2012年3月31日土曜日

通信ひきこもりNO.71&芹沢俊介氏講演記録


 私自身が会員として関わっているNPO法人レター・ポスト・フレンド相談ネットワークに対する助成金補助事業により、紙面刷新した通信誌年度最終の3月号です。
 表紙イラストを見てもらえば了解していただけると思いますが、実に良い雰囲気です。イラストの持つ力だけで内容に期待を持てるのは昔風に言えば、レコードジャケットのセンスがよければ、中身にも期待が持てそうだ、という話に似るかと思います。そして実際の話、私自身が関わっているのは専門家へのインタビュー採録部分ですが、他の種々の内容にかかわっている人の顔ぶれはこの助成金事業の3回分(昨年11月号、1月号、そして今回の3月号)の中でも最も多様な参加者のものとなりました。

 この表紙イラストの爽やかさにふさわしく、今回の誌面企画充実助成金事業の一応の最後は、文字通り内容として充実したものとなったのではないかと一会員としても自負していますし、振り返れば自分なりにずっと模索した「ひきこもり」という言葉に付された重たすぎる意味なり、その言葉に付随した種々の問題点なりを俯瞰し、相対化し、ある意味では脱臼させる?試みに成功できたのではないでしょうか。自分がここ3回で係わったのは専門家へのインタビュー(うちひとつは芹沢俊介氏の講演の採録)ですが、個人としてそこで学んで思ったことは、実際に編集し紙面化される前に伺った言葉や内容の全体一つひとつをリコーダーに起こしながら、自分が新たに強く意識し始めていた今まで重い形で固定化されていた「ひきこもり」ということばに付着しつづけた意味の再検討であり、その点を促すことにある程度の成功を見たのではないか、ということでした。それに加えて編集以前に伺った話の中に幾つもあった貴重なアドバイスや気づきある発言という個人的な宝も同時にありました。
 そんな納得と、学びを得るものでした。今月号の札幌学院大学准教授である村澤和多里先生のインタビューが現在のところ、僕自身の問題意識と共通する最も最新のものであり、ひきこもり問題全般に渡っても先駆的な内容になった、と自負しています。
 いつになく、思い切り自分自身を自画自賛しているわけですが、でもある程度それは客観的なものでもあろうと思っています。

 そして、表紙のイラストを手がけていらっしゃる高津さんーまだ拝見したことはありませんがーを称揚したいと改めて思います。そして高津さんを発見協力してもらい、一貫して専門家インタビューや講演録をまとめるに際しての多大な手腕を発揮した当NPO法人の副代表の実務的な力量にも改めてレスペクトするものです。

 うん、実にイカンですね。こうも堅苦しく自分たちのささやかな活動を自画自賛しては。実は、ごく卑近なところでは通信のタイトルが何とかならないかとか、活字が小さすぎて読みにくい等々の率直な声も聞いてはいます。それは私もそうだろうなと思うところです。しかし、ビックイシューだとて活字は小さいのです。このブログだとて活字は小さい(笑)。確かに読みやすさを考慮すれば、活字の多さがレイアウト的に目立つのは理解できる。しかし、そこは商業雑誌とも違うところ。今のところは関心を持つ人に「内容で判断してもらう」ことしか出来ません。そこは限界です。

 タイトルに関しては、僕自身は専門家インタビューにあるように、いずれひきこもりという言葉も解体されていくだろうと思っています。むしろ今の世の中ーつまり経済が衰退し、「斜陽化する日本」という国に現在から近未来に起きてくるであろう現象ーを考えれば特定の名称を与えられた人たちの居場所である以上に、今後よりいっそう社会の中に「生きづらさ」を基盤とする、社会の中で生きていく不安や辛さを共有する居場所というものが今後大きなニーズを占めていくだろうと想像するのです。それがいわゆるアジール(駆け込み寺のようなもの)としての機能を持つ、諸々の社会的排除を受けた人たちの結構大きな、あえていうならば雑多な人たちの居場所が必要とされる時が来るのではなかろうか、などと。。。
 
 実は、昨年の『ひきこもり支援ハンドブック』取材の初期から僕には別の下心、あえていうなら別の動機が生まれていました。それは取材の早期に中年世代の就労支援をしている都道府県の委託機関のことでしたが、そこを取材した時点で、この社会の(古風に言うならば)「下部構造」で何か起きている、それは結果として結構な数の人たちが「ひきこもらざるを得ない」現象を生んでいる。その状況を知ることが出来るかもしれない、というものでした。

 その問題意識でひきこもりの人たちの社会的居場所を取材するのを目的としつつも、一方で僕の内面では経済状況と人びとの相関的なありようについて考えてもいたのでした。そしてその昇華された試みのひとつが、「釧路市生活福祉事務所」の取材で得たものでした。経済困難に伴う社会的排除のありようを官民一体で克服する試み。そしてそれは今までの理念を持ち替える勇気を含めた試みだと思えるもので、「これはひきこもりの問題にもパラレルに捉えられる」と思ったのでした。そこで聞いた循環型福祉の思想、してあげる・してもらうという関係性からの脱却のみならず、その関係性の相互的な入れ替え。「上から目線からの脱却」ー少なくともその問いを常にワーカー自身の側から自己へ続けていくことなどの哲学に徹することなど。
 これらの話は巷に氾濫する「ひきこもり支援者問題」にも密かに切り込むポジティヴな試行ではないかと僕は思ったのでした。

 あれから1年半余り。あの時の釧路で聞いたときの心のときめき、ここに具体的に見えた希望のある話から、いま、進歩をしながら、かなり先へと来た印象を感じています。例えばひきこもり名人・勝山実さんの「安心ひきこもりライフ」や昨年のノンフイクションベストセラー・大野更紗さんの「困ってるひと」、いきづらさ研究を試みる大阪のフリースペース、コムニタス・フォロの主催者、山下耕平さんの「迷子の時代を生き抜くために」、そして芹沢俊介さんの名著「引きこもるという情熱」や「存在論的ひきこもり」等々。大枠で、乱暴に言ってしまえば『社会的ひきこもり』を中心にした論調は遠景へと引いた感じがします。少なくとも僕の中での思いはそこまできてしまったと思っています。
 今風にいえば、当事者主体とか、当事者主権という言葉になるのでしょうか。

 「ただ」、というか、「もちろん」というべきか、ひきこもりの人の固有の個性はあって、その問題のフォローは断然、大切なものです。そこには今までの通信誌取材でも聞いてきたとおり、苦しい時は医療的なカウンセリングがやはり必要だと思いますし、ひきこもりの人たちに一般的・固有な問題として共通してある悩みの体験を語り合えるゆるやかで落ち着きのある、そして安全な居場所は断然必要です。

 いわば、僕のこの長々しい文章の焦点であり、この点がすでに状況が変わっているのではないですか、と伝えたいのはもはや支援者の目線の変化が求められる「とば口」まで来ているよ、ということかもしれません。
 その意味で、「ひきこもり」という言葉は解体されるときが遠からず来ますよという認識を頭の片隅に持っておきませんか、という思いがあるわけです。それは対抗的な物言いではなく、この通信の表紙のように爽やかに、あえていうなら、出来るだけポップに行けませんか、そういう認識に立てませんか、ということですね。
 僕は自分自身「ひきこもり」という問題に特化して考えてきたのはこの3年程度ですので、分かったふうなことは言えませんが、おそらく今まであまりにも重いブルースが強調され過ぎてきたのではないでしょうか?

 でも今やある意味、多くの人たちが平場に立っている状況にあるともいえるわけで、その意味ではひきこもり気質の僕たちは世の中がこれ以上のサバイバル合戦の様相が止まらず加速するなら一層大変なわけですし、別の意味での生きていく上での難しさに立っているのかもしれない。
 ですから「大変だ、そこに入れない僕らはバスに乗り遅れてる」などという発想はさすがに古くなったと見極めたうえで、でも「さてどうしようか。まずはお互い苦労しますね、ご同輩」というところから行きたいものですね。

 等等、長文失礼いたしました。

 本文が過剰に長くなったため、昨年11月に行われた芹沢俊介さんの講演と元当事者たちを招いたシンポジウムの集録の紹介が書く面がなくなりました。一言だけ。芹沢氏の話はとてもラディカルです。ラディカルでかつ極めて論理的でもあります。
 ここまでラディカルであることを支援者たちを中心にどう受け止めるのかということもあえて乱暴な想像をすれば気になるところでもあります。

頒布物受領の方法については、下記リンク先にて。
「ひきこもり理解啓発セミナー集録」

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