2016年7月21日木曜日

別の時間を過ごす

老人保健施設にこの火曜日から三ヶ月の短期入所した父親に母親と会いに行った。
けっこうしょっぱい話を父はしながら、母はうつむいてこっくり、こっくりしている。
しょっぱいながらも、大事な話なんだけど。父はそんな母を顎で指して、「こういう状態だから...」というメッセージ。

実は今日、個人的に「物忘れ外来」に母について電話で事情を話した。結局三十分くらい話したけれど、これをインテイクとしてくれるそうで、あとは何とか遠からず本人が受診してくれる日を祈るばかり。
当面、いつになるか分からないけれど。看護師だったり、保健師の戦後二期生だったりするので、プライドが高いのが難点だ。

帰りに周辺でも際立って敷地の広いイオンで買出し。食材の買出しが終った後、近くのベンチに母に座ってもらい、自分は父から頼まれたNHKの週間番組雑誌を探しに。ワンフロアの横幅がメチャクチャ広いため、書店がどこまでいっても見つからない。食品売り場と正反対のところの二階にやっと見つけたけれど、今度は週刊誌置き場が見つからず。店員さんに聞いてやっとたどり着いたらほとんど雑誌がない。目当てが見つからず立てかけてあった雑誌の中から思わず手にとった「週刊金曜日」。
つい、目次をめくってひきこもり名人、勝山実さんのエッセイを見つけて読みふけってしまう。
何てしみじみとしてあったかいユーモアあるエッセイだろう。違う時間の中を、生きる同じ同志のような気持ちを持ちつつも、そこはかとないおかしみを自分は表現できない。

かくして、おくれて母親の元に辿りつく。「暖中」そばのベンチに座った母は小さくて、まるで迷子にならないように我慢している子どものようだ。ああ、これは「ペコロスの母」の世界ではないですか。
その危なげな風情を見る僕は、その母の身体に、昔の優しさと威厳を持った記憶の姿をみるばかりです。
記憶は強く、いとも簡単に壊れそうな肉体のなかに生きて、子どもを育てた歴史が時間をぐるぐる循環させる。

いま父母と過ごす時間は、ほとんど現実とはかけ離れた別の時間だ。その時間の中で眠ることはできないけれど、「あの力強いおとなたちはみんな、このようにほどけていく。そしてそのときは遠からず自分にもやってくる」
と思う。

すでに引退しているような時間をときおり過ごしながら、僕はこれを「おかしみ」にできないものかと思ったりもする。帰りの車中も母とシュールな会話を交わしながら。

壊れ物注意。働き続けた貴重なる骨董品に幸いあれ。