本日、自分もボランティア的に?活動しているNPO法人から新しい会報が送られてきました。
毎回、表紙に団体の経緯と活動の概要が出ているんだけど、どうも自分としてはすっきりとしない言葉があります。それは「ひきこもり者」ということば。ひきこもりしゃ。と読むんだろうけど、こういう名詞は成立するのだろうか?なんとなく、気持ちがいいことばではない。これが「ひきこもりもの」と呼ぶとしたら、一層不快だろうなぁ。昔の芸能人が「河原者(もの)」と呼ばれた頃と同じ差別的な印象を抱くと思う。
「若年の範疇に入らない、青年期・壮年期の「ひきこもり者」に軸足を置きながら、ひきこもり者が社会に出ていった時、自信や希望を持ちながら歩めるような」
普通に読んでも、どこかおかしくないだろうか。ひきこもりしゃ、ひきこもりしゃ。
自分の中でつぶやいてみる。「ひきこもりしゃ、かぁ。。。ひきこもりしゃ、ねえ。。。」
当団体の代表自らの熱意で呼んだ昨年の芹沢俊介氏の講演シンポの時も、講演者の芹沢氏は「ひきこもり」という名詞形は使いたくない、と仰っていました。ひきこもり、という名詞形はある状態像のみを捉えた言葉にすぎないから、といった趣旨で。そして自分では「ひきこもる」「ひきこもっている」という、ヨリ動的アプローチのような側面で使いたいと仰っていた。
確かにその通りで、僕はこの種の話が出来るメンバーともよく話すんだけど、「ひきこもり」と顔に書いた人間が存在して、歩いたり食べたりしているわけじゃない。
あたりまえの人間がひきこもる、という行為を選択しているわけです。あるいは、現状はひきこもらざるを得ない人たちが増えてきているということかもしれない。
このような名詞が生まれる背景には、こう書くと身も蓋もないけど、10年来の長い歴史がある会報が当時のひきこもりに対する社会認識上の問題もあって通信タイトルもダイレクトに「ひきこもり」になっている以上、何というのかな。そのことばの流れで自然と「ひきこもり者」という表現になるのかもしれない。
そうなのかもしれないけど。でも、それがいまだに生きている、というのはなんだか違和感があるんだよねぇ。
表現の固定化であり、表現の固定化は悪くすると、あるいは慣れが進むと「評価の固定化」になっていかないだろうか?という一抹の懸念を感じます。一層恐ろしいとすれば、それを当事者というか、当事者として意識している人たちがそれをそうと受け入れてしまうこと。
それが「自分はひきこもり者だから」とネガティブな内面化のみをしてしまうとすれば、それは生産性のない思考パターンに陥ってしまう気がするんですよね。
現代社会がいろんな社会的な課題が出てきたり、あるいは多面的な切り口が必要になってきたがために、ある種の属性や分類化が必要になってきたのだろうし、課題の可視化にも役立ってきたのだろうと。その意味では理解するのだけど、いまは、いま一度、ことばの使用方法から再考すべき時にきているのかもしれない。
ひきこもり、という言葉もひと頃の偏見から逃れたとはいえ、顔を持つ当事者たちの本質を捉えにくくなっているのが事実だし、当事者自身がどこかで包括的な用語から抜け出ていく局面がある。
それを考えた場合、不思議な一般化されたことばはそろそろの改めて考えてみる時期に来ているような。そんな気がしてなりません。
毎回、表紙に団体の経緯と活動の概要が出ているんだけど、どうも自分としてはすっきりとしない言葉があります。それは「ひきこもり者」ということば。ひきこもりしゃ。と読むんだろうけど、こういう名詞は成立するのだろうか?なんとなく、気持ちがいいことばではない。これが「ひきこもりもの」と呼ぶとしたら、一層不快だろうなぁ。昔の芸能人が「河原者(もの)」と呼ばれた頃と同じ差別的な印象を抱くと思う。
「若年の範疇に入らない、青年期・壮年期の「ひきこもり者」に軸足を置きながら、ひきこもり者が社会に出ていった時、自信や希望を持ちながら歩めるような」
普通に読んでも、どこかおかしくないだろうか。ひきこもりしゃ、ひきこもりしゃ。
自分の中でつぶやいてみる。「ひきこもりしゃ、かぁ。。。ひきこもりしゃ、ねえ。。。」
当団体の代表自らの熱意で呼んだ昨年の芹沢俊介氏の講演シンポの時も、講演者の芹沢氏は「ひきこもり」という名詞形は使いたくない、と仰っていました。ひきこもり、という名詞形はある状態像のみを捉えた言葉にすぎないから、といった趣旨で。そして自分では「ひきこもる」「ひきこもっている」という、ヨリ動的アプローチのような側面で使いたいと仰っていた。
確かにその通りで、僕はこの種の話が出来るメンバーともよく話すんだけど、「ひきこもり」と顔に書いた人間が存在して、歩いたり食べたりしているわけじゃない。
あたりまえの人間がひきこもる、という行為を選択しているわけです。あるいは、現状はひきこもらざるを得ない人たちが増えてきているということかもしれない。
このような名詞が生まれる背景には、こう書くと身も蓋もないけど、10年来の長い歴史がある会報が当時のひきこもりに対する社会認識上の問題もあって通信タイトルもダイレクトに「ひきこもり」になっている以上、何というのかな。そのことばの流れで自然と「ひきこもり者」という表現になるのかもしれない。
そうなのかもしれないけど。でも、それがいまだに生きている、というのはなんだか違和感があるんだよねぇ。
表現の固定化であり、表現の固定化は悪くすると、あるいは慣れが進むと「評価の固定化」になっていかないだろうか?という一抹の懸念を感じます。一層恐ろしいとすれば、それを当事者というか、当事者として意識している人たちがそれをそうと受け入れてしまうこと。
それが「自分はひきこもり者だから」とネガティブな内面化のみをしてしまうとすれば、それは生産性のない思考パターンに陥ってしまう気がするんですよね。
現代社会がいろんな社会的な課題が出てきたり、あるいは多面的な切り口が必要になってきたがために、ある種の属性や分類化が必要になってきたのだろうし、課題の可視化にも役立ってきたのだろうと。その意味では理解するのだけど、いまは、いま一度、ことばの使用方法から再考すべき時にきているのかもしれない。
ひきこもり、という言葉もひと頃の偏見から逃れたとはいえ、顔を持つ当事者たちの本質を捉えにくくなっているのが事実だし、当事者自身がどこかで包括的な用語から抜け出ていく局面がある。
それを考えた場合、不思議な一般化されたことばはそろそろの改めて考えてみる時期に来ているような。そんな気がしてなりません。
お久しぶりです。
返信削除ことばについてなかなか深いい話で、考えさせられました。
25年ほど前、障碍児の父兄の方の話を聞く機会がありました。
障害児というのが以前の呼び名であり、そのことについておかしいと声をあげられたのでした。私は、当事者ではなかったのでなぜそんなことにこだわるのかよく理解出来なかったのですが、今ではパソコンの漢字変換でもちゃんと障碍児とすぐ出てきます。最初に声をあげた人は、人々の無理解に直面しいろいろ苦労したことだろうと思いますが、そのことが社会を変えていく大きな原動力になったと思います。
物事に対して名前を付けたり形容したりするとき、よくよく考えることは大切だと思います。
私はアクセルとブレーキについてよく考えます。
ブレーキの意味を調べてみると、おもしろいです。
[運動を停止させたり減速させたりする装置。事物の進行をさまたげるもの。
歯止め。]
妨げる物はまた歯止めでもある、ということなんでしょうね。とてもおもしろいと思います。一般社会で進歩の妨げになっている、と思われていうことが実は最悪の事態の歯止めになっている、ということも充分あり、ということなんでしょうね。
ひきこもり、ということばもそろそろ立ち止まって考える時期に来ているのでしょう。どんなことばでどのように考えたらいいか、私も思いを巡らしてみようと思います。
あさとむつこ様。
返信削除意味深いコメント、いつもながらありがとうございます。
前段の話で考えることは本当にもっともな話で、ことばの使い方に注意を向けるよう声を上げることが、そのまま人びとの意識を揺り動かし、意識を変更させる好例になる話ですね。
ブレーキの話は相当に深そうです。ブレーキには、運動装置のみではなく、社会的な意味があることは気が付きませんでした。
進歩の歯止めは実は最悪の事態の歯止めとなる可能性もある。僕もそのように思うことは良くあります。
さて、「ひきこもり」という名詞に関してはどうなのか。
いろいろな角度や立場から用語に対し肯定的、懐疑的な意見があって、ことばそのものを問い直すとすれば、百家争鳴?いや、まだなかなかそうはならない感がありますね。
それゆえの問い直しというと立派そうですが、素朴に「ひきこもり者」という言葉に違和感があるなぁ、というのが実感です。
障碍を持つ人の話と同じように、この種の課題に関心を持ち、関わりを持つ人たちの思念というか、思いの反映が今後、ことばの定義の問い直しへのキーとなりそうです。
でも、それもまた難しいところがあるのは承知の上ですが。やはり困っている人(や家族)がいて、その言葉で共通の磁場が生まれている現状もありますから。ただ、言葉が習慣化されてしまうのには注意しないと、と思っています。
当面は「ひきこもっている人」「ひきこもっている当事者」という言葉あたりが一番現実的でしょうか。