今日、たまたま家の用事で買出しに車に乗る時、ボブ・マーリーの有名な「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のライヴ演奏が流れた。僕はここのところ、ボブ・マーリーのベスト盤CDをずっと入れているわけで、前に車に乗って帰宅するとき、かなり大きな音でかけたまま、そのままエンジンを切ったんだね。
鳥肌が立つんだよね。いつ聴いても。観客たちが前奏で合唱している。。。
演奏は「ライヴ!」っていう1975年の作品で、イギリスはライシアムというコンサート会場で録られてる。音像からすると、けして大きな会場じゃないんじゃないかな。。。観客たちのダイレクトな声がずいぶん身近に聞こえるんです。ものの本によると、前の日に同じ会場で行われたボブ・マーリーのコンサートで、この曲で自然発生的な合唱が起こったことにインスピレーションを得たプロデューサー兼レコード会社のオーナーが急遽、ライヴ盤用に音取りすることを決めて二日目の演奏の音がライヴ盤で世に出たとのこと。
この後、ジャマイカで自宅を銃撃されたボブ・マーリーは1977年にイギリスに脱出する。ジャマイカは二大政党制だけど、ハンパない一般人を含んだ権力闘争で、選挙の季節になると両陣営の応援団?がガンマンと化し、政敵を銃で倒すというのが平気であるらしい。それで片方の政党を支持していたボブ・マーリーも標的にされたわけ。1976年の暮れに自宅を襲撃されたあと、次の年にはすぐイギリスに脱出したわけだけど、それは彼が所属してたレコード会社がイギリスにあったため。
元々、イギリスはジャマイカの宗主国で、イギリスにかなりのカリブ移民がおり、そのコミュニティで母国ジャマイカのレゲエミュージックが聞かれた。その母国の音楽を配給して販売してたのが、ボブ・マーリーが所属してたレコード会社の社長。この社長も生まれがジャマイカだったこともあり、生まれた土地の音楽をカリブ人コミュニティの人たちをターゲットとして販売していたら、同じコミュニティのそばに住んでいた白人の労働者階級の人たちも、その強いビートや、独特のリズムに惹かれて、ジャマイカのレゲエ音楽を聴いていたという話。
マーリーに話を戻すと、彼がイギリスに入国して居をとりあえず定めた1977年は、イギリスではパンクの嵐が吹き荒れた頃。パンクのミュージシャンはレゲエ音楽が好きになってくれたジャマイカン・ミュージックの提供者から見れば、マイノリティ白人レゲエ・ファン。そしてレゲエミュージシャンから見ると、パンク音楽はレゲエの持つ宗教性を抜くと、共に社会に対する抵抗の音楽として、スタンスは共感できるものである、という感じで。
ボブ・マーリーを慕うパンク・ミュージシャンと、自分たちの音楽を愛してくれている意識が高い若者層がいるんだな、ということでより一層意を強くした、というのがボブ・マーリー側の感覚だったかもしれないですね。
この年、イギリスでボブ・マーリーと彼のバンドは『エクソダス』という名盤を発表します。
おそらく、スタジオ録音のアルバムでは、この作品がボブ・マーリーの一番の傑作と言えるはず。本当に捨て曲なし、緊張感に優れ、また愛情や優しさ、包容力も含まれた、多彩な人間の感情を表現し得たレゲエ音楽の中でも名盤中の名盤に数えられるものでよう。
やはり、それはコミュニティに差異はあれど、ボブ・マーリー自身も自分がやっている音楽が白人社会に受け入れられる可能性や自信を持てた確信がきっと出てきて、素晴らしいレコードを作ることができたんじゃないのかなあ。
このあと、どんどん彼の音楽はインターナショナルに受け入れらるような方向性が加速したと思う。それは今ではいい、正しい方向性だったと思います。
スティーヴィー・ワンダーもこの時期、レゲエやボブ・マーリーに強い関心をもち、実際に接点も出てくるわけだけど、マーリーがもう少し長命であったら、十分、スティーヴィー・ワンダーのような存在になったような気がする。もっと硬派な形で。
ああ、全然話がねえ。何故かボブ・マーリーの一部ストーリーの記事になってしまいました。
最初のきっかけは「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のライヴバージョンに触発されて浮かんだ連想を書くつもりだったんですけど。
全然、流れが別になってしまいました。
タイトルに偽りありだ。ボブ・マーリーの70年代の充実期に関する話、でした。意図せず。
この記事は音楽ブログのほうにも挙げておきます。失礼しました。
ボブ・マーリーの歌声。バラードに限らず、アップテンポなテンションが高い楽曲においてもどこかリアルな切なさがあって。それがまた好きにならずにいられないところなのです。
鳥肌が立つんだよね。いつ聴いても。観客たちが前奏で合唱している。。。
演奏は「ライヴ!」っていう1975年の作品で、イギリスはライシアムというコンサート会場で録られてる。音像からすると、けして大きな会場じゃないんじゃないかな。。。観客たちのダイレクトな声がずいぶん身近に聞こえるんです。ものの本によると、前の日に同じ会場で行われたボブ・マーリーのコンサートで、この曲で自然発生的な合唱が起こったことにインスピレーションを得たプロデューサー兼レコード会社のオーナーが急遽、ライヴ盤用に音取りすることを決めて二日目の演奏の音がライヴ盤で世に出たとのこと。
この後、ジャマイカで自宅を銃撃されたボブ・マーリーは1977年にイギリスに脱出する。ジャマイカは二大政党制だけど、ハンパない一般人を含んだ権力闘争で、選挙の季節になると両陣営の応援団?がガンマンと化し、政敵を銃で倒すというのが平気であるらしい。それで片方の政党を支持していたボブ・マーリーも標的にされたわけ。1976年の暮れに自宅を襲撃されたあと、次の年にはすぐイギリスに脱出したわけだけど、それは彼が所属してたレコード会社がイギリスにあったため。
元々、イギリスはジャマイカの宗主国で、イギリスにかなりのカリブ移民がおり、そのコミュニティで母国ジャマイカのレゲエミュージックが聞かれた。その母国の音楽を配給して販売してたのが、ボブ・マーリーが所属してたレコード会社の社長。この社長も生まれがジャマイカだったこともあり、生まれた土地の音楽をカリブ人コミュニティの人たちをターゲットとして販売していたら、同じコミュニティのそばに住んでいた白人の労働者階級の人たちも、その強いビートや、独特のリズムに惹かれて、ジャマイカのレゲエ音楽を聴いていたという話。
マーリーに話を戻すと、彼がイギリスに入国して居をとりあえず定めた1977年は、イギリスではパンクの嵐が吹き荒れた頃。パンクのミュージシャンはレゲエ音楽が好きになってくれたジャマイカン・ミュージックの提供者から見れば、マイノリティ白人レゲエ・ファン。そしてレゲエミュージシャンから見ると、パンク音楽はレゲエの持つ宗教性を抜くと、共に社会に対する抵抗の音楽として、スタンスは共感できるものである、という感じで。
ボブ・マーリーを慕うパンク・ミュージシャンと、自分たちの音楽を愛してくれている意識が高い若者層がいるんだな、ということでより一層意を強くした、というのがボブ・マーリー側の感覚だったかもしれないですね。
この年、イギリスでボブ・マーリーと彼のバンドは『エクソダス』という名盤を発表します。
おそらく、スタジオ録音のアルバムでは、この作品がボブ・マーリーの一番の傑作と言えるはず。本当に捨て曲なし、緊張感に優れ、また愛情や優しさ、包容力も含まれた、多彩な人間の感情を表現し得たレゲエ音楽の中でも名盤中の名盤に数えられるものでよう。
やはり、それはコミュニティに差異はあれど、ボブ・マーリー自身も自分がやっている音楽が白人社会に受け入れられる可能性や自信を持てた確信がきっと出てきて、素晴らしいレコードを作ることができたんじゃないのかなあ。
このあと、どんどん彼の音楽はインターナショナルに受け入れらるような方向性が加速したと思う。それは今ではいい、正しい方向性だったと思います。
スティーヴィー・ワンダーもこの時期、レゲエやボブ・マーリーに強い関心をもち、実際に接点も出てくるわけだけど、マーリーがもう少し長命であったら、十分、スティーヴィー・ワンダーのような存在になったような気がする。もっと硬派な形で。
ああ、全然話がねえ。何故かボブ・マーリーの一部ストーリーの記事になってしまいました。
最初のきっかけは「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のライヴバージョンに触発されて浮かんだ連想を書くつもりだったんですけど。
全然、流れが別になってしまいました。
タイトルに偽りありだ。ボブ・マーリーの70年代の充実期に関する話、でした。意図せず。
この記事は音楽ブログのほうにも挙げておきます。失礼しました。
ボブ・マーリーの歌声。バラードに限らず、アップテンポなテンションが高い楽曲においてもどこかリアルな切なさがあって。それがまた好きにならずにいられないところなのです。
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