンでない自分でも結構この監督の作品は観ている筈です。特にベテランになったこの10年以上の間はノリにノっている人なので、どれも見逃せないです。ただ、かの人の作品におけるベースは報われない確固たる岩盤、”階級社会英国”で一貫して労働者階級の立ち位置から作品を紡いでいる人であること、また、作品自体が非常なリアリズムなので、映画にわかり易い救いが用意されていないといったことがあるので、社会背景とかがわからないと楽しめないかもしれません(かくいう自分も英国に行ったこともないので、偉そうなことは言えないのですが)。

 
 スコットランド田舎町?に住むストリート未成年リアム。作品は冒頭天体望遠鏡で子供たちからお金を巻き上げて星をみせてやる風景から始まりますが、かのようにリアムという15歳の少年は家庭が極めて複雑です。母親はおそらく麻薬密売に手を出して刑務所に入所中。母の父親と、母の恋人は二人とも完全にドロップアウトしている大人。何と母への面会に少年リアムを使って麻薬を刑務所内で密売させようとする、そんな工作を考える大人たちです。
 ゆえにリアムには帰る家がなく、同じ養護施設に入っていた真面目な姉の家に転がり込んだり、行動規範が崩壊しているような親友、ピンボールのところに転がり込んだり。
 リアムは学校に全然行かない少年ですが、ストリートの知恵というか、機転と勇気を持ち、母のためにモービルハウスを購入しようとして頑張ります。彼の素顔はとても家族思いで、母親に対する愛情が人並み以上に強く、普通の大人以上に母を救ってやりたいと考えます。

 しかし、ニュー・アンダー・クラスというか、何のまともな大人の手立てがない場所で彼が考えることと言えば、結局のところ、麻薬を大量に密売してそのお金で家を買ってやるという乱暴な考え。逆に言えば、そういう短絡的な思考しか持てません。能力がないのではなく、彼に必要な社会的な手立てを持てないでいるのです。

 考えてみれば、この映画では彼、あるいは彼とその友達たちをサポートする大人は全然出てきません。出てくるのは社会の裏の世界で生きる大人たちや、麻薬を買う人間や、すぐ暴力でカタをつけようとする大人たちばかりです。能力も、思いやりもある彼が、なぜ教育の世界から遠く隔たっているのかの理由は、周囲の大人たちがどのようなものかで透けて見えてきます。

 この映画のラストもケン・ローチらしく(?)、救いのないものです。ただ、余韻が残るのは主人公リアムのハードなライフスタイルの中でも、彼自身が失わない信義則や、家族に対する愛情が本物であるという事実でしょう。それだけに「切ない」のです。

 この映画に関しては、ブログなどを当たれば素晴らしい批評に数多く出会うはずです。ただその中で友人、ピンボールの切なさにも言及されていると、なお良いなあと思います。親友・ピンボールもリアムが彼を強く求めているように、ピンボールも彼を強く求めているのです。
 リアムが悪い大人たちによって立派なワルに育て上げられそうになる過程で捨てられる。そのことが心細くて心細くて、リアムが求めた家に火をつけ、彼の前で麻薬で酩酊しながら自傷行為に走る。
 そう、タフなワルなフリをしても、まだ彼らは16歳になるかならないかの普通の「少年」であるわけです。

 僕は何年か前にこの映画を初めて見たとき、ケン・ローチの名を世に広めた60年代の名画「ケス」と比べて、同世代の余りもの環境への置かれ方の違いに愕然としたものでした。

 もちろん、同世代を主人公にした「ケス」も普通の意味で大変な環境に置かれる少年の話でした。その作品は英国北部の小さな田舎の炭鉱町で閉塞するような環境の中、母子家庭の母親もダメ、かつ暴力的な兄の支配、閉ざされた炭鉱町の労働者たちの窒息など、少年が置かれたシンドイ環境は同じでした。ただ60年代の「ケス」には、小さな希望として、主人公ケスの野生の鷹の飼育という生きがい(それは少年の土地からの飛翔を暗喩しているのかもしれません)、そしてそれを認めた先生が鷹の飼育についてクラスで彼に発表させ、彼に人としての尊厳と役割を与えた点が救いとして残されていました。

 しかし、今作では学校もなく、彼を育てる責任を持つ大人もいません。もはや彼らは彼ら同士だけで何とか必死に生きているのです。彼らがバイトしているピザ・ショップでさえ、大人らしき人は見かけない。そしてドラッグ(麻薬)がすぐそばにある。日常のそばにある。

 ですから、初めて本作品を観た数年前には、ケン・ローチの作品といえども(彼の作品はドキュメント・ドラマ、略してドキュ・ドラマという呼び方がされます)、これは余りにも現実的では無いのではないかと思いましたし、同時に新自由主義以降の「社会などない。あるのは男と女と家族だけ」のサッチャイズムへの極端な批判、「これがあなたが作った結果だ」というメッセージ性だと思っていたのです。

 ですが、前にも記事にした高岡健さんのインタビュー本「ひきこもりを恐れず」で述べられているとおり、英国の新自由主義は新しい新中間層を作ると同時に、労働者階級を分化させ、「ニュー・アンダー・クラス」(新下層階級)を出現させたというのです。その中では10代の妊娠、母子家庭、貧困その他で10代後半に進むにつれ、ヘビーな環境の青少年たちがストリート・ピープルとなったり、学校においては校長先生が血だるまで倒れている、そんな学校に警察官が張り付いている。それくらいのバイオレンスな状況があるらしく、かの国の一番の課題は青少年の「非行と犯罪」だというのです。学校で麻薬の取引が行われているというのですから。。。

 その点、日本にはまだ全然社会的な秩序と余裕があるというのが高岡氏の主張です。

 その意味で、この作品「SWEET SIXTEEN」もケン・ローチのドキュ・ドラマの観点は変わっていないということなんだ、と再認識し、今回改めて見返した次第です。

 もう一つ持っているブログで紹介した「この自由な世界で」も、ポーランド移民労働者の話が出てきますが、5年ほど前のビックイシュー・バックナンバーでも英国に向かったポーランド出稼ぎ労働者の苦境が紹介されていて、基本的にドキュメンタリースタイルのケン・ローチのアプローチは変わっていないと思います。

 
 先ほどの高岡健さんの本の話に戻ると、社会の工業化からいち早くサービス産業化に移行した英国ではこのように労働者階級にしわ寄せが移行し、ブレアによる荒廃した学校の教育改革もむなしく、ニュー・アンダークラスを生み出し、安定した社会環境を持たない白人の若者たち、そして主に南アジアからの移民の不遇な環境に置かれた人たちが不満層として堆積し、今年盛り上がったロンドンオリンピックの前にロンドンから各地に派生した暴動という形で噴出したと言えるでしょう。

 高岡氏によると、犯罪・非行という反社会・非社会的な問題は英国で深刻ですが、日本でのひきこもりやニート(英国のニートとは質が全然違います)と数字的にはおおむね対応するそうです。

 高岡氏は経済的な蓄積や余力を持つ日本は自分と向き合う時間を持つ形態であるひきこもりが出来る日本という国はよほど上等であるという評価をしていますが、今後懸念されるとすれば、家庭が子どもを育てる経済的な余力を持てない、持たない状況が日本に普通にあるという光景です。そうなっては絶対にいけない。しかしすでに日本の少子化や晩婚化、非婚化はある意味でそういう直感や本能、あるいは実態的に経済的に家族を持てないかたちとして出ているのかもしれない。
 ただ、早々と家を出され、社会のケアを受けられないまま同じような仲間とサバイバル的に生き、子どもを産んで、父親がいないような状況が生まれやすい社会でないこと。これは唯一の救いでしょう。

 話を映画に戻しましょう。「SWEET SIXTEEN」。何とも皮肉が聞いたタイトルですが、主人公のリアム少年が時代や社会の波や構造に翻弄されながらも、人間の原形質を必死に守りながら、傷ついていく。そこにやはり希望のなさと同時に、ある種の人としての感動があります。だからこそ感想の全ては「切なかった」というところに行き着きます。明るくはないけれど、心に深く残る映画です。
 主人公役の少年がDVDのボーナスインタビューでこのような趣旨のことを語っています。
 「リアムのような子に共感できる。この国は教育に力を入れてほしい。彼のような子が報われるために」。
 おそらく、監督のメッセージもそこに尽きるところがあるでしょう。

 機会と場所と、人と人とが相互に依存しあえること。人間関係に分断線を引くシステムを考え直すこと。そんなことを深く思わざるを得ない。そういうことを考える契機にもなる映画だといえるでしょう。

PS.
 映画の舞台となったスコットランドはグラスゴーの02年の社会的現実に関心のある方はこちらのサイトを参照してみてください。10年経った現在のグラスゴーはどうなのでしょうか?もしも詳しい方がいれば教えていただきたいところです。

2012年9月8日土曜日

こんな時代だと。

大事な言葉も、何もかも消費されて終わってしまうよ。

勿体ない。

やはり、消費されずに自分の中に残るのは深い「対話」か、自分の中が崩れるほどのカルチャーショックしかないのではないか。

自己混乱とか自己崩壊しそうなカルチャーショックは、いわばハードランディングなので、ソフトランディングには本当に大切な人との対話の継続が良と思う。

その出会いの対象の選択センスも実は前段として、その人の中にある何ものかに負うところがあるような気がするんですけどね。。。ムムムのム。。。

2012年9月7日金曜日

客観的に見れば大丈夫なはずだよ。

ひょんな拍子に久しぶりに自分のブログをず~と見返す機会を持ちました。
要は、やるべきことをさぼったということなんですけどねw

で、「ふ~ん」と思った。
なかなか、書けてるじゃん、と。
素性柄というか、いろいろある関係上というか、表現が回りくどいところがあるけれど、回りくどい分、穴も少ないとも言える。もちろん、いつでもそうだとは口が裂けても言えないが。

ーこれは、自分の書いたものを客観的に第三者的に見てそう思うわけです。

どうも生きにくいなぁと思うタイプの人間の常として、自分に自信を持つのは難しいもの。むしろ自分を過小評価しているとも言える。
まして文章なんかにこだわっているいい歳をした人間、ともなればそれが稼ぎと直結するものでなければ、社会生活上役立つことも余りない面が輪をかける。

でも自分の考え、感じたこと。
「悪くないじゃない」と素直に認めれば、生きにくさの幾分かは薄れるでしょう。
自信家とは無縁ですが、実態以上に自分を低く見せるのは、「勿体ない」どころか、といいますかね。
何か、一神教の世界で生きているとすれば、「この地上において神に対する裏切る行為であるぞ」、とかね(爆笑)。一神教なんか全然、知ったこっちゃないですけどね。まあ、そういう人間側のアクロバッテングな理屈もあるかも知らん。

おっと、また横道にそれそうだ。

生きづらさを抱える他の人と話していてもそう。皆んなあるわけです。美点がね。良さがね。
それを他者も自分自身も評価出来ないのはなぜなのか。

昨日、話していて改めてそれだろうな、と思うのは、もう誰でも気づいている他者とのあいだでの評価で生きる学校から始まる社会生活。

こんな当たり前のことが、ひとりひとりの能力や自尊感情を毀損する。
自分に言う。
「もったいないことをしてるなあ。明日から変われなくても、いいさ。このこと、忘れないでおこうよ」と。

ね?

2012年7月24日火曜日

高岡健氏の著書


いま、児童精神科医である高岡健という方による著書を一生懸命読んでいます。この写真掲載をした『引きこもりを恐れず』という本はインタビュー録であり、読み易いのですが、中に書かれていることは非常に重要な論点がいくつも含まれており、領域に関心のある者としてはどこもかしこも見落とせない考察だと思います。
児童精神科医として、発達障がいに関する本も書かれていたり、発達障がいに関して同じく児童精神科医の方との対談本もありますが、とにかく実利的観点からの必要性を強く求めている人にとっては、おそらくその思いには答えてはくれないかもしれません。

この本に関して少し触れましょう。
僕個人としては、英国の70年代後半までの労働党と保守党の福祉国家/混合経済(公共性の高い産業の国家運営)による協調路線から、サッチャー政権による新自由主義改革によるワーキングクラスの没落(特に北部の炭鉱労働者に顕著)、ニューアンダークラス登場によるブレアの教育改革の(結果としての)失敗、など第三次産業化に伴う英米、そして遅れてアングロサクソン二国を追った小泉政権下で政策遂行された日本の新自由主義的構造変化・移行に伴う社会病理化、社会問題の現出についてとりあげていて、非常な説得力です。

この本は2003年に出された本に関わらず、現在とみに議論の的となっている「社会的排除」の問題を先取りしており、その意味では湯浅誠氏や、稲葉剛氏、宮本みち子氏らの発言よりも相当早い段階から同様の議論を先取りもしています。

引きこもり、発達障がい、ホームレス化、いじめ、自殺など、社会的排除の全体像をコンパクトなインタビュー本において深い説得力飲み込めるものとして出されていることに、個人的には驚愕しました。

おおむね内容に関しては同様なことが書かれている「不登校・ひきこもりを生きる」も本日購入してしまいました。(こちらは2011年発刊)
にわかに、自分の中で大きな存在となりました。

PS.
急いで付け加えると、人生には基準がある、あるいは人生には基準が必要だ、と考える人にはこの方の本は合わないかもしれません。
そして、ひきこもり体験者のかなりの部分で、世の常識人というか、平凡人同様に「世の中には基準がある」と考える人は多いと思われます。かくいう自分もそうで、ひきこもりが肯定されて嬉しいと思っても、別の切り口においては驚くほど基準を求めている、ということがあります。そういう葛藤がありますが、おそらく高岡氏の語られていることは真実で、それをいま現在呑み込めるかどうかの違いしかないのでしょう。

真実は、理想と同じように未来を照らす松明のようなもので、本当に暗闇で前後左右が見えなくならないと響かないところがあるかもしれないです。

同時に、真実を割と簡単に飲める人も極く少数ながらいる。これは僕などには本当に不思議な感じで。

高岡氏とは逆ベクトルの議論があるのは当然、知っています。ただベクトルからいったら、圧倒的に自分は高岡氏の論に与しますね。呼吸がしやすい感じになります。

2012年7月20日金曜日

「いじめ」について。

大津市で自殺した中学2年生の自殺の原因が「いじめ」によるものだ、ということで事件発覚以来、日々この件についてマスコミも、僕が利用するSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)も、日々この話題で絶えない。  

何よりも、今回の事件はいじめ被害があったという被害者側の両親が警察に告発したこと、それを警察が受理しなかったことから始まり、教育委員会の見解、そして今では民事訴訟、刑事告発と、今までの日本社会にはなかった「学校の外」、すなわちダイレクトに社会の側に訴えを起こして事件の全容解明を求めた点が新しい。  
また、加害者といわれる3人の子どもたちとその親たちも「いじめはない」という形で徹底的に争う構えを見せている以上「いじめ」があったかなかったかの当否についても全面的に争われる。この様相が今までにない展開だと言えよう。  
結論をまず先に言ってしまうと、僕の立場はここまで来たら裁判や取り調べで徹底的に調査すべき。そして黒白をつける以上、関係者以外・当事者以外はその方向性だと理解した以上はもはや野次馬とならずに静観して裁判の行方を見守るべき、という立場だ。  

こういう風な立場に立つ自分の観点そのものを振り返ると、ずいぶん自分の中でも変わってしまったものだな、と。自分の中に深い感慨が、ある。  
この間、ほとんどテレビに触れる機会がそうないからあまり多言は言えないが、マスコミに関してはおおむねいじめ加害をセンセーショナルに伝える立場、それに対してSNSの議論の中の多くは学校という制度の仕組みを考えようという意見が多かったように思う。後者の立場の多くはいじめはなくならない。過去から現在において大人の説教説諭でいじめはなくなったりしない。そもそも人間も動物であり、まだ衝動性と罪悪感の葛藤で「自分」が苦しむには至らない、同時に(性的な部分を含め)衝動性が大きく突き上げてくる思春期時期にはなおさらいじめを道徳的な建前から頭ごなしに叱っても意味をなさない、という「建前」幻想を捨てて人間の「本性」の側に立つ。  
だから、多くはいじめのターゲットにされた子たちがいじめから逃げられるシステムを作るべきという考えを持っていると思う。そこから導かれる回答はクラス制度の見直し、体育の団体競技を選択制にする、授業の単位制など。つまり、1クラス35名なら35名、幕の内弁当のように一つの場所に6時間押し込められるから、その集団の抑圧が誰か特定の者に向かうことを回避するという方法だといえよう。抑圧が攻撃に向かう特定の対象は、当然加害者が反撃を加えられる可能性がない子、加害者と傍観者にとっての「いじめられっ子」という子になってしまう。

僕もおおむね後者の側に立つ者だ。僕自身の経験においても、家の中でいじめられた程ではないけど、学校内いじめにもかなり傷ついてはきた。思春期は特に一層、そのようなことに敏感になるものだし、そのような時期に限って集団生活を強いられるというのはどこかで人間に傷を背負わせてしまうものだ。当時はフリースクールなんてものもなかったし。  
だから学校の制度的なアプローチとしては、(今は知らないが)例えば「班分け」、修学旅行の「自由班」などもなんとかしてもらいたいものだ。 集団に馴れることを求めつつ、どこかで担任教師も孤立する子を把握しているはずだろう。 

実は僕はいじめに対しては、少し昔はもっと過剰反応をしてた筈だ。特にもう何十年前になるだろう?いじめ自殺をした子に対してなされたいじめとして、クラス全員でいじめられていた子の弔意文の色紙を廻して、それに先生も加わっていた、ということがあった。  
とにかく僕は家の中で独り激しくそのいじめが行われた学校、クラスを憎悪し、怒り、呪ったものだった。人というのはかくも残酷か?死んだ命はかくも程度の低い連中の犠牲になったのか?これが平和憲法を持つ平和な国、日本で起こることなのか?と。  
でも同時に分かってもいたのだ。中学時代にさんざん聞いた「平和」「民主的な議論」「先生になんでも話して」。そんな素敵な言葉は授業が終われば露と消える。休み時間、特に昼休みになれば教室は暴力そのものと、暴力的な匂い、いじめ対象に向かう動物的な衝動に満ち満ちていたのだから。  
ここまで思いつつも、僕はいまそのように思春期の、あるいは思春期前期の子どもらの加虐性を責めて責めつづけても仕様がないんじゃないかな?と思う。それでいじめが止まるのなら、僕等が子供の時から止まっている。やはり現実に即した制度の改変をしたほうがいいのではないかと思う。故に大人の説教よりもクラスの流動性を高める方が意味があるだろう。  
場合によればクラスから逃げる、学校を逃げる、別の学習のスタイルを見つけるという方法が現実の今の世の中では最も効果的だろう。  

しかし同時に、それを受け入れる世の中の体制はあるのだろうか?という疑いは捨てられない。学校の外の社会や大人社会がそれを「学校のドロップアウト」として見る勢力が大半ならば、フリースクールに移行しても子供自身の内面に傷が残るままだ。それは端的に「逃げた」という負い目になって残る。学校から逃げた、あのクラスから逃げた、あの連中から逃げた、あの連中に道で出会ったらどうしよう。怖い、とか。いじめ被害の子に「精神的な強さ」を求めるのはほとんど二次被害でもある。「もっと強くなれ」「奴らを見返してみろ」。こんな言葉、ちゃんと死語になっていれば、おそらく少年の自殺なんて起きない。(今回の大津事件を言っているわけではありません)。

僕は猜疑心が強い人間なので、制度をいじくることで人びとの本能、その本能の裏返しとしての精神論がそうそう消えるとは思えないのだ。  
ある種の人は、人間も動物なので、強いものが弱いものを叩くのは仕方ない、だからいじめられる側は強くなれ、と暴論を含みながらある面では人間の本性に気づいている者もいる。しかし彼らが見落としているのは、いじめられる側は「個」対「多」という決定的な不平等にあるということだ。いじめが固定化すると、いじめる加害者のみならず、一番層として多い「傍観者」が強いものの側に立つ、というリアルな現実を敢えて見ないのか、わからないほどに無知だ。  

いじめをモラリズム的になくすには、日常の中に「非日常」が頻繁に現出していくしかない。  
部下が上司のモラル違反を正す。それを同僚たちが賞賛する。生徒が教師の不備を正す。それを他の生徒や先生たちが賞賛する。マスコミが不正を暴き、それを不正者は認め、人々はそのマスコミを賞賛する。クラスでいじめがあれば、「1対1でやれ。俺たちがそれを見ている。言い分を言え」という。それをクラスが当たり前の前提とする。また、クラスにいじめがあると「そんな恥ずかしいことはやめろ」という者が出る。普通にその者が他の生徒に賞賛される。
ーこれらはどれもこれも、ありえない。少なくとも今の日本社会でほとんど見ることはかなわない。残念ながらこれが現実なのだ。  

しかし、「現実なのだ」で終わるのも本当にいいのだろうか?  
例えば、ある意味ではこういう「非現実」はどうだろう?いじめられる側の子に抵抗権、対抗権を与える。一対多、体力でも当然かなわないなら、バットでもなんでも与えていじめる連中をバットで殴り返す。ただし頭部は不可。
これを認めたら、てきめんその子に対するいじめはなくなるだろう。  しかし、残念ながらいじめられる子はそんなことを大概しない。そういう「目には目、歯には歯」ができない子達がいじめの犠牲になる。だって、やり返されない見通しがあるから、いじめが成り立つわけだから。やる連中も、当然、人を見ているわけだ。  
暴力に暴力で対抗しても意味はない。その意味で、いじめの被害に遭っている子は本質的に平和主義者だし、倫理をわきまえた人間の常識を備えたちゃんとした子だ。  
そんな子達に一層の倫理を求めてどうするのだ?この世の中は実に不思議なもので、いじめ被害に遭うような倫理的な人たちが、より一層倫理を深めて、倫理が必要な子たちにこそ読まれるべき、あるいは語られるべき倫理が彼らに忌避されている。こうして社会は何とか成立している。  
ーこれもまた現実だ。  

僕はここまできたら一層、失われた非現実を呼び戻したらどうか?と思う。僕が思うのは「報われない魂」が化けて出るという話の復活なのだ。いじめで殺された子、ハードワークに殺された人。それら、報われぬ魂たちが成仏できずにその地にとどまり、地縛霊のように祟りを求めて彷徨う。鎮魂を求めるのは人びとがその魂の悲しみを理解し、怯れ、人間の愚行を心から謝り、これからの繰り返しを二度と犯さぬ誓いを立てる。  
このような前近代的で非日常的な精神の働きを取り戻すしかないのではないか。そして、その精神を培うには子供時代から親から子へ、老人からその子、孫へと語り継ぐ心ばえしかない。  
その意味ではトラウマになる可能性もあるが、「地獄絵図」による天国・地獄の教えもあながち笑って済ますことも出来ない。
最近、そんなことを思う。  

人はこんな文章を読んで「ちょっとどこかおかしいんじゃないか?」と思うだろうことは理解しています。  
しかし、けして、ふざけてこんなことを書いているつもりではありません。

いずれにせよ、大津の事件に関しては、両者の言い分が決定的に対立し、和解の路線という今までのありがちだったものと違う局面に入った以上、粛々と事実関係を明確化していくべきでしょう。  その過程で多くの人が傷つくでしょう。もちろん被害と容疑(加害者側は加害者性を争うから加害者と現段階では言えない)の両者は勿論、その家族、あるいはクラスの子どもたちや担任、教頭・校長(証言台に立つ場面もあるでしょう)それら現場の人たちとその家族。みんな傷つくでしょう。そういうとこまで想像すると、この事件の明瞭化は社会全体がある傷を得た。その傷は亡くなられた少年の鎮魂の過程でもある。  

その意味で、亡くなられた御魂を慰めるための、これは大きな大きな道すじなんだろうと思います。
実にやるせない話ですが、これは僕らの贖罪のストーリーでもあるのでしょう。。。

2012年7月8日日曜日

思春期の記憶

今日、たまたま家の用事で買出しに車に乗る時、ボブ・マーリーの有名な「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のライヴ演奏が流れた。僕はここのところ、ボブ・マーリーのベスト盤CDをずっと入れているわけで、前に車に乗って帰宅するとき、かなり大きな音でかけたまま、そのままエンジンを切ったんだね。

鳥肌が立つんだよね。いつ聴いても。観客たちが前奏で合唱している。。。

演奏は「ライヴ!」っていう1975年の作品で、イギリスはライシアムというコンサート会場で録られてる。音像からすると、けして大きな会場じゃないんじゃないかな。。。観客たちのダイレクトな声がずいぶん身近に聞こえるんです。ものの本によると、前の日に同じ会場で行われたボブ・マーリーのコンサートで、この曲で自然発生的な合唱が起こったことにインスピレーションを得たプロデューサー兼レコード会社のオーナーが急遽、ライヴ盤用に音取りすることを決めて二日目の演奏の音がライヴ盤で世に出たとのこと。

この後、ジャマイカで自宅を銃撃されたボブ・マーリーは1977年にイギリスに脱出する。ジャマイカは二大政党制だけど、ハンパない一般人を含んだ権力闘争で、選挙の季節になると両陣営の応援団?がガンマンと化し、政敵を銃で倒すというのが平気であるらしい。それで片方の政党を支持していたボブ・マーリーも標的にされたわけ。1976年の暮れに自宅を襲撃されたあと、次の年にはすぐイギリスに脱出したわけだけど、それは彼が所属してたレコード会社がイギリスにあったため。

元々、イギリスはジャマイカの宗主国で、イギリスにかなりのカリブ移民がおり、そのコミュニティで母国ジャマイカのレゲエミュージックが聞かれた。その母国の音楽を配給して販売してたのが、ボブ・マーリーが所属してたレコード会社の社長。この社長も生まれがジャマイカだったこともあり、生まれた土地の音楽をカリブ人コミュニティの人たちをターゲットとして販売していたら、同じコミュニティのそばに住んでいた白人の労働者階級の人たちも、その強いビートや、独特のリズムに惹かれて、ジャマイカのレゲエ音楽を聴いていたという話。

マーリーに話を戻すと、彼がイギリスに入国して居をとりあえず定めた1977年は、イギリスではパンクの嵐が吹き荒れた頃。パンクのミュージシャンはレゲエ音楽が好きになってくれたジャマイカン・ミュージックの提供者から見れば、マイノリティ白人レゲエ・ファン。そしてレゲエミュージシャンから見ると、パンク音楽はレゲエの持つ宗教性を抜くと、共に社会に対する抵抗の音楽として、スタンスは共感できるものである、という感じで。

ボブ・マーリーを慕うパンク・ミュージシャンと、自分たちの音楽を愛してくれている意識が高い若者層がいるんだな、ということでより一層意を強くした、というのがボブ・マーリー側の感覚だったかもしれないですね。
この年、イギリスでボブ・マーリーと彼のバンドは『エクソダス』という名盤を発表します。
おそらく、スタジオ録音のアルバムでは、この作品がボブ・マーリーの一番の傑作と言えるはず。本当に捨て曲なし、緊張感に優れ、また愛情や優しさ、包容力も含まれた、多彩な人間の感情を表現し得たレゲエ音楽の中でも名盤中の名盤に数えられるものでよう。

やはり、それはコミュニティに差異はあれど、ボブ・マーリー自身も自分がやっている音楽が白人社会に受け入れられる可能性や自信を持てた確信がきっと出てきて、素晴らしいレコードを作ることができたんじゃないのかなあ。
このあと、どんどん彼の音楽はインターナショナルに受け入れらるような方向性が加速したと思う。それは今ではいい、正しい方向性だったと思います。
スティーヴィー・ワンダーもこの時期、レゲエやボブ・マーリーに強い関心をもち、実際に接点も出てくるわけだけど、マーリーがもう少し長命であったら、十分、スティーヴィー・ワンダーのような存在になったような気がする。もっと硬派な形で。

ああ、全然話がねえ。何故かボブ・マーリーの一部ストーリーの記事になってしまいました。
最初のきっかけは「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のライヴバージョンに触発されて浮かんだ連想を書くつもりだったんですけど。
全然、流れが別になってしまいました。

タイトルに偽りありだ。ボブ・マーリーの70年代の充実期に関する話、でした。意図せず。
この記事は音楽ブログのほうにも挙げておきます。失礼しました。

ボブ・マーリーの歌声。バラードに限らず、アップテンポなテンションが高い楽曲においてもどこかリアルな切なさがあって。それがまた好きにならずにいられないところなのです。



2012年6月20日水曜日

社労士実務講習、大詰めを迎えて

タイトルが大げさですが(苦笑)。
一応ラストの2単元、労働保険料の年度更新と、健康保険・厚生年金保険の定時決定(算定基礎届)という7月上旬まで行わないといけない労働保険と社会保険のハイライトを迎えて、今日はその半分を終え、一応のこと、明日終了の予定です。
この単元は実は全6時間では少ないと思う。年末調整を3単元演習を使い、レアケース等も含め演習中心にやった結果、結構「手が覚える」要素があっただけに、出来ればこの分野はもう2単元は欲しいところですが、致し方ないところです。
明日はハイライトの年末調整。本日は労働保険の新規適用手続き、つまり会社(なり、自営業、NPOでも構いませんが)の労基署などへの保険関係成立届けや概算保険料の申告書等を書く実務。これは、昨年NPO団体の雇用保険、社会保険新規適用事業所手続きを行なったことが結構役立ちました。

いよいよ明日はハイライトの概算保険料の年度更新と算定基礎届ですよ~とのアナウンスで今から心してますが。でも演習がもっと欲しいかな。あと3時間では足りない気がします。レアケースも学んでおいて、出来れば「手が覚える」ところまで行きたいところなのですが・・・。

でも、今の講義を担当している先生は本当に良心的な人だと思います。(web上ですが)。

講座は講師の人柄が面白いというか、社労士の先生もいまの人のように非常にヒューマニステックな側面を強調され、働く人の側に立ち、法令や通達を出来るだけ会社は遵守して働きやすい職場を構築するようにお願いしたいと丁寧に語られる人もおられれば、割りとありがち?な、企業側にたって、率直に「誰から報酬をいただいているか考えてくださいね」というスタンスの先生もおられます。もちろん、その先生も社労士の学ぶ労働社会保険法令にきちんともとづいた上でそのように仰っておられるわけですが、やはり個性の違いもそれなり見えてくるわけで、自分はどのスタンスに立ちたいか、ということが考えに入ってきます。その意味では、講師も一方だけの軸足の人のみでなかったのは良かったと思いますね。

特に年末調整の方はレアケースも含めてたくさん演習を行なったのは良かったですね。その意味でも労働保険の年度更新もたくさん演習問題を出して実務に自信を与えてくれれば嬉しいですが。
ただ、繰り返しですが、この単元を担当される先生からは、社労士の良心を見る思いで、勇気をもらいました。

少し前にいわゆる「消えた年金」の記録訂正を審査する総務省の「年金記録確認第三者委員会」が、加入者からの訂正申し立て件数を抑制するよう指示する内部文書を作成していたという記事を読んで、一体、お役人が、ではなくて、第三者委員会がそんな指示をするなんて、どんな第三者委員会なんだ!と憤って第三者委員会のメンバーを調べてみたところ、社労士のお偉い方々がたくさん名をつらねていて、ガックリきたことがあるものですから。。。

やはり、どんな仕事でも、自分の信念を持つことは大事なんですね。自分がこの資格を活かして生きていけるかはさておいても、やはり自分の軸は必要だとこの間講師の方々のキャラクターを見ていて再考したことでした。


また、入退社、結婚・死亡、従業員の事故、長期療養、障害、育児介護に関する実務について学び、きょうあすで事務所の新規適用手続きと、労働保険料の年度更新を学びますが、「働く人の生活」と「法令」が密接に絡んでいるのだなぁということ、そのことがだんだんと繋がりとして見えてきたことは収穫でしたね。これが実務家の実際の話を聞ける一番のメリットでした。

法令を「横断的に」と学ぶうちに改めて思うことでしたが、もっと想像の羽を伸ばせば、いろいろな局面ごとにどういう保険給付がつかえるのか、という意識を持ち続けることが大事だなと改めて考えています。