2014年10月12日日曜日

穴があったら入りたい 自己責任の世界

「穴があったら入りたい Ohh 俺の人生何だか~♪」
という失敗をしてしまった。
金曜日、搭乗すべき飛行機に搭乗できなかったのだ。
その日にすべき大事な仕事に間に合わず、航空会社のカウンターで既に初日の主業務の仕事にいけない無念を秘めて午後の空き席を待ちながら、それにしてもどういうことだろう?この三連休前日のこの10時台後半の人混みは。観光客と出張客がバッテングしたのか、搭乗手荷物検査ゲートでアウトを食らわした飛行機会社に言いたいこともあるが、落ち度は余裕を持ってチェックインしなかったこちらにあるのは間違いない。
それにしても。飛行場という場所は自分がそういう状況に陥って落ち込んだぞの主観から見てしまうせいかもしれないが、何とも機械的で機能的に見える場所だ。寄り集う多数の人々のほとんどが地下鉄、JRと同じように飛行機への搭乗が日常の場に見え、年に一、二回しか乗る機会がない自分には非日常の場だと感じる。ここには温度差とか、落差、というものを皮膚で感じる。
 
飛行場を後にして、悔しい思いを何時になく強烈に感じながら、夜が明けて朝、自宅のベッドの上でかなり別の切り口でぼんやりあの場の印象を考えた。以下は印象論のこじつけがましさに過ぎないのだけど、何か感じてくれる人が居たらありがたい。以下、突然具体の話から、観念的な話に飛躍します。
 
個人主義的自由の究極の言葉であるといえそうな「自己責任」という言葉と、あえてそれに対概念として「連帯」という言葉を対置してみよう。すると、そのどちらに人々が親和性を抱くのかということは、まさに「共有する時間」の多寡に尽きるのではないだろうか。共有する時間が長くなれば「連帯」へと傾き、短くなれば「自己責任」のフィーリングに近づく。
 
その究極が飛行場だ。あの短時間で遠くへ。物理的に人が長距離移動をする場所。空の上に向かって人々が移動する場所。
飛行場の変化はここ十年くらいで著しい。自動券売機、バーコードによる搭乗、ゲートで差し出される通信機器。見渡すとほとんどの人が操作するスマートフォン。
 
個々が黙々として、機械の操作を理解して、ドジなことをしない。少なくとも金曜日に限って言えば、客の数に比例する搭乗事務職員はいない。そう、飛行機が日常化しているようで、乗りなれない人に目をつけて声をかける余裕のある人などいないのだ。奇妙にも、平日の銀行や病院など、日常的な空間のほうが立ち止まって場所の様子を眺めていると黙っていても向こうのほうが声をかけてくるくらいだ。父親の入院していた病院が常にドアマンみたいな人が居た、という奇妙な光景が記憶に焼きついているせいもあるが。。。
で、飛行場はまさに「自己責任」という言葉がピッタリ来る世界が展開している。それがまさに普通の風景であり、景色。
「連帯」とは全く無縁の世界。
 
空席待ちだって優先順位はクレジットカードつきの「会員」だ。そう、もうひとつの世界は「クレジットカード」そして「会員カード」の社会。ポイントメリットのとしての会員。個人的にとても鬱陶しいくらいの、どこもかしこもの会員制。
これらもいつの間にかそれを、そういうシステムを「知る場」にいないと、いとも簡単に取り残される。つまり教え、導き、協同しようとする「連帯」とは無縁の世界だ。
都市は「自己責任」という言葉が実感としてピタリとはまる感じがあるのは、日常が都市化している人々にまさに日常を表明する言葉としてそれがあるからなのだろう。
思い返せば、空港に立ち尽くした僕はしみじみそう思ったのだった。-もちろん、すべてはどこまで言っても自分のぼんやりぶりに尽きるのだが......。そう、どこかから聞こえてきそうだ。「自己責任だろう」と。
 
先に記述したように僕にとって飛行機に乗るのは基本的には非日常的な世界。そして出張族や移動者たちには地下鉄、JR並みの日常。それは空港職員ももちろん。とはいえ、真逆に「田舎暮らし」というのもまた僕にとっては非日常の世界。いい年をして情けないが、一つの極端ともう一つの極端を持ち出しているのかもしれないけれど、「ああ、拠る部がないなあ」と、そういう時、感ずるのだ。
 
例えば、地下鉄だっていつの間にか「ウイズユー・カード」が一方的に廃止されてしまった。おそらく「サピカ・カード」に変えざるを得ないだろう。都会の特徴であるゲートを通り抜けるときには光コードを重ね合わせて、ピッ、ピッ、ピッだ。これほど「自己責任」という言葉が似つかわしい自分移動のありようじゃなかろうか。そしてスマホ。空港での人々の実務的な営みはスマホ中心に行われているように思われた。
 良き倫理的な人たちが公共空間でのスマホ覗きの営みが他人への想像力欠如の入り口として嘆くように、僕も風景として好きじゃない。そして僕はスマホじゃなくて、携帯モバイルでアイパッドだから、同時にスマホの便利さがうらやましくもある。これはほんの何年かの間の形態の変化だ。社会がスマホにあわせ、ICに合わせているのに、日々を都市で過ごす、稼ぎに出てくる人たちがスマホ社会に背を向けることなど出来るだろうか?ソーシャルネットの抱える問題はそのひとつの副産物に過ぎないようにも感じられる。常に向き合わされる機械と共に動いていく近未来。
 
ネットでYahooなどの質問に対して「ググれよ」という返事が返ってくるのは「お前の自己責任だろ。情報は自分で探せ」と明らかに突き放していると同時に、そういう潜在的な声がごく普通の人にも共有されているのではないかと思う。自己責任。その言葉が実感を感じている多数の人々によって、あるいはそう名づける人によって日々突きつけられてくる感じはある。

2014年10月4日土曜日

エレカシライブレポ。

 
 エレカシの単独ライブに行って来ました。ZEPPサッポロ、一階オールスタンディング。
 結構ステージ前の方に陣取ることができたので、フォトジェニックな4人(+30代ギタリスト1名)を拝めることができた。映像で見るのと全く同じで格好いい。特に宮本。48才、とても見えない。見た目、若すぎ。そして唄うその姿は男から見てもセクスィ。稀有な存在ですわ。
 それにしても音がでかかった。1時間以上経った今もこちらの耳がまだおかしい。高音、効かせ過ぎかもしれない。ポップなシングル曲では宮本の声の素晴らしさが生きていたのだから(特に今日の『悲しみの果て』は出色)、もう少し宮本の声を生かすサウンドバランスがあって良かった気がする。まぁでも、宮本の声もでかいが、そのミヤジのギターの音もデカイよ(笑)。石くんのギターはだから、とてもノーマルなんだよな。


 今回のステージはキーボードの蔦屋さんが帯同してないせいか、ポップな曲、バラード曲が控えめで、硬派な楽曲が多かった気がする。初期の曲も多い。特に「星の砂」をやったのにはおお、と思った。それよりもっと古い曲として紹介された曲もあったが聞いたことがない気がする。なんでも高校時代の夏休み頃に作った曲とかで、後の和風独自路線を思わせる。ステージでの宮本の動きもこの曲では初期っぽい。(後で分かった。その曲は『BLUE DAYS』)

 何しろキャリアが長いから気合を入れて次から次へと曲をやる。そして意外とタイトに一曲一曲をまとめてる。曲間のナレーションも、ほとんどない。
 「明日に向かって走れ」発売前のGW頃に来た96年のライブでの曲とその熱量との落差があるとっ散らかった宮本喋りに爆笑したものですが、もはや彼ら王道なのでそういうのはなく、とにかく曲を聞かせる。アンコールラストは花男。ファーストから知る限り4曲。(※『BLUE DAYS』を入れて5曲)。彼らのファーストアルバムは基本的にシンプルで分かりやすいメロディのロックンロールに「それを言っちゃあオシマイヨ」の歌詞がドンと乗っかる痛快な名盤なので、素直に嬉しい。
客掴みを狙わない王道ロックを聞かせたエレカシ。そういえば、今回は石くんいじりもなかったなあ。
gにしても、音がでかかった。本編ラスト近くで宮本の耳からイヤホンが落ちたので、防音イヤホンを使っているのかもしれないが…。

 とにかく宮本&エレカシの全力投球ぶりには頭が下がる。言葉も力強いがそのバンドの姿がそのまま勇気を与えるバンドに違いないです。凄過ぎでした。有難うございました。(9月21日)

PS。この曲はライブではやりませんでしたが、実に痛快な大人の世界を揶揄するお茶目な曲。怒り、苛立つ宮本がこういう形で現実を共々の問題としてかつユーモアも織り交ぜて展開するまで成長するとともに、その大人になっても野太い力量に僕は思わずガッツポーズを取ってしまいます。