2012年12月19日水曜日

「困っているひと」から「生きづらさ」へ

 昨日は半分は当事者意識、半分はボランティア的に係わっているNPOにて事業に絡む集いに行ってきました。

 いわば社会的排除に置かれている当事者の方がいて、そのご家族の方が中心に集まると思われ、確かにそういう立場の人が来られてはいたのですが。むしろ実際に話をされると、ご家族の困りごとというよりはご自身の悩みを中心に語られる場になっていたようで、深く考えさせられたところです。

 具体的なことは書けないですが、一般に人生のライフステージで起きる事柄、課題に向き合って頑張っている方々のお話なのですけれども、そのライフステージ上の頑張りにおいて、その頑張り中での悩みを聞いてくれる周囲の状況というものが無いのだなぁということが正直驚きでもあり、また今後の自分の人生上の課題も含めて考えさせれたところです。

 社会サービスの利用だけでは済ませられないその「人」としての心のありよう、つまりひとである以上普通に生活を送っている人、あるいはそう見える人々の悩みが、何故かこの「社会」というか、「世間」というか。そういう場で吐き出せる場所が無いように思われるのでした。

 語られた内容はもともとのNPOの趣旨とは多少別の枠組みでの問題とも言えるのですが、最近自分が感じるのは悩みや困りは「区別すること」が難しくなりつつあるな、ということです。

 それはそれで標榜するNPOの目的からすると対応の難しいことなのですが、さりとてそこに特化・限定できないものに広がっている感じがあったのが、昨日集まりに参加しての実感です。

 先に大学の先生に行ったインタビューでも「生きづらさ」というテーマの話の枠組みの中で、社会的排除にある人のみならず、一見社会的なというか、経済的なというか、労働者的にというか。そういう場所で勝ち残ったように見える人も「いつ、自分もどうなるかわからない」という不安と同居している感じがありますね。と語られたのが印象に残っていたのですが、その話を思い出したのが昨日でした。

 逆に浦河のべてるの家とか、釧路の地域生活ネットワークサロンなどのNPOや障害者の企業がその自分たちが持つ弱みを強みに生かしている。社会の問題が集約的に現われていると思われている所にこそ、新しい社会を構想するヒントがあると思います、という話は一見理想的に聞こえますが、でも、何か社会の側が「照り返されている」感じもします。

 う~ん。難しいな。
 今までの基盤が揺らいでいると、つい逆ベクトルが正しいという話にもなりがちなので、そこはバランスをとって考えなければならないけれども。

 ともかくいまの感想では、普通の人たちも生きづらさを感じている。その時、例えば選挙などの際に現れる政治に関する向き合い方としては、相変わらずの「無関心」か、あるいはまたもや強い力に引っ張ってもらいたい。はたまた自分を投影して自他を鼓舞する。弱みを見せちゃ駄目だという気分が反映している気がします。それって素直なことなのかな?と。

 僕にはその結果がより一層、困っている故の救済願望や、自分が強くなる、やはりもう自助努力しかないのだという考えで行くとすると、ごく普通の人が普通に話せたのかもしれないプライベートの悩みの持って行きどころを一層失っていくのではないか?という気がしてならないのです。

 子供っぽく書けば、社会が強がっている限り、歪みが広がるっていうのかな。

 で、いま実際の現実には「困っている。悩みを吐き出したい、ぐちを聞いてもらいたい」という一点だけでも集まって話し合える場が必要となるのかな…と思ったり。

 しかし、その具体的なものと考えると、答えが出せない。そんな思いを抱いています。

PS.記事のタイトルが適切かどうか、分かりません…

 

2012年12月2日日曜日

「ポストモラトリアム時代の若者たち」書評

『ポストモラトリアム時代の若者たちー社会的排除を超えて』村澤和多里、山尾貴則、村澤真保呂 世界思想社

 
 1997年から98年にかけての金融不安による大手銀行や大手地銀の破綻による不況の可視化に伴い、すでに失われた10年を遥かに超え、もはや我が国の斜陽化は自明に思える。この期間、雇用問題や精神的な負荷は若者たちへと、一番中心的なしわ寄せをされてきたと言ってよいだろう。非正規労働の拡大化に伴い団塊ジュニア世代以降、際立った問題としては若年ホームレスやひきこもり、ニートの問題として顕在化した。それは日本企業の要請の結果でもあったし、グローバル化の帰結でもある。
 この間に幾つもの政策提言も含めた若者論が現われた。それら若者論の中でも、心理社会両面において昇華し統合された本がついに登場したというのが評者の最初の感想である。
 
 論点は多岐に渡る。しかし、3人の筆者たちの問題意識に通底しているものは同じものだろうと了解できる。細分化した若者にまつわる問題や文化論は分解して見ていくと拡散してしまうが、筆者たちの問題意識を通底していると思われるのは「モラトリアムの消失」と「若者たちのアイデンティティの危機」ということであろう。若者たちの成長のためのメタモルフォーゼの時間喪失が社会の変容による結果であることがこの本を読めば分かる。まさに、ひきこもりやニートなど若者たちに起きている問題は「社会と心のつなぎめ」で起きていることなのだ。
 
 本書を外観すれば前半で戦後の高度成長化における大量生産型のフォーディズム体制での若者の理由なき反抗が実は青年が大人に移行する過程において必要な自己再構成のためのモラトリアム課題であったこと、そのモラトリアムをアイデンティティ(自己同一性)確立のための心理過程であると喝破したE.Hエリクソンのアイデンティティの議論を踏まえて、若者の危機は生き方の方向性喪失の危機や役割取得の危機であり、敷衍すればひきこもりの問題も引き伸ばされたモラトリアムの中でのアイデンティティ拡散の危機の結果ということは言えるだろう。
 
 しかし古典的な意味でのアイデンティティの危機であればその若者自身の役割取得の失敗と言えるかもしれないが、問題を社会的に見れば、むしろ古典的なアイデンティティ獲得のための心理的な努力をしても報われないような社会の激変があり、そこでは多くの社会成員が古典的な意味でのアイデンティティ確立の努力を経たのち、社会に入っていく構造にはなっていない。端的に言って、社会が流動化し、その流動化する社会に適応しようと人々は常に自分のリスクを痛烈に感じながら生きており、モラトリアムを経ながらアイデンティティの確立を目指す若者たちを後押し出来ない社会になっている。ルーティンの中で生ききれない動的な社会では、確固としたアイデンティティは常に揺らぐ。
 
 それ故に学生は常なるリスクに立ち向かうべく資格の取得に奔走し、無事に就労されるべく、かつて学生時代に必要だと思われた「どう生きるのか」「なぜ働くのか」と言った学外での学生同士の対話や、あるいは無為に思われるような「遊び」の時間を失いながら、モラトリアム期間を消失した時間に生きる。
 
 かくして、いわば「経済的モラトリアム」の中で学生時代を過ごし、「市場青年」たるべく無為な時間を喪失した中で有用な時間を生きる。
 
 アイデンティティ拡散を経験している中年世代の自分は、この若者たちの余裕のなさ、あるいは猶予のなさが余りに残酷に思える。何が自分にとって大切なことなのかを考える暇も無いだろうからだ。勿論、古典的な意味でアイデンティティ拡散に陥り、社会的役割を引き受けられない。目標喪失し、自己決定を回避するという問題は過去から今に至るまである。今も昔もひきこもりなどの選択などは、アイデンティティ拡散の議論としてある程度説明は出来ると思う。
 
 しかし繰り返しになるが、モラトリアム期間における自分との向き合いの苦しさや危険、逆に「自己の世界観の広がり」は学生時代の無為の自由な時間にあった筈だし、それが社会に豊かさや広がりをもたらして来たと充分仮定出来る以上、現在の経済困難を主原因とするモラトリアム期間の消失は、社会に新しい風を入れることが出来ないという、社会にとっての不安定要因といえよう。古典的なモラトリアムの時代には、自己省察と自己再構築によって社会の枠組みの「理由を知り、豊かな見識を持って」(J.J・ルソー)再びそこに参加していくことが理想化された。またそのあり方がその社会の成長と幸福な一致を見ていた。ところが流動化している現在進行形の社会は古典的なモラトリアムが通用しなくなってきている。
 それゆえに、古典的なモラトリアムの中で呻吟する者はおそらくひきこもっていくしかない。このいわば「経済的モラトリアム」の時代では学生を中心に、無為の時間を無為に過ごしながら思惟したり遊んだりできず、有用性の時間を生きざるを得ない、とおそらく感ずるであろうからである。有用性の時間に”ノレない者”はひとつの選択として「ひきこもらざるを得ない」。
 
 若者たちが心理的な放浪が出来た時代は放浪の共同体が残っていたが、今は無いと本書では書かれる。放浪した若者たちを受け入れてくれる社会的空間もない、という。現代社会で「自分の物語」を持てない若者の時代は、社会にとっての「大きな物語」の喪失と分かち難く結びついていると。ゆえに物語を喪失した「市場青年」になることを忌避し、「兵役拒否」をした若者たちはひきこもることが選択肢となる。
 
 この大きな物語のない時代、そして古典的モラトリアムを経ての成長の物語が喪失した時代においては、新たなモラトリアム、いわば「主観性の地図」作成が自己の存在基盤を作り直していく生成プロセスとなる、と本書で数少ない(?)希望を語る。「主観性の地図」とは、既成の物語やマスメディアなどが作る出来合いの自己ではなく、自己が生きる世界の地図を自分で作り、その地図を生きてみること。もし失われたモラトリアムが再生するとしたら、その地図を作る過程のなかに、あるいはその地図が広がる空間の中にあると考えられる。
 
 社会将来のために試行錯誤し、旅の仲間を作り、地図を広げていける時間と空間の余白やスペースを作るのが現在進行形の社会における必要な役割になるだろう、ということになる。
 
 考えてみれば、若者たちにとっても最も辛い立ち位置にいる人たちこそが、一番多数派とは違う生き方を自覚的に選んで生きることを意識させられるのだともいえよう。その意味でひきこもる青年たちに却って新しい生き方を提案するという難しい示唆を示す本でもあるが、共著者に臨床心理士も含む『若者サポートステーション』における若者ミーテングの実践過程の報告が、傷ついた若者たちへの一つのヒントになる。このミーテング実践の理念を知り、まずは自己承認作業を通ずることで、弱きところ、小さきところから新しい、この危機の時代の突破力になるということも同時に示唆しているように思える。
 
 他の論点としては「腐女子」の章でマンガのオリジナルをパロディ化し、キャラ萌えなどを通じての二次創作など、新しい自分流の編集作業を通じての生きがいなど面白い動きも取り上げれれているし、若者社会変容の歴史を追えば、若者の反抗反発が社会から個人へとどんどん領域が限られていく状況があることを伝えてくれる。「学生運動」→「校内暴力」→「学級内いじめ」→「家庭内暴力、登校拒否、ひきこもり」と、異議申し立ての社会問題が個人病理へと変化している、という指摘は目からウロコが落ちる。
 社会的つながりの働きは個人的な葛藤を集団内で共有しあえることが出来たが、共同体価値基盤が消失した現在では、それを個人と制度の中に回収してしまうという見方は鋭い。
 
 社会の第三次産業化、サービス社会化への変化が与える影響については、ひきこもり問題を考える上で他の識者たちも多くが指摘するところであり、ある種の普遍性があるといえよう。
 また、この本においては「再帰性」という言葉が重要なキーワードになっている。その概念が持つ重要さはイメージとしては掴めるのだが、その意味が多分に多義的な使い方をされているのが、やや気になる点であった。文脈に合わせ、つどつどの解説は欲しいところであったというのは贅沢なところであろうか。
 
 いずれにせよ、自分の中で曖昧に持っていた「こうであろう」という感覚が理論としてきちんと提示され、何がしかハッキリ見えてきた気がしたのは大変に有難かった。この本の記述を通して見えてくるものは実に多いはず。特に若者支援などをされている人などには強くお勧めしたいところ。
 
 個人的には今年読んでベスト1,2に入る本でした。やや社会学的な記述が多いので、その種の本に読み馴染みが無い人にはとっつき悪いところがあるかもしれないところが唯一の難点でしょうか。