久しぶりの書き込みです。
この3月19日から3泊4日にて和歌山県熊野地方の熊野古道を歩いてきました。
中世より由緒ある中辺路歩きです。
今回はツイッターを通して知り合った地元にお住まいのarahikiさんによる全面的な古道歩きお付き合い、3泊4日の宿泊提供とお食事、そして各種のお付き合い、車での白浜温泉や新宮、地元の歴史的な場所へ連れてくれたりなど、本当に何かと良くしてくれました。ネットで興味や関心、人柄などはおおむね相互に理解があったと思いますが、ここまでしていただいたのは本当にありがたく、ネットをやっていて、こういう素敵なことがあるんだな、としみじみ思った次第。
14年ほど前にも歩いているのですが、その後世界遺産となったこともあり、少々、世界遺産化に伴う変化が気になったりしたのですが、思った以上に変化がなく、もちろん中世・近代の「蟻の熊の詣」みたいなことまではないとは思いつつも、少しは人の歩く姿も目立っているかも、と心中、気をもんだりもしたのですが。幸い?歩いている人もほとんどなく、静かな自然のそれなりに険しい道は変わらないままでほっとしました。
むしろ二日目の近露というところから熊野本宮大社にかけて、あるいは中辺路古道の入口である滝尻あたりの、昨年9月の台風の爪痕がかなり痕跡を残していました。
初日の古道の入口からは、台風の爪あとは見えなかったのですが。。。
ひとり旅でなかったこともあるか、今回の古道歩きで膝が笑うようなことがあるかとの不安は特になく。ただ、むしろ古道の山歩きは下りのほうが辛い。普通の山歩きもそうでしょうが、帰宅して落ち着いたあとは、足のつま先が痛くなりましたね。靴擦れもできていた。
旅はarahikiさんと各所にある王子の解説などを読みながら、彼から地元の歴史や言い伝え等を聞きながら種々、二人の関心事項やその他を語り合いながらの気のおけない旅。
これもまた自然で良かった。
北海道民の開拓者の末裔の現代っ子(?)として生まれた自分には熊野のような歴史が重層的にあり、複層的な場所は本当に興味が尽きないのです。
日本の歴史の表舞台とは別の、非常に大事な裏舞台としてのヒントに満ちた場所のような気がしますし。(これは歴史を持たない旅人の勝手な思い込みかもしれません)。
近代においては大逆事件で事件の概要を知らずに連座を強いられた、いわゆる「新宮グループ」もあり、古代においては「隠国(こもりく)」と呼ばれた神話におけるイザナミノミコトがおこもりになった地でもあります。
そして現代において物語文学や、近代を超える文学を目指したこれまた重層的/複合的な生い立ちを自覚的に自ら背負った作家、中上健次を新宮市に生んだ土地です。
霊域と聖域。聖と俗が複雑に織り成す地を旅して来れたんじゃないかと勝手なロマンに浸ってきました。
最終日は作家、中上健次の生原稿のコピーを新宮市立図書館の資料室で見せてもらったり、もろもろ中上に関する貴重な話を資料室の人に伺うことが出来ました。事前に連絡していてくれ、適切に話を引き出してくれたarahikiさんには改めて感謝。
海のそばの露天に連れてくれた白浜温泉・崎の湯、説経節で有名な小栗判官が蘇生した峰の湯温泉、そんな事前の想像を越える場に連れてくれたり、旅の醍醐味を存分に味わせてくださった。
しかも経済的に。
旅で感じたこと、感じて思ったこと、それを文章化するのは今の時点で難しいです。
今後、この旅で感じたことは別の形で文章表現化されるかもしれません。
考えてみれば、今までもそういうものだったのかもしれない、と思っています。
一度に書ききる才能と体力がないんだなw。
最後に夜、あんなに綺麗な星空を見たことはまず記憶にもそうないと思う。
陳腐な表現ですが、結果的に癒しも含めた旅だったな、と思います。
以下、写真ですが、とりあえずまとめてアップします。写真の説明はおいおい書き加えていきたいと思っています。素人写真で申し訳ない。また、写真の拡張子の関係で携帯写真をUPしていますが、携帯のバッテリーがなくなってしまい、3日目以降の写真があげられません。ご容赦を。
2012年3月23日金曜日
2012年2月15日水曜日
エジプシャン・レゲエ
いやあ、久しぶりです。
久しぶりなので、書こうとすればいろいろありそうですが、どれも今のところ特別な意味はないし、面白くもないでしょうし。骨休めでこんな曲と映像を。ジョナサン・リッチマン&ざ・モダンラヴァーズの「エジプシャン・レゲエ」という曲です。とってもファニーね。
久しぶりなので、書こうとすればいろいろありそうですが、どれも今のところ特別な意味はないし、面白くもないでしょうし。骨休めでこんな曲と映像を。ジョナサン・リッチマン&ざ・モダンラヴァーズの「エジプシャン・レゲエ」という曲です。とってもファニーね。
2012年1月23日月曜日
検定試験の一つが終わり。
昨日ファイナンシャルプランナー3級試験が終わりました。
試験に向けた準備不足は否めませんでした。
仮にまぐれで合格しても、納得はいかないでしょう。
前にも書きましたが、試験範囲が広すぎました。不動産から金融資産、社会保険や民間保険、相続や所得税。
基本的に個人資産の保全に関する制度上のメリットを学ぶ試験ですから、あえて共通項をいうならば、6つの分野に及ぶ試験の共通点として税の控除に関するシステムが多くに絡んでいたとはいえるでしょうか。
個人的に金融と民間保険以外は気になる範囲ではあったのですが、仮に税の控除システムならば、なぜそのようなシステムが構築されたのかが分からぬまま、ただ税額控除の計算だけを暗記するとか、利ざやの計算ですとか、丸暗記の方法はやはり自分にはなじまぬものでした。
これから2月26日の日商簿記試験2級に向けて勉強の続きをしますが、残っている工業簿記はまだ半分。残り半分の板書資料をプリントしましたが、自分が知っている範囲の工業簿記を遥かに超えているイメージが浮かびます。簿記、特に工業簿記はかなり構造的な作りで先生の説明も原理的で私はその方がフイットしますが(歳のせいでしょうね)、それでも、資料を見ていると難解に見える。超順調に考えると今月いっぱいで一通り終えられる計算ですが、それはまず無理。2月のどの辺までひっぱってしまうかですかね。
今日は久しぶりに完全に勉強から離れ、DVDで映画を見ていました。スペインの監督、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』。この監督の作品は先にNHKBSプレミアムで再上映された『エル・スール』や、スペインのリアリズム絵画の大家、アントニオ・ロペスのマルメロの木を描く日々を淡々とドキュメンタリー的に描く『マルメロの陽光』。寡作を強いられている監督で、この3作しか基本に長編はありませんが、どれもえも言われない絵画的・詩的な名作で、説明の世界を超える映画と現実のあわいを見事に捉える本当に素晴らしい作家です。
『ミツバチのささやき』も幼女とも言える少女の大きな目の美しいまなざしに魅了されるだけで価値を感じますが、良く考えてみればある種奇妙な作品であるとも言えます。だがぼくはこの作品を見ると何だか自分のこころが浄化される気がするのです。その意味では、少々変わっている人間なのかもしれませんが。
ビクトル・エリセというこのスペインの監督の作品は映像美の向こうに実はスペイン内戦の時代やフランコ将軍の独裁時代など、スペインの抑圧された歴史が背景にあるのですが、そのような背景を知らないでも、映像の中にある深い部分やおそらく映画が持っている映像美のマジック、それはかなり古典的な方法を突き詰めた美しさだと思うのですが、そのようなマジックを見せることが出来る現代では稀有な作家なのではないでしょうか。
彼の映画を見ると描く世界は日常の淡々とした描写が多いのですが、そこに一つ一つの物に対する人の扱いの丁寧さが素晴らしい。例えば『マルメロの陽光』では画家、アントニオ・ロペスがたわわに実ったマルメロがもうその重さで地に落ちようとする寸前のものを一つ。柔らかにもぎとり、その匂いを嗅ぐシーンとか、長編一作目の『ミツバチのささやき』にも一貫して物(対象物)とそれを扱う人の丁寧な手つきにとりあえず見ているぼくなどはほとほと感心してしまいます。
いかにも、自分が日々、ものをかき集めては乱暴に扱っているか自覚しているので。。。食べ物を食べる行為も含めてですけれども。
日々沢山の情報に接せられる時代。僕もその方法論を思い切り享受していますが、ビクトル・エリセ監督の作品と向き合う時間は心から集中して堪能できる本当に濃密な時間です。それ自体、自分にとって大げさに云えば奇跡的な感じです。
いま、エリセ監督の作品は残念ながらレンタルで借りて見ることは出来ない。DVDのボックスセットでしか見ることはできません。そのうえ、『マルメロの陽光』に至っては、DVD化さえもされていません。ボックスセットで監督がインタビューに答えていますが、確かに映画を見る手法がどこか現代では変わっているのかもしれません。エリセ監督の意思を継ぐ監督の作品が生まれ、それを見る新しい映画ファンが生まれる状況があればいいなぁと思います。
もちろん、それは沢山の違った手法の映画と等価で存在することが理想だということです。
試験に向けた準備不足は否めませんでした。
仮にまぐれで合格しても、納得はいかないでしょう。
前にも書きましたが、試験範囲が広すぎました。不動産から金融資産、社会保険や民間保険、相続や所得税。
基本的に個人資産の保全に関する制度上のメリットを学ぶ試験ですから、あえて共通項をいうならば、6つの分野に及ぶ試験の共通点として税の控除に関するシステムが多くに絡んでいたとはいえるでしょうか。
個人的に金融と民間保険以外は気になる範囲ではあったのですが、仮に税の控除システムならば、なぜそのようなシステムが構築されたのかが分からぬまま、ただ税額控除の計算だけを暗記するとか、利ざやの計算ですとか、丸暗記の方法はやはり自分にはなじまぬものでした。
これから2月26日の日商簿記試験2級に向けて勉強の続きをしますが、残っている工業簿記はまだ半分。残り半分の板書資料をプリントしましたが、自分が知っている範囲の工業簿記を遥かに超えているイメージが浮かびます。簿記、特に工業簿記はかなり構造的な作りで先生の説明も原理的で私はその方がフイットしますが(歳のせいでしょうね)、それでも、資料を見ていると難解に見える。超順調に考えると今月いっぱいで一通り終えられる計算ですが、それはまず無理。2月のどの辺までひっぱってしまうかですかね。
今日は久しぶりに完全に勉強から離れ、DVDで映画を見ていました。スペインの監督、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』。この監督の作品は先にNHKBSプレミアムで再上映された『エル・スール』や、スペインのリアリズム絵画の大家、アントニオ・ロペスのマルメロの木を描く日々を淡々とドキュメンタリー的に描く『マルメロの陽光』。寡作を強いられている監督で、この3作しか基本に長編はありませんが、どれもえも言われない絵画的・詩的な名作で、説明の世界を超える映画と現実のあわいを見事に捉える本当に素晴らしい作家です。
『ミツバチのささやき』も幼女とも言える少女の大きな目の美しいまなざしに魅了されるだけで価値を感じますが、良く考えてみればある種奇妙な作品であるとも言えます。だがぼくはこの作品を見ると何だか自分のこころが浄化される気がするのです。その意味では、少々変わっている人間なのかもしれませんが。
ビクトル・エリセというこのスペインの監督の作品は映像美の向こうに実はスペイン内戦の時代やフランコ将軍の独裁時代など、スペインの抑圧された歴史が背景にあるのですが、そのような背景を知らないでも、映像の中にある深い部分やおそらく映画が持っている映像美のマジック、それはかなり古典的な方法を突き詰めた美しさだと思うのですが、そのようなマジックを見せることが出来る現代では稀有な作家なのではないでしょうか。
彼の映画を見ると描く世界は日常の淡々とした描写が多いのですが、そこに一つ一つの物に対する人の扱いの丁寧さが素晴らしい。例えば『マルメロの陽光』では画家、アントニオ・ロペスがたわわに実ったマルメロがもうその重さで地に落ちようとする寸前のものを一つ。柔らかにもぎとり、その匂いを嗅ぐシーンとか、長編一作目の『ミツバチのささやき』にも一貫して物(対象物)とそれを扱う人の丁寧な手つきにとりあえず見ているぼくなどはほとほと感心してしまいます。
いかにも、自分が日々、ものをかき集めては乱暴に扱っているか自覚しているので。。。食べ物を食べる行為も含めてですけれども。
日々沢山の情報に接せられる時代。僕もその方法論を思い切り享受していますが、ビクトル・エリセ監督の作品と向き合う時間は心から集中して堪能できる本当に濃密な時間です。それ自体、自分にとって大げさに云えば奇跡的な感じです。
いま、エリセ監督の作品は残念ながらレンタルで借りて見ることは出来ない。DVDのボックスセットでしか見ることはできません。そのうえ、『マルメロの陽光』に至っては、DVD化さえもされていません。ボックスセットで監督がインタビューに答えていますが、確かに映画を見る手法がどこか現代では変わっているのかもしれません。エリセ監督の意思を継ぐ監督の作品が生まれ、それを見る新しい映画ファンが生まれる状況があればいいなぁと思います。
もちろん、それは沢山の違った手法の映画と等価で存在することが理想だということです。
2012年1月19日木曜日
白いソウルも黒いソウルも本物のソウル。
タイトル、語弊がありますけれども。。。
白人のいわばソウルマンといえば、ヴァン・モリソンが代表的なそのひとり。アイルランド出身で、アイリッシュの魂も織り込み、黒人音楽にも深い憧憬を持ついわばアイルランドの至宝の60年代ビート・ミュージック界から飛び出したソウルマンです。ビートルズのデビューのころと彼のデビューはそれほど変わりません。もともとは、ザ・ゼムというアイルランドのブルースの影響を受けた「黒い」ビートバンドのリーダーでした。
ヴァン・モリソンはキャリアの長さの割に巷間伝わるように、なかなか頑固一徹な人柄で、YOU TUBEにも映像があがってきませんでした。あがってもすぐ消されるありさま。ですが、最近は割とゆるくなったようで、若いバリバリの頃の素晴らしいライヴ映像があります。
ベテランになって演奏には時々ムラが見られますが、この演奏は「神がかり」です。この「レイター・オブ・ジュールズ」(日本では「ジュールズ倶楽部」のタイトルでCSでしばらく放送されてきました)での演奏は、まさに神憑り。ファッションはマフィアのドンみたいですけれどもw。
僕はこの演奏に映像で出会ったとき、どれだけ震えたことか。全体の演奏のテンションが緩やかながら非常に高いのですが、特に間奏のギターを奏でるミック・グリーン(伝説のギタリストです)にも震えがきます。
この映像は長いこと消えていたのですが、白みがかった映像で再び登場。すでに10万回以上のアクセスあり。やっぱりね。
丁度この映像に出会ったころ、親父がちょっと危なかったもので、もとに戻って退院した頃に見て感動した記憶があるので、より一層思いれがあるのかもしれません。僕にとって癒しの音楽はこれですよ。
もうひとつ、こちらは本物のソウル。グラディス・ナイト&ザ・ピップス。「ミッドナイト・トレイン・イン・ジョージア」で有名ですが、何しろ、このグラディス・ナイトという歌姫の歌、間合いこそ。本物のソウルというもの。確かにアリシア・キーズやエイミー・ワインハウスもいいのだが。。。より元祖を聴くべし。映像も宜しく、しばらくぶりに彼女たちの音楽を聞いて酔いしれました。「ミッドナイト~」を含む、2曲をどうぞ堪能あれ。
何か唐突に洋楽ブログなんですが。。。要は、勉強からの逃避なんですよ(苦笑)。たはは。今週の日曜日にファイナンシャル・プランナー3級の検定試験なんですが、あまりにも学ぶ(暗記?)範囲が広くて難渋中なので。ちょいとばかり息抜き。それを本質的に人は逃げとも言う、と(*^_^*)
白人のいわばソウルマンといえば、ヴァン・モリソンが代表的なそのひとり。アイルランド出身で、アイリッシュの魂も織り込み、黒人音楽にも深い憧憬を持ついわばアイルランドの至宝の60年代ビート・ミュージック界から飛び出したソウルマンです。ビートルズのデビューのころと彼のデビューはそれほど変わりません。もともとは、ザ・ゼムというアイルランドのブルースの影響を受けた「黒い」ビートバンドのリーダーでした。
ヴァン・モリソンはキャリアの長さの割に巷間伝わるように、なかなか頑固一徹な人柄で、YOU TUBEにも映像があがってきませんでした。あがってもすぐ消されるありさま。ですが、最近は割とゆるくなったようで、若いバリバリの頃の素晴らしいライヴ映像があります。
ベテランになって演奏には時々ムラが見られますが、この演奏は「神がかり」です。この「レイター・オブ・ジュールズ」(日本では「ジュールズ倶楽部」のタイトルでCSでしばらく放送されてきました)での演奏は、まさに神憑り。ファッションはマフィアのドンみたいですけれどもw。
僕はこの演奏に映像で出会ったとき、どれだけ震えたことか。全体の演奏のテンションが緩やかながら非常に高いのですが、特に間奏のギターを奏でるミック・グリーン(伝説のギタリストです)にも震えがきます。
この映像は長いこと消えていたのですが、白みがかった映像で再び登場。すでに10万回以上のアクセスあり。やっぱりね。
丁度この映像に出会ったころ、親父がちょっと危なかったもので、もとに戻って退院した頃に見て感動した記憶があるので、より一層思いれがあるのかもしれません。僕にとって癒しの音楽はこれですよ。
もうひとつ、こちらは本物のソウル。グラディス・ナイト&ザ・ピップス。「ミッドナイト・トレイン・イン・ジョージア」で有名ですが、何しろ、このグラディス・ナイトという歌姫の歌、間合いこそ。本物のソウルというもの。確かにアリシア・キーズやエイミー・ワインハウスもいいのだが。。。より元祖を聴くべし。映像も宜しく、しばらくぶりに彼女たちの音楽を聞いて酔いしれました。「ミッドナイト~」を含む、2曲をどうぞ堪能あれ。
何か唐突に洋楽ブログなんですが。。。要は、勉強からの逃避なんですよ(苦笑)。たはは。今週の日曜日にファイナンシャル・プランナー3級の検定試験なんですが、あまりにも学ぶ(暗記?)範囲が広くて難渋中なので。ちょいとばかり息抜き。それを本質的に人は逃げとも言う、と(*^_^*)
2012年1月1日日曜日
2011年を振り返る(Ust)
実際は2012年になってしまいましたが収録は2011年の午後9時40分頃からです。
それなりに思いを率直に語ったつもりです。訥弁、変なイントネーション、長広舌。大変失礼なのですが、宜しければご覧くださいませ。約1時間半のモノローグです。今までで一番真剣に話したつもりです。
それなりに思いを率直に語ったつもりです。訥弁、変なイントネーション、長広舌。大変失礼なのですが、宜しければご覧くださいませ。約1時間半のモノローグです。今までで一番真剣に話したつもりです。
2011年12月26日月曜日
年内の簿記勉強
年内の簿記の勉強はリアルタイム講座の日程におおむね合わせて本日にて終了にします。だいたい工業簿記の半分くらいまで。
考え方はややこしいようだけれども、個人的には商業簿記よりも面白いかな。実際にモノを製造する過程に向かっての費用計算をしていくという意味では、中小規模株式会社会計での取引仕訳を中心とする商業簿記よりも、リアリティを持ちやすい想像が働いて、腑に落ちる感じがあります。
結局工業簿記は出荷される製品となる過程のおおむねの完成品(仕掛品という)の「売価」ではなくて、製造原価はいくらになるか、という「原価計算」が中心でして、材料・賃金・経費をベースにして仕掛品にするためにいくらの原価費用がかかったかの過程を学ぶボトムアップ型の計算が中心になります。よって、商業簿記と違って仕訳の占める位置は小さい。多くは材料・労務費・経費を、製品にする際の原価を細分化して計算していきます。
そして実際に掛かった費用と、製品を作るのにいくらかかるかの予想金額との差額(価格差異という)を求めるという作業が加わります。
来年からは各部門の計算が終わって総合原価計算に入るところから。
ただ、難しいところもあって、これを過去に学んだ記憶があるかどうか完全に飛んでいるのですが、「製造間接費配賦差異」(各種経費を各仕掛品に配賦するに当たって実際に配賦した金額と、予定金額の差異を求めること)の”分析”というのがあって、シュラッター図という数学のような図式が登場してびっくりしました。
2級にしては高度な気がする部分です。数学的な要素が出てくると自分はもう駄目ですからね。
明日からは極く少数の方々宛てですけど、年賀状を書いたり、流石に酷くなってきた今年の部屋の中の清掃・整理や買いだしなどの年末作業に入ろうと思います。
今年は上手く出来ていて、土曜日が31日で元旦が日曜日ですね。そのため、バイトは30日まで。来年は3日から。
寒さが今年は厳しい。今年は年明けまではここまで厳しくはなかったと思います。被災で来られている方たち、今の寒さはこたえていないだろうか。そんなこともちょっと気になる此の頃です。
考え方はややこしいようだけれども、個人的には商業簿記よりも面白いかな。実際にモノを製造する過程に向かっての費用計算をしていくという意味では、中小規模株式会社会計での取引仕訳を中心とする商業簿記よりも、リアリティを持ちやすい想像が働いて、腑に落ちる感じがあります。
結局工業簿記は出荷される製品となる過程のおおむねの完成品(仕掛品という)の「売価」ではなくて、製造原価はいくらになるか、という「原価計算」が中心でして、材料・賃金・経費をベースにして仕掛品にするためにいくらの原価費用がかかったかの過程を学ぶボトムアップ型の計算が中心になります。よって、商業簿記と違って仕訳の占める位置は小さい。多くは材料・労務費・経費を、製品にする際の原価を細分化して計算していきます。
そして実際に掛かった費用と、製品を作るのにいくらかかるかの予想金額との差額(価格差異という)を求めるという作業が加わります。
来年からは各部門の計算が終わって総合原価計算に入るところから。
ただ、難しいところもあって、これを過去に学んだ記憶があるかどうか完全に飛んでいるのですが、「製造間接費配賦差異」(各種経費を各仕掛品に配賦するに当たって実際に配賦した金額と、予定金額の差異を求めること)の”分析”というのがあって、シュラッター図という数学のような図式が登場してびっくりしました。
2級にしては高度な気がする部分です。数学的な要素が出てくると自分はもう駄目ですからね。
明日からは極く少数の方々宛てですけど、年賀状を書いたり、流石に酷くなってきた今年の部屋の中の清掃・整理や買いだしなどの年末作業に入ろうと思います。
今年は上手く出来ていて、土曜日が31日で元旦が日曜日ですね。そのため、バイトは30日まで。来年は3日から。
寒さが今年は厳しい。今年は年明けまではここまで厳しくはなかったと思います。被災で来られている方たち、今の寒さはこたえていないだろうか。そんなこともちょっと気になる此の頃です。
2011年12月25日日曜日
2011年12月11日日曜日
本日は後退戦
ああ、しまった。今日はやっと簿記の商業簿記があと2回分の講義のみになったので、復習をずっとしていない頭のほうから少しでも問題集を解くことで復習に入る予定だったのですが。。
家の用事と合わせてショッピングモールに入ってる丸善で購入した講談社現代新書『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎×大澤真幸を読んでいるうちに、全く他のことが手につかなくなってしまいました。
いえ、実際はこうやってブログに向かっているわけですから他のことが手につかないのではなく、面倒な簿記の復習問題から逃げた、って話ですけど。(苦笑)
あとで感想を書けたらいいんですけど、この『ふしぎなキリスト教』という本におけるユダヤ・キリスト教の世界観は本当にぼくら日本人の世界観というか、世界の認識における解釈から大きくかけ離れていて、ある程度想定出来ていたとはいえ、改めて驚かされます。ですから、とにかく興味深くて面白い。
簿記について、というか資格について書こうかと思っていました。「資格について」ではなく、資格の内容が高度になったのではないか、という話です。
僕は1988年に一度日商簿記2級資格を取っていますが、あの頃よりも内容が深く、より一層簿記論的な所に入っている気がするんですけど。。。
単にほとんど忘れかけているだけかもしれません。ただ、3級を基金訓練の時に勉強しても気づきましたが、勘定科目名が幾つか変わっています。
もう20年以上経つと、簿記も時の経過とともに科目計上の方法論に変化しているところがあるのかもしれません。
この間に世界の金融界を含め、変化がありますから、おのずと簿記もごくマイナーチェンジがあるのでしょうか。そして、やはり内容は高度な方向に向かっているのは確かなようです。WEB講座の講師の先生は1級を意識しているのか、かなり理論的な講義で、その方向性は個人的には興味と関心が持てるものではあります。
とにかく意味などどうでもいいから、試験対策的にとにかく問題を解く、という過去の対策に比べると、現在はぼく自身の関心も変わってきていますし、それだけに理論的な話はなお一層有り難いのですが、いかんせん、簿記は記帳の実践なので、肝心要のそちらが駄目なのでは大変まずい。勘定科目が分からない、勘定の借り方貸し方科目を間違える、という素朴に問題が多いいまの段階では。。。
簿記に限らず、例えば社会保険労務士などにおいても。学ぶ内容はより多く、細かくなっているのは間違いないのです。顕著なのは健康保険法です。いま復習は健康保険法の手前で止まってますが、健保は昔は最も理解が簡単なもので、点を取りやすい科目でした。ところが、このゼロ年代に医療保険制度の細かな改正(人の認識によって、改悪かもしれぬ)によって、入院医療費制度を中心に非常に細部な負担額の記憶が増え、テキストページは1.5倍くらいになっているのではないでしょうか。
基本は医療費は増額の方向に向かっている訳ですが、それが広く浅く医療にかかる人の負担額が増える形になっているので繰り返しですが、細かいのです。
行政書士もそうですね。とても高度になった。行政法、民法、憲法の判例解釈。かなり高度な事が問われるようになっているのではないでしょうか。そして大きな比重を占めるようになった会社法。
行政法はより精緻になり、そしていま大阪で話題になっている地方自治法に関して占める出題の大きさはもう何年かまえから目立ってきているのではないでしょうか。地方分権的な意識と繋がっているのかは分かりませんけれど。。。
僕が試験を受けた平成4年当時も行政書士試験は難易度が高くなったと言われましたが、どっこい、今では「屁」みたいなものかもしれないです。こういう比較は問題のある言い方ですが。。。
何を言いたいかというと、社会がより複雑になり、かつグローバル・スタンダードの席巻によって、法律系や会計系もよりいろんな新しいことを覚えなくちゃいけない時代になってしまったんだろうな、ということなのでした。
嗚呼、今日は自分に負けたな。『ふしぎなキリスト教』、読んで過ごします。講談社現代新書。税抜き840円也、です。
しかし、工業簿記も含めて2カ月で全部終わらせるというのもやや無理筋なところはあるんだよな。本当は3か月くらいかけてやるのがスタンダードなんだけど。無料で勉強させてもらっているので、致し方なし。
家の用事と合わせてショッピングモールに入ってる丸善で購入した講談社現代新書『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎×大澤真幸を読んでいるうちに、全く他のことが手につかなくなってしまいました。
いえ、実際はこうやってブログに向かっているわけですから他のことが手につかないのではなく、面倒な簿記の復習問題から逃げた、って話ですけど。(苦笑)
あとで感想を書けたらいいんですけど、この『ふしぎなキリスト教』という本におけるユダヤ・キリスト教の世界観は本当にぼくら日本人の世界観というか、世界の認識における解釈から大きくかけ離れていて、ある程度想定出来ていたとはいえ、改めて驚かされます。ですから、とにかく興味深くて面白い。
簿記について、というか資格について書こうかと思っていました。「資格について」ではなく、資格の内容が高度になったのではないか、という話です。
僕は1988年に一度日商簿記2級資格を取っていますが、あの頃よりも内容が深く、より一層簿記論的な所に入っている気がするんですけど。。。
単にほとんど忘れかけているだけかもしれません。ただ、3級を基金訓練の時に勉強しても気づきましたが、勘定科目名が幾つか変わっています。
もう20年以上経つと、簿記も時の経過とともに科目計上の方法論に変化しているところがあるのかもしれません。
この間に世界の金融界を含め、変化がありますから、おのずと簿記もごくマイナーチェンジがあるのでしょうか。そして、やはり内容は高度な方向に向かっているのは確かなようです。WEB講座の講師の先生は1級を意識しているのか、かなり理論的な講義で、その方向性は個人的には興味と関心が持てるものではあります。
とにかく意味などどうでもいいから、試験対策的にとにかく問題を解く、という過去の対策に比べると、現在はぼく自身の関心も変わってきていますし、それだけに理論的な話はなお一層有り難いのですが、いかんせん、簿記は記帳の実践なので、肝心要のそちらが駄目なのでは大変まずい。勘定科目が分からない、勘定の借り方貸し方科目を間違える、という素朴に問題が多いいまの段階では。。。
簿記に限らず、例えば社会保険労務士などにおいても。学ぶ内容はより多く、細かくなっているのは間違いないのです。顕著なのは健康保険法です。いま復習は健康保険法の手前で止まってますが、健保は昔は最も理解が簡単なもので、点を取りやすい科目でした。ところが、このゼロ年代に医療保険制度の細かな改正(人の認識によって、改悪かもしれぬ)によって、入院医療費制度を中心に非常に細部な負担額の記憶が増え、テキストページは1.5倍くらいになっているのではないでしょうか。
基本は医療費は増額の方向に向かっている訳ですが、それが広く浅く医療にかかる人の負担額が増える形になっているので繰り返しですが、細かいのです。
行政書士もそうですね。とても高度になった。行政法、民法、憲法の判例解釈。かなり高度な事が問われるようになっているのではないでしょうか。そして大きな比重を占めるようになった会社法。
行政法はより精緻になり、そしていま大阪で話題になっている地方自治法に関して占める出題の大きさはもう何年かまえから目立ってきているのではないでしょうか。地方分権的な意識と繋がっているのかは分かりませんけれど。。。
僕が試験を受けた平成4年当時も行政書士試験は難易度が高くなったと言われましたが、どっこい、今では「屁」みたいなものかもしれないです。こういう比較は問題のある言い方ですが。。。
何を言いたいかというと、社会がより複雑になり、かつグローバル・スタンダードの席巻によって、法律系や会計系もよりいろんな新しいことを覚えなくちゃいけない時代になってしまったんだろうな、ということなのでした。
嗚呼、今日は自分に負けたな。『ふしぎなキリスト教』、読んで過ごします。講談社現代新書。税抜き840円也、です。
しかし、工業簿記も含めて2カ月で全部終わらせるというのもやや無理筋なところはあるんだよな。本当は3か月くらいかけてやるのがスタンダードなんだけど。無料で勉強させてもらっているので、致し方なし。
2011年12月10日土曜日
朝ドラ・カーネーション
現在のNHK朝の連続ドラマ「カーネーション」はいいですねぇ。好きなんですよ。「ゲゲゲの女房」もとても良かったけれど、もしかしたらそれ以上かもしれない。
実際は朝は見れないので、夜6時45分の再放送を中心に見ているんですけど、たまに土曜日にまとめてやる再放送一週間分も見ますね。
関西系の朝ドラは北海道に住んでいると拝めない関西ローカルの見事な芸達者、役者さんがいるなぁということにいつも感心するんですけど、何というのかなぁ。今回のドラマが際立っているのは総合的にいいんですね。脚本はもちろんのこと、演出から、配役から。そして主人公も際立っていますね。今回はナレーションも本人自身ですから、いつも体当たりのぶっちゃけ、女性なのに「生身さらけ出し」演技も含めて凄いエネルギーを放出していると思います。
その今までにない「周りに合わせない」「自分の思いに忠実に動く」「思いを率直にぶつける」「行動原理に従って生きつつ、感じる思いから(極力だけど)目をそむけない」「とにかくエネルギッシュ」というのは、ブログを書いている自分のキャラクターからは全く真逆で、近くにそのような存在の人がいられたら非常につらいし、逃げるだろうけど、不思議にドラマにそのアクの強さや臭みがないのが不思議で、爽快さがあるんですね。これはまだ自分でも理由が良く分からない。何故なのか。
それにしても国防婦人会というものは、どういうキャラクターの人たちが率先垂範して動きだしたんでしょうかね?非常時になると、突然元気になって、何か言って廻ったり、規律を押しつけて歩きたいというのは戦後の「子どもに悪い影響を与えるマンガを追放する運動」(ゲゲゲの女房)にも通じています。実は平和裏においてもある。僕が子どものころにもハレンチな(死語)漫画をやり玉にあげる、というのがあって、子どもながらに大人のいや~なところを思いました。自覚してたわけじゃないけど。
それにしても、本日の婦人会の台詞は凄かった。
「日本人の妻たるもの、夫が死んで遺骨になって帰ってくるのが名誉でしょう」。
この驚くほどの言葉にならない鈍感ぶり。
真面目な話、人間がなぜ人の素朴なこころに平気で土足に踏み込めるのか、自分自身の問題としても考えなければならないと慄然とさせられます。
その後、主人公の糸子は夫が浮気をしたまま出征したんじゃないかと疑いを持ちつつも、その鈍感な言葉に悩まされて寝つけず、寝床で夫の姿を想像しながら改めて夫に対する愛情を確認する台詞。
「大きい背中。笑ったり喋ったりする顔。こころ。それが全部骨になって名誉。。。
こんなに石炭みたいにぼんぼん燃やして、いったい日本はなにが欲しい?戦争って何や?」
この素朴な、想像力ある台詞にいろいろ大きな意味が込められていると思いましたね。いや、実はもっとも身近な自分の身体の一部になっているような人への思いから発する言葉こそ真実で、そこに不条理が介入すれば、一挙にこの社会、この世界への疑問が思い切り露出する。
そんな見事なドラマ上の場面だと思いました。
ややこしい、観念的な議論は実はすべて、自分自身と、この自分の身体の延長への愛情の思いから生まれるものと考えます。
だからこそ、「国防婦人会」なるものが、糸子の自分の身体に即した豊かな想像力に対して、かくも貧しい鈍感さで人びとの生活に介入していけたのはなぜか。正しいと思いこんで、人のプライバシーに入りこんで行けたのか。関心を持たざるを得なくなりますね。で、もう少し嫌味を言えば、そのような人たちは戦後、自分らの行動をどう振り返ったのでしょうか。もしかしたら、「悪書追放運動」やっていたりしてね(苦笑)。
全く反省せず。
でもね。
もしかしたら、その国防婦人会やらも、ドラマ上のデフォルメで流石にそこまであからさまな事は云わなかったかもしれないし、あるいは言葉の勢いでつい言ってしまったのかもしれない。
しかし同時に、急にマスコミテレビの世界を引き合いに出すと何ですが、結構平気で想像力貧困なことを言っても許される状況が見受けられる以上、やっぱり国を後ろ盾に平気で人の心に刺さるようなことを言って廻っていたのかもしれないですね。
気をつけるべきは他山の石。
主人公の糸子も、戦争に行ってPTSD(今風に云えば)になって帰ってきた幼なじみに悪意なく傷つけるようなことをやって、その幼なじみの親にハッキリと「構わないでほしい。世の中はあんたのように強い人間ばかりではない。弱くても生きていかなきゃいけないんだ」というようなことを言われても、どこかで逆に、自分が悪かったとはいかない。自分が傷つけてしまったのだと分かりつつも、弱さは駄目だ、戦争という外圧も、人のこころの弱さにも「勝つんだ」という姿勢、スタンスで挑む。
この辺も今までの朝ドラにはなかったリアリズムですね。
現代の割と教養的な朝ドラや大河ドラマと違って。教養的な今までの朝ドラでは、悪かった自分を反省して謝罪するというノリなのですが、今回の朝ドラでは逆に主人公は「負けてなるか!」となります。このリアルさは納得感が強いですね。
魅力の一つはドラマの主人公が外からの刺激で変化する、という分かりやすい展開にはならず、本物の人間らしく主人公の女性が自分の行動原理に従っていて、どう振る舞うか行動原理が掴み切れないところがいい。それが現実ぽくていい。計算臭がないのがよいのですな。
ドラマですからね。ただ、コシノ三姉妹のご母堂が主人公というリアリズムも同時にある。先述したように現実に近くにこのような人がいるとしたら、個人的には辛いですが、いろんな意味で「わかる、わかる」感があるのですよ。
ただ、これだけ自分に正直で、言葉通り身体的な姿勢も含めてここまでリアルな主人公が不思議と嫌味な感じが無い、それどころか颯爽とした感じがするのは自分でもいまだ解けない謎です。
実際は朝は見れないので、夜6時45分の再放送を中心に見ているんですけど、たまに土曜日にまとめてやる再放送一週間分も見ますね。
関西系の朝ドラは北海道に住んでいると拝めない関西ローカルの見事な芸達者、役者さんがいるなぁということにいつも感心するんですけど、何というのかなぁ。今回のドラマが際立っているのは総合的にいいんですね。脚本はもちろんのこと、演出から、配役から。そして主人公も際立っていますね。今回はナレーションも本人自身ですから、いつも体当たりのぶっちゃけ、女性なのに「生身さらけ出し」演技も含めて凄いエネルギーを放出していると思います。
その今までにない「周りに合わせない」「自分の思いに忠実に動く」「思いを率直にぶつける」「行動原理に従って生きつつ、感じる思いから(極力だけど)目をそむけない」「とにかくエネルギッシュ」というのは、ブログを書いている自分のキャラクターからは全く真逆で、近くにそのような存在の人がいられたら非常につらいし、逃げるだろうけど、不思議にドラマにそのアクの強さや臭みがないのが不思議で、爽快さがあるんですね。これはまだ自分でも理由が良く分からない。何故なのか。
それにしても国防婦人会というものは、どういうキャラクターの人たちが率先垂範して動きだしたんでしょうかね?非常時になると、突然元気になって、何か言って廻ったり、規律を押しつけて歩きたいというのは戦後の「子どもに悪い影響を与えるマンガを追放する運動」(ゲゲゲの女房)にも通じています。実は平和裏においてもある。僕が子どものころにもハレンチな(死語)漫画をやり玉にあげる、というのがあって、子どもながらに大人のいや~なところを思いました。自覚してたわけじゃないけど。
それにしても、本日の婦人会の台詞は凄かった。
「日本人の妻たるもの、夫が死んで遺骨になって帰ってくるのが名誉でしょう」。
この驚くほどの言葉にならない鈍感ぶり。
真面目な話、人間がなぜ人の素朴なこころに平気で土足に踏み込めるのか、自分自身の問題としても考えなければならないと慄然とさせられます。
その後、主人公の糸子は夫が浮気をしたまま出征したんじゃないかと疑いを持ちつつも、その鈍感な言葉に悩まされて寝つけず、寝床で夫の姿を想像しながら改めて夫に対する愛情を確認する台詞。
「大きい背中。笑ったり喋ったりする顔。こころ。それが全部骨になって名誉。。。
こんなに石炭みたいにぼんぼん燃やして、いったい日本はなにが欲しい?戦争って何や?」
この素朴な、想像力ある台詞にいろいろ大きな意味が込められていると思いましたね。いや、実はもっとも身近な自分の身体の一部になっているような人への思いから発する言葉こそ真実で、そこに不条理が介入すれば、一挙にこの社会、この世界への疑問が思い切り露出する。
そんな見事なドラマ上の場面だと思いました。
ややこしい、観念的な議論は実はすべて、自分自身と、この自分の身体の延長への愛情の思いから生まれるものと考えます。
だからこそ、「国防婦人会」なるものが、糸子の自分の身体に即した豊かな想像力に対して、かくも貧しい鈍感さで人びとの生活に介入していけたのはなぜか。正しいと思いこんで、人のプライバシーに入りこんで行けたのか。関心を持たざるを得なくなりますね。で、もう少し嫌味を言えば、そのような人たちは戦後、自分らの行動をどう振り返ったのでしょうか。もしかしたら、「悪書追放運動」やっていたりしてね(苦笑)。
全く反省せず。
でもね。
もしかしたら、その国防婦人会やらも、ドラマ上のデフォルメで流石にそこまであからさまな事は云わなかったかもしれないし、あるいは言葉の勢いでつい言ってしまったのかもしれない。
しかし同時に、急にマスコミテレビの世界を引き合いに出すと何ですが、結構平気で想像力貧困なことを言っても許される状況が見受けられる以上、やっぱり国を後ろ盾に平気で人の心に刺さるようなことを言って廻っていたのかもしれないですね。
気をつけるべきは他山の石。
主人公の糸子も、戦争に行ってPTSD(今風に云えば)になって帰ってきた幼なじみに悪意なく傷つけるようなことをやって、その幼なじみの親にハッキリと「構わないでほしい。世の中はあんたのように強い人間ばかりではない。弱くても生きていかなきゃいけないんだ」というようなことを言われても、どこかで逆に、自分が悪かったとはいかない。自分が傷つけてしまったのだと分かりつつも、弱さは駄目だ、戦争という外圧も、人のこころの弱さにも「勝つんだ」という姿勢、スタンスで挑む。
この辺も今までの朝ドラにはなかったリアリズムですね。
現代の割と教養的な朝ドラや大河ドラマと違って。教養的な今までの朝ドラでは、悪かった自分を反省して謝罪するというノリなのですが、今回の朝ドラでは逆に主人公は「負けてなるか!」となります。このリアルさは納得感が強いですね。
魅力の一つはドラマの主人公が外からの刺激で変化する、という分かりやすい展開にはならず、本物の人間らしく主人公の女性が自分の行動原理に従っていて、どう振る舞うか行動原理が掴み切れないところがいい。それが現実ぽくていい。計算臭がないのがよいのですな。
ドラマですからね。ただ、コシノ三姉妹のご母堂が主人公というリアリズムも同時にある。先述したように現実に近くにこのような人がいるとしたら、個人的には辛いですが、いろんな意味で「わかる、わかる」感があるのですよ。
ただ、これだけ自分に正直で、言葉通り身体的な姿勢も含めてここまでリアルな主人公が不思議と嫌味な感じが無い、それどころか颯爽とした感じがするのは自分でもいまだ解けない謎です。
登録:
投稿 (Atom)











