2021年1月11日月曜日

阿久悠 『生きっぱなしの記』




歌謡界の大作詞家、阿久悠の自叙伝を読む。自叙伝のようなものは、この一冊だけというわけではないのかもしれない。阿久悠は小説も書いて直木賞候補にもなっているし、作詞家として膨大な作品以外も著述は多いと思う。でも、おそらく誰でもわかりやすい形での阿久悠のエッセンスはこの本の中に凝縮されているのではないか(憶測です)。


僕は70年代の後半近くまでは歌謡曲も聴いていたと思うけど、70年代の終わりに英国の新人を中心としたロックばかりを聴くようになって、80年代は歌謡曲への関心が極端に減った。たまたま阿久悠は歌謡曲の黄金期である70年代が始まり、大晦日のレコード大賞なども権威ある時代の流行歌作詞家なので、世代的にたくさん知っている流行歌の作詞家だ。でもかつて「職業作詞家」に関心を持つなど自分の中で思いもよらないことだった。その意味でも唐突な阿久悠の作詞集ベストアルバムを聴き込み、合わせての本書だ。全くの「学び直し」なのだ。


全ては、昨年11月にエレファントカシマシの宮本浩次のソロ、女性歌手の歌謡曲カバーアルバム、「ロマンス」の影響から始まっている。(歌謡曲と言いづらいのは、本編ラストの宇多田ヒカルくらい)。自分でも驚く洋楽主義からの(特に最近は60年代などのブラックミュージック全般)大転換である。


宮本のカバー集は自分が通して聞いても「王道ど真ん中」の歌謡曲カバーなので、最初はアルバム自体が「70年代阿久悠」の印象だったのだが、実際のところ、むしろ職業作詞家的な立ち位置では松本隆の存在が大きい。彼の小中学時代は松本隆が作詞家として阿久悠になり代わる王道となり、アイドル歌謡の黄金時代だろうから、必然そうなるだろう。(アルバムでは同じ比重で松任谷由実の存在もある)


なので、今度は改めて一度、松本隆と阿久悠のメンタリティの違いも考えてみたい。(阿久悠、生まれ昭和12年(1937年)、松本隆、生まれ昭和24年(1949年))。


この自伝は2001年、910日に阿久悠自身の腎臓ガンの手術のために入院をした時から始まる。

阿久悠の美学で興味深いところとして、癌であることを家族以外には一人にしか伝えていない。その理由は「弱みを見せないことと、借りを作らないこと」を芯にして複雑な社会を生き抜いてきたゆえ、心配も同情も耐え難いという思いからだ。だが、病院で目を疑うような911、ニューヨークのワールドトレードセンターに飛行機が突っ込む映像を見てしまう。

その時、自分のガンと、歴史を分かたれる瞬間を重ねる。そして書かれた「私の履歴書」がこの自叙伝とのことだ。「未来を志向する精神と過去を検証する心」が自分の中にあることを自らに認めた瞬間だったという。

自叙伝は日本経済新聞の51日から531日の間に一気に書かれた。


阿久悠は前述したように昭和12年に淡路島に生まれた。父親は平凡な警察官で、淡路島内の警察署や派出所で転勤を重ねた。だから転校を重ねた結果、故郷意識が薄く、詞も「明日にはよそに行く人ばかり」だった、という記述は興味深い。

もう一つは、阿久悠は典型的な戦中の子どもだ、ということも強調されて良いだろう。子供の頃は国は戦争をするのが仕事と思っていた。そして、甘さや美味というものが物心初めからなかった。その前の世代にある甘さや美味というものの徐々の喪失感がない。

「戦後は明るかった」のは、封印されていたものがいっせいに飛び出してきて、それらと初対面の歓びを感じたからだった、という。だから、戦争の頃が「暗い時代」と気がついたのは、戦後になって比べるものを手に入れてからだ。


子供心に国は戦争をするのが仕事、甘さも美味も、禁欲だとは思わなかったということ。この子供の頃の経験と、後述する思春期の経験の二つが阿久悠を形作る大きな点だろう。

その中で「ラジオ」を省略しては、のちのちの職業人としての自分を、理解できなくなると阿久悠はいう。戦後社会をビビットに伝える第一人者はラジオであった。

のど自慢が21年から始まり、日本人が突然歌うようになった。

日常の小さな神々は「野球、映画、流行歌」。これが民主主義の三色旗だった。


そして、阿久悠を阿久悠たらしめるもう一つの原体験は、中2の時に発覚した結核である。終日天井を向いたまま寝ている生活は、思春期後期の少年を絶望的気分にさせるものであった。また、医者は中三の二学期から学校へ行く条件として、「激しない」ことを命じた。つまり、「はしゃがない、興奮しない、怒らない」ことを守るべしと。14歳の春の結核と、医者が課した条件は、その後の人生を大きく変えた。激情を抱かずにいきることが、どれほどつらいことか。結核になったことにより、知性と体力のバランスをとって生きることが困難になった。すると、文章を書くか、絵を描くしかない。

それでも胸を破らず激情と共棲する方法は見つかる。たとえば、スポーツは出来ないが、スポーツを一瞬の予測不能な芸術と見ることで、激情も感動も増幅させ得るのだと気づく


優秀な成績で県立の洲本高校に入学するが、目標が見えず、映画館に入り浸る。だが在学中に母校が高校野球で優勝した。淡路島からステップを置かずに「日本一」などあり得ないことだと思っていたから、頭を叩かれるような気がして、その時から心がひらけた。母校優勝以来、映画を見るのも東京を知るための学習のようになる。


明治大学を卒業して広告会社に彼は入社して、一つの大きな転機となる出会いが生まれる。「上村一夫」という才能に入社して3年目に出会い衝撃を受ける。彼との出会いから、阿久悠が詞を書き、上村が自分のギターで歌うようになった。その何ヶ月かの無意味な遊びが、阿久悠の唯一の歌謡曲修行になる。


広告会社は居心地が良かった。だが、何らかの屈託は昭和39年の結婚で本気に世に打つ志を強める。退社の際に書いていた200本の企画書は、上村一夫の劇画の原作になり、何らかの形で阿久悠の作詞の中に生きた。


同時に、放送作家、阿久悠というペンネームの仕事と広告会社で本名を使うハードな二重生活を2年間行う。大抵でない事ができたのはやっと世間と繋がった思いと、この程度では終わらないと言う野心だったと述懐。


そしてビートルズを契機として、続出したグループ・サウンズのコンテスト番組をやりたいと言う話で企画者として呼ばれる。


ビートルズの誕生後、1970年代にフリーの作詞、作曲の作家時代が訪れる。

阿久悠の作詞家デビューは、昭和43年(1968年)。GSグループであるモップスの「朝まで待てない」。だが、本当はシナリオライターか、小説を書きたかった。

そして北原ミレイのために書いた、「懺悔の値打ちもない」で、タブーだらけの歌詞を書き、批評家受けもよく、作詞家になる決意を固めた。結婚に伴う真剣に将来も考え始めていた時でもあった。


職業作詞家として生きる気持ちが固まり、今まで誰も書かなかった匂いの歌を、偶然による「隙間探し」ではなく、作詞家阿久悠の思想、個性で固めると決意する。窮屈でも、それに則って書くと。それが阿久悠作詞家憲法十五条だった。この憲法の本則は、「美空ひばりで完成した日本の流行歌の本道」とは違う道を行けないか、という時代を見つめた中での思索だった。美空ひばりと同い年の阿久悠は、何とか美空ひばりが歌いそうにない歌を、と考えた。


その15条には、

日本人の情念や精神性は「怨」と「自虐」だけでいいのか。そろそろ都市型生活の人間関係に目を向けてもいいのではないか。個人と個人のささやかな出来事を描きながら、それが社会的なメッセージにすることは不可能か。「女」として描かれる流行歌を「女性」に書き換えられないか。「どうせ」や「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか。七五調の他にも、音楽的快感を感じさせる言葉があるのではないか。歌に一編の小説、映画、演説、一周の遊園地、これと同じボリュームを4分間に盛ることは可能ではないか。時代の中の「飢餓」に命中するのがヒットではないか。


ーーー云々というもので。これらの思索は今の歌の世界ではほとんど克服されてしまった「かつて」のものばかりと言えるだろうけれども、阿久悠が花開く時代には全く新しかったのであろうと思う。(その前の時代がどうであったのか、そこまで詰めて考えると美空ひばりも考えなくてはならなくなり、詰めの作業が大変w)つまり、阿久悠が作った流行歌の時代は現代感覚のオリジナルを切り開いた先人と言えるだろう。


もともと企画屋でもあった阿久悠が企画から関わった伝説的な番組、「スター誕生!」は1971年から始まる。そこから審査員の役割を通して偉大な作曲相手を見つける。中村泰士、都倉俊一、三木たかし、森田公一などなど、である。そして70年代、阿久悠は歌謡曲の世界で作詞家として、ほぼ十年近く名曲の数々の詞を書いて1970年という時代を駆け抜ける。


自叙伝の後半は両親の平凡な人生の終わりと、自分の記念パーティでの学校の先生の自分の文章への褒め言葉や、寡黙な父が言った「お前の歌は品がいいね」という言葉を心の支えにしてやってきたとスピーチの叙述になり内容は概ね終わる。


短期に実に起承転結のストーリーを分かりやすく伝えてくれるさすがな表現者の自叙伝だと思うが、内容は存外、阿久悠自身の子ども時代(淡路島時代)と、晩年の両親の話に多くのページが割かれ、意外と自分の仕事のさまざまなことが多く語られているわけでもない。確かに北原ミレイの詞がレコ大の作詞賞を受賞できなかったことに腐った程度のことは書かれている。だが何となくの読後感としては、70年代の大作家を形作った少年時代、そして自分を生み育てた両親たちの生き様のひそやかな影響というものの意味の方が大きい感じがする。


あえて松本隆と比較して思うのだが、阿久悠には、戦後日本の高度成長とともに人々にそれと伴う心の飢餓への意味を与える「使命感」のようなものを感じていたのではないか、という感じがする。そんな密度の印象がある。


それはけして声高ではない。本人自身が書くように、

「考え深くて、意志的。仕事のあり方は人並み以上に大胆さを示してきたが、人間的無茶を通したかというと、そうではない。」という通りの、そしてそれが美学であった、という印象と意志を感じた。


最後に収録された詩が凄い、素晴らしいのだ。ぜひ本書を手に取る機会があれば、一読を。


「ぼくは 歌を書く

歌がいちばん呑み込みやすいから

歌を書く

歌は言葉 言葉は知性」






さて、ここで自伝に合わせて阿久悠のベスト盤、「人間万葉歌」に転じてみたい。(オークションで安く手に入れたBOXセット)。

何しろ名曲、名詞揃いである。沢田研二、西城秀樹、ピンクレディ、都はるみ、岩崎宏美、尾崎紀世彦「また会う日まで」ペドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」「五番街のマリー」、そして和田アキ子、「あの鐘を鳴らすのはあなた」・・・・

北原ミレイの「懺悔の値打ちもない」から、河島英五の「時代おくれ」。立て続けに二曲が並んでいる。そこに職業作詞家として出発点である美意識の始まりと、成熟の違いが自分には明確にあると感じた。

 北原ミレイへの詞には、時代を睨み、新しいことを始める挑戦者の反抗の美意識があるし、後者には人生への円熟の美意識がある。で、円熟の美意識には、子どもの頃にきっと美しいと思った倫理観への、長い旅を経た円環、戻っていった感じがある。このボックスセットには阿久悠自身への長文のインタビューも付属されている。そこでの発言。


「ぼくの」痛みなんだけど、「万人の痛み」としてそれをいかに表現するかに全力を注ぐわけです。


終戦直後は、女の歌手は全部ブルースだった。

男は「憧れのハワイ航路」なんてのを歌いまくっていた。逃避する時は必ず高音になるんですよ。


北原ミレイ 「懺悔の値打ちもない」https://youtu.be/zY1zw0vuGeo


沢田研二 「時の過ぎゆくままに」https://youtu.be/1Qi7c-pcq-A


尾崎紀世彦 「また会う日まで」 https://youtu.be/o-bMKTK3Dss


ぺドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」https://youtu.be/JcSbTMLcryA


おまけ ズー・ニー・ヴー 「一人の悲しみ」 https://youtu.be/rfY0nJu1rvo

(大衆歌謡曲が、どういう歌詞で初めて受け入れられるかという典型。もちろん、尾崎紀世彦という不世出なボーカリストがいて、「また会う日まで」というミリオンセラーが生まれたのだが)


そして。今の時代にこそ、この曲の持つ意味の大きさを感じざるを得ない。阿久悠作詞の楽曲で、メッセージ性が普遍性を持つ日本の歴史に残るだろう名詞名曲。


和田アキ子 「あの鐘を鳴らすのはあなた」