2010年2月28日日曜日

今月最後の(苦笑)

2月28日。今月最後の(苦笑)基金訓練施設の選抜試験に行ってきました。そこはナント、3度目の受験です。(^_^;)。今回はエントリーシートに記入した志望動機も筆記もそんなに出来は悪くないと思ったのですが。何せ、この学校に来るのは三度目、他を含めるともうフタケタ近くになるかも。そんなにまでは行かないか!


今回は応募が締切り一日前ということで、席次も後ろなのは仕方ない。募集定員よりも2.6倍というところ。これもある程度想像域。

問題?は面接で起きました。席次が自分よりも後番の人が先に呼ばれる状況が続き、結局ラストから2番目のグループ。筆記試験から一時間弱。それもまあ致し方ないかと我慢でしたが、やはり自分よりも後番の人が次々先に呼ばれると疲れるというのは否めず。緊張を保つのもむずかしくなってきますしね。

おまけに面接の方は先月と同じ面接官でした。泣き笑いです。「たびたびありがとうございます」「とんでもないことです」というところで始まったやりとり。「改めてなんですが、志望の動機を」。前回志望動機で落ちているので、今回はまた別の切り口で想定問答を作ったし、その話で行くしかない。「なるほど。その後就職活動は如何ですか?」年金相談員の仕事が落ちたこと、その後ハローワークで検索しながら探しているけれども見付からないこと。「なるほど、わかりました。結構です」。

今回も賞味3分くらいだろうか。外に出て思い返せばあの雰囲気は明らかに「気がない感じ」。仕方ないね。また基金訓練とハローワークで探すしかない。それといま、もう一つ考えていることがある。そこらへんで来週あたりしばらく動くかも。そのための調べ物を今週はある程度しておきたい。そんなおじさんの2月末日でした。早く落ち着き先を決めたいねぇ。。。

帰宅したら、チリの地震の津波が大きな騒ぎ。津波警報の今後も気になるけれど、現実のチリの情勢はどうなのだろうか。ハイチのときもそうですが、どうも最近の日本のメディア報道は内向きな感じがします。

そのようなこと、前に「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」の日本代表の方が言っていました。日本は先進国でも海外報道が極めて少ないと。

ところで、本日とても興味深い新書を購入しました。岩波新書『ルポ 雇用劣化不況』。著者は武信三恵子さん。前、湯浅誠さんと一緒にケーブルテレビのジャーナル番組に出ていました。ですから湯浅さんの『反貧困』をベースに、こちらを副読本として読むと現在の非正規雇用の不安定さが明確に分かります。いまこの種の本をまたきちんと読み始めているところです。派遣労働の働き方は経験者としてうなづけるところばかり。ですから、ルポとして実に正確です。



もうひとつ、「ところで」なのですが、本日夜9時からNHK総合でNHKスペシャル「権力の懐に飛び込んだ男・100日の記録」と題して、内閣府参与をこの度辞した湯浅誠さんのドキュメンタリーがあります。関心のある方はぜひお見逃しなく。

2010年2月26日金曜日

やはり今日は。。。



 日本中、女子フィギュアのフリースタイルに釘づけになったのではないでしょうか。
 日本人で最初に滑った鈴木選手の伸びやかで完成度の高い演技を見たあと、見るこちら側もこれから滑る選手もプレッシャーからだいぶ逃れたんじゃないか、と思いました。

 安藤美姫さんも表情がやや硬いところはあるけれど、ミス一つ無い演技で完璧、メダルの期待は高まるばかり。それにしてもキム・ヨナ選手の滑りは異次元なみ!惚れ惚れしてしまいました。ショートスタイルのときからおじさんは惚れっぱなしです。たはは(^_^;)。

 浅田真央さん、お見事でしたよ!後半のジャンプ失敗をひどく悔やんでいるようでしたけど、前半のトリプルアクセルの完成度、マジカルなその回転ジャンプはこれも真央さんの誰も到達できない点でしょう。

 年齢も同じで生まれ月も同じ、という二人。素晴らしい、息詰まるような高次元のたたかいでした。
 片やいうなれば氷上の妖艶な蝶のごとし。片や氷上の少女のような妖精。

 多くの少女たちを夢見させたでしょうね。氷のリンクの上でひとり舞うのですから。スポットライトが当たる独り舞台、スターとなる時間ですから。

 でも、その「夢」を果たし、夢見させるために摂食障害になったりとか、選手は選手でその裏舞台やモチベーションの持ち方等々、大変なプレッシャーと闘いながらの演舞。

 それらを考えるとこの冬季オリンピックでも最大のハイライトの一つ、そして人々みなが魅入られ食い入るように見るのは分かる気がします。(おじさんはにわかの人なのですが、なんか、わかりましたよ)。

 考えてみれば上位5人のうち東洋系、しかも東アジア系の人たちが独占した女子フィギュアだったですね。盤上は「女王」よりも「妖精」の時代のようです。昔はロシアとか東欧の人が強かったのですけどね。いやいや、とにかく素晴らしかった。感動をありがとう。



「新しい公共」円卓会議・資料あれこれ

新しい公共円卓会議の進め方資料(PDF)

寺脇委員提出資料(『カタリバ』の実践)・PDF

第1回「新しい公共」円卓会議-平成22年1月27日 - 政府インターネットテレビ(1時間29分)

2010年2月25日木曜日

山中貞雄さんという映画監督


今年は山中貞雄さんという映画監督が亡くなって100周年ということです。
記念してNHKのBSで深夜、現存している3本の映画がオンエアされています。

私はこの方をまったく存じ上げませんでしたが、初日に放送した「丹下左膳・余話」は確かに面白かった。戦前、昭和10年代の作品だけに時折音声がBGMの音と釣り合いがとれず聞き取れなくなるところがありますが、どこか現代的なテイストがありました。丹下左膳が妙に軽い。大河内伝次郎さんが演じていますが、この方には妙な訛りがあるような気がするのですが。。。

山中監督は何と召集令状が送られ、中国戦地で20代の若さで亡くなっています。何ともいえない日本国による余りの安易な人材放棄がなされたわけです。いかに文化の価値を当時の日本の為政者が分かっていなかったかを証明するような話です。あるいは文化の価値に変な価値序列をつけていたのかもしれません。映画文化の逸材を守るという発想がなかった時代だったということなのでしょうね。一言、愚かだと思います。

戦前と云っても70数年前の話です。同時に極めて現代的センスがあるといっても山中監督は時代劇しか撮っていません。当時の京都、太秦は時代劇中心の映画ロケ地であったにしても、おそらく若き山中監督の中には時代劇に自分がしっくりとくる表現があった、ということでしょう。その片鱗を伺えるのが本日深夜放映予定の遺作「人情紙風船」かもしれません。

おじさんが最近感じていることは、おじさんが若い頃に生理や直感で「自分とは関係ないもの」としてきた価値をあえて見直してみる必要、ということです。

同様に、日々何かを書いては書いた自分の価値や評価の対象に対する意味を改めて検証しなおす必要のことです。

不思議なものです。いろいろなことを書けば書くほどその反対概念が想起してきます。
価値観の相反するものが浮かぶ。すると反証したものの価値を再検討してみたい。そんな欲がほんの少し浮かびます。

ちょっとわかりにくいかもしれません。
自分の中では何となくそういう分かりにくさが意味あることに思えるのですが。古いものの見直しも同様なおじさんなりの「新しい生理」なのかもしれません。。。

それゆえに人は若ものから「おじさん」になっていくのかもしれません。。。

PS.ビートたけしは山中監督の映画を観たことがあるでしょうか?おじさんは北野監督の「菊次郎の夏」という映画のイメージにこの「丹下左膳・余話 百萬両の壷」のイメージが重なるのですが。勿論同時に「寅さん」もなのですが。

不登校とひきこもりに関するデスカッション

前も書いたとおり一昨日、オルタナティヴスクールが主催するディスカッションを聞いてきました。
なかなか考えさせられるところの多い議論でした。
フリースクールの理事長さんがひきこもり支援をしている社会福祉学の先生と話し合う内容でしたが、流れとしてはフリースクールの理事長さんより4点ほど質問を投げかけ、それに対して引きこもり支援を行っている先生がそれに応じて答える形式で、1時間少し話し合った後に、会場から質問を受けてそれに答える形。質問者がわも質の高い質問が多く、時間を多く作って質問者との内容がより納得やすりあわせが出来れば良かった。その意味ではこの二部形式の会合。この一部は見ていないのですが、二部の部分のみを膨らませても良かったかな、という気がおじさんはしました。やはりデリケートな問題ですから、関心を寄せているひとりひとりのこの「現象」に対する認知のありかたに微妙な違いがあるでしょう。定義の理解のありかた、という風にでもとりあえず云っておきましょうか。乱暴ですが。それをきちんと為すためには「意味や受け取りのすり合わせ」が十分必要な気がするのですね。

とはいえ、おじさんが時々ふらりと参加する社会的なシンポでも質問と登壇者の間で受け止め方がずれたりすることが結構ありますから、限られた時間の中では限界があるのも確かです。

私自身も当事者の一人として思うところも多々あった会合です。最近では日々の出会いの中、例えばこのような会合の一つ一つもそこから自分にとって吟味しがいのあるものを求めている自分がいますし、また吟味できるものがある、というのがおじさんがとみに感じるこのごろです。

2010年2月23日火曜日

やっと春めいてきたかな?

 おだやかな1日となりました。春が近づいてきた、そんな気になる1日です。今日からまた中学の数学と漢字の問題に取り組み始めています。今度の日曜日にまた(何度目かな?)基金訓練校の選抜試験を受けるためです。「宝くじ」のような訓練校は1日遅れの通知。学校自体が準備遅れの感あり。受かってもあの学校では不安だったはず。

 夕方には「青年期の育ちを考える」というシンポジウムに行く予定です。2部構成で関心がある第2部から見ようと思っています。

 ところで作家で元精神科医だったなだいなださんがうつ病についてのブログを始められたようです。近年、同世代(もう七十代後半でしょうね)の友人たちがうつに罹っている率が高いというのをご自分のブログで書いていたので、それを憂慮して始められたことかもしれません。

 元々なださんは「くるいきちがい考」等々の本にあるように、ノイローゼやアルコール依存症なども社会心理、社会環境との相関関係で考えている人でした。いわばこころの病気に罹る人は特別ではなく、その時代時代の社会の人々が持つ自分の中で排除したいもの、怖れるものの反映、鏡のようなものとして捕らえる感覚があったのだと僕は思います。あるいは、ノイローゼにかかる人の倫理観が時代の変化に適応せず、そのために表現がノイローゼとしてのかたちをとるように。

 うつ病のノイローゼ化?というような疑問から始めておられるようです。ぼくの捕らえ方としては(本当のうつ病のかたには大変申し訳ない書き方ですが)「ライトな感覚のうつ病」という感じでしょうか。実際、現実社会の労働強度があがり、ハードな仕事に耐えられずストレスフルとなって燃え尽きた人にとって、会社がリストラせず、長期休暇をとれる手段はこころ医者にとっては現状「うつ病」という判断でしょう。

 けして社会がうつ病を厳密に理解しているわけではないと思います。また、それはそれでいい、と僕は思っています。それで最悪なところにまで追い込まれる前に休む手立てや手段は手に入るのですから。最悪な事態は回避されるはず。(いまの時代は休める社会が本当に必要だと思いますね)。

 社会はその時々で流行となるこころの病の言葉が氾濫します。それは社会が心疲れた人たちを厳密には理解出来ていないあかしであるでしょうし、同時になだ氏の著書をいくつか読めば、社会のほうが健全なのかどうか?という素朴な疑問に行き当たるはずです。

 そこらへんのことが了解できる人にとっては、なださんが今後新しいブログで書かれることを注視されるのも良いかと思います。

 

2010年2月22日月曜日

相談員から学ぶ(2)

 そこで僕はあえて聞いてみた。
 「では○○さんはそのような状況を想定しながら今の仕事をされてるんですか?」と。意外なほどよどみなく彼は「この仕事だっていつリストラされるかわかりません。それは当然考えられることですから」。その顔色、受け答えの態度を見てこの人は本気だなと思った。

 実は僕がカウンセラーの先生から究極的に聞かされる話は、そして究極的に自分が逃げる話はこのような話なのだ。現実に別の場で、かつ自分に係わりのある場所で同じような考えの人に出会って良かったと思うし、同時に現実の中で現実に対してこうシリアスに向き合っている人はいまかなり多くなりつつあるんだろうなということも感じた。

 「結局。。。自分の足で立って、なおかつ偏りのないバランス感覚も失わないということですかね?」今の自分には相当な難題だなと思いつつ聞いたら、深く頷いておられた。「しかし・・・。素朴に、いまの日本人の一般人的なレベルでそういう人というのはまれな感じがどうしてもしますね。」というと笑っておられた。「やはり早い段階からの教育が必要でしょうね」「確かに。ぼくは化石のような日本人でもう遅いけど、いまの若い人はそういう可能性があるわけですよね」「ただ、若い人を教育するのは大人ですし、大人が見本とならなければいけないんですよね」
 
 ぎゃふんだ。確かに。そんな話をしながら僕はかなり僕自身をゆさぶられている感じがしていた。でもそのようにゆさぶってくれる人がいるのは有難くて、同時にキツイことだ。
 帰り道、冷たい風にあてられながら「自分の足で立ちながら他の人と強調していく」という考えを反芻していた。とても難しい。自分にとっては人格改造的な話だから。
 だから、自分のキャラクターと自分の器(ひとによりその大きさは違うはず)に照らして「そのような感じ」に結果的に近づいていくよう何とかしていくしかあるまい。不自然にならないように。

 彼も僕には耳がいたい話であっても同等な存在としてとらえて自分の考えを述べてくれるのだろう。音楽趣味が洋楽で僕が愛聴しているCDを探したり、前紹介した(自分は忘れていたが)宮本太郎氏の『生活保障』を読み始めているとの事で、なんか相談ブースで余談で話したことに注意して受け止めてくれているのがありがたく思えた。

相談員から学ぶ(1)

※本日のブログは今日ハローワークから帰宅後に書いた日記をそのまま転記したものです。長文で読みにくいです。お好みの方のみお読みください。

 8時半過ぎにハローワークの職業訓練相談課。いつもお世話になっている職員さんと面談。私が何となく感じていた基金訓練は現に生活に困っている「第2のセーフティネット」(生活支援資金貸し付けなど)に該当している人が主な対象なのではないか?という思いはまさにその通り、とのこと。
 実は国が進めているこの第二のセーフティネット。まさに生活保護に転落させないための制度らしい。文字通り湯浅誠さんが派遣村騒動の中で構想した制度の具現化というわけだ。3月以降の訓練校のチラシをもらったが、それは何と11校にも及ぶ。そしてそのほぼ9割がたがパソコンの基本スキル、ワード&エクセルの勉強だ。

 そこからすでにうかがい知れる。高度専門的な訓練はない。自分自身の腹くれない思いとして「云ってはなんですが、3ヶ月こちら側の生活保障でのとりあえずの勉強期間の気がします」という言葉を受けて、まさにということで答えの一つが上記の「生活保護に転落させないための(あるいは生活保護に縛られないための)システム」という話であった。もう一つ相談員の着眼の鋭さを感じたのは相談を受けていて「労働者(及び失業者)側にも感じる受身性」という話であった。すなわち、職業訓練を受講している間は何かちゃんとやっている気がする。でも終わってみれば仕事がない。そこが「待ち」の姿勢なのではないか?と。与えられるものを受身で待っているということ。(これは困っている人への批判ではない。僕はそう受け止めた。むしろ僕との長い付き合い的な話し合いの中で、結構職業観や僕のキャラクターを知った上での本音トークだと思った)
 彼は学校教育から日本は問題があるんじゃないか?とこの仕事をしながらしみじみ思うようになった、と前から云っている人であるから。

 彼は云う。勉強をやっている間は何か「やっている感」はある。だけどそれがその後の「就職をする」感と結びついているように思えない、と。僕は自分自身の経験に照らしてこう答えた。「確かにその通りだと思います。自分がそうですし。勉強はインプットだからアウトプットの場がないと気持ちが余り良くない。確かに検定とか受けて合格すれば達成感はあるけれど、学校を出ても仕事を見付からなければ、何だ?と」
 「だから、単純なことなんですよ。みんながやることをやる。やれば何とかなると思うけれど、結局みながやっていることなのですから。そこで仕事がないとか生かせない資格だと云っても選んでいるのは自分ですから。みながやっている、ということはみなが駄目になれば同じように駄目な状況になるわけですし。そしてみなが考えている仕事をしていればいい、というのはみなが駄目になれば駄目になる。極めて簡単なことなんです」

2010年2月19日金曜日

いまどうなっている?

今朝は朝からぼたん雪。
そんな中を今月職業訓練校選抜第二弾だったんですけど。
まぁ学校も小さいし、定員は最終的に5倍。面接始まる時間の10分ほど前に入室したら普通は人が集まっているものだけど、自分以外誰も来ていない状況。そこで簡単なプロフィールを記入したら隣室ですくに面接。
・・・といっても、面接なんてものではなかったのです。本当のところは。雪の中をご苦労さま、わざわざ来ていただいて有難う、程度の中に2.3本当に簡単な質問があった程度で。「今回は倍率が非常に高いので、合否に関してはこんなことを言っては何ですが、宝くじみたいなものだと思って」と。
そんな、ねぇ?もう少し自分をアピールしたいと思ってもそんな猶予もなく。
まさか本当に抽選で決めるわけじゃあるまいに。。。でもね、あの場でのあの顔見せ程度では、確かにとても私のことが理解されてるとは思えないので。もしかしたら本当にくじ引きで決める?

おそらくそんなことはないと思います。政府が考えている「第二のセーフティネット」で基本的にいろいろな状況があって、いますぐ困っている人を優先対象にするのではないかと。何となくそんな感じがしたな。それが今まで受けたところとはちょっと違った印象。それはそれで、意味のある選抜方針で、いま目前に困っている人がいるなら、そういう事情がある人を優先する方針なら納得はします。

もちろん上記の事情だというのは全く憶測に過ぎないのです。ですが、もしその憶測が当たっているとしたら、こちらはこちらなりの「すき間」に落ちているのもまた事実で。どうしたものだろう?

いまの状況ってどうなっているのでしょう。
もちろん自分の問題でもあり、私は気がかりです。

現場レベルの公務、例えばハローワーク職員、労働基準監督官(労働者側からの労働問題に関する相談を受けている筈)、社会福祉事務職員、社会保険労務士、職業担当教員あたりの現場の人たちが有志として集まり、いまの現実における雇用と労働の状況に関していわば「事例研究」レベルで学びあって、そこからまずある種の社会的コンセンサスが取れないものでしょうか?あるいは雇用と労働に関する社会調査とか。

そうか、その意味では「ワンストップ・サービス」はその人たちが一同に介する器であり、職場になるわけだね。でも、業務を越えた社会研究に発展するかといえば。。。
まぁ、期待薄でしょうか。おそらく。

個人的に私は、自分が「現実を感じられなくなるとき」が来ることを怖れてはいるんです。
帰ってきてから映画「怒りの葡萄」を観ました。今月はアカデミー月間で結構映画も観ているんですよね。1940年という時代でもあるのか、アメリカ映画にしても非常にリアリズムなものでしたね。スタインベックの原作でしたか。この映画でもうかがい知れる野生的な厳しさは、ずっと現代まで続くアメリカ的なこころの基盤の一つかもしれません。

2010年2月18日木曜日

基金訓練における社会的事業コースとは?

明日面接を行う基金訓練校に昨日の午後応募申請書を提出してきました。
午後のハローワークも求職の為の職業紹介状を発行してもらう部署よりも、職業訓練相談のほうが人の多い状態で、相談員の方は多忙そう。皮膚感覚的には「これは相当なところまで来ているな」、という感じです。もしかしたら98年の氷河期、いやそれ以上かもしれません。今回は生活支援付きの職業訓練が創立されているので、それだけ「見えやすく」なっているのかもしれませんが。機会があったら職員の方の皮膚感覚も聞いてみたいものです。(でも馴染みの人がいるといっても、そこまでは職務上教えてくれないかもしれませんが)。

昨日は行きも帰りも寒かったー!この冬は帽子が手放せないです。放射冷却ってやつですね。

ところで今回の基金訓練には4つのコースがあり、「職業横断的スキル習得コース」「基礎演習コース」「実践演習コース」「社会的事業コース」と分かれています。私が現在訓練希望しているのはいわゆる基礎OAスキルのコースで、区分は「職業横断的スキル」となります。というか、いまのところ他のコースの訓練校が出てきません。前に6ヶ月の「基礎演習コース」を受験しましたが、そちらは撃沈。PCスキルの深堀りと、宅建資格が売りでしたが、結果的には定員の約3倍くらいの人が集まりました。そうそう、明日の選抜試験も約2倍以上です。(面接のみ)。

「実践演習コース」はいわゆる工業系の職業能力開発校や科学技術専門校などで行っているのかもしれません。技術系の能力がないので具体的にはわからないのですが。(地頭が技術系であれば良かったんですけど!悲しいかな、どうあがいても文系の自分です)。
具体的にはこちらのPDFで確認してみてください。関心のある方は。

私がまだ全然出ていないと書いた「社会的事業コース」。実は一番関心がある職業訓練なのですが、具体的イメージが不明でした。調べてみたところ、「ワークショップ型」と「OJT型」に分かれており、どうやら主に若者求職者で就業経験に乏しい人に関しては就業に関する自信を身につけて社会事業系の職場に就職を目指す方向、それ以外の人は自ら社会的事業を管理・運営する人材を養成しようということのようです。

基金訓練に「社会的事業」というコースがあり、どんな人材を養成したいと思っているのかはほとんど知られていないと思うので、上記のPDFにも記載はありますが、このコースに関するPDFもリンクを貼っておきますね。(ただ、当面はこのコースの講座を行う施設が出てくるようには思えない、というのが正直な気分ですが)

基金訓練 社会的事業コース

2010年2月17日水曜日

凛洌

昨日は不覚にも明け方に身体を冷やしてしまい、喉を痛めて微熱が出てしまいました。
一昨日とはうって変わって雪もかなり積もりました。昼過ぎに着替えて本格的に寝ましたが、起きた午後4時くらいにはまた本格降り。

自助グループ「SANGOの会」はお休みをいただいて、休んでいました。

調子がもとに戻った今日も外は寒い。ハローワーク前での気温はマイナス6.9度。そんなに冷えているか。
改めて今週末にもう1校、職業訓練の選抜を受けるために職業訓練課に。ここも午前9時前で相談は満員。
午後に改めてハローワークで認証をもらって直接訓練校に応募に行く予定。

同時に近くの区民センターのパート求人を調べてコピーしてきましたが、よく見ると週3日の勤務。流石にこれでは。。。1年更新でも応募するには余りにも具合が悪い。

職業訓練も訓練コースに「社会的事業コース」という名目が登場しているのですが、もちろんまだそれに該当する訓練を行う学校はありません。鳩山政権が掲げる『新しい公共』の職種、それに結びつく訓練とは何か?おそらくまだ具体的なイメージは出て来ていない筈。

職業訓練のありようもあえてわがままをいうならば、「この程度でよいのだろうか?」という”暫定感”が否めません。ワードとエクセルの習得プラスアルファ、の訓練校しか出てこないというのは。

また、もう一つには実社会の既成商売にはすでにあらゆる局面において供給過剰感があるような気がしてなりません。
業務の事務部門バックアッパーとしての人材が求められているかといえば大いにクエスチョン。

企業が何とか「雇用調整助成金」で人員を守っているように、現状数ヶ月の失業者保護訓練に見えます。もちろん私もそれにすがっているのですけれども。しかしそれが社会の仕事の持続可能性を考えるとどう考えても、そして素朴に考えても先行きの見通しは明るくない。まさに暫定的な保護のような感じ。

製造業が大国中国にどうあがいても勝てない以上、わが国の新しい仕事のありようと、そこで雇われる人の関係を深刻に考えなければならない局面ではないかと。
また、それに付随するあらゆる保護や発展に関する社会的合意が必要な局面ではないかと。

それは大きな意味ではヒューマン・サービスに行き着かざるを得ないと思うのですが、それは今までの既成のヒューマン・サービスのありかたと違ってこざるを得ないのではないのか?ということも含めてのことです。
日本が新しいビジネスモデルを作るというのは現在のイメージでは想像がつかないことですけれども。。。
いや、求めてばかりでなく、自分自身でも考えなければいけないことですね。

2010年2月15日月曜日

SKY BLUE SKY

本日は久しぶりに空が穏やかに晴れ渡りました。
そして陽がずいぶん長くなりました。少し前までは午後4時過ぎくらいから暗くなったのですが、今は5時近くまで明るい。
札幌に住んでいるとやはり長い冬の12月から3月くらいまでは冬の自然な厳しさを肩を強張らせ我慢する、という感覚はあります。でもこの日の長さを見ていると、あたりまえのことですが四季の移り変わり、春の近づきを思います。

自然の循環、四季の移ろいは異変なく当たり前な現象で時の流れにしたがっていわば機械的に流れていくわけですが、それを受け止める僕らは「春の訪れ」を予感したりしてふと気持ちが晴れたりするわけです。これは人間の思いで、四季の変化のある局面を自分の内側に呼び止めるようなものでしょうか。

「ソフィーの世界」を読んでいるせいか、ちょっと現実離れしたことを書いてしまいました(苦笑)。
やっとそれなりに現代人もイメージがし易い、現代にも通ずる17世紀の合理主義者たち、例えばデカルトやスピノザ。そして18世紀のイギリス経験主義、ロックのあたりまで来ました。あくまでもこの本は彼らの哲学のエッセンスを抽出するところまでが限界でもありましょうが、やはり著者の手腕に感心します。

いろいろな評価があれ、現代人は21世紀に入ってついに地球全体の国家群の人たちが集まり「環境問題」で合意点を見つけようとする動きを始めました。地球ぜんたいの人類が「自然環境」に対してコンセンサスが必要だと考えるに至ったということ。これは今後の歴史の教科書に書かれるであろう「取り組みの一歩」の時代に現在来たのだ、ということなのでしょう。

例えば、ヨーロッパ世界ではスピノザの「汎神論」などは改めて見直される思想なのかもしれませんね。根強いキリスト教の「神」の世界とギリシア哲学を精神のルーツに持っている欧州の人々にとっては。
片や東アジア世界にはその根を探ると「石木山水」に神宿る、素朴な自然崇拝の思想がありそうです。また思想レベルでは仏教による煩悩寂滅の思想があります。

現代を生きる当事者のわれわれ、少なくとも私はそういう思想が過去あったから、それを自分のからだに改めてまとおう、という風に簡単に行くわけもありませんが、「環境問題コンセンサス」がぎくしゃくとした不自然なやり方の中であれ、一般論として世界の人々が「このままでは地球が持たない」という直感の合意がある以上、最初は自分にとって不自然に思えても、自分たちが過去持っていた精神基盤を改めて再び参照するというのは意味あることかもしれません。基本的には自然破壊は近代以降の問題であるのは間違いないので。。。

それを現代の社会でどう折衷するか。

「ソフィーの世界」のようなやさしい西洋哲学史に該当するような日本哲学史をどなたか書いてくれないものかな、とふと思います。

2010年2月13日土曜日

取材

今日も寒い。乾燥する時期でもあり、足とか腕の辺りとかしょっちゅう掻いてます。

昨日はハローワークに立ち寄った後、「ひきこもり」の自助グループで取材を継続されている方に個別取材を受けてきました。
ハローワークでは新しい生活支援給付つきの職業訓練が2校ほど。はや、4月開校のものです。

11時に待ち合わせして、話し込み、お別れしたときにはすでに午後2時。3時間いたわけですが、どうも自分ばかりが喋っていたとしか思えない(苦笑)。
「自分、自分」とうっとうしいおじさんであることを再確認させられました。直せないものかね、今だ存在するこの自意識過剰。

2010年2月10日水曜日

「ソフィーの世界」&ギリシャ



今日はほぼ半日以上哲学ミステリー?『ソフィーの世界』を読んでたのでございます。
再読何度目かは忘れましたが、何度読んでもスリリングで勉強になります。
いちいち発見があるのが楽しい。つまり、読んでは忘れているのを何度も繰り返していることに過ぎないわけですが(苦笑)。

ギリシャの自然哲学者や、人文哲学の三大始祖、ソクラテス・プラトン・アリストテレスのところは極めて読みがいがありました。特にプラトンの思想はとっても知的にスリリングでした。

「すべての道はローマに続く」などと云いますが、思うにやはりヨーロッパ精神の元祖はギリシャの哲学でしょうね。キリスト教とギリシャ哲学。
そのギリシャはいま財政危機で大変だとか。

結局、あのリーマンショック以後の余波は終わっていないのでしょう。今度はヨーロッパ。特に東欧が危ないんじゃないかという話がありますね。

アテナイという都市から生まれたソクラテス、プラトンといっても古代都市ですから、それほど何でもあるわけではないでしょう。
余裕がある時間の過ごし方のなかで哲学のことを考えながら過ごす。何とも贅沢な気がします(私も贅沢すぎです(^_^;))
でも、当時の古代都市アテネは労働は奴隷が行っていたわけなんですね。市民は労働は忌むべきものとして低く見ていたとか。

何かいろんな意味で考えさせられてしまいます。

2010年2月9日火曜日

なかなか思うようには。。。

いかないものです。

昨日のうちに例の職業訓練、面接での選抜結果を発想するということでしたが、本日わざわざ速達で送られてきたので、期待したのでしたが、結果は「期待に添えず」でした。がっくし。

まぁ確かに面接はなかなか「深い」ものでした。
勉強したい意図と、勉強が終わった後にどうするか、ということを具体的に知りたい様子の面接でしたが、上手くいいにくいですが、本気度や実現度を試されているような感じはありましたね。

今回、実は受講採用枠よりも、落ちる枠のほうが相当少なかったのです。
ですから、流石にちょっと面接のあり方、受け方を考えざるを得なくなってしまいましたね。

自分が受講を終わった後にやりたい仕事と、受講で習う実習科目とのつながりを説得力を持って伝えられたか?という点では昨日の面接の時点ではやや足りなかったか、という自省はありました。

改めて体勢の立て直し。かつ、アクションに対する結果にこだわりすぎるのも考えつつ。
自分を俯瞰できるようにしたいものです。

中旬にもまだ同種の職業訓練もあります。そちらも面接のみ。
そちらと、ハローワークの求人を探しながらの日々がまた始まります。

2010年2月8日月曜日

天気が持ち直しました。

1週間ぶりにおだやかな天気です。
そして今日は先より書いていた就職支援基金事業による職業訓練の選抜試験です。
午後から面接。天気晴朗、頑張りたいと思います。

本日は朝から来年度予算についての予算委員会、国会中継が行われています。
自民の質問者は加藤紘一氏と野田穀氏。流石にバランス感覚を持つ自民のベテラン二人です。
首相、幹事長のオカネ疑惑の話は正直なところ食傷気味ですが、経済政策に関する質問とその答えはなかなかにスリリングです。

自分が仮に今後社会参加をするにもどんな経済財政の上で生活基盤や社会基盤があるのか、という関心もありますし、いま現在卑近に云えば、これは討論で、見る側がいかに自分の意見をPRするか、政権与党側からの失点を得るか、ということに彼らのポイントがありますが、同時に応答のあり方の中に本日赴く面接の場面にもこの「やりとり」がヒントになりそうな気もするんですね。

言葉の選択、声のトーンなど微細なことも含めて、ですね。

これで議場に野次がなければ一番いいんですけれども。野次は好きになれませんね。いい大人がと、どうしても思ってしまいます。

2010年2月7日日曜日

今が一番寒い時。

そういえば、現在雪祭りの時期なのでした。そろそろ終わると思うけど、丁度今年は厳冬とぶつかったようで。おおむね例年はこの時期を境に少しずつ暖かくなるところ、最近の基調ですけど、まあ異例な感じです。

昨日の夜から風が強く、同居の母親から急かされて雪かきしましたが、実際は吹きさらしの雪が少々家のほうにたまった程度でまあ本格的な積もり具合ではありません。しかしその雪が湿った重たい雪なので、ここ何日かの寒さは緩んでいるのは確か。でも体感的に余り暖かく感じられないのは風が強いせいかな。

昨日昼に20年来付き合いがあるカウンセラーの先生と月に一度のお話。おじさんは精神分析ってやつをやっているんですけれども。(まあこれが厳密な意味で精神分析か?と云われれば微妙な段階に今はあるのですが。これもおじさんの主観ですけどね)。

先週受けた就職面接について話しました。
我が恩師は現在母校の大学の大学院で教えているのですが、やはり学部生の模擬面接などもする機会があるそうです。その際に、あえてイジワルな質問もするそうです。特に「圧迫面接」のようなことはしないのでしょうが、きっと学生さんにとっては想像してないような意表をつくような質問とかをするのでしょう。おじさんも恩師との会話で「意表をつく」話をされることには馴れてはいるので、多少想像はつきます(^_^;)

そのような質問を含めて、やはり採用をしたい、採りたいと思う人は素直でかつ面接官が逆に「おっ」と思うような意外性や意表をつく感じの話をされる人に感じるものがあるようですね。

素直さと、意外性ということはマニュアル本を越えた何かなのでしょうね。おそらく意外性というのも狙ってみたところで駄目でしょう。
そう考えるとそこに「応募」した動機の真実を見る、という感じでしょうか。もちろん働きたい側にとっては、応募の真実味や本気度などと云っても、ハッキリ言えば「それがそんなに徹底的にあるか?」という実感からいえば、多分に理念的すぎるかもしれない。でもどこかでひっかかりがあるからそこを選んで応募するわけで、「動機」は何か潜んでいるハズなんだよね。その動機をどう掘り下げるか。
って、いうことなのかなぁ?とおじさんは雪かきをしながら(笑)思ったのでした。

その意味では何であれ、何かに強いこだわりのある、これから就職する学生さんは優位だと思いますね。
というか、「そもそも就職するのが当たり前ってどうよ?」ってところから考えるくらいのですね。サラリーマンやるよりも、もう何かを研究せざるを得ない病気(苦笑)のような人にとっては天職として学者の道があるだろうね。

おじさんも、選択肢が「働くことしかないんだよ!」と思いつめるだけじゃなく、いい年して青臭いけど自分と社会の関係を考えながら今後を考えて生きたいと願っています。

2010年2月6日土曜日

面接とは

今週は厳しい寒さが続きました。
やっぱり寒さのせいなのか、おじさんはいつもよりも早く目が覚めてしまいます。しかも目覚めがパッチリ。

さて、来週の月曜日に職業訓練校での面接がありますが、前に購入した面接本のうちの一つが「煽り系」ではなく、割と面接について省察しているような本で、読みがいがあります。拾い読みした中でも以下のような記述があります。

「人の一生は面接の連続であるといわれるが、われわれは毎日、面接を通して人間関係を作り、生活を行っている」
「採用面接だけでなく、どんな面接でも、まじめな態度で明るく素直に話し合う、心と心のふれあう場所にしなければならない」
 ひねくれもののおじさんだけど、このような考えかたはベースとして大事だと思うし、大いに同意だなぁ。

面接場面では事実を正確に伝えることが大事、として以下の極意?は理由も明確でうなづけます。
①事実と推量は区別する-「・・・らしい」ということは「・・・だ」ではない。
②時のない言葉に注意する-どんな言葉でも、時や時間がない言葉は相手に誤解を与える不正確な地図(場面)となる。
③場所のない言葉に注意-②と同様の理由にて。
④だれ、どれ、なには出来るだけ具体的に-たとえば「日本人は・・・」「アメリカ人は・・」という言葉は極端に単純化した地図を描いている。そのことを話し手も聞き手も注意しなければならない。正確に伝える場合は例えば日本人はどの日本人を指すのか、はっきり指示すること。包括的な言葉は相手を煙に巻き、日本人にも種々いることを忘れさせる。
⑤「私には」「自分には」という言葉を使う習慣をつける。-例えば「好き」「嫌い」の価値付けの問題は、過去の経験、環境、目的にによって似ている人はいても、あくまで個人単位のものであることに注意。
⑥「私の知っている限りでは」をつけるようにする-人間は全て知ることは不可能であることに十分意識すること。
⑦「どの程度」ということにも注意する-例えば「A君の仕事には将来性がない」などという言葉は誤解や曲解を与える。どの程度なのか明らかにしないと全然駄目な印象を与える。尺度の目盛りが必要である。

含蓄が深いなぁと思いました。特に④以下については限定された「面接」場面に限らない社会生活を送る上で重要な観点ではないかと反省しつつ読みました。特にこの7項目はA)人物批評をするとき。B)問題を解決したいとき。に重要という風に書かれていることを鑑みても、意義深く、この7項目は応用範囲の広い考え方だと思います。このような記述のある本であれば、読む価値はありますね。

 他にも対面場面の心理的齟齬についても分析されいます。
1)同じ言語でも、使用する人によって異なったものになる-応答した内容が試験官に的確に伝わっているかどうかについて考えて見なければならない。
2)心の枠組みが違うために意味が歪められる-心の枠組みは個人の生活環境や所属集団の感情の影響で作られる。面接場面では年齢差、性差などで心の枠組みが違うことに注意。
3)知らぬ間に自分の感情を他人に反映させる-どのような面接場面でも媒体としての言語以外に感情が持ち込まれる。例えばある質問に対して受験者が「嫌われているのではないか」「不合格ではないか」と感じる。こういう反応はコミュニケーションを受ける受験者に自分の立場を防衛しなければならないような不安感がある場合や、強い願望がある場合に、よく現れやすいものである。

 う~んまったくだな。自己分析のおじさんのベースは何年か前に受けたキャリアカウンセリングでの意識された自分の長所・短所に基づくものでおおむね形成されているけど、同時に面接を広い枠組みでとらえること、狭義の面接場面では後者の心理分析のような事柄。とても参考になりました。

 あながち面接本も馬鹿になりません。
 ちなみに参照は「公務員試験2006年度 面接試験の対策」(実務教育出版)というもの。
 年齢的に公務員試験はとっくに受けられないんですけどね(苦笑)。105円では損がない本でした。

2010年2月5日金曜日

小沢さん犯人扱い?騒動

「大山鳴動して鼠一匹」。
もしかしたらその鼠すら出てこなかった、という話なのかもしれません。

この期間、過剰な報道に晒されながら、考えざるを得なかったことは政治権力の交代という事態は、このおじさんが生きている世間において手に届かぬ権力を持つ人たちにとっては、政治家に限らず自分の持っている権力を保持するために挑発をしたり戦ったりすることであるんだな~、ということでした。

普通の人間には不毛で無意味な時間です。
でも、これまた悲しい人間の性なんでしょうかね?

私は施政方針演説に基づいた政策論議を早くして欲しいのです。
私たちの住む国は、こんなことをしている余裕はあるのでしょうか。

手の届かないすべての「偉いさん」に問うてみたいことです。

残念!

 厳冬が続く札幌です。
 先日受けた面接試験の結果が昨日届きました。結果は残念ながら不採用。
 悔しくない、といったら嘘になりますがやはりいま一つ何かが足りなかったのでしょう。おじさん自身の主観と面接官のかたを通して見る仕事の適性への評価は微妙に違ったということでしょうね。
 もちろん雇用されることによる経済的な安定は考えるのですが、今回の仕事はおじさんにとっていつか必要で身につけておくべき貴重な体験の一里塚になるかもしれないという期待も確かにあったのですが。致し方ないことです。

 社会情勢は予断を許さぬ厳しさですけど、いずれ光が差す日を求めて(自分自身のこころから差す光も含めて)、良い徴候が来るときがくることを考えて次の動きを考えます。まずは昨日提出した職業訓練の応募書類に基づいて、来週の月曜日に面接試験があります。

 朝ドラで「来る波は自分で作れない」みたいなことを主人公のお父さんが言ってましたけど、僕たち人間も究極は自然の中で生まれ、自然の力が無いと生きていけない存在。社会のことをよく深刻に考えてしまうおじさんですが、同時に社会というものは、その原風景として基盤は自然の厳しさを前に人々が守りあって存在するところから始まっているということ。

 そのことも忘れてはいけないと思います。おじさんの悩みも人間がその自然から身を守るために作った社会の高度化の上にあるに過ぎないことをどこかできちんと自覚していないといけないんですよね。
 その自覚は。。。大変なんですけどね!ホント。

2010年2月3日水曜日

厳冬

今日は本当に寒かった。底冷えするってやつです。
最低気温がマイナス12度を超えたとか。さもありなん。
でも北海道全体から見たら札幌の寒さは全然楽な部類でしょう。
普通にマイナス20度くらいになるところは北海道のいろいろなところにありますから。
ですから、同じ北海道といっても、北海道に住んでいても理解できない冬の厳しさ。もっと云えば四季の厳しいところがあるはずです。

ともすると一つのイメージで見てしまうのは、人が人を、あるいは社会を観察するときにも通ずる認識の誤解かもしれません。悲しいかな。

それにしても、マイナス10度くらいになるとダウンジャケットをはおっていても、20~30分外歩きしていたら身体が文字通り「芯から」冷えます。

失業中でお金もないときはダイエットもかねて無目的に1日1万歩歩くことを日課にしていたおじさんですが、流石にここまで寒さが厳しいとそうも行きません。
それどころか、なるべく厚着してカロリーも多めに摂取しておきたい(苦笑)。
なものだから、今日体重を測ったら0.6Kg増えてガックリです。

現在身長170センチ、71.5キロ辺りを徘徊しているのですが、72キロ台に突入。むむむ、マズイっす。

面接本

 話の続きですけど、いわゆる就活本っていうのが巷に溢れていますね。おじさんは苦手なんですよ、この種の世界が。最近は「婚活」ナル言葉まで登場して、もうなんじゃらほい、って思いますよ。こんなおじさんでも「世の中どうなっちゃってんの?」とね。
 全部がビジネスなんですね。就活ビジネス、婚活ビジネス。
 おじさんが就職活動本で特に「面接の受け方」みたいな本に抵抗感があるのは、そういうことがマニュアル化すること自体にありますね。企業の採用担当者だって、溢れるマニュアル本を見て考え込んでしまうんじゃないでしょうか。

 でもおじさんも面接があると分かったあと思わず古本屋さんに行きました。人間って悲しい性ですね(苦笑)。何故って、おじさんがたま~に行く「ブック・オフ」さんには面接の受け方とか、「エントリー・シートの書き方」とか全部人山105円で売っているんですよ。他にも公務員試験だの、各種資格試験だのも全部同じ値段ですから、いろいろ勉強したい人間には便利ですよね。

 面接本とかエントリーシートとかの本は結局は「前向きな自分を売り込む」「こんだけやっている自分を売り込む」みたいな。
 事業仕分けが一頃話題になった時期、確か仕分け人の枝野議員が「深堀り」という言葉を使っていたと思いますが、微に入り細に入り「ポジティヴな自分」を深堀りするような世界。そのイメージは確かに基調としてはあるんですよね。

 でもちょっとおじさんなりにこの種の本に意味を見出してみました。その点で言えば、自分自身を分析してみよう、という視点はいいですね。日常はどうしても意識せずに過ぎていきます。自分自身にとってみればなんて事のない日々の移ろいで、そこに何も目新しさもドラマも感じない。行き着くところ、「退屈だあ~」という人も少なからず居るかもしれませんが、そして長期失業者のおじさんも目的感喪失状態だと同じような気分になりますが。

 あえてなんてことない日々を深く掘ってみる。自分の目標が見えない日々も自分らしさ、長所も短所も当たり前の行為の中にあるかもしれない。
 過去の記憶に「何もアピールすることなんてない」という思いも良く考えてみれば、「それなりのものがありますよ」っていうこともあるかもしれない。

 やはり人間はそれぞれ個性的な存在ですから、自分自身も個性的な存在の一人として退いてみたらそれなりのものがあった、と認めてもいいことがあるんじゃないかな。
 歳をとって少し図々しくなってきたおじさんはそう思いなおすことにしました。

 まあでも、若い人が余り鼻息を荒くして「こんなことも、あんなことも頑張ってきました」という感覚はちょっと、どうかと思うなぁ。むしろ、「これから幸いにも自分の人生が始まります」程度が若者らしさでもあるんじゃないかな。それから、矛盾するみたいだけど、この種の本の乱立に「ちょっとおかしいんじゃない?」くらいの疑問を持つほうが若者として大事だと思う。やっぱり若者はどこか革新的じゃなくちゃ。

 中年になると自然に人間は保守的になりますから(笑)。大変化の時代に若者が保守的だと大変ですよ。就職も含めた教育機関はその辺をひとつ真剣に考えて欲しいところです。

面接

 先に書いたとおり、昨日久しぶりに就職面接に行きました。
今回のお仕事は応募要件が前もっていろいろありましたので、面接まで辿り付けただけでも有難かったです。
事前は結構不安がありましたけど、思ったよりも厳しいツッコミはありませんでした。
ただ、仕事の内容はおじさんのような小心者にはなかなか精神的にキツイ仕事みたい。対面サービス業というよりも、対面接遇業という感じになりましょうか。

 おじさんが持っている知識と、お客さまに説明する能力と、機械操作とかいろいろといっぺんに覚えなくちゃいけないこともありそうでなかなか大変そうです。(もちろん、これは採用されたとしたら、の話ですけど)。

 明日は生活支援給付つきの職業訓練の選別試験の申し込みに行ってきます。現在国で失業保険がもらえない人や、切れてしまった人のために月10万円(配偶者がいる人は12万円)を支給して職業訓練を受けてもらう制度です。いま、これに手を挙げている学校が凄いですよ。かつてない職業訓練の数です。問題は訓練の結果が仕事に結びつくような高度訓練が無い、ということなんですけどね。
 失業保険が切れているおじさんは贅沢はいえません。どんな制度にもすがれるものがあればすがらなくちゃ。たはは(^_^;)

始めまして。

どうもはじめまして。
40代後半の求職中のおじさんです。去年の4月に仕事を辞めて、登録派遣で働いたりしてきました。そこで派遣労働の矛盾も見ました。
昨日面接を受けてきました。雰囲気は悪くありませんでした。
駄目だな、と思うときは少なくとも7:3ぐらいの割合で面接の印象が自分に有利ではないと分かってしまうものですが、今回はまずまずな感じでしょう。
ま、駄目なら駄目で仕方が無い。今更、上手くいかないことにがっかりしませんからね。次の手を考えるしかないわけです。

このブログはまったり、ゆっくり日々思ったことを綴っていこうと思って始めました。
何しろおじさんは他に生真面目なブログや音楽ファンのブログ、MIXIやマイ・スペースも運営しておりますので。最近はツイッターも始めまして。(流行好きなんですよ、意外と)。
だから副次的なブログになってしまうかもしれないですけれど、こちらでは難しいことを考えず、日々に思うことを書いていこうと思います。よろしくね。