2016年3月27日日曜日

社会のコミュニケーションにおけるダブル・バインド

 最近知った情報によると、「たけしのTVタックル」でまた「ひきだし屋」を取り上げてひきこもっている人を無理やり外にひきだす放映をしたとか。僕はひきこもり問題が加熱した頃の「長田塾」問題なども知らないし、「まだそんなことをやっているのか」とただ唖然とするだけだけど、自分のことが手一杯だし、「結局、他者の意向に想像力が働かないものは、カルト信者と変わらない」と思っているので、やれやれ狂人が、と思うばかり。
 そこに(元は大ファンだった)たけしのけれん味、浅草芸人的なマチズモと根底にある虚無主義がその種の見世物を煽ることに拍車をかけて躊躇もない、ということかもしれない。たけしの内面というのもいろいろな点で矛盾があるし、鋭利な感性と、同時に他者への鈍感が混在しているところがあるから。まあ、古風な任侠人、やくざくずれというところがあるし、そこがプライドのようになっているしね。

 それ、今回の本題と関係ないのです。いまの社会って「コミュニケーション能力」を高く評価しようとしたがるじゃないですか?このまま言ったら大概のひとがコミュニケーション障害にしてしまいかねないような。でも、誰がそういうことを言い立てたがるのでしょうね?という話。(それこそひきこもって何が問題?になりそう、という話です)。

 最近、近くのショッピングセンターの買い物の清算を何と客(買い物にきた側)がしなければならなくなった。もちろん商品購入のレジ打ち(バーコードでの読み取り)まではしてくれるんだけど、合計額が出たあとは、こちらでお金を清算機械に入れて自分でつり銭を受け取る仕組み。
 ここのスーパーはほかのお店に比べてレジの担当のかたはとてもスピードが速く、気が利いた。土、日の朝市とか、安売りのときにお客が並んでもさばくのが早かった。
 本来、レジ担当の人はお客さんのお財布に手をかけてはいけないのだろうけど、お金の受け渡しが不自由になった母親は目当てのベテラン担当の方のところに行って「いいですから」と言って財布から小銭を出してもらっていた。すると担当の人は該当する小銭だけを指先で受けとめて、レジ代の上において、「これだけいただいてよいですか」と。母は、前面信頼して「はいはい」とうなづくだけ。そういうコミュニケーションが成立していた。ほんの小さな、人と人との。
 ところが、今では合計金額が出たあとは「現金ですか」「はい」「では、左の清算機でお願いします」。その間、レジ員さんは両手を前にして立っている。

理由はきっと二つあるんだと思う。ひとつは(滅多にないだろうけど)お客さんと店員さんの清算のときのトラブル防止。そしてもうひとつ、こっちが大きいと思うのだけど、その日の損金防止。つまり「売り上げと金額が合わない」ことによるバタバタの防止なのだと。
だけど、年寄りには全く親切じゃない。現に戸惑い、怖がる母は、もうスーパーで買い物するのが困難になってしまっている。

 コミュニケーションが社会人に大事だといいながら、スーパーという、もっともドメステック、日常的な場で「買う人」「売る人」の間の会話が急速になくなっている。細かい会話が苦手な僕でも明らかに「これは変じゃないか?」と思うほどなくなっている。こんな一番日常に近い世界で子どもに「コミュニケーション能力」と言ったところで、宙に浮いた会話だけを磨け、といっているようなものではないか。日常から、買い物から、どんどん物理的に会話を奪っているんだもの。全部自己責任でやってください、になっているんだもの。

 僕も最近、イオンモールで「セルフレジ」を利用するようになった。ということはいずれ機械で買い物の清算は自分でやるようになり、スーパーからレジ打ちのプロが消滅するんじゃないかと思う。みんな軽く考えるかもしれないけれど、あの仕事をやっている人のプライドがいま打ち砕かれているんじゃないか、と自分は思えて仕方ない。

 いずれいろんなところがセルフになるだろう。駅員さんが乗車切符を切らなくなり、いつのまにか自動改札が当たり前になった。この様相でセルフガソリンスタンドのように、スーパーで買い物をしても自分で清算までやり遂げるようにさせられるかもしれない。飛行機だっていまバーコードのスキップサービスだしね。どんどんコンピューターが進化すれば生活の隅々まで「自分でできます、便利でいい」となる可能性が高い。そしてちょっとした「目立たないが責任感持つ仕事人」がいなくなる。キオスクの店員さんのように。「自分がさばいている」というプライドを持つ人がいなくなる。

 「これでいいのか?」という疑問がもちろん最初にある。そしてこの流れに逆行できないなら、人はどこで何をする?という問題がいずれ浮上する。介護だっておそらく機械化の流れは止まらない。特殊な能力の人がいればいい、となる可能性は高い。
 本当に時代に逆行できないなら、特別でない、普通の人たちは何を仕事として、何をその仕事のプライドにできるのだろうか。

「カーネーション」というドラマは、伝統的和裁業の父に、新しい「洋服」という「ミシン」という機械で作られる服装に魅入られた主人公が。愛する父との葛藤の間を揺れながら洋服に日本社会が移り変わる中で自分の仕事の世界を作り上げる物語りだった。しかし、その主人公の時代はまだ「ミシンの操作」と「丈の、メジャーで計りきれない感覚理解」「新しい時代のモードを、どう工夫してお金をかけすぎずに創造するか」という「打ち込む仕事」の具体感があった。そこには生き生きとした創造的な仕事に打ち込む躍動感が展開した。だけど、親のあとをついだ娘の時代は「デザイン」と「流通方法」「先駆的なコマーシャリズム」へ変化していく。着てもらう対象も「岸和田にすむおばちゃん」ではなく、「世界のセンスエリート」対象に、職人の「質のありか」が変わっていく。

でも、これからの時代は「質のありか」さえ、どうなるかわからない。そんな時代がやってくる気がする。

2016年3月18日金曜日

学校へ行く意味・休む意味



これはすごい本を見つけてしまいました。

時どきいろいろ本を読んでるとすごい本に偶然当たる。これぞそのたぐいです。

私自身の習慣として組み込まれているものに(基本的に)週一回、英語で「仏教」の概論本を読むというNPOの勉強会通い、というのがあるのですが、そこでは最近ヘーゲルも読むぞ、空海もよむんだぞ、という大変な状態になっています。
で、そこのファシリテーターの先生は法学部で近代西洋政治を教えていた教授だった方なのですが、その方との雑談の中で、「近代社会(現代も含みます)とは何だったか」を教えてくれたりします。

また、『ひきこもる心のケア』をめぐってさまざま、読書会なりなんなりで世界が広がったり、本の監修者である村澤先生は『ポストモラトリアム時代の若者たち』という本も出されているので、ひきこもりをどちらかといえばモラトリアム消失の現象としてもとらえている側面があり、「では、モラトリアムとは何だったの?」という議論というか、お知恵拝借というか、雑談というか。本つくりで会っているときによくしてきたんですけど。
『ポストモラトリアム時代の若者たち』もトライしている領域はかぶるんだけど、「ポスモラ」の学術的なノリがきつい人にはステップとしてこの本がいいはず。。。まあ、これは少々無理ある連想の被せかたではありますが。

この本は上記の、自分の体験もろもろそれらの、私自身の問題意識を極めて平易に優しく、隣に座って教えてくれるような文章で「近代の学校ってなに?」というところから。まず現象の本質には何が置かれていたのか?そこからはじめましょう、教えましょう、考えましょうという本です。

これはすごいです。普通に思っている、あるいは忘れてるけど、意識する局面でぼんやりと思っていることをきちんと明瞭な言葉にしてくださっている。例えば「近代の教育は労働と密接につながっている」「その教育の標準化が現実の労働との乖離を生んでる」「生活と、労働に向き合うための教育が噛み合ってない」そんな考えはけっこう周辺でも勉強していくと聞くわけですが、その全体像を俯瞰してとらえ、かつ全然難しく書かない。←これ大事なこと。

この本は「不登校」を論じる本だけど、究極は教育、ひいては近代教育を生み出す近代を論じてる。つまり「社会」を論じている。ひきこもりも究極は社会を論じることになると僕は最近確信していますが(もちろん、全てがそうだというわけではない)、不登校も社会を論じることなのだなあとしみじみ実感します。

これは教育、社会、人間の歴史を考える際に「一家に一冊」的な本だと思います。
何より、着眼の仕方がひとつひとつが新鮮!

現在図書館で借りて読んでますが、余裕ができたら購入します。
まだ読んでる途中だけど、途中までいいものは最後でがっかりするというのは経験的にまず無いので、途中段階でお勧め紹介してしまうという報告です。
まだ推理小説のような紐解き方が続きそうで、読んでてわくわくしますよ。

2016年3月12日土曜日

ひきこもる心のケア読書会第二回inかめの会

 昨日、石狩・不登校と教育を考える会「かめの会」さまが主催してくれた『ひきこもる心のケア』の第二回目の読書会を開いていただいた。今回は監修者の村澤和多里さんが出席してくれ、村澤さんの視点から多くを語っていただいたので、その角度から私としての感想を考えてみたい。

 二回目の話題は第三部、「発達障害とひきこもり」から話題をはじめた。今回の収穫は村澤さんより発達障がいの中で分類名が種々変遷してきた「自閉症スペクトラム」圏の歴史的推移を説明していただいたこと。現状において、「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」など、知的水準が平均あるいは高い自閉症圏の人たちを専門家がどう見て、「自閉症スペクトラム」にいま用語が統一されていったかを教えていただいた。

 私の個人的な感想を言えば、専門家が種々の言葉を使い意味する対象の人びとを語る用語の混乱がひとまず統一されたことは良かったと思うけれど、いわゆるアメリカの精神疾患診断「DSM」を輸入して統一見解とするのは文化環境が違う中で果たして丸まる受容するのはどうなのだろうか?という素人としての疑問もある。それは私自身、その場で伝えたつもりだけど、上手く説明できたかは怪しい。疑問を疑問として問うならば、疑問の説明もしっかりすべきであったが、場を意識する癖が出てしまい、上手く行かなかった(以下、そういう悪癖の反省も含めて、あの場で語れなかったこともこのブログで縷々のべると思う)。

 もうひとつの大きな話題は「ひきこもり」が現代社会の中でことばが持つネガティブな要因も含めて、「現在」の中でどう位置づけられるか、あるいは位置づけられてしまったその要因は何だったのか、という話。

 この件に関しては、社会経済状況の変化との連関を中心軸に考える村澤さんの話題提起が新しい。「ひきこもる心のケア」第四部「社会的排除とひきこもり」と連関する部分なのだが、「ひきこもり」がネガティヴに捉えられ、同時にひきこもりが数として社会問題化され、あるいは問題としてあぶりだされたのは2000年代(正確には1998年の山一證券、北海道拓殖銀行破綻あたり)から進行し始めた新自由主義経済の加速度的なドライブとの関連が大きい推論が語られた。当初は斉藤環氏の「家族関係論」「家族療法論」がひきこもりを考える際に主位置を占めていたが、実は社会構造の大きな変化の中で起きている現象だ、という捉え方に導いていく話になっている。これは第九章の阿部幸弘先生(心のリカバリーセンター長)のインタビューの話題とつながり、バブル後の経済成長に貢献する労働者の枠組み自体が痩せ細っている中で起きている現象と言い換えても良いような状況として捉えられる。

 読書会の場での話しあいでは、私自身が強引にそこに持っていったきらいもあるけれど、そこから「労働者になれない若者の居場所を持てない状況」「若者サポートがない中で外に出て行く場所が見つからない状況」を私自身は心の中の意識の比重に重心を置いて話したつもり。これもうまく話題にできたか、説明ベタのせいもあっていささか心苦しいところがあるけれども。

 実はこの問題を仔細に検討するにはもっと良い本がある。検討や検証をするに値する本がある。本書の巻末にお勧め本として紹介されている『ポストモラトリアム時代の若者たち』という本だ。(村澤さんいわくの、「青い本」』



 

(前略)若者たちがひきこもりやニートと呼ばれる状態に陥っているのは、彼らが社会に適応できなった結果ではなく、それどころか反対に彼らが社会に適応しすぎた結果であり、いわば過剰適応の一形態を示していることが多いということである。つまり、彼らがひきこもりになった原因とみなされている彼らの内面の問題は、やはり社会全体の問題に深く由来している。したがって、それは心理的領域と社会的領域が重なり合っている複合的な領域で生じている問題であって、たんなる個人心理学の議論に回収することもできなければ、社会・経済の問題へと還元することもできないものである。むしろ、それは心と社会のつなぎめで起こっている問題なのである。(序・失われたモラトリアムを求めて)

  昨日の話の中で村澤さんが強調されていたのは、むしろ社会・経済の問題が大きかったように思われる。国の財政状態の危機から、近未来に来ると思われる地球規模の食料危機まで。だから日本が今後「農業をどう考えるか」ということもある、とラストの方で村澤さんは仰られた。

 先に横浜で開いてくださった「新ひきこもりについて考える会」においてもほぼ似たような話が話題にのぼった。若いメンバーのかたは「欲望のダウンサイジング」を考え、ほかのメンバーのかたは「1980年代初頭の生産水準に戻せばよい。別に江戸時代に戻れ、という話ではない」という意見があった。

 村澤さんもその話題には首肯しつつ、「国はその方針を採りたくないでしょうねえ」 と仰る。それはまさにそうだろう。これは政治的に先鋭的に対立するであろう綱引きだし、社会意識の大きな変革はありえるか、の大問題なので。

 なかなか昨日の読書会のような場面ではこのような話を煮詰めていくのは大変なことであるし、いま此れ、この事が必至の課題とはなりにくい。

 しかし私自身は、「言行不一致」な人間の癖に、ひとりでいるときはこんな考えが浮かんでは「どうしたものだろう?」と考えてしまうことが多い。社会的な問題、マクロな問題は頭がクラクラするし、自分自身が「ならば農業をやる」とはならない。これに加えて老親を抱え、いまの年金制度が維持されるとするなら10年後の自分の未来について、財政赤字の国で、アベノミクス(本当?)の国で、日銀がモラルハザードの国で、合理化していくミクロな企業、労働の国で。自分の居場所はどこにあるのだろう??どう生きるだろうか??と日々思う。そしておうおうにして、自分自身煮詰まってくると「これは究極的に僕らのモラルの問題なのだろうか?」と自問自答してしまう。

 でも、憂鬱になっても仕方がないと思っている。こういう話は村澤さんに出会う前から自分のカウンセラーとよく話し合っていたことだし、そして結局「俺はいまだにその答えを自分に出せていない」という、究極的にはそのことだ、という認識があるから。

 でも多くの人にとってどうなのか?といえば憂鬱で深刻な話題、ということになるかもしれない。

 だから時間の物差しは私たちひきこもり当事者は二つ持った方がいいと思っている。

 ひとつは社会のものさし。社会がいまどこに在り、どこに向かっているのかという観察。もうひとつは自分のものさし。他人の思惑と関係なく、自分(たち)は誰と関係を持ち、誰と関係を持たないか。信頼する人、信頼するものは当面何なのか。自分の力量でネガティヴ要因をポジティヴ要因に反転できるものがあるのか?ということを意識していく試み。つまりは自分の時間。

 「社会の時間」と「自分のための時間」(後者は比ゆ的表現で、つまりは「ふつう」と思わされている大多数の人たちの考えは良し悪しは自分で判断するために、いったん脇に置くということ)

 この二つの時間を常に意識しながら生活をするということ・・・。

 孤独かもしれない。だれかと普通に話し合えない話題かもしれない。でも、どこかで誰かとこういう話題が出来るはず(現に僕はできる人を見つけたー少数であっても。でもこれもなかなか大変。判断を誤ると別の政治や宗教に絡めとられる危険もあり)。

 いずれにせよ、そこに希望を見る。

 読書会の村澤さんの視点の角度から感想を、と冒頭書きながら、やはり大きく逸脱している気がするが、結局村澤さんなり、ほかのこういう文脈の話ができる人であれど、私の頭の中はどんどんこの文章のような浮遊の仕方をするので、自分の意識の流れに逆らわずに前日の様子の主観的なこれをもってのレポートとさせていただいた。

 ご存知のとおり、昨日は5年目の「311」であった。あの日のことは遠隔地であったこともあり、自分の軽薄さを考え直す一分間の午後2時46分の黙祷時間であった。僕は本当にあの津波の怖ろしさ、われわれがどれだけ頑張っても太刀打ちできない自然の圧倒的なものをしみじみ実感したのは実は3ヵ月後のNHK番組での振り返りであった。スマートフォンなどでとられた普通の人たちの提供映像の圧倒的なリアル、ということもいま考えると全く新しいことだと思う。ここにもメディア独占の最終局面の立会いにあるような現代なのだ、という気がする。新しい「公共メディア」とは何か、ということも今後みんなが考えていかねばならないのだろうな。そんなことも思う。

主催のかめの会世話人、井口さんが客観的な内容を書いてくれました。これがいちばん。
http://d.hatena.ne.jp/isikarikamenokai/20160312

また、訪問と居場所の漂流教室、相馬さんも参加してくれました。ブログで触れてくれています。311と、その後の思い、共感します。
http://d.hatena.ne.jp/hyouryu/20160311

2016年3月1日火曜日

若原先生献本:『ヒトはなぜ争うのか』

 
 
 昨年インタビューにお応えいただいた若原正己さんの待望の新刊が出て、寄贈いただきました。先月の上旬に送っていただいたにもかかわらず諸般の都合で紹介が遅れて申し訳なかったです。ありがとうございました。
 
 当初は生物学からみて「人はどこから来て、どこへ向かうのか」というようなタイトルの本になると思っていたので、一瞬、本のタイトルに意外な感じを持ちましたが、若原先生の現代社会に対する危機意識が反映したため、このようなタイトルになったのだと思い返し、少し厳粛な面持ちになりました。
 
 
 「遺伝子」や「生物学」というテーマ。私自身、ほんの以前は実に縁遠い世界でした。一般の人たちより全然知らないことばっかりだったと思います。これもインタビューで個人教授していただいたおかげでして、この本もほとんど苦しまずに読み通すことができました。前半は生物の成り立ちの話から入りますから、インタビューで教授していただいた事柄がそのまま本の理解に役立ちました。そのような次第で、ほんのちょっと前の自分には想像もつかないことだったな、ありがたいことだな、というのが正直な感慨です。
 やはり直接に著者とお会いして、直接図示などもしてもらいつつ説明をいただいたり、僕の稚拙な問いにも応えていただいたりした、そういうやりとりの中の中における先生の語り口、表情、言葉の印象その他が記憶の中で再現されるおかげだろうなとと思っており、いかに直接的な出会いの中で教わることが、聞き手にダイレクトに伝わるものかと。再認識される思いです。その意味でも人からいただくギフトが多い昨今だなあとしみじみ実感しています。
 
 もちろん、大変読みやすい構成になっていますし、人文学社会学にもつながっていますから、人文諸科学を専門に学びたい高校生への生物学(自然科学)の参考書としても最良かと思います。

 
 分かりやすい記述の流れの中、白眉はやはり「人はなぜ争うのか」を取り上げた第七章。若原先生の文章には疑問、仮説、反証、自己弁証の跡が見えます。これはインタビューの限られたやりとりの中では再現不能な部分でしょう。言葉にしにくい思案の跡が見え、特に大事な章になっています。
 
 前書き、最終章,あとがきにもありますが、人間の「争う」遺伝子の側面と、「平和」を希求する理念の双方を持つ相反した性格。
 それをヒトは(映画)「ランボー」と、「マザー・テレサ」を兼ね揃えていると表現されています。誠に見事な表現だと思います。「暴力」と「倫理」の両面をヒトは持っている。それをアンドロジェンとオキシトシンというふたつのホルモンから仮説を立てる。これが第七章の最も面白い部分です。
 
 あと、個人的には第一章の「全宇宙の物質の階層性」という整理から始まる部分が面白かった。物質世界から見た宇宙、生物、ヒトの社会という整理の仕方はともするといろいろ混沌とする頭にはひとつの基準としてそこに立ち戻りながら考えると分かりやすかったです。
 
 生物学の立場から見る人文社会の世界。ぜひ多くの人に垣間見ていただきたいと思います。
 
 若原先生のインタビュー(個人授業)はこちらから読めます。ぜひインタビューを参照にしつつ、この本も手にとって戴ければ幸いです。

2016年2月21日日曜日

生活困窮者自立支援法から1年フォーラム

 NPO法人北海道社会的事業所支援機構と連合北海道共催による「生活困窮者自立支援法を考える市民の集い」に行ってきました。
自立支援法の施行からそろそろ一年、去年のこの時期モデル事業を行っていた釧路の櫛部武俊さんにインタビューした経緯もあり、地元札幌市の取り組みはどうなっているのか気になっていたため参加した次第です。実際は行政は北海道、札幌市の担当者のみならず、石狩市当別、新篠津への取り組み(ワーカーズコープ)、空知圏の取り組み(コミュニティワーク研究実践センター)もあり、内容は多岐にわたるので、最後の質疑応答のレポートだけ今後ホームページにあげたいと考えています。...
 端的に感想を言えば、隔靴掻痒の感あり。
 生活困窮者の幅がきわめて広いのです。
 それこそ明日の生活へのお金がない、という経済緊急事態の人から、「人とのつながり」の再構築の応援に関することまで。また、都市部と地方の文化の違いも明確に出てきました。
例えば「ひきこもり」について考えてみましょう。空知の報告では、旧産炭地居住で危険労働についていた親御さんのもと、それなりに高額年金を受給しながら、四十代、五十代の子どもがひきこもっている例があるという。また、農家の子どもでも似た例があるという。
 その場合、経済上の緊急問題とはいえない。では何が問題か。それは親亡き後の社会的孤立を課題になる、と支援者としては当然考えることでしょう。それは経済困窮問題とは違ってくる。また、地方では地元住民の目線の厳しさの問題もあるという。それは地域文化のありようの問題であり、社会的排除の問題につながる。
 生活困窮者自立支援は、経済困窮、ホームレス支援、学習支援、就労支援(中間労働含む)、そして社会的孤立からの防衛(社会的排除の問題)まで実に実に幅が広い。そしてぼくが考えていたのはそのすべてが支援者サイドが問題とし、支援者サイドが抱えるべきことなのだろうか、という思いでした。それが隔靴掻痒の思いでもある、と。

 例えば地域包括センターや民生委員、社会福祉協議会などが介護支援で80代の親の元に50代のひきこもる子どもが発見されたとする。存在が未確認という意味では問題であるかもしれないが、それ、そのこと自体が問題なのだろうか。例えば無職孤立、かつ職場のない地域で親に依存して生活してるとして、その人は生活弱者ではあるだろうが、そのことを持って五十代の子どもは困窮者で、困難事例であるだろうか。むしろ地域の目と、職場のなさ、都会に出るにしても履歴の空白などであれば、むしろ当事者主体のニーズとは何か、と考えたほうがよくはないだろうか。それには当事者が声を上げにくい環境を作り直すほうがいい。しかしそれが難しいから、全体を総合して困難事例になるのだろう。
それには個人もさることながら、就労をめぐる社会環境の問題であり、もっといえば就労が困窮者支援のゴールなのか、となる。親の年金が高額であれば、当面経済困窮ではないので、むしろ同じようなスティグマを感じる仲間づくりの中で人間関係の再構築ができるような仕組みづくりの事柄であるし、当事者にもっと内在的なパワーがあれば、この社会での新しい生活の方法を考える尖兵にもなりえる。いっそ、ひきこもっている人のニーズに即したサービス、地域課題の発見につなげる、逆転の発想もあっていいのではないだろうか。

もともとこの法案の源流は民主党時代の遡ればパーソナル・サポーターなのではないか、と僕は睨んでいる。そこに大震災がやってきて、困窮者支援が法制へと向けられた。だから釧路の櫛部さん曰く、最初は社会的包摂の議論だったのが、途中で行政からわかりにくいという話になったこと、かつ自民党政権に変わったことで、経済困窮支援に一層シフトしたことで、やや現実思考に傾斜しすぎたのだと思う。でも、理念として包摂や孤立支援は残っているので、上記のごとくかなり生活問題の幅が広がってしまったし、行政は新しい政策がまたひとつ加えられてしまった、ということになってしまったのだと思う。

 僕はひとが生きる以上、生活に困難を生じる局面は誰にも起こると思っているし、あえて困窮者という言葉を法律につけたのにも違和感がある。法律は「生活者支援法」という総合基本法にして、その元に障害者総合支援法や介護保険法などを位置づけ、ライフスタイルには生活危機が生まれることを前提として、社会的セーフティネットと、社会包摂活動支援(居場所支援、自助グループ支援など)をパッケージにすべきだと夢想する。

 いまの流れだと困窮者支援は整理がとても難しい。一年たったいま、この法制度の整理と分析が何らか研究として書籍化されないものかと思う。
ひきこもりも、枠組みの中に膾炙される以上、この法制度には高い関心を持たざるを得ない。誰かこの制度をリアルで研究してる人はいないでしょうか。そのような先生がいればぜひインタビューしたいです。

2015年12月21日月曜日

インタビュー第7弾 発生生物学が専門の若原正巳先生のお話を掲載しました。

  実際お話を伺ったのは7月下旬で年末まで原稿をあげるのに時間がかかり、先生には大変ご迷惑をかけましたが、どうにか年内に若原正巳先生のインタビューを掲載することができました。
こちらからごらんください。


 生きものの生きる戦略や人間の特質、日本人の原型的な資質についてなど多岐にわたる話。かなりなロングインタビュー、いや実際の所、正確にいえば個人授業なのでしたが、ぜひ少しでも読んでくれる人がいてくれると嬉しいなと思います。
 もしかしたら前半、中盤の生物発生の仕組みや、生きものたちの生存戦略についてはすでに知ってるよ、という人も多いのかもしれません。ですが私は具体的に専門の方からこの手合いの話を聞いたのは全く初めてで、とても知的好奇心が刺激され、インタビューで落とせる部分がありませんでした。
 「生涯生殖繁殖度」という言葉が示すとおり、動物たちは端的に言えば自分の子どもたちを少しでも多く残す、もっと露骨に言えば自分の遺伝子を残すことが生存の最大目的としてこの世界にいるということ。そして、なぜか人間だけはそのことを主目的にしているようにはとても思えないこと。何というか、全てが不思議なことばかりではないですか!!と私は思うばかりでしたね。こちら側からすればせっかく生まれてきて目的が自分の遺伝子を残すことだけとは。そのためには性転換さえ当たり前の魚がいるとは。と直感的には思うばかりですが、それはこちらの角度で、生きものの世界では人間の持つ考え方のほうが不思議なことでしょう。まあ、とはいえ人間の社会も生存戦略として子孫を残すのが原点な訳ですが、それはだいぶ後景に退いた意識になっているといっていいでしょう。だからこそミーム(文化的遺伝子)ということが語られるのでしょうか。
 人間は自然から逸脱したでしょうか?果たして僕は自然から逸脱してしまったのでしょうか。そういう角度で考えるのも面白いことです。旧口動物の王様である昆虫、脊椎動物の両生類、爬虫類、哺乳類。類型化は出来るのですが、子どもの育てる機能はけして一様ではない個性もあるようです。胎盤がないのに子どもをお腹で育てる魚類のサメ、哺乳類なのに胎盤があまりに脆弱なので未熟児で生まれた子どもを袋に入れて袋の中に入れて母乳で育てるカンガルー、魚でも体外受精かもしれないが、口の中に卵を入れて卵を守る魚もいると。
 類の個性は標準化できてもその中でも個性的な種がいる。そう考えればホモ属サピエンス種のわれわれ人間も、その中で多様な個性があるし、生存戦略のためにこれからも個性を伸ばして生存戦略のための進化をしていく、変化をしていくのかもしれません。南伸坊×岡田節人さんの「生物学個人授業」のなかに岡田さんが興味深い一文を載せておりますので、ここで少し紹介します。
「生きものの科学とは、普遍と多様のはざまで仕事をしているのです。(中略)生きものの科学は、多様性の調査と、多様性への賛美から始まっています。やがて普遍の側面は大きく姿を現し、遺伝子の正体と働きが明らかにされることによって、一大クライマックスに達します。といってもトリの翼とサカナの胸ビレの違いが生物学の根本の現実であることは、あまりにも自明です。同じであること(普遍)を知ったら、多様も理解できるのでしょうか?普遍と多様のはざまに、二十一世紀の生きものの科学が新しく始まろうとしているのです」
 今回の(インタビューというよりは)講義のために、幾つか極めて優しい本で予習していきました。以下、参考程度に。もし、この種の話がいままでなじみなく、これを機会に関心が生まれたという人に僕が参考にした本をあげておきます。おそらく図書館で簡単に入手できるはずです。
●「爆笑問題のニッポンの教養① 生命のかたちお見せします 発生生物学・浅島誠」 (講談社)
●「生物学個人授業 岡田節人」 生徒:南伸坊 (河出文庫)
 以上二冊が生物の発生の勉強に使いました。特に南伸防さんは改めて思ったけれど、ものすごく文章がうまい。やさしく、わかりやすくを標榜する参考書のような文体。かつ、そこに「わかりやすさ」へのこびへつらいがありません。凄い人だと思います。ほかにも南さんの個人授業シリーズがあるのですが、残念ながら爆笑問題のテレビシリーズのようにはいかず、岡田先生以外、ほかに2冊くらいしかないはず。そのもうひとりは河合隼雄さん。ほかは確か養老たけしさん?くらいだったかな?確か。
で、後半の人間の特性については以下の本を参考に読んでいきました。
●「人間はどこから来たのか、どこへ行くのか」 (NHK取材班)高間大介 (角川文庫)
 あとはNHKスペシャルの番組「ヒューマン」のDVDを図書館でレンタルで二本ほど見ました。今回は予備知識が必要だと思いましたので、少し資料は多め。でも、知的好奇心を刺激される読みやすい資料たちたちです。
 もちろん、若原先生の本も。映画ファンは「シネマで生物学」などの本もおすすめです。ただ、私も先生が準備されている本の目次を見せていただきましたが、来年発刊予定の若原先生の新著は大いに楽しみにしてよいものと思います。

2015年12月5日土曜日

とまこまい生きづラジオ #004に出演




この秋に苫小牧の「フリースクール検討委員会」で行っている「生きづラジオ」に出演しました。

その画像がYOU TUBEにあがっています。

MCは、友人でもある藤井昌樹さん。お時間があるかたはゆるゆるとご覧下さいませ。

2015年11月24日火曜日

追悼・毛利甚八さん

 
 漫画「家栽の人」の原作者,毛利甚八さんの訃報に接して、ただただ驚いています。もはや「家栽の人」という作品も古くて知らない、という人もいるかもしれませんが、全十五巻の中に人のこころの深い部分を誤解や何かを乗り越えて本質の部分を見抜いていく家裁の裁判官を主人公にした素晴らしい漫画でした。漫画界の古典と言っていい。
 私はこの漫画に出会ったのは最初は主人公を片岡鶴太郎が演じたテレビドラマ。鶴太郎が優しげで真面目そうな裁判官役をやってるんだなあと思って何気なく見ているうちに、その内容の深さについ引き込まれ、そのまま原作の漫画に走った。単行本を中古で買い求めているうち、強烈に引き込まれていったのです。1994年頃だったろうか・・・?おそらく30代の半ばに入る少し前の頃だったので、いろいろと苛立ちを感じつつ、でも自分のその攻撃性だけではいいことがないぞ、だけどこの苛立つ気持ちをどう方向付けたらよいのか?と思いが揺れていたころに出会った作品だったと思います。
 
 主人公は植物栽培が趣味で、いつも時間があれば木を眺めていたり,植えてある花や植物を眺めていたり,官舎のまわりに花を植えたりしていて端からは変わり者に見える。でも、裁判を一旦はじめると非常に仕事が出来る。なぜ出来るかといえば、その洞察力の深さゆえ。
 だからこのマンガの裁判官は法務実務家にして、心理学者みたいな人でもある。桑田判事というこの裁判官、「見えない背中」が見える人のようで、その話の展開はアッと驚くこと多々。
 
 家裁で扱う問題である少年非行や離婚調停を通して、家族の問題を植物や木を比喩として大変巧みな大岡裁きを行っていく。ただ、事柄はそういう分かりやすい余韻を残すばかりではない。木々や植物が育つように、家族が育つことを考えている裁判官である主人公を配し、人の弱さ、弱いように見えての強さ、愛情の裏返しの悲劇、わかりやすくはない優しさ、などなど、人のこころのひだや綾を巧みに描き出す。。コミックス版では全15巻、一作も駄作なく説得力のある作品を続けてきたものと驚嘆するし、読者側としては教えられたり、心の洗濯をしてくれたり。本当にあらゆる面で感謝するばかりでした。
 しかし、この作品から得られる気付きを得てもまだ、現実にうまく適用できない自分に情けない思いを抱いたこともたびたびありましたし、中には読んだ作品にはこういう展開は納得いかない、という思いを抱いたこともありました。
 
 その頃、岩見沢の心理クリニックの先生が93,4年頃いわゆるインターネットの前、「市民ネット」と呼ばれた時代に自分の所に通う若い患者さんたちを対象にコンピューター通信ができる若者交流掲示板をはじめたことを知り、実際にその先生に会いに行き、その市民ネットの掲示板の交流に加えてもらうことができました。で、その中で「家裁の人」の一作品でこういうものがあるんだけど、内容がこれでいいのか僕にはわからない、納得できない、と問いかけたことがありました。
 それはいわば返答を期待しないモノローグのような書き込みだったのですが、驚いたことにその作品を読んでいる人がいて、「私はこのように読んだ」というレスポンスがあり、「自分以外にもこの作品の原作をファンとして読み込んでいる人がいるのか!」といたく感動し、一時その岩見沢のクリニック掲示板にのめり込んでいたこともいま思えば懐かしい思い出です。いずれにしても、なかなか一筋縄でいかないリテラシーを要求する作品で、精神分析療法をしていた自分には人の深層心理を考える上でも大変勉強になる作品でした。
 
 内容は巻を重ねるごとにより複雑でシリアスになり、一話完結だったものがそうではなくなり、最初のコミックスでは13巻~15巻にあたる部分で一旦休筆になり、満を持して3巻分の最終話までは学校で問題児とされた子が学校を相手に裁判を起こす過程、その中学生と付き合い始めた主人公桑田判事の息子が不登校になってしまう過程、学校で秀才の優等生である子が体育教師のパワハラに耐えられず、学校に放火したことを隠しているという子が近くの森に隠れ家を作り、お互いの思いを語り合う自然の森が作品をまわしていくトポス(場所)として登場します。この最終三巻の連続シリーズは部分部分に神話性も帯びていて、どこか河合隼雄さんの語る物語性に通ずる要素がかいま見えます。わかりにくい、「感受性」に訴える要素が増えてくるのですが、それが自然との響き合いの中でというか、木のざわめく音や、沈黙した場から発せられる論理とはまた別のモノローグのような言葉、それを受け止める人など苦労を背負う人々の中で交感されるやりとりはかなりリアルなものを感じました。そのように、日常性と非日常性が常に交流させる絵の見せ方が実に見事なものでした。
 
 そう、作品は舞台は家事調停が種となるので(後に話は少年非行=少年の苦労に主軸が移りますが)、現実判断の厳しさというものも忘れていない。聖人のような主人公でありつつ、理想と現実の狭間でまさに「裁判官」という「バランス」の仕事をどう観察と洞察と判断で行うかというのも読み手のスリリングを非常に喚起するものでした。
 
 さて、「家栽の人」に字数を割きすぎましたが、その後にゴリラ学者を通して現代社会を照射する「ケントの箱舟」。(おそらく主人公のゴリラ学者は、現在京大総長をされている山極寿一さんをモデルのイメージにしてるんじゃないかと思う)、そして現代の若者の抱える困難と古代的な世界でいまのマイノリティに立たされる若者とかつてマイノリティとして国家から搾取された狩猟系部落の人たちとの民俗学的な呪力も引き出す野心作「たぢからお」などの原作も手がけてこられた。
 最近の活動は知らなかったけれど、いつも頭の片隅にあった作者だし(民俗学者、宮本常一の歩いた道を辿るノンフィクションなどもあり、やっぱりそうか、と思わせる)、「家栽の人」はいつでも立ち返って読み直したいと思える僕にとっては古典というか,精神的な原点的な作品。
 
 あまりにも若くしての死(57歳)に今でも驚きを隠せないし,あまりにも勿体ない、これからの人だったと思うけど、大事な三作(家栽の人、ケントの箱舟、たぢからお)を残してくれたので、作品の中に毛利さんの精神は生き続けるからよかったと思うようにするしかない。
 
 ちなみに僕は「不登校新聞」を創刊号から確か1年ちょっと購読していたけれど、その中で毛利さんのロングインタビューが載った号もあった。「不登校の子は繊細で純粋。それだけにこの世界に生きていくのは図々しさが必要になるので大変な気がする」とか語っていたと思う。
 あと、そのインタビューで非常に心に残ったのは「家栽の人」の連載について、「自分の中でこれは嘘だと思うことは書きたくない。でも、どうしても必要に迫られて書いてしまうことはあった。そういう時は泣きながら書く」といった趣旨の言葉もあって、プロの意気というものに震えたものでした。 「居酒屋を経営するダメ親父が不登校の子のための学習塾をする話を書きたい」といったことも語っていましたっけ。その構想はおそらく果たせてなかったとおもうけど、もしそれが書けたら、現在に接続できるロールモデルになる作品としてのこったかもしれません。
 
 本当に惜しい人をなくしてしまった。こころより、そう、こころよりご冥福をお祈りします。

2015年11月15日日曜日

貧困と人の育ち -人文社会科学からの挑戦ー

 
 今日は友人の誘いで久しぶりに本格的な講演会に行ってきました。
「貧困と人の育ちー人文社会科学からの挑戦」と題した発表者が5人に及ぶ日本学術会議の人文社会科学分野研究者たちの講演会です。
 タイトルにあるとおり、いま注目を集めている子どもの貧困、いえ、正確にいえば「子どもと貧困の関係」に関する研究発表という感じでしょうか。場所は北大の学術交流会館。
 
 トップバッターは日本学術会議会長の大西隆さん。まず日本学術会議というものの性格について具体的な紹介。学術会議の役割のひとつとして政府への提言があるようですが、その中では2014年の9月に人文社会科学分野の研究者で「いまこそ『包摂する社会』の基礎作りを」という提言を行っているという話がありました。また、社会意識調査のデーターが紹介され、日本人の生活意識として自分は「中の中」に属すると答える人が圧倒的に多く、次に「中の下」と答える人が多い。つまり日本人の「中流意識」に変化はないとのこと。この生活意識データーの発表は個人的には少し意外で、驚きでした。
 
 続いて心理学を研究するお茶の水大学名誉教授の内田伸子さん。研究のテーマは「学力格差は経済格差を反映するか」。
 結論からいうと、経済格差が学力格差に直結するものではないというものでした。それよりも、家庭における親の教育において「共有型」か「強制型」かがのちの学力に反映するのではないかという推論でした。
 氏は、主に幼児期の教育を中心に議論を進めましたが、「思考」には「収束的思考」と「拡散的思考」というものがあり、前者はおもに想起、つまり暗記力に象徴され、後者は「想像力」に関係するとのこと。そして大事なのは後者の想像力による思考で、それは後に「PISA調査」と呼ばれる文章問題に有意に反映してくるそうです。想像力が伸びるのは類推(アナロジー)の力と関係し、類推する力は自分が「良く知っているもの」と「知らないものを関連付けられる力に関係するそうです。
 その他、意外にも運動能力の発達に関しても、「バレエ、ダンスなどを習う子」がむしろ発達の力が弱いとか。つまりそれらは特定の身体の部分を使う訓練的な運動であり、また、説明時間が必然的に長くなるため、子どもたちに運動に対する苦手意識を与えることが多いとのこと。ですから子どもの場合、まず「自由な遊び」が大切との話でした。それは先の想像力とも共通する話のようで、絵本の読み聞かせでも子どもの感情に寄り添う「共有型」が大人が子どもの自由な想像を摘んでしまう「強制型」よりも後々の学力の伸びに与える影響の違いが出るので、結論的には「経済格差と学力」よりも、「子どもの自由度と学力」のほうが相関性が高いと伝えたいのではないかな、と思いました。(あるいはいわゆる「文化資本」といわれるもの?)
 それゆえ、なかなかこの話題は興味深かった。
 
 続いて「社会的排除と子どもー外国につながりのある子どもの支援から」というテーマで近大姫路大学の松島京さん。社会学から見た「日本に滞在する外国系の子で保育園に通う子どもたち」のフィールドワークです。外国系の子どもたちの国籍などの背景から始まり、姫路市の保育園での外国系の子どもたちの保育の問題のかなり細やかな生活背景の分析などの研究が語られました。細かい話になるのでここでははぶきますが、保育園側の模索、葛藤、支援者の問題意識などが後半に語られ、子どもたちの親御さんの不安定な就労状況を含め、「さもありなん」というべき問題提起型の研究発表でした。今回は時間がなかったので質疑応答や登壇者間の議論がなかったので、その点が一番惜しかった研究発表でした。
 
 短い休憩を挟んで貧困研究を行っている北大の松本伊知朗さんの発表。関西弁イントネーションの明るい語り口。本日最もダイレクトで、貧困問題のストライクな研究発表です。冒頭で「「貧困の再生産」は宿命論ではありません。みなで考えて、そうならないような修正を考えて行きましょう」という呼びかけをされました。そして現代社会の貧困問題は「食べられない」という絶対的窮乏に陥る「絶対的貧困」ではなく、豊かな社会における「相対的貧困」であるということ。「相対的貧困」は貧困研究の先駆国であるイギリスで1960年代に「貧困の再発見」という形で登場したということです。
 また、「子どもと貧困」はけして近代の話ではなく、大昔からずっとあった歴史的イシューであるということでした。
 議論は日本国の所得再分配機能が弱いために格差が広がること、母子家庭の貧困率が非常に高いこと、子どもの貧困に対する社会政策が遅れていることを指摘。そして現代的な課題として、「家族」機能に関する市場化、生活手段の商品化が進んでいること。そのようになってきているにもかかわらず、なお公共的な支援ではなく、「家族」と「市場」に依存させようとする政策が続いていることを問題にされていました。
 「家族だけで子育てをした社会はない。家族なしで子どもが育った社会もない」という言葉が印象的でした。
 
 最後は同じく北大の教育学研究者で臨床心理士でもある間宮正幸さん。間宮さんの活動領域は若者支援で、就労支援の枠組みでの活動の実践が豊富な方です。間宮さんの話は私たちが今回出した本の内容にかぶる部分が多いので、極力かぶる部分は省きたいのですが、間宮さんは欧州では若者の失業問題に関しては、若者による「暴動」や「異議申し立て」という社会への表現として出ているのに対し、日本では「就労の困難」と同時に「人格的自立の問題」の二重の困難に見舞われている、と憂慮されていました。間宮さんが言われる「人格的自立の問題」は端的に言えばひきこもりなどの若者の内向化の問題で、その傾向が日本固有の難しさと考えておられるようでした。そのようなとらえ方をした上で、ご自身の「ヤング・ハローワーク」での若者の相談支援の実践を通じた報告。その中で就労活動以前に発達障害などの問題が見落とされている可能性や、社会不安が強い若者たち、いじめ被害に苦しんできた若者など、就労以前の問題を抱えている若者たちの事例が多いことに驚きと危機感を持っているようでした。
 ですから、就労への動機付け以前に人間力を高めることのほうが先決、とのこと。それが間宮さんがこだわる「人格的自立」という言葉に象徴されるもののようです。このあたりは自分も本作りの過程などで種々監修の先生とも議論してきたことなので、「うんうん」と頷くことが多かったのでした。
 間宮さんの提言としては●求職活動を「人格的自立」の要求と考え、仲間作りや異質な他者からなる共同体での体験と捉えなおす●彼らの自己信頼の要求に応える●日常の成功体験の積み重ねが必要、というような内容でした。
 
 また、議論の前置きとして若者の抱える困難を「ひとつの構造としてとらえる認識が必要である」「憲法9条、21条、25条とワンセットで考えるべき」「貧困と戦争が現実にセットされている(堤未果さんのことば)」「深層構造の「傷つき」を見るべき」と述べられたことも大変印象的でした。
 
 全体には約四時間近い長丁場にもかかわらず、いろいろなテーマを持つ話者が五人語ったので、時間が経つのもあっという間で。最初に予定された質疑応答の時間はなくなり、また仮にあったとしても予定が十五分で、これだけ広く深い各種のテーマでは意見の集約は難しいだろうなあと思いました。私自身もいろいろな課題をつまみ食いした感じもあり、深い理解にいたるものはありませんでしたが、今後いろいろ考えていく際に広い角度の問題提起が沢山あって、多くの刺激をもらえました。このような内容が無料で聞けるというのは非常にありがたかったと思っています。