2013年1月8日火曜日

この国はどこに行くのだろう?池澤夏樹新春エッセイ

 お正月も7が日が過ぎ、2013年も本番の感じです。
 しかし、私自身はどうもこの正月以後、気分がパッとしません。手がかりのない夢を見るには確かに年を取り過ぎていることを自覚してしまう側面もありますし、老いた両親への気がかりや、自分の今後のなりゆきの事を考えれば、身体重力が重く感じられる側面は正直あって、加えて例年に無い厳冬や例年に無い大雪という物理的なこともあるのでしょう。

 でも、それ以上に憂鬱気分が抜けないのは、昨年末の衆議院選挙の結果と新政権の誕生と、そこからもたらされるだろう政策や、方向性のありようを考えてしまうことです。
 大きく言えば、社会的マイノリティに属し、また、その種の考え方にも属していると思う自分のようなものにとり、自民党の政権奪還と安倍首相から溢れ出すキャラクターから滲む「信条」の国民へ向けたサインのようなものから見えてくるもの。それを考え思う際の”しんどさ”です。

 もう一点は、なぜ今の日本の私たちが再び安倍さんのような人を首相にし、安倍さんの思想に基づく自民党の主流に乗ったのだろうか?その私たち市民の感性のありようとでもいうものへのクエッションです。

 そんな自分の疑問を上手く表現してくれたのが、作家、池澤夏樹さんの1月5日新聞(当地では北海道新聞)に寄稿された新春エッセイ『この国はどこに行くのだろう?』でした。以下、逐次引用します。

 年が明けた。これがどういう1年になるかよくわからない。選挙の結果はこの国をどこへ連れて行こうとしているのだろう。安倍政権は国の力をどんどん強くするという方針のようだ。国民よりも国家、安全や福祉よりも経済、被災地より領土…
 
その後、あの選挙とは何だったのか?と問いかけ、人が家を購入する場合のことを比喩に、家の購入とは、購入に関する費用の返済計画も含め、真剣にならざるを得ない問題だ、と常識的な例を挙げます。そして選挙に関しても。

 本当ならば選挙も同じことなのだ。国の方針にはこれから何年かの暮らしがかかっている。選ぶ党によっては、あなたの来年の収入は倍になるかもしれない。もう少し先で、あなたの息子は戦争に行くかもしれない。
 しかしあなたは選挙をそこまで真剣には考えない。3年ごと4年ごとに巡ってくるのだし、家と違って一対一ではなく何千万人かの中の一票でしかない。だからあなたは理性よりは感情で決める。理詰めで正しいか正しくないかではなく、好きか嫌いかで判断する。(中略)政治という制度に期待しない人たちは投票に行かなかった。

 そして、3年前の民主党政権の時も今と同じように日本という国は状況は閉塞していた、と時代の空気を描き、

 初めは希望に満ちていた。国の雰囲気ががらりと変わり、日本は新しい時代に入るかのように思われた。
 
そう。思えば僕もそうでした。僕は民主党に投票しませんでしたが、鳩山政権発足時に各閣僚たちから発信された政策発言に、閉塞を刷新する何か希望を感じましたし、特に当時の鳩山首相の初めての所信表明演説で、東北の有権者の老いたお母さん、息子さんを自殺で失った母親の言葉を引用し、「いのちを大切にする政治」を訴えたときは素直に感動したものです。

 しかし、池澤氏は民主党は結局は実務に素人で、政治の現場のリアルに自分たちの思想を機能させられなかったと総括します。(僕もそうだったと思います)。

 そして、ここは最も重要なポイントだと思ったのですが、「今回の政権交代のどこかに東日本大震災は影を落としていないだろうか」と問いかけます。これ、全く同感です。そして2つの方向があったのではないかと仮説を出します。これも、全く同感です。

 例えば、311当日に首相の席にあった菅直人に対する感情的な反発。…(あるいは)
震災そのものをみんな忘れたいのかもしれない。現地の人々をその場に残したまま。

 そして、

 ずいぶん前からぼくたち日本人は新しいものを好むようになっていた。消費社会というのはそういうことだ。(中略)
 安倍政権はいずれ引っ繰り返るかもしれない。この先もずっとぼくたちは目先の新しい政治を選び続けるのかもしれない。

 もしも安倍政権がひっくり返ってもその先の展望はより良いものというふうには池澤氏の文章はなっていません。むしろ、気まぐれの果ての暗い見取り図を描いてエッセーは終わります。

 
 どう考えるべきか、と改めて思います。
 確かに真面目な人の投票行動を考えてみても、今回は政治家の側も有権者の本当のニーズに応える政党が見当たらなく、多くの政党が文字通り選挙互助会と化し、さながら非正規社員にとって価値ある就職活動とさえ揶揄されるような、国会議員という「職業」に就くための就職活動さながらの多党乱立ぶりで、真面目な有権者の投票行為に水を差すには十分な選挙だった点もあります。また、死に票がそれだけ多くなる分、「勝ち馬投票行動」になりやすい小選挙区制という制度上の欠陥もそれゆえに顕在化したとも思います。

 でも。池澤さんの文章を引用してなお、考えこんでしまうのです。自民党が訴え、政策化する経済成長戦略が庶民の分配のメリットになるとは思えないし、本質的に雇用状況が良くなるような公共事業政策とは思えない。大事なのは厄介でも「大型公共投資」ではなく、現役世代も含めた「セーフティネットを含めた労働政策」のはずでした。

 まして、参議院選挙の結果次第では、池澤氏が上述したように、「憲法改正がライフワーク」と公言する現首相の戦後憲法に向けたチャレンジが始まるでしょうし、その際には「人々より国家」のイデオロギーによって、少数派や、表現の自由を求める人たちにとって、不利な条件を揃えるものになっていくでしょう。自民党の改憲法案とはそういうものです。

 僕は思うのです。今の日本は本当に各所各部面で余裕がなくなってしまった?不安に覆われてしまった?故に、冷静に理性的な政治選択の判断も難しくなったのだろうか?と。
 制度の問題、政治家の浮き足立った問題と加えてあの3年前の政策重視、マニフェスト重視もどこへ行ったのか?と。そのように考えるのも倦むようなところにいま立っているのだろうか?と。

 自分の寂寥感は、自分自身の生き様の問題がもちろん一義的にはあるのですが、それに加えて、昨年の自民党の圧勝の政治結果にもあります。それを現実の中に共有できる環境にない。こうやってブログで独りごちていますが、これでは良くないとも思っているのです。しかし、ぼくという存在も含めた「日本のひとびと」の共通認識とはどこにあるのだろうか、と思い惑ってしまうのです。

 (表現の自由)
第二十一

1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
(自民党改憲法案)


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