2014年8月8日金曜日

第一次世界大戦から100年

今年は第一次世界大戦勃発から百年ということらしく。この第一次世界大戦というのは、現代を知る上でも非常に意味あることなのでしょう。少なくとも欧州におけるインパクトは大きくて、甚大なる死者の膨大な数に収まらず、「理性主義」を強く信奉し始めていた西洋人にとって理性主義に対する懐疑を与えることになりました。日本人にとってみれば、膨大な被害と加害を受け、与えた太平洋戦争敗北を含む第二次世界大戦のほうがインパクト大でしょうが、ヨーロッパにおいては第二次大戦は第一次大戦の続編、という趣きがありそうです。

 当時、オーストリア皇太子がボスニアでセルビア主義者によって暗殺された問題が発端で、事柄自体はオーストラリアとボスニア、セルビアという局地的な問題でした。ですから、当時は誰もこの戦争が4年以上に及び、世界中を巻き込み、欧州内だけで死者が一千万にも及ぶ大戦争になるとは思われなかった。未曾有の大戦争、そして国家を挙げた総力戦になったのが第一次世界大戦から始まる二十世紀でした。 いま、盛んに集団的自衛権が活発に論じられていますが、まさに当時は「同盟国」の同盟関係が引っ込みがつかない状況を作ってしまい、相争うという膠着の図式を描いた側面があり、その問題こそ「集団的自衛」の危険性にまるまるトレースできるでしょう。

 第一次世界大戦が虚無と怒りの総体であるヒトラーを生み出したとも言えるでしょうし、西洋的な「理性主義」への新たな懐疑が第一次大戦後に生じたのも確かです。社会主義の人たちは資本主義の矛盾が国家間の戦争を生み出すと見て、後にソ連邦を生み出し、社会主義や共産主義への対抗の論理が生み出される契機にもなりました。

 しかし、人間の社会が維持されるのには知性と理性しかないでしょう。如何に理性を強くするか。それが二つの大戦を経過した心ある世界の人たちの問題意識ですし、その方向性で動いている世界でもあります。同時に、たとえ先進国でも理性主義を鍛える契機を失いつつある部分もあるのが現在、ということでもありましょう。