2015年9月29日火曜日

北海道新聞夕刊に「ひきこもる心のケア」に関する記事が載りました

昨日(9月28日)、北海道新聞夕刊の記事で『ひきこもる心のケアーひきこもり経験者が聞く10のインタビュー』が取り上げられました。
ありがとうございます。以下、記事を掲載します。



2015年9月3日木曜日

もう9月も3日。今日は新刊本について監修者の村澤先生とともに地元紙、北海道新聞の取材を受けました。

 少し喋りすぎたかもなあというのが印象です、いえ、別に変なことは話してはいないのですが、もう少し村澤先生にも譲るべきだったかもと。村澤先生とは個人的に本の絡みでよく会っているので、改めて自分たちの作業を振り返る場で横で話を聞くと当たり前ですが、語り口、息遣い、ポイントでの抑揚。さすがにうまいなあと思います。いえ、何しろお相手は大学で教えているわけですから、当然なわけで。でも、語り方の勉強になるなぁと一瞬思います。なにしろ自分はいま思っていることを伝えたいだけで、わ~と行ってしまいますから、余裕がない話し方だったろうな、ポイントがつかみづらかったかもしれないな、と思います。

 いろんな局面で、勉強になることは山ほどありますねえ。
 こういう機会が訪れるとやはり欲目が出て、自分の本のタイトルでネット検索とかしてみたりするんですけど、ほかの検索結果を見るとどうしても「う~ん」と腕組みしてしまうんですよね。何だか重たいというか、ネガティブな社会病理現象のようなタイトルが並んでいて。

 私は私たちの生活心理とひきこもることに何か確たる断絶があるとは思えないのですよ。いえ、そういうふうに言うほうが特殊で、もっと大変だ、というお話は分かるんですが、比重と言いますかね。もう少し肯定的なひきこもることの提起があって、そのバランスの釣り合いがとれて、建設的な話になっていくと思うのですが...。

 あるいは「ひきこもること」を別の角度、つまり病理ではなく、「どういう関係性の中で起きることなのか」、そもそも人と人との「関係の場」が先にあっての個人、と考えれば、こもっているひとも、こもってないひとも同じ穴のむじなではないか、という議論もアリではないかと。こうなるとわかりにくい分野の話になので、もう少し議論が煮詰まり、先に言った時に出てくる展開の話かもしれません。(そういう展開までいつか行って欲しいですけど)。

 でも面白いかもしれないのです。ひきこもりを論じることは哲学を論ずることかもしれません。究極は、ですけど。だからもしかしたら社会的な現象のみならず、哲学的な何かを提起している現象なのかもしれません。ひきこもりは。(まあ、ここまで書いてしまうと、誤解を招くかもしれないので。いまはこのあたりで)。

 誰にとってもいまの関心領域がありますから、ひきこもりの話はマイナーなのはある種必然性があるだろうし、語りがある種の固定性があるのは仕方がないことかもしれません。でも、潜在している層が数としては分厚いのでしょう?

 ではなぜ層が分厚いのにあまりにマイナーで、議論に固定性が生じるのか。これ哲学というか、これ壁だよね、と思うところなんですね。

 まあ、少しずつ少しずつですね。ある程度の「抑えるポイント」と「整理」ができればいいなと思います。う~ん。宣伝めくけど、今回の本もその中のひとつということで。Oh!YEA!ということで。

2015年8月31日月曜日

ひきこもる心のケア出版しました。

 
 
1800円(税抜)
 
 このたび元ひきこもり経験者としてひきこもりの支援実践を行っている人やひきこもり関連の研究者をされている方々へのインタビューをまとめた書籍『ひきこもる心のケアーひきこもり経験者が聞く10のインタビュー』が世界思想社より出版されました。
 私がインタビューアーとなり、10人の先生方の話を編纂しています。丁度一年越しの作業がやっと実を結んだ形となります。実際はインタビュー作業は2011年の秋から始めていたのですが、昨年書籍化のためにインタビューの内容そのものを全く変えて専門領域でお話を伺ったもの、あるいは補充インタビューしたもの、そして新たに道内外の支援実践者3人を加え(うち、参加NPO法人団体の理事長に改まって話を訊いたものを含む)全部で10人。実質、この1年の作業をまとめた本といえましょう。
 
 私自身が読み返して編者自身、おこがましいという気もしますが、率直に「これは面白い」「面白いし、ためになる」と思いながら読み終えました。
 10人の先生方のお話が、いわゆる「社会的ひきこもり」に特化したものばかりでないにもかかわらず、その語りが相互に共振している感じがあり、言葉では「○○である」とはうまく言えないのですが、ある種の共通のベクトルが見えてきた気がするのです。その結果、「ひきこもり」をとりまくいままでの言論環境の中にあっても新鮮な、そして新たな「共通認識」を創るものと思われる角度を提起できたのではないかと思われるのです。
 ただ一番、おそらくみなさんの共通問題として言えるのは、「過剰な競争社会化」「自己責任論の浸透」「社会の流動化の促進」というあたりのこと。本書でとりあげたひきこもり問題の背景、底流にその語りの中に流れているような気がします。
 
 本は全部で四部構成。第一部は支援実践者の物語り。まさに物語りといってよいような、支援実践に至る過程に支援者自身も若いときにいろいろと深い模索の時期があったことがわかります。序章でわたし自身のひきこもり経験を詳細に、逆インタビューされていますので、できれば昨年出した自費本を読んでくださった方は、今回はできるだけ最初から第一部、第二部という順番で順番に読んでいただければ、と思う作りです。そのように新鮮なひきこもりをめぐるストーリーがイントロダクションとして色鮮やかに、この本の全体像へとつなぐ流れを構成しています。
 
 その形で第二部は「ひきこもりと心理学」、第三部は「ひきこもりと発達障害の関係」、第四部は「社会的排除としてのひきこもり」といった流れで終章で本書の監修者と私でインタビューを終えた後の感想対談をする、という作りです。
 
 ひきこもりという現象、この現象の渦中にいる人は全国で70万ほどとも言われているようです。ただ、その態様の幅はわたし自身はわからないところもありますし、実際、何をもって「問題となる」ひきこもりなのか、というのは正直どうなのだろうか?という気がします。「つながりを失っている」「つながる場所が見つからない」という共通項はあるかもしれませんが、私たち生活者と何か確たる断絶があるのだ、とは私は思いません。ただ、本書でも和歌山の紀の川病院というところでひきこもり研究所を開所している宮西照夫先生が語る「ひきこもり臭」がある、という意味での共通項はあるかもしれません。
 
 しかし矛盾するようですが、「ひきこもり」が最近語られなくなってきたのが気になるところです。もっと大きくいえば、社会に伏在する種々の困りや困難への照明が「落ちてきている」ような気がするのです。それは端的に言えば、私が懸念する政治の動きで、どうも人びとが国を創るボトムアップ型社会の構想とは真逆に、「国民から国家へ」のトップダウン型社会になりつつあり、そのため生活の中のさまざまな困難が置き去りにされる可能性を危惧しています。(やや物事を大きく取り上げすぎかもしれませんが)。
 
 いずれにしても、すべてのインタビューが成功したとはいえないかもしれませんが、本書の八割方は非常に面白い、興味深い出来になったと多少の自負があるところです。そして本書をベースにしてインタビューをはじめたならば、そうとうなものが提出できたのでは?とまた、おこがましくも思います。
 
 思い返せば、本の編纂の過程ではいろいろなことがあったな、と思います。それは共同作業を通し、編者、監修者、出版編集者それぞれのリアリティを軸とした立場を交錯しながら、時にこちらが思い込んでいたほどには自分が考えていた「ベース」が理解されているわけではなかったとか、それはお互いにさまざまな思いを共同作業の中で感じたことと思います。
 でも、例えば、その私が感じた「さまざまなこと」こそ「社会的生産の合意点つくり」だったわけですし、このような活動は古風にいえば”上部構造的な”作業ですが、でも社会のための「生産活動」でした。つまり初めて社会へと、つまりは世に問う、そして誰かのためになってもらえる希望を託す「インタビュー集」という作品になりました。
 ぜひ多くの人に手にとってもらいたい、それが偽らざる心境ですが、読まれて厳しい評価を受けること。これも大事な社会活動です。どうか手にとって下さる方があれば、ご自身の「思い」で、その感性に忠実に、ナチュラルな形で読み進めていただければ幸いです。
以下、内容の目次です。
 
はじめに
序章 ひきこもりという経験  杉本賢治
第1部 ひきこもり支援の最前線
第一章 自立を強いない支援  塚本明子 (とちぎ若者サポートステーション所長)
第二章 仲間の力を引き出す  宮西照夫 (紀の川病院ひきこもり研究センター長)
第三章 ピア・サポートという方法  田中敦 (NPO法人レター・ポスト・フレンド相談ネットワーク理事長)
第2部 ひきこもりゆく「心」
第四章 対人恐怖とひきこもり  安岡譽 (北海道精神分析研究会会長)
第五章 自己愛とひきこもり  橋本忠行 (香川大学准教授)
第六章 モノローグからダイアローグへ 村澤和多里 (札幌学院大学准教授)
第3部 発達障害とひきこもり
第七章 オーダー・メイドの支援  二通諭 (札幌学院大学教授)
第八章 自閉症スペクトラムとひきこもり 山本彩 (札幌学院大学准教授、元札幌市自閉症・発達障害支援センター所長)
第4部 社会的排除とひきこもり
第九章 若者が着地しづらい時代の支援 阿部幸弘 (こころのリカバリー総合支援センター所長)
第十章 生活を自分たちで創り出す 宮崎隆志 (北海道大学教授)
終章  ひきこもり問題の臨界点  杉本賢治 × 村澤和多里
おわりに

2015年8月21日金曜日

インタビュー第五弾 政治学者、田口晃さん。

お久しぶりです。新しいインタビュー記事の更新が収録日より丸まる二月遅れてしまいましたが、昨日掲載をしました。
 http://ethic.cloud-line.com/interview/16/
 
 今回は「民主主義」について。収録は6月19日で、NPO法人Continueというところで毎週行われているオックスフォードのペーパーバック、「Buddism」の英語購読会のファシリテーターをしてくださっている田口晃さんに七回にわたり、北海学園大学法学部一般教養の政治史を自由討論の中で学びながら、その背景を元にしてContinueの理事長さんとスタッフさんを交えた座談形式で行いました。それゆえ、私たちの準備の続きをもとに話しあいを行ったため、内容がやや難しめというか、抽象度が高い面があるかもしれません。ですが、いま、民主主義の意義が改めて問われている状況なので、アップ・ツー・デートな内容だと思いますし、同時に、NPOのスタッフの方の発言や私の発言で、「民主主義はどういうものと考えてこられ、その実質が、意識や考え方として(日本で)どういうふうになっているのか」を考える耐久性の高い内容になっていると思います。

 今回も分量は多めにとりました。形式話ばかりでなく、「本音の」というか、意識の深層に内容が後半特に、展開がなっていくのが見えてきて、いろいろと刺激的な内容になっていったと思います。少なくとも私は非常に面白く、今後も似たような別の企画を立てれればと思います。「いま、民主主義はどうなっているのか」というところに関心があるかたにじっくりご賞味いただければ幸いです。
 次回のインタビューのお話はすでに7月末にお訊ねすることができました。今回は発生生物学の先生で、生きものの世界の生存戦略の不思議さ、面白さ、そして自然界の生きものとして、特異な存在であるわれわれ人間の登場から今後のありかまで、非常に面白い、トリビア?も満載な内容です。幸いに、自然学と人文学の出会いの内容になっております。できれば来月には掲載したいと思っています。どうかお楽しみに。

2015年4月3日金曜日

インタビュー運営サイトをブログに移行中です。

 個人でインタビューサイトを運営中ですが、何らかの理由があって、サイトの検索が上がって来ないようです。確かに無料HPサイトを利用しているため、レイアウトもきれいではないのですが、それにしても不自然でありますし、折角の良い人のお話も読まれないのではお話にならないので、当面今までのインタビューをブログに再掲し、今後はブログにインタビューを掲載して行こうと思っています。そのうち、きちんとしたホームページを作成するときもあるでしょう。
 暫定措置ですが、私自身は記号のような存在で良いとしても、内容が多くの人の目に物理的に触れないのは惜しいので、手間隙はかかりますが、少しずつ移行して行こうと思います。現在のホームページは新しいインタビューも今後掲載していき、時期を見て完全移行して行こうと思っています。

2015年4月1日水曜日

困窮者自立支援制度について 櫛部武俊さんに聞く

お久しぶりです。
様ざまあって、なかなかブログに手をかけられないで来ました。

本日から新年度ですが、本年度から施行される「生活困窮者自立支援制度」について釧路で先駆的な活動をしている櫛部武俊さんにインタビューした内容を拙ホームページにて公開しています。話は制度の内容を超えて、櫛部さんの人生観も含んだロングインタビューです。

関心のある方はぜひ読んでいただければ嬉しいです。
http://ethic.cloud-line.com/

なお、ETVの「ハートネットTV」でも困窮者自立支援制度を昨日と今日、とりあげますね。
このあとの午後8時から。(現在、午後7時50分)。
そちらも制度に関心があるかたはぜひどうぞ。

2015年3月30日月曜日

インタビュー第四弾 櫛部武俊さんと、生活困窮者自立支援制度

今年の二月下旬、釧路を訪れ、「生活困窮者自立支援制度」のモデル事業を全国に先駆けて行っていた一般社団法人 釧路社会的企業創造協議会の事務所を尋ねて行った櫛部武俊さんのインタビュー、遅れに遅れましたが、本日掲載させていただきました。丁度、制度発足直前という、ある意味ではタイムリーなものとなった、としておきましょう(笑)。
http://ethic.cloud-line.com/interview/11/

 内容の長さや私の文章の中でも垣間見えるかも知れませんが、私はかなりな「櫛部ファン」です。櫛部さんの魅力はさまざま思うのですが、一番思うのは、櫛部さんという人は人と「共有」したい人なのではないか、ということです。今風にいえば、「シェア」したい人、というか。

 生活困窮者自立支援制度とか、生活保護制度のゆくえの中で活躍する人という捉え方だと、どうしても経済問題や社会問題の枠組みのスペシャリストとして捉えがちになりますし、行政マンでもあった櫛部さんには特にそういう視点でまず考えてしまいそうですが、実際の櫛部さんはむしろ「人と気持ちを分かち合いたい人」という気がするんです。

 「こう思わない?」「そういうとこあるよね~」「あいつすごいね~」「これ、どう思う?」「何か違わないか?」みたいな、人と人との関わりあいの割合深いところの「そうかな」「そうだよね」という分かち合いを求めていて、それを阻むのが経済とか、社会関係とか、孤立孤独とか。そういうものを取り払われた中で人が自由に「感じられる」状態をわかちあいたい。それを阻むものと向き合いたい。何よりもまず経済問題とか、社会問題が先にある人だけではけしてないんじゃないかと思うんです。
 そうでないと、私みたいな身分不詳なものにこんなにいろんなことは話してはくれないと思います。おそらく櫛部さんの明るさと人間探究心はかなり若い頃に培われた何ものかだと思いますが、それをきっと組織人としてシンドイ時も忘れないで来られた。その恩恵はちゃんとあって、僕は釧路に櫛部さんがおられることが寒い土地柄だと思うけど、灯火な気がしています。職場も若い職員の人たちも含めてとても明るいものでした。

 困窮者自立支援制度の具体的なことを付け加え忘れてました。

 行政はまず生活相談の窓口を設置し、相談に来られた人の支援計画を作ります。これが法定必須事業。もう一つの必須事業は離職後に住宅を失った人を対称にする「「住宅確保給付金」。
 任意の事業として、日常生活自立、社会生活自立をベースにした「就労準備支援事業」、ホームレスなどの人のための「一時生活支援事業」、家計相談、家計管理に関する扶助「家計生活支援事業」、そして生活困窮世帯の子どものための「学習支援事業」などです。

 釧路では中間労働、社会的企業として「魚網作り」を行っていますが、現在多くの自治体では任意事業の動きは鈍いようです。現在進行形の法律なので、今後を見守って行きたいものです。

2015年1月5日月曜日

自分のメディアがあるということ。

 わ!と。
 今年に入ってから書いたブログ記事のアクセスがいままでの記事より短期間でアクセスが多いのでびっくりしてます。おそらく、「ペコロスの母の玉手箱」にまつわる検索でヒットしてブログに到着していただいたのでしょうね。中身を読まれた方がどのような感想を抱いたか分かりませんが、まあ、面倒なことを書いているなと通り過ぎた方が多いのではないかと思います......。自己卑下ではなくてね。

 こんな感じなので。もう少し自己修正する分析が必要であるとも思っております。

 今年も(?)個人的にはいろいろありそう。日々の舵取りって難しいですねえ。この時代。時代のせいには出来ませんが、暗中模索ですよ。今年は本が出る予定なので、現状も間歇的に忙しいときはありそうではあります。間歇的だと思いますけどね。まだ分かりませんが。
ですから、自分のためになるべく吸収できそうなメディア探索をしています。特にインタビューや対話を中心に。昨年からその辺は意識的に見聞しているつもりですが。ネットには結構オルタナティブなメディアがありますね。自分のアンテナにひっかかりそうな。今まで気づかずにきたんですねえ。

 まあ、こういうブログも考えてみれば、自分発のメディアなんじゃないかと改めて気がついて。
 ちょっと無謀なことをしようかなと考えています。ま、いま現在ですけどね。
 無謀なことを考えてすぐ(個人の中では)突っ走ってしまい、度坪(『ドツボ』、です。度坪、っていいね。土坪とかもね)にハマルんですが。それなのにまた馬鹿なことを考えているのですが、もうちょっと頭を冷やして考えます。

今のところ、ヒントはこれ ↓
 
 
よければこちらも運営してますのでのぞいてみてくださいね。
 

2015年1月3日土曜日

「ペコロスの母の玉手箱」 感想


 
 明けましておめでとうございます。今年は少しブログもアップしていこうかなと思っています。さぼり気味だったので。今までよりも少し広げて刺激を受けた本や映像メディアについても書いて行きたいです。
 
 まず、今年のお正月に読んで素晴らしい才能との出会いを寿ぎたい、岡野雄一さんという方の『ペコロスの母の玉手箱』。表紙に描かれているように、これは老いて認知症になった母親を看ていく(観ていく)日々を綴ったショート形式の漫画です。母親が入所したグループホームを主人公の後期成年(60過ぎの人ですが、過ぎたばかりなので、初老とはいいにくい。後期成年という言葉を使いたい。老人という言葉は70くらいからが適当ではないでしょうか)が訪ねて伴にゆったりと過ごす時間を描いています。グループホームに母親は居住していますから、直接介護の場面はありません。ただ、本人のことを母親は思い出してくれません。ほぼ「まる禿」になった息子の名を母は思い出してくれず、「ハゲ」と呼ばれるところはやや切ないです。
 全体にユーモア漫画のタッチと、丸みを帯びた描線で認知症の世界の緊張感はほとんど感じませんが、作者の「母ちゃん」も含め、ホームに入っている人たちの描写はかなりリアルです。(ひとり、コミカルに描かれるレギュラーのおばあさんはいますが)
 にもかかわらず、ここに描かれる世界はどこか僕らの記憶の源流を思い起こさせる切ない郷愁が全編を貫いています。同時に、驚くほどシュールな世界を描いているともいえます。淡々としていながら、漫画の表現としてはかなり斬新な世界を切り拓いていることに気づかされ、僕は一度目通読したときは、その斬新な想像力の飛翔具合にびっくりしました。これが60越えの、しかも男性のものなのだろうか、と。作者自身の母が辿っていると思われる記憶や主観的な世界への感応力は、ともすれば社会秩序の体現であろうとしてしまう覚醒した世界の住人であろうとする中年以後男性の硬さをやすやすと乗り越え、母と伴に、母の若い頃に、そして母が酒乱のために悩まされた晩年少し前の父との安らかな語らいの世界に、作者自身が飛び込んでいきます。
 
 母を看るのは後期成年の息子のみで、その妻はおらず、客観的にその世界を描いているという意味では現代的な課題でもあり、リアルタイムな表現ですが、ここまで異性であり女性である母親の記憶の往復に寄り添う形の旅に付き添えることは普通なかなか出来ることとは思われず、ある意味では作者の「憑依する能力」というものさえ感じてしまいます。
 
 私がまず驚き唸ったのは冒頭にあるタイトルのように、「母の中に玉手箱があって その玉手箱の中に迷い込んでしまったような」世界からこの漫画のストーリーは始まりますが、車椅子にのった母と対面している初老の自分をもまるごと箱の中にしまってしまう穏やかな「大きな母」の描写でした。これは男性作者にはなかなか出来ることではないな、と思います。
 ストーリーの中で、主人公はいつも淡々とホームに現われ、母のなすがままに現実感から離れた母とのきれぎれの対話に寄り添い、時たま禿げた頭をなでられるがままに時を過ごします。
 作者の母は、上記したように酒乱の父に悩まされた人でした。父親は素面の温和さとは一変して酒三杯で人格が豹変します。それでも母の記憶の中で父は許され、そして酒が入ると乱暴になる夫を慕い、時には今でもすがっているかのようです。おそらくそれは現代では考えられないほど昔の「母親」というものにとって夫は「すがり、頼る」唯一の人であった、ということでしょう。作者の母は夫を看取ったあと、すぐ認知症になりますが、その症状が出てくること自体がおそらくその証明でしょう。慕い、すがり、頼る夫の存在を失ったとき、やはり子どもは父の代わりにはなれなかった。母はあくまでも母で、おそらく子どもは子どもです。時には甘えても心の中で頼りとなる「心から慕う手」にはなれないのでしょう。
 だから子どもである「ペコロス」さんは母にずっとかなわない。むしろ呆けるようになった母を看ながらまるで母が辿る記憶の旅の中に自在に翻弄され、いつまでも子どもであって、「未だに母ちゃんの掌の上にいるとやねぇ」と思い、会話のない母とのゆるやかな時間に「不思議なぬくもり」を感じる境地にいます。淡々とし、冷静に見える主人公の描写の中に母を恋いる世界(とてもシュールな世界)が展開する。こういう表現を出来る作者に今までの男性には出来なかった「乗り越え」をみた気がしました。そして「幼子を慈しむように、童女になった母を慈しむ」と、自分と母の相互の懐かしい記憶の往復を抑圧せずに描写していきます。
 まさに、幼子を見る若き母の姿がワープし、認知症が進んだ母の邪気のない笑顔がまるで童女のように描かれます。
 現実とのバランスをとりながらも、老婆である母親が童女となり、若い女性となり、そして自分の幼い頃の母となり、それらの時を往来する自分の母親への気持ちを絵で表現した人はかつていなかったと思います。漫画でそのような、真面目な問題や状況を軽やかな表現で描いた作者は、女性にはいたと思います。
 
 
 例えば、こうの史代さんは少なくとも、間違いなくそのひとりです。「夕凪の町 桜の国」「長い道」「さんさん禄」「この世界の片隅で」など、絶妙な作品をこうのさんは書いてきました。このような作品の系譜は女性にしか難しいとずっと思っていたので、まさか男性で、しかも母の介護で(いえ、母の介護ゆえ、かもしれませんが)、こうのさんの系譜を引き継ぎ、並ぶ作者が登場するとは思いませんでした。
 
 柔らかでしなやかに想像力が自在に飛翔する男性作者の登場は、僕自身も遠からず体験することとなる母を看ていく際の想像力の、こころの予習になります。でも、正直作者のような感応の力が自分に生じるようにはとても思えませんが.......。僕にとって、作者があとがきに書かれているように看ていくものへの「癒し」の力になってくれるかどうか。いずれにせよ、これは医療系、介護系などの名作漫画ですし、一般の漫画の世界にも古典となる作品といえましょう。(このシリーズの第一作は映画化もしたようです。作品の舞台の長崎弁が言葉の力を与えています。この辺はこうのさんの古里、広島を扱った物語同様の地方の言葉の力もあります)。

2014年12月13日土曜日

インタビュー第三弾 野村俊幸さん(不登校・ひきこもり支援活動家)

お待たせしました。インタビューの第三弾をお送りします。
http://ethic.cloud-line.com/page27253/

 今回は函館で精力的な若者支援、及びその家族支援をされている野村俊幸さん。その活動の内容とバイタリティはぜひインタビューで確認していただきたいですが、函館にうかがった際は午前から4時まで会合参加をコーディネートしてくださり、それからすぐに二時間近くインタビュー、そしてそのまま夜に当事者メンバーも含めた親睦会をセッテングしてくれた上、ホテルに帰る市電が来るまでずっとお付き合いをしてくれるサービスぶりで、すごいなあと恐縮するばかりでした。
 それは和歌山の宮西照夫先生の病院にうかがった際も似た感じで、場に集う若者たちと諸々雑談したあと、病院終了後、食事をご馳走してくれた上、帰りはホテルがあるJR和歌山駅から結構離れた南海和歌山市駅まで行くバス乗り場まで案内してくれた上に、次の日の和歌山城見学にその日付き合ってくれたリーダー格の当事者の方に「君、お城の紹介してあげたら」とまで。ちょっと躊躇してしまいまして、冗談交じりで「観光はひとりが好きでそれに慣れてるものですから」と言ってしまいましたが、とても真面目で読書好きな感じの人でしたから、いろいろ話が合ったかも知れず、今思えば少し残念だったかも。ただ、次の日は飛行機の早割り切符の関係から、午後の早い時間に帰る必要があり、ということもありました。

 話を戻すと、今回のインタビューは「不登校」と「ひきこもり」の違い、というざっくりといえばそういう流れでしたが、野村さんが言う「不登校は行かない、という選択肢だけれども、ひきこもりの場合は「何かしなければならない」回答を常に求められる」という整理は深く納得することでした。
 ひきこもりに関して言えば、和歌山の宮西先生は中南米の民間精神診療のフィールドワークを長く続けてこられた人ですから、視線には「文化精神医学」というものもあり、その国、社会の文化的な苦悩の表現、それを「文化結合症候群」といいますが、ひきこもりも日本の文化結合症候群という捉え方もされています。元々、日本には「ひきこもる」ことを美徳とする文化があった。ですが、グローバリズム、新自由主義経済の過剰な競争主義によってひきこもる美徳がひきこもる「問題」となって一層こじれが起きている、そんな見立てです。来年8月末に出版予定の自分のインタビュー集もこの観点が基底としてあると考えてくれても良いです。あくまでも見立ての一つですが。ひとり、ただ宮西先生だけのものではありません。

 さて、函館の野村俊幸さんのエネルギッシュな活動は実践とともに著書にもまとめられています。文庫『カナリアたちの警鐘』はとても分かりやすく、かつ誠実さに溢れる本です。野村さんはお子さんの不登校を経た結果、いまの精力的な若者支援をされているわけですが、葛藤やご自身が反省されていることもまっすぐに書かれていて、読んでいる僕はその真率さにまず深く打たれました。文章もその真率さが一貫して流れています。平易ながら内容は不登校、ひきこもりに留まらず、いじめ、フリースクールの歴史、子どもの権利条約、ソーシャルワークの原則など非常に幅広く勉強になります。サポートステーションでの相談員も勤める野村さん。直近の若者支援の行政を含めた支援情報が含まれ、そのアクチュアリティにも感心しました。多くの人に手をとって読んでもらいたい本です。お勧めです。