2013年6月18日火曜日

「大逆事件とその時代」、映写上映会


 
 今日は午後6時半から北大クラーク会館でドキュメント映画『100年の谺(こだま) 大逆事件は生きている』を鑑賞する。映写の前に中島岳志北大准教授の手短かな講演。30分で手短かにまとめる手腕はさすが喋りなれている人。やや北一輝の話に偏りすぎていたキライもあるが。
 
 映画は大逆事件に関与したと言われる人々の軌跡を丹念に追う非常に誠実な作り。
 だがまあ、大逆事件そのものを知らないと何のことやらさっぱりわからないかもしれないだろう。その説明は面倒なことだ。
 
 ただ、戦前の大日本帝国の仕組みは現人神・天皇を超越者として日本国民は万民平等なのだという中島先生曰く、「トリッキー」な統治の仕組みだったということ。日本としてはそういう形にしないと江戸時代封建制の身分社会から脱却できないということで、天皇のみを国家における生ける超越者・神として見立てることで、「四民平等」を作りあげるという仕組みだったのだけれど、実は明治政府も結局のところ、藩閥政治。具体的には薩長二藩が政治を牛耳る世界。四国高知の土佐は下野組で、「薩長土肥」とは言いながらも、明治政府の中軸から排除され、逆にそこから板垣退助などの政治家や、中江兆民などのルソーなどを翻訳した民権派思想家を生んでいく土地柄(植木枝盛なども土佐高知)。
 その中江兆民の書生をしていたのが幸徳秋水。彼ら自由民権運動の「遅れてきた世代」というべきか、世界の労働運動の高まり、あるいは日本の産業革命のひずみの高まりの全盛期たる明治30年代に社会矛盾を見つめ・突き詰めした人。その幸徳秋水は「平民新聞」という日露戦争の最中に「非戦論」を掲げた言論新聞を発行することで、非戦や社会矛盾やヒューマニズムにこだわる人たちの裾野を広げ、その結果いわば日本の広い各地に社会主義や民権主義を広げることとなり、政府に睨まれる存在になる。

 
 
 その裾野は和歌山県新宮市に、岡山に、他の土地へと広がっていく。
 大逆事件はいわば極く4~5人、言論弾圧を受け、常に監視されて鬱屈していた幸徳と同居していた菅野須賀子を中心にした半分夢想的な「天皇も赤い血が滴る同じ人間である」ということを証明したかった長野の宮下太吉という人間の爆弾実験から出た瓢箪から駒のような、当事者たちも半信半疑の行動主義で、幸徳はそれに乗っかるつもりは全くなかった。
 
 まして新宮の赤ひげ医師、ドクトル大石誠之助を中心にしたいわゆる「新宮グループ」という4~5名は、ただ幸徳を呼んでアナーキズムについて論じ合っていただけで、芋づる式に引っ張られて連座させられた。まさにそんなテロの謀議は寝耳に水。
 そんな人たちが24名も一斉検挙され、うち、22人が死刑判決されるという、戦前最大の思想犯事件であり、刑事事件、刑事手続の上においても近代日本最大の汚点。
 
 特に紀州熊野の新宮は、当時被差別部落の人たちへの差別意識がものすごく、大石誠之助のような医師は貧乏な人からお金を取らず、被差別部落にも往診に出かけた、洋行帰りのヒューマニストだった。他に新宮には高木顕明や峰尾節堂のような仏教徒もいて、特に高木顕明のような人は最初は被差別部落の人たちに明らかに差別意識を持っていたのだけれど、その土地に住み仏教徒として生きると考えたときに、根本から考えを変えていかざるを得なくなる。そういう中で平等主義や無政府主義に傾倒することになる。
 
 他に箱根には内山愚童のような硬骨のお坊さんがいて、その人も死刑。僕が何よりも悲しみや憤りを感じるのは、長く戦後の1990年代までこのような「大逆」のお坊さんたちは宗門からずっと破門されていたこと。こういう話を聞くと、一体仏教界、宗門の世界はどの大乗仏教系も含めて何と国家と一体化していたことか、と改めて思う。本来国家といういわば「人為」を超越して、民衆のために宗教で救済するための存在のはずなのに、国家と一体化するというこの矛盾はどういうことかと思う。これはおそらくキリスト教の教会組織も変わらない。近代国家とそこで職業として宗教を生業とする人たちの中での最も大きな葛藤と桎梏だと思うけれども。
 
 映画を見ていて戦後仏教徒として深く自己反省し、「仏教者の戦争責任」を書いた市川白弦という人を思い出した。
 市川白弦氏の自己反省の深さは徹底的なヒューマニズムにあるわけだけど、いわばこの大逆事件に連座させられた人たちには恐怖のテロの欲望が誰にもあるわけじゃない。

 ほとんどはみな、ヒューマニズムを展望した人たちだ。ただ、時代と国家が対外戦争と資本主義国家として大きくなる過程の矛盾を内政に抱えて国家そのものが複雑巨大化する過程で権力も抑圧的になってきており、ヒューマニズムを穏便に実現する思想的な手立てがなかった。勢い、急進的と見られる無政府主義に走ったわけだけど、おそらくそれはヒューマニティを担保する観念で、実現の手段が別にあればそれで実現できたはず。それは医療かもしれず、言論活動かもしれず、宗教的救済かもしれなかった。
 あまりに時の明治政府は山縣有朋の人のごとく、過剰に社会主義恐怖症が強い人が元老の位置を占めて官憲側もその以降に沿うしかなかったかもしれない。司法判断の無法はおそらく当時の行政権力側も理解していたのではないか。それでも彼らは犠牲の生贄にさせられた。

 ドキュメンタリーは丹念に誠実に、その連座された代表的な人たちのゆかりの土地や人々を訪ね、学者たちや識者たちのコメントをとっていく。これは昨年大逆事件から100年のまさに無念を晴らす贖罪の映画に思われた。
 僕は大逆事件がその後の治安維持法の前駆だったり、社会主義恐怖症の始まりだった戦前の言論弾圧の歴史の始まりだったと思う。この事件での当時社会的文化的な位置が高かった文学者たちへの衝撃は大変に大きかった。そして多くは余りの横暴さに沈黙した。その中で徳富蘆花の講演、「謀反論」は大日本帝国下の講演の中でも夏目漱石の有名な講演に並ぶ名講演なので、機会が持てる人はぜひ読んでもらいたいもの。

 何しろ、僕はこの映画をひとりひとりの人間から国や共同体を作ろうという、今では不思議とはされないと一応は思われている考えと、国家が人々を従えなければならないという、ヒューマニズム知識人に対する権力主義の側の最初のむき出しな暴力のありようのストーリーとしてとらえました。
 これを現代の「なにものか」にまで引き当てて考えるのも故無しとしない。とも、また思いました。

 幸徳秋水が生まれた土地の四万十川も、幸徳と大石誠之助が川下りしながら語り合ったと言われる熊野川もともにとても美しい川です。ましてあの時代は自然も雄大で尚一層美しかったでしょう。
 そしてときに共に台風が訪れる土地として、荒れ狂う自然の恐怖も知っていたでしょう。当時のモダニストたち。その生涯が全うされれば、幸徳も大石も、その他個々に連座された人たちも、天寿全うすればそれぞれの考え方にも変遷があったかもしれない。それもまた社会の大河の大事な一点としてだったことでしょう。徳富流にいえば、いかにも若い。若すぎる。その若い命が散らされたという意味では、吉田松陰が首をはねられた「安政の大獄」をも連想されるのが大逆事件です。
 
 松下村塾に学びつつ、乱暴に言えば吉田松蔭から始まったとも言える維新運動に馳せ参じた側の人によるネガティブなこの「知識」弾圧事件は同じく徳川300年とは違う新しい思想から生まれた、「人の側に立つ」運動の萌芽に過ぎないものであったはずなのに、老いて国のありかを怖れた元は松下村塾の近くにいて、奇兵隊を率いた山縣狂介こと、山縣有朋のある種の権威によって弾圧の形で行われたとは、実に皮肉な話です。
 

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