2019年1月14日月曜日

昨年の10冊ー国権と民権

続けて今回は少し生臭い世界、保守政治の平仄に関する本でございます。

『国権と民権』(集英社新書)佐高信×早野透

朝日新聞政治部記者だった早野透と評論家の佐高信による自民党政治家の味わいある人たちを論じた本。今回の「#昨年の10冊」の中では一番読みやすいが、いわゆる「放談」とは違い自民党一党支配の中でも、まだ政治家の思想や体質の中に幅や深みがあった時代があったんだなということが分かる、日本の戦後民主主義の建前と本音のコントラストの中で自民党の代表的だった政治家たちの資質がわかる本。柔らかい対話の中でも質が高い。
 いわゆるYKK(加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎)時代の中でも特に加藤紘一、そして山崎拓。加えて、今もテレビにコメンターとして出てる田中秀征。剛腕といわれた小沢一郎に各章を割きながら、その背景に土井たか子や辻元清美、保坂展人などの市民派政治家、野中広務などネゴシエーターでありつつ人間臭い政治家のエピソードを絡ませ、上記政権政治家たちの理念と人間性を浮き出す。いまや語るべき政治家がいない安倍一強時代を批判的に検証するためか、歴史的に少し前の政治家たち、本の論者に近い世代。つまり団塊世代の政治家たちを中心に見ているので、彼らの動向や人柄などを見つつ、彼らが政治思想的にどう位置付けられるのか分析されていて、それを振り返ることで平成政治史としても読めると思う。

 国権と民権というタイトルを解説すれば、自民党の左派政治家宇都宮徳馬曰く、もともと自民党には自由民権運動の流れをくむリベラルな系譜と、民権運動を反国家的なものとみなし、戦争中は軍人政治を推進した系譜の二つがあったということらしく、前者が民権派、後者が国権派である。

 民権を支持する対話者二人は故人となった加藤紘一についての語りに多くを費やす。思い起こせば2000年の森喜朗政権の内閣不信任案に賛成票を投ずる表明をした「加藤の乱』失敗で加藤紘一の政治生命は絶たれた。政界のプリンスと呼ばれた加藤がもし順調に総理大臣になっていたら……。いまの国権主義安倍時代を無念に考える時、対話者は(そして読者のぼくも)加藤紘一の不在とその短慮が惜しまれ、アメリカ従属の政治が不変であったとしても、権力への意識が違うことで何とか国民に加えられたダメージが軽減されたかも?という想像もし得る。
 ただ、この自民党ハト派のプリンスはどこかでオーソドキシーから外れていこうとする無意識があった。そのハイライトが加藤の乱という表現であり、権力闘争なのに闘争の戦略的イニシアチブや、狡猾には振る舞えないインテリの弱さがあった。戦後民主主義の思想を深く学んでいたが、知的な理解であって、それを体現する身体性が弱かった。だが、同時にその現実面での頼りなさに反して、思想面での首尾一貫さは確固としていた(首相になった小泉純一郎の8月靖国神社参拝を批判して右翼に自宅を放火される)。

 また、民権派のもう一人の代表としては政界きっての理論家、田中秀征がいた。田中秀征の出自は政治家の血統でなく、自分の論理を政治で実践しようとする人なので、何度も落選を経つつ国会に入るが、結果、その卓越した理論が嘱望されて彗星のように細川政権のブレーンとして登場する。その後も自社さ政権で活躍する。
 加藤紘一、田中秀征。両者ともに知性派肌でそばに剛腕を振るえる世俗性現実性優位の政治家を持たなかったゆえに権力のトップ側に立てなかったが、それゆえにか、普通の人たちの情感がわからない人たちではなかった。知性だけではなく、心の中に人間の生きることへの必死さ、深い悲しみに共感する感性を持っていたと伺える加藤紘一。まごうことなき庶民の母親を持ち「政治家になるなら戦争にならないようにしてくれ」という母親の言葉をずっと覚えている田中秀征。
 田中秀征の中にはそういう庶民の「狭いけれども深い人生」を大事にする感性ゆえに国のかたちとして「質実国家」「小日本国主義」を標榜する。いわばぼくなどが青年時代頃まで聞いた「日本をアジアのスイスにしたい」という理想であろうか。加藤紘一には小日本国主義的な国家の枠組みまで同意できたかはわからないが。

 反対に国際社会の中の日本を考えた時、日本が国際社会に背を向けてはいけないと考えて国際協力を訴えていたのは政界で権勢をふるっていた頃の小沢一郎で、その頃の小沢は国権主義である。その小沢一郎の国権から民権への揺れは小沢一郎なりの論理の一貫性とは到底相容れない安倍政治への批判精神と、もともと田中角栄の弟子として、田中角栄にあった国民生活の安定が第一への遺伝子の回帰かもしれない。それは21世紀の小泉政治以後に起きた格差社会、地方切り捨てという現実への危機感から生まれた思索の転回かもしれない。今では野党党首として共産党の志位委員長と最も話しが合うという。

 民権について語る対論のラストは市民派政治家への高い期待である。社会党土井たか子という市民派リーダーのもとに集った市民派政治家たち。特に女性議員。もともと政治から排除されていた胆力のある女性政治家の中に今後の民権政治の未来を見て、現在の国権主義の対抗勢力の想像力を読者に感じさせてくれる。
 政治を忌むものたちとして、権力者の上から目線の近寄りがたさはやはり否めないし、マスコミの政治番組がそれを煽った時代が長いゆえに自民党系の政治家の話なんてと思うかもしれないけど、政治はボトムアップかトップダウンかと考える際にわかりやすく有効な本だと思うし、例えば「市民活動促進法」は国権主義者、中曽根康弘の代理人によって「特定非営利活動組織法」に変えられたが、市民活動促進という名称での法律であればそう簡単にいまの時代に閉じ込められたか、という想像力を働かせることもできると思う。そんなことにも考えに及ぶことができる対論本です。


昨年の10冊ー資本の専制、奴隷の隷属


資本の専制、奴隷の隷属』(航思社) 廣瀬純・編

 昨年は(今も)トランプ米大統領に振り回された1年と言えるだろうが、ヨーロッパ共同体、EUも危機にあったと言える。EUはナショナル(単一国家)をトランス・ナショナル(脱国家、超国家)なヨーロッパのものにしていこうという地政的な実験だと思うが、経済条件の「国家的な」違いとその行動により、EUとはヨーロッパのどこの、誰のものであったのか?という疑念が噴き出しつつあるのではないかと。そのように考えさせられる。

 その兆候はリーマンショック後の欧州の経済危機に現れた。もともとヨーロッパは東西問題、東のヨーロッパはヨーロッパの枠組みに入るかという問いがあったが、ここにきてヨーロッパ「南北問題」の形で噴出した。その問題の現出はまずギリシャの経済危機(グレグジット問題)だった。ギリシャでEUの反緊縮政策反対の左派政党シリザが勝利し、首相になったツィプラスがEUと債務問題で交渉を始めたとき、ギリシャへの一番の債権国であるドイツが支援に対してはそれに対してギリシャに大幅な緊縮策を提起。その緊縮策は実行するとそのプログラムでギリシャは経済がさらに悪化、回復困難の様相を極める大変厳しいものだった。そこでツィプラス首相はEUドイツの緊縮策の諾否を問う国民投票を行う。その結果ギリシャ国民はドイツ提案の緊縮策に「NO」だった。このかん、ドイツの対応にはトマ・ピケティなどがメルケル首相に書簡を出して強制緊縮策を批判、旧西ドイツが1950年代に第二次大戦の戦後賠償免除を受けた経緯があったことも持ちだし、EU危機に晒すギリシャへの仕打ちを是正するよう求めるほどだった。
 また元々EUは欧州中央銀行にEU全体の財政政策を打ち出す権能はなく、同時に金融政策は中央銀行によって決められ、各国に独自の金融政策打ち出すことができないルールになっている。その経済政策のため、EU経済強国が相対的に弱い経済国の交渉に個別の存在感を示し、EUはギリシャの提案に対しては端的に「ヨーロッパ不在」でしかなかった。

 前段が長くなってしまったが、この本は8人の南欧(イタリア、ギリシャ、スペイン)の有識者による2015年、ギリシャ危機に関するインタビューと、それに加えて数人の論者による論文からなる。インタビューは同年夏に集中的に行われている。そのひとつひとつが大変な高密度のものだ。
 例えばEUグループの動向から、ギリシャの左派政権誕生に勢いづいて誕生したスペインの市民左派政党「ポデモス」誕生の経緯などが詳細に語られている。南欧左派知識人のEU観、ポピュリズム型左派政党の人気と退潮、南欧から見たドイツフランスなどEU中核への批判など。いわば周縁から見たドイツ等のEU中心部への批判の本であり、論点は非常に多岐にわたり勉強になることが(良い意味でげっぷが出そうなほど)多い。中心でないがゆえの現今ヨーロッパ政治の危険な予兆も含む本質的な議論ばかりである。

 読んで思うのは、21世紀前半現在、国家というものを越えることは可能か、ということ。新自由主義のグローバリズムが及ぼす行く末のかたちの現在の攪乱、イギリスの離脱などヨーロッパ統合に対する遠心力がある。ギリシャへのいわば懲罰行為として、あるいは収奪として、ドイツがギリシャの国営企業を多数買収するなど、国家主権に関わるような事態もあっただけに、EUの南北問題はカトリシズムとプロテスタンティズムの意識の違いにさえ識者は想起している。フランコ・ベラルディ(ビフォ)に言わせれば、南欧中心のカトリシズムは共同体的でその構造が人々を罪悪感から解放するのに対して、ドイツ中心のプロテスタンティズムは「個人の責任」を倫理として立てると。また負債はドイツ語で「罪悪感」の意味。そこには同じキリスト教圏でさえ倫理観の違いで時に「ヨーロッパ」というキリスト圏資本主義連合の枠内でさえ文化的な行動の違いが露見するといえそうだ。

 元々はリーマンショック後のEU危機への対応で、多くは不動産投資の失敗である。そしてギリシャはその国民の多くが公務員で労働時間が短く怠惰だったためだ、というのは端的に間違いなのであった。
 OECD諸国で公的セクターで働くのはノルエーがトップで29.3%、公的セクターの上位の多くは北欧諸国が占める。OECD全体では15%でギリシャは7.9%に過ぎない(日本は6.7%)。またギリシャの1週間の平均労働時間は40.1時間で、イタリアの34.6時間よりはるかに長い。つまりこのデータからしても、それらがプロパガンダだったろうということがわかる。ギリシャが重債務国になったのは端的に大企業がなく、観光、海運業、農業が主産業で輸出産業が少なく、そこにフランス、ドイツらからの大量なマネーが入り込んで重債務国になった。それが実態のようだ。

 さて、この本における南欧左派のEU不信や危機感においてよりいっそう大事なことには、右翼勢力台頭への懸念である。ヨーロッパ各国の人々にEUの政策が一部の国に有利に働くこと、またヨーロッパにおいては長く移民労働力に依存しているため、高失業率が続いていること、アフリカ圏、イスラム圏から難民が相次いでいることなどで再びナショナリズムが台頭する危機の見通しも語られる。
そして現実にイタリアは右派政権が奪取して、難民受け入れ拒否を掲げた。反応してフランス、ドイツ、スペイン、ハンガリーなどにもナショナリスト・ポピュリズム政党が伸張しつつある。それが2018年段階のヨーロッパの様相だ。
 南欧ヨーロッパ左派の人々にとってはEUの実態に嫌悪はあるにしてもEUの経済財政システムやその他さまざまなEU内政策の方策是正の方向で考えるだろうが、右派ナショナリズムの台頭は移民の力で担われた社会を移民排除という内なる敵(だが労働力として必要とする以上、排斥はしない)を仮想しながら一国国家勢力伸長を考えるであろうと思える。

 大変長い感想になってしまったが、ヨーロッパEU圏は遠いし、その中でも「弱者側」に措定された南欧側論者の2015年報告なので、その前段階の流れも紹介せざるを得ず、ロングなものになってしまった。もうひとつの見逃さざる観点としてスペインのポデモスというポピュリズム左翼政党もその前段階に15M運動というものがあり、市民同士の扶助運動という足場があったから成立し得たというもの。そこには可能性がある。
 イギリス、アメリカから始まったと言える新自由主義経済の行きつくところ、EUというトランス・ナショナルな動きも金融自由経済のかたちでそこに飲み込まれた。この本ではその金融経済の限界というものがEUという枠組みの中から露呈したとも読み込める。改めて国家の機能とは何だろうか?国家を超えるグローバリズムとは?そしてグローバリズムに対抗するのは再びの国家主義ナショナリズムなのか。あるいはヨーロッパ共同体としてのグローバリズム経済の乗り越えなのか。当面一番最後のチョイスは本書では多くの論者にとって悲観的な観測であった。
 世界はいま、「移動」ということである種の習慣やルーティンが撹乱されつつあるのかもしれない。その対応における人々の動きや意識のありようも撹乱されつつあるかもしれない。しかし実際にカネの動きほどにはEU枠内での労働移動は多くはないという。やはりそこには言語の壁が大きいようだ。
 繰り返しだが、資本、国家、文化などはどこにルールの基盤がおけるのか?ということ。これは今後日本にも大きな難題として浮かんでくるのは遠くないと思う。