2018年1月7日日曜日

架空対談・私の2017年の10冊(3)村に火をつけ、白痴になれー伊藤野枝伝


S「さて、三冊目は栗原康さんの伊藤野枝伝、『村に火をつけ、白痴になれ』です。

K「アナキスト、大杉栄のパートナーにして、大正アナキズムの女性活動家、伊藤野枝の評伝です。アナキズムとは何かとか、この本については栗原さんへのインタビューをぜひ参照にしてもらいたいですが。昨年思ったのは、若手の研究者を含めてアナキズムへの関心が再び盛り上がっているのかな、ということですね。その関心から栗原さんの本を読んでアナキズムをきちんと考え始めたんですが」

S「11月に福岡に住む森元斎さんに話を聞きに行ったのも、その流れね?」

K「そう。森さんの『アナキズム入門』はこのあと紹介しますが、こちらは世界的に知られるアナキズムのご本尊の人たちについてですね。でも森さんの本を通していろんな広がりがぼくのなかにあって本当に感謝してるんですよ。で、日本のアナキズムに関して考えるきっかけとしては、栗原さんのおかげの部分が本当に大きい」

S「デヴィッド・グレーバーなどもそうだろうけど、アナキズム再考という流れはやはり今のグローバリズム経済の暗部が噴出してることとか、グローバリズム経済で人々の移動が激しくなると、ナショナリズムが刺激される。そのナショナリズム=近代国家とは何か、その自明性っていったい何よ?という根本的な疑問に即して考えるツールとしてアナキズムという思想があった、ということかな」

K「まさにそんな感じなんです。で、本書に即して言えば、伊藤野枝さんというのは大杉栄や前夫の辻潤などを通して十全にアナキズムの思想とか、個人主義とか、徹底した自由主義の思想を身につけたんだと思うんだけど、思想から学んだからと言うよりも、元々の気質としてそういうタイプの人として描かれている気がする」

S「栗原さん曰く、『わがままな人である』と」

K「とはいえ、野枝の「わがまま」って、客観的な認識を経た上での自由の希求だったんだと思う。それは伊藤野枝自身の文章を読めばすごく感じるところ。なぜ自分はこのように考え、このような行動に至ったのかということは彼女自身の透徹しつつ平易な文章に触れればよく分かる部分じゃないかな」

S「本書で参照されている地元の担任の若い女教師の自殺を取り扱った小説、『遺書の一部から』を前半でけっこうスペースをとって取り上げてるね」

K「『青空文庫』にも格納されているからぜひ全文を読んでもらいたいんだけど。素晴らしい追悼作品。これは直接行動としての自殺であると。自分のことは自分で決めるということを示す行為で、ただ可哀想な死に方をしたんじゃない。自分の生命を縛っている縄を自分で断ち切るのだ、と。これは日本の村社会の無自覚な息苦しさを断じて、同時に自殺した先生に投影して、先生共々野枝も自己のアナーキズムの精神を告知する、緊張感ある作品じゃないかなと」

S「アナキズム思想というと、権力に弾圧された歴史があるし、実際に大杉、伊藤野枝は関東大震災のどさくさで甘粕大尉らの官憲になぶり殺されたわけだけど、そういう重い歴史事実を取り上げながら重苦しくない評伝になっているのは、これは栗原さんの筆致の軽やかさに負うところが大きいのではないでしょうか」

K「まさに読まれることを考えられた本としての完成度ですね。栗原さんはその後どんどんアジテーションとひらがな多用が目立っていくけれど、この頃は初期の『大杉栄伝』と現在との間にあって、もっともバランスがとれた逸品だと思う。栗原さんが持つ「文体」が確立した作品でもあるんじゃないかなぁ」

S「この現在の社会。さっきもいったけど、すごく息が詰まる傾向が増していると思うんだよね。それは僕らの中に他者との比較癖、という要素もたぶんあると思う。競争経済の暴走のみならず、他者との同調意識にとらわれやすい日本人意識も絡んでいる。だから、スポーツ選手などでも記録や順位より、常に自分自身との闘い、自分自身との向き合いかたのほうを大事にしている選手に自分はすごく好感が持てるんだけど。例えば栗原さんは大杉栄のいわゆる「生の拡充」とは何か?ということについてこう言っている。「ひとの生きかたに、これという尺度はない。つくりたいものがあればつくり、かきたいことがあればかき、うたいたいことがあればうたう。失敗なんてありはしない。自分の力のたかまりを自分でかみしめるだけなのだから」って。これは勇気をもらえる言葉だなあ」

K「そうそう。ある意味でこれぞ自己啓発じゃないか(笑)。そもそも自己啓発という形式に狙われること自体が他人に自分を持って行かれちゃってるわけで。始まりは自分の中なんだよね、核心はあくまでも。そのためにも自分なりに自分の望む方向にむかいたい。もちろんそこには自分と現実とのあいだの計算も必要になるわけだけど」

S「あとがきで、わがまま、友情、夢、お金。きっとこの優先順位がしっかりとわかっていたひとなんだと思う、って書いている部分がまさにそこに呼応しそうだね」

K「ああ。だからすごいこの人もセルフコントロールの意識が根づいているひとなんだろうなあ。僕はね。野枝のすごさは生活実感からアナキズムの思想を辿り、紡ぐことができた点にあるんだろうと思った。
 田舎で学んだ若い女先生の自殺、パートナーとの関係、ハマったミシンというものの各部品の動きから認識したこと、田舎の生活の相互扶助。そういった実感の中で考察したことがアナキズムを考える思想と結びつけることができたんじゃないかと。けして上から与えられたものを吸収したものじゃない。だから強い」

S「イデオロギッシュじゃなかったんじゃないか、ということだね」

架空対談・私の2017年の10冊(2)いまモリッシーを聴くということ


S「で、二冊目はブレイディみかこさんによる元ザ・スミスの詩人ボーカリスト、モリッシーのザ・スミスとソロアルバムの全解説です」

K「ブレイディさんがこういう本を手がけてくれたことが素直にうれしいのと、先のジョン・ライドンの話で言えば、セックス・ピストルズ~PILってちょうどリアルタイムで自分、聴いたのは78年から83年頃までなんですよね。で、79年頃から81年くらいまでってぼく自身がかなり精神的にやばかったんだけど、同時期にイギリスのインディの新人たち、いわゆるポストパンクといわれる連中がどっと出てきて、その時期がもの凄く刺激的だった。パンクバンドでも初期から凄く音楽的に飛躍したバンドも出たし、ポップス側の新人も面白かった。ポストパンク勢は演奏技術はともかくとして、非常に前衛的だったり、実験的だったりして。その流れがかなり行き尽したあたりで、いま、いわゆる"ネオアコ"と呼ばれる、死語だろうけど。その流れからザ・スミスが出てきたと。日本ではそんな紹介のされ方だったと思う。僕は「デス・チャーミング・マン」の12インチシングルが初めての出会いなんですよ。凄い爽快な曲。やみつきになっちゃう。で、ファーストアルバムはラジオで紹介されて聴いたんだけど、何か独特な湿り気を感じて「ああ、これはイギリスのドメステックなものなんだろうなあ」と感じた。詞が当時のロックとしては独自でやばくて、ラジオのデスクジョッキーもその切り口で紹介してたね。とにかくイギリス期待の大新人だけど、どう解釈したらいいか、ってDJも戸惑っている様子だった。アルバム購入して歌詞カード読んでひっくり返りました。これはやられた!と」

S「ザ・スミスがデビューしたのが83年。解散が88年だから実質活動期間は5年。それに対してモリッシーは昨年新作を出したから、ソロになってからも今年で30年になるね。こんなに長くソロで一線でやるとは」

K「僕もね。だからやっぱりザ・スミスというのが格別過ぎたから。最初に話したとおりPILなどを筆頭にするポストパンク勢がやり尽くして極北化した英国にスミスが80年代英国インディロックをひとり背負い立った、というイメージだね。まあ、サウンド的にはジョイ・ディヴィジョンを改名したニュー・オーダーがいたけど」

S「ブレイディさんは「はじめに」でこう書いてる。「モリッシーのアーティストとしてのキャリアを振り返ることは、80年代からの英国の文化や政治を振り返ることでもあり、この国(英国)でいま起きていることを理解するという難しい命題に着手する上でも役に立ちそうである」と。いまのブレイディさんの仕事であり、考えている要素にミュージシャンで作詞家としてモリッシーがそういう位置を占めているというのは、ファンとしてはすごいうれしいというか」

K「シンプルにそう思います。ファーストアルバムでマンチェスターを象徴する、あるいはモリッシーにとってスミスのデビューを象徴する内容として「ムーアズ殺人事件」の記述を占めていたり、「スティル・イル」が実は労働党政権が初めて政権を握った「1945年」の精神。その夢にはもう戻れないんだ、という意味合いの歌だという見立てとか。ハッとしました。そしてセカンドアルバムからモリッシーの視線が自分自身から社会に向って、「鬱日記」から「イングランド日記」に変わる、とか。そこ同感、同感。また同感という感じ」

S「「プリーズ、プリーズ、プリーズ」を大学生が学費値上げ反対の闘争の中で歌うのを目撃してハッとするような美しい場面だったとか。モリッシーお得意の負け組の歌が、敗北主義でも次の何かに繋がるかもしれない、って。それくらいモリッシーの「負け唄」の歌詞の力は強い」

K「本当にそう思う。歌詞の見事さは音楽を作る人の転調の見事さにうならされるのと似て、このロック界詩人の「そうきたか」という唸るような言葉のテクニカルなスキル。直感でやってるんだろうけど、その才能は本当にすごい。テクニックもあるだろうけど、強烈に感情が含まれていることがわかるんだよね。英語が分からなくても、邦訳で読むだけでも」

S「モリッシーの作る唄の世界について非常に的確な指摘をブレイディさんはされています。「モリッシーの場合(中略)奇妙な二面性がある。ひたすらポエテイックで人を泣かせる叙情的な書き手と、乾いた目線で社会を切り取るドライな書き手、というふたりの人間がモリッシーの中に難なく同居しているようだ」と。で、セカンドアルバムの『ミート・イズ・マーダー』は後者の彼が幅を利かせているアルバムだ」と。

K「80年代はモリッシー出自の英国労働者階級にとって、保守党のサッチャー首相が国内を牛耳るという暗黒時代ですよね。徹底的に労働者階級がいじめられた時代に中性的に見えるモリッシーの「そこまでいうか」という唄の力でそれこそフーリガンや、ハード・パンクスみたいな人たちの心もガッシとつかんだという。日本に住む僕は本当に最悪なギークの時代にハマってたわけだけど、イギリスの聴かれ方はもっと大きな幅があるわけで」

S「そういう意味では「英国ドメステックなものだ」という直感は当たらずとも遠からずかもね。だけどサードアルバムに至って、ザ・スミスというバンドのワールドワイドな実力が示されたね」

K「そうそう。だから、モリッシーがガンガン勢いを増すに従って、ジョニー・マーの才能もグングン上昇するばかりという。もう、このあたりからはアルバムに入ってないシングル曲も含めて追随許すものなし、ですね」

S「最後のアルバムもメンバー間に不穏な空気はなくて、メンバー全員スミスのベストアルバムはラストアルバムだという話だけど。この辺、なんでモリッシーとジョニー・マーの関係が急に悪化してマーがバンドを抜ける経緯になったのか。ジョニー・マーの自伝を読んでも、とにかくマネージャーがいなくて音楽に集中したいのに自分がマネージャー兼業しなければならなくて、疲弊して。でもラストアルバムの頃にマネージャーがついてその問題は解決したはずなのに。新しいマネージャーを巡って自分だけが孤立したと。そして先にメディアが自分がバンドを脱退と書き立ててそのまんまメンバーとの折り合いがつかなくて抜けた、と記述されてるけど・・・」

K「人間関係を巡る不思議。やはりそこのケアマネージメントが出来る体制がなかったのかな?いかにもインディレーベルのバンドらしい最後というか。で、モリッシーはずっとスミスを真剣に再結成したく思っていたわけで。モリッシーのほうがずっと傷が深かったはずだけど、意外にもソロのモリッシーはきちんとアルバムをルーティンで出していたというか、精力的だったというか」

S「そう。まあ立場の違いもあるだろうけど、ジョニー・マーもさまざまな素晴らしいミュージシャンと活動を重ねていたけど、88年以後のソロの活動はモリッシーのほうが結果として遙かに精力的だったと言える」

K「90年代にはおおむね2年ごとにアルバムを出してるしね。(ソロのコンビレーションもやたらに多い人だけど(笑))。僕はソロは最初の二枚はリアルタイムで購入しました。で、ちょっと離れてソロ中期の「ヴォックスオール・アンド・アイ」も買った。これは今でも名盤だと思う。なので、ソロは語りにくいんだけど。今回コンビものとかで何曲か埋めて聴いてないアルバムの全体像を想像しながら、ブレイディさんのソロのアルバム解説をひとつひとつ読みました」

S「ソロの期間のほうが30年と、圧倒的に長いわけでね。当然ソロのモリッシーについてなぜ世界でレスペクトされているのか分かってないといけない。ソロの彼を支えたプロデューサーや楽曲を手伝った人たちのエピソードも非常に興味深いですしね。ただ、意外にもいわゆる「モリッシーバンド」メンバーの楽曲提供をしている人たちのコメントがないですけどね」

K「『ヴォックスオール・アンド・アイ』とか、後に90年代終わりに出した日本編集のミニアルバム『ロスト』という粒ぞろいの曲を集めたコンビを中古で最近購入して聴いたんですけど。やはり、この人は何だろう?とてもヨーロッパ的なシアトリカルな要素が強い人なんじゃないかなと思ったんです。いわゆるロックンロールな人というよりは。やっぱデヴィッド・ボウイ的な要素とかね。モリッシーの初期のアイドル、パティ・スミスとか、クラウス・ノミとか。そういう演出的な、演劇的な要素に惹かれているところがあるんじゃないのかな。」

S「同時に、マチズモ的なサッカー・フーリガンとかに対する愛着とか。愛国主義者的なとらえ方をされたりとかがあって。モリッシーへの誤解の要素になっている。
優秀な才能は大概矛盾した要素を包括して表現できる人たちなんだけど、まさにブレイディさんが書いているように、ふつうは両方を股にかけることはできない両極端にモリッシーは脚を置いて立つ、と。そこが文学畑の人から、英語圏では労働者階級の人たちまで無視できない人としての強さなんでしょうね」

K「毀誉褒貶にさらされながら、世間の逆風も恐れずに言葉を発する力を持つ人。確かにこんな人は今のポピュラーミュージック界の中では稀少中の稀少ですよね」

架空対談・私の2017年の10冊(1)ジョン・ライドン新自伝


S「というわけで、架空だけど、2017年のこの10冊の本ということで話し合いたいんだけど。まず昨年の本の印象、全体ではどう?」

K「実は全体を見渡すとインタビューさせていただいた著者とその過程やその後に話の流れで影響を受けて読んだ本が印象に残った10冊になりましたね。大枠では「アナキズム」ということが基本ラインになったと思う。で、著者の方と接点があるブレイディみかこさんの本、特に『子どもたちの階級闘争』が図抜けていた。何度も涙腺が緩みました」

S「ブレイディさん昨年は本当に生産的で。ミュージシャンの本も一冊17年の10冊に含めてるけれど。岩波の「図書」でもアナキストの女性たちについて書いてるよね」

K「それがまた素晴らしい。本当に本格的な作家としての力量をお持ちになってるなと思う」



S「で、まず一冊目ですが。『ジョン・ライドン新自伝―怒りはエネジー』ですけど」


K「あとで調べたら一昨年の本でした(笑)。ということは、この年末年始に読み返したので、もうすでに三回くらい読んでるかもしれない。いろいろあったので、てっきり2017年に出た本だと思ってた」

S「ええ?この本、学術書並みのページ数でしょう?590ページくらいはあるよ。しかも2段組だから、すさまじい活字量だ」

K「凄いよね(苦笑)。でもファンだからだとも言えるけど、すごい読みやすい。ライドンの語り口の持って行き方って、もったいぶったところが無くて、スピード感がある。それこそ彼のパブリックイメージ通りの翻訳をした翻訳者の力量が大きかったと思う。この本の前に最初の自伝があるけど、乱暴なことを言えばそちらはいらない。生い立ちからの語りだしからいえば、この本で詳細だし、これ一冊あれば十分」

S「ジョン・ライドンと言えばセックス・ピストルズのボーカリスト。レコードデビューから一年あまりでバンドは解散してるんだけど、その1978年以後から2013年くらいまでの記述が詳細に描かれている。近年ではロンドンオリンピックでセックス・ピストルズの曲が使われたこととか、ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」の出演の打診と、その企画がボツった話題あたりまで。けっこう直近のことまで書いてあるよね」

S「個人的にはやはり、セックス・ピストルズの解散後、パンクス仲間と結成したPILというバンドの内実が興味深くてね。そこは最初の伝記でも記述されていない部分だったから。セックス・ピストルズはやはり「アナーキー・イン・ザ・UK」「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」という2曲で英国社会のみならず、世界中で大きなちゃぶ台返しをやった怒号の革命的ボーカリストとして。そしてPILはその外側に向っていた攻撃性をまっすぐに自分と聞き手自身に反転したというか。内向した攻撃性に向うロックの前衛と革新を示したアルバムを70年代の終わりから80年代の初めに三枚出した。そのメンバー(ギタリスト、ベーシスト)の異能も含めてすごく関心があったんだけど。やはり内側にむかう緊張感あるサウンドの要の人物たちのキャラはあまりに個性的すぎてジョンにも手に余ってしまった、というか(苦笑)」

K「ねえ?ジョン・ライドンが一番やっかいな人なのかと思ったら、ギタリストがとてもムズカシイ人だったらしくて。彼の言葉を借りれば「生のままの酢みてえな野郎なんだよ」という(苦笑)。この表現でわかるね」

S「ボーカリストとしての初期PILではソーシャルなメッセージ以上に、「怒哀の感情」を自在多彩に表現できる才能の人のイメージがあって。僕にはそこにカリスマというか、もっといえば「シャーマン」のような存在感覚を抱いていたんですよ。だから70年代の終わりから80年代の初めまではものすごくミステリアスな雰囲気があった。情報も無い時代だったから。端正な顔立ちで痩せこけたルックスも含めてすごくシャーマニックで神秘的だった。でも、すっかり中年太りして90年代真ん中にセックス・ピストルズを再結成したり、セレブが無人島に取り残されるリアリティ番組に出たり、バターのCMに出たり。ミステリーどころかすっかりコメディアンの風情で再登場して。今じゃすっかり自然体で、やたらに饒舌で大笑いをする人なんだと(笑)ぜんぜんスキも見えるぞ、と」

K「そのあたりのイメージを覆す世間お騒がせの経過の記述もあるんだけど。ファンが持つイメージを裏切ることも理解した上で、ときには気乗りしなくても自分自身と問い合いながら、「行っちまえ!」となるとやっちゃうという。その描写も説得力があるよね。」

S「記述の中で、確か一番自分に厳しい批評家は自分自身だ、みたいなことが書いてありますよね?それはひとつには少年時初期の髄膜炎で6,7ヶ月の昏睡状態があったことが体験として大きいんだと思う。すごく聡明な子どもだったんだけど、8歳のときに病気のせいで両親も自分の家の記憶も全部失ったと。で、記憶をひとつひとつ辿り直すために自分にそれを呼び戻すものすごい自己鍛錬を強いたと。また、とにかく本を読むことを救いにしたと。病気の影響で幻覚も見たし、その後は脳と心の対決みたいなことを自分に強いた。それが強烈に現実世界の理解と分析にこだわる彼の資質を作ったのではないか。ジャーナリズム相手の強烈な切り返しとかは自分自身との対決を経てるから、他者との対峙のほうはそんなに難しくはなかったんだろうね」

S「あと思ったのは、彼の育った環境。ロンドンのアイルランド人コミュニティに住んで相当貧困地域みたいだけど、コミュニティが残っていた。兄弟も多くて長男の彼は今に至るまで兄弟、友人との関係はずっと続いていて、今でもその関係が残っている。そのあたりは体当たりで生きてきた彼を守る防波堤になってるんじゃないかな。妻のノーラさんの助けも大きい」

K「そうそう。そうね。で、自分の両親をすごく大事にしてるんだけど、同時に凄い田舎者扱いにしてるんだよね(苦笑)。訛りがひどい、とか。そして単なるコミュニティ礼賛でもなくて、不作法なコミュニティの人間には不快感も隠さない。そういうコミュニティの二重性にもけっこう正直で。義理の娘になったパンク仲間のアリ・アップの子どもを巡って相当な対立をしてたりとか。そのあたりは理性に対する信頼を非常に持つ人なんだなと」

S「パンクはニュー・ウェイヴで、オールドなロックミュージシャンは嫌っているというイメージがあったんだけど、実はそうでもないことも赤裸々に。やはり年齢を重ねてサバイバルしてきた人だけあって、すごく判断基準がオープンなんだと分かった。全然狭量な人じゃなかったんだな、という。むしろ自分のエピゴーネンみたいな存在たちにあきれてた」

K「本当にひとりのきわめて個性的な人間の叙述として読んでいて面白い。テンポが快適だからメチャクチャ長い本で確かに読み通すのは時間がかかるけれども、飽きるところはなかったな。もちろん動向に関心がある人にとって、ということにはなるけれど(笑)」

S「パンクのオリジネーターの成長の記録としては必読ですね。3300円×税はけして高くないと思います。」

K「で、彼がアナキストかどうかというのは最後のほうに載っています(笑)。簡単に、ですけどね。僕は“明るいニヒリスト”という感じを抱きましたけどね」

S「そうとうタフな地域に育ったハードコアな人ではありますけどね、やっぱり」

K「そうそう、そういう地域性のこととか、サッカーフーリガン的なフットボールと土地柄。みたいな英国労働者階級の固有性に関することも知ることが出来る本です」