2010年7月14日水曜日

ちなみに、です。

 私はもちろん、社会の目に見える現場で働く人たちをとても尊敬しています。
 沢山応募に来る人たちを次々と受け付ける市職員たち、車に乗っていると迷惑に思ってしまう道路で僕らを誘導してくれる道路作業の人たち、ビルの清掃職員、市のゴミを回収する清掃職の人、宅急便を配送してくれる人、意外なほど接客態度が良いネットカフェの店員さん。
 私は彼らは凄いな、偉いなと思うし、自分にサービスしてくれる人たちに本当にありがたいという思いを抱いています。
 逆に自分が彼らの立場でお客や道行く人々がそう思ってくれたら面映くも、とても嬉しいでしょうが。

 かれらの目的がその際に「お金」や「生活」でも、その仕事がいつか何か別の、次元を超えてその人の精神を高みへ持っていく可能性もあるかもしれないとも思います。

 僕が納得行かないのはそれら全体を覆いつくすこの世界のゲームのルールなのです。それを憂いても詮無いことですが。

 僕にとっては自分で望んでやったこととはいえ、学生時代に創価学会に入信してしまい、誤って学生幹部になってしまい、昼夜問わずそのことばかり考え、そのことばかりで動き回った末、20代いっぱい逃げ出したそこでのマインドコントロールが抜けなかったこと。その種の目に見えないマインドコントロールがこの現実経済社会に蔓延しているのではないかと思ってしまうのです。

 創価学会それそのものを批判するとか今はあえてする気もありませんが(政教分離では全然ないことは多くの人が想像するとおりのものですけれども)、ただ新興宗教以外のこの現実世界もひとりひとりの人間に過剰にきついルールを強いていないか?それが疑問です。「働けない人」と「働きすぎで燃え尽きそうな人」の二極分解へと向かっているような。
 だから飛躍すれば、自分が「何故頑張って働かないといけないか?」の理由付けとして「国を愛する気持ち」が徐々に前面に出てくるのかもしれません。こうなれば憂うべきことです。(この場合、自分のために自分が好きで忙しく働いている人は除くべきでしょう)。

 現代社会は僕を含め、情報社会となり、人は観念にヤラレル傾向は強まっています。

 ワールドカップやチャンピオンズリーグで活躍するようなサッカー選手は野生の優勝劣敗の原理で良いのです。私はあすこにヨーロッパ人の野生の本能を見ます。でもそれはそれでよく、そこに現代的な戦略が当てはまるから面白いのでしょう。
 そしてまた、あれほど凄い野性の本能(例えば「ゴールをこじあける」という言葉で象徴されるような)をどこかで自覚するからこそ、ヨーロッパは「社会」のシステムに関心を寄せ、社会保障のルールを合意を得て適用できるのではないか。
 彼らは長く、そして近代では第一、第二の大戦争を、もう極限状態まで行う、という愚行をしてきました。それで自分たちの野性本能にさすがにとことん懲りた、というのもあるでしょう。だからサッカーのようなスポーツに自分の生理を解放し、「ケ」である日常で理性的な社会制度を形成しているのではないかと思われます。
 これが僕の見立てです。

 さて、ヨーロッパから最も遠い私たち日本人は本当に自分の野生に懲りているのかな?私は疑わしいと見ているのですけどね。特に最近の世論というのを見ていたり、政治家の質を見ていますと。

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