『ポストモラトリアム時代の若者たちー社会的排除を超えて』村澤和多里、山尾貴則、村澤真保呂 世界思想社
1997年から98年にかけて金融不安による大手銀行や大手地銀の破綻による不況の可視化に伴い、失われた10年を遥かに超え、もはや我が国の斜陽化は自明に思える。この期間、雇用問題や精神的な負荷は若者たちへと、一番中心的なしわ寄せをされてきたと言ってよいだろう。非正規労働の拡大化に伴い団塊ジュニア世代以降に際立つ問題としては若年ホームレスやひきこもり、ニートの問題として顕在化した。それは日本企業の要請の結果でもあったし、アメリカン・グローバリズムの帰結でもある。
この間、幾つもの政策提言も含めた若者論が現われた。それら若者論の中でも、心理社会両面において昇華し統合された本がついに登場したというのが評者の最初の感想である。
論点は多岐に渡る。しかし、共著者3人の筆者たちの問題意識に通底しているものは同じものだろう。細分化している若者たちにまつわる問題群や文化論は分解して見ていくと拡散してしまうが、筆者たちの問題意識として通底しているのは「モラトリアムの消失」と「若者たちのアイデンティティの危機」ということであろう。若者たちが成長のためのメタモルフォーゼを試みる時間の喪失が社会の変容による結果であることがこの本を読めば分かる。まさに、ひきこもりやニートなど若者たちに起きている問題は「社会と心のつなぎめ」で起きていることなのだ。
本書を外観すれば前半で戦後の高度成長化における規格大量生産型のフォーディズム体制での若者の「理由なき反抗」が実は青年が大人に移行する過程において必要な自己再構成のためのモラトリアム課題であったこと、そのモラトリアムがアイデンティティ(自己同一性)確立のための心理過程であると喝破したE.Hエリクソンのアイデンティティ議論を踏まえて、若者のアイデンティティ・クライシスは、生き方の方向性喪失や、役割危機であり、敷衍すればひきこもりの問題も引き伸ばされたモラトリアムの中でのアイデンティティ拡散による危機の結果ということは言えるだろう。
しかし、かような古典的な意味でのアイデンティティの危機なのであればその若者自身の役割取得の失敗と言えるかもしれないが、問題を現在社会的に見れば、むしろ古典的なアイデンティティ獲得のための心理的な努力をしたとしても報われないような社会の激変があり、すでに多くの社会成員が古典的な意味でのアイデンティティ確立の努力を経たのちに社会に入っていくという構造にはなっていない。端的に言って、社会が流動化し、その流動化する社会に適応しようと人々は常に自分のリスクを痛烈に感じながら生きており、モラトリアムを経てアイデンティティ確立を目指す若者たちを後押しすることは出来ない社会になっている。現在のようにルーティンの中では生ききれない動的な社会では、アイデンティティは常に揺らぐ。
それ故に学生は常なるリスクに立ち向かうべく資格の取得に奔走し、無事に就労できるべく、かつて学生時代に必要だと思われた「どう生きるのか」「なぜ働くのか」と言った学外での学生同士の対話や、あるいは無為に思われるような「遊び」の時間を失い、モラトリアム期間を消失した時間に生きる。
かくして、いわば「経済的モラトリアム」の中で学生時代を過ごし、「市場青年」たるべく無為な時間を喪失した中で「有用な時間」を生きる。
アイデンティティ拡散によるひきこもりを経験している中年世代の評者としては、このような若者たちの余裕のなさ、あるいは猶予のなさが余りに残酷に思える。何が自分にとって大切なことなのかを考える暇も無いだろうからだ。勿論、古典的な意味でアイデンティティ拡散に陥り、社会的役割を引き受けられない。目標喪失し、自己決定を回避するという問題は過去から今に至るまである。今も昔もひきこもりなどの選択などは、アイデンティティ拡散の議論としてある程度説明は出来ると思う。
しかし繰り返しになるが、モラトリアム期間における自分との向き合いの苦しさや危険、逆に「自己の世界観の広がり」は学生時代の無為の自由な時間の中にもあったはずだし、それが社会に豊かさや広がりをもたらして来たと充分に仮定出来る以上、現在の経済困難を主原因とするモラトリアム期間の消失は、社会に新しい風を入れることが出来ないという意味で、社会の不安定要因ともいえよう。古典的なモラトリアムの時代には、自己省察と自己再構築によって社会の枠組みの「理由を知り、豊かな見識を持って」(J.J・ルソー)再びそこに参加していくことが理想化された。またそのあり方が社会の成長と幸福な一致を見ていた。ところが流動化している現在進行形の社会では古典的なモラトリアムは通用しなくなってきている。
それゆえに、古典的なモラトリアムの中で呻吟する者はおそらくひきこもっていくしかない。この「経済的モラトリアム」の時代においては学生は無為の時間を無為に過ごしながら思惟したり遊んだりできず、有用性の時間を生きざるを得ない、と考えられる。そして有用性の時間に”ノレない者”はひとつの選択として「ひきこもらざるを得ない」。
若者たちが心理的な放浪が出来た時代は“放浪の共同体”が残っていたが、今は無いと本書では書かれる。放浪した若者たちを受け入れてくれる社会的空間もない、と。かように現代社会で「自分の物語」を持てない若者の時代は、社会にとっての「大きな物語」の喪失と分かち難く結びついている。ゆえに物語を喪失した「市場青年」になることを忌避し、「兵役拒否」をした若者たちはひきこもることが選択肢となる。
大きな物語のない時代、そして古典的モラトリアムを経ての成長の物語が喪失した時代においては、新たなモラトリアム、いわば「主観性の地図」が自己の存在基盤を作り直していく生成プロセスとなる、と本書では数少ない(?)希望を語る。「主観性の地図」とは、既成の物語やマスメディアなどが作る出来合いの自己ではなく、自己が生きる世界の地図を自分で作り、その地図を生きてみること。もし失われたモラトリアムが再生するとしたら、その地図を作る過程のなかに、あるいはその地図が広がる空間の中にあると考えられる。
社会将来のために試行錯誤し、旅の仲間を作り、地図を広げていける時間と空間の余白やスペースを作るのが現在進行形の社会における必要な役割になるだろう、ということになる。
考えてみれば、若者たちにとっても最も辛い立ち位置にいる人たちこそが、一番多数派とは違う生き方を自覚的に選んで生きることを意識させられるのだともいえよう。その意味で苦しいひきこもる青年たちにこそ却って新しい生き方を提案するという難しい示唆を示す本でもあるが、共著者に臨床心理士も含む『若者サポートステーション』における若者ミーテングの実践過程の報告が、傷ついた若者たちへの一つのヒントになる。このミーテング実践の理念を知り、まずは自己承認作業を通ずることで、弱きところ、小さいところから新しい、この危機の時代の突破力になるということも同時に示唆しているように思える。
他の論点としては「腐女子」の章でマンガのオリジナルをパロディ化し、キャラ萌えなどを通じての二次創作など、新しい自分流の編集作業を通じての生きがいをもつなどの面白い動きも取り上げれれている。
そして若者社会変容の歴史を追えば、若者の反抗反発が社会から個人へとどんどん領域が限られていく状況があることを伝えてくれる。「学生運動」→「校内暴力」→「学級内いじめ」→「家庭内暴力、登校拒否、ひきこもり」と、異議申し立ての社会問題が個人病理へと変化しているという指摘もあって、目からウロコが落ちる。
社会的つながりの働きは個人的な葛藤を集団内で共有しあえることが出来たが、共同体価値基盤が消失した現在では、それを「個人と制度」の中に回収してしまうという着眼も鋭い。
社会の第三次産業化、サービス社会化の変化が与える影響については、ひきこもり問題を考える上で他の識者たちも多くが指摘するところであり、ある種の普遍性があるといえよう。
また、この本においては「再帰性」という言葉が重要なキーワードになっている。その概念が持つ重要さはイメージとしては掴めるのだが、その意味が多分に多義的な使い方をされているのが、やや気になる点であった。文脈に合わせ、つどつどの解説は欲しいところであったというのは贅沢なところであろうか。
いずれにせよ、自分の中で曖昧に持っていた「こうであろう」という感覚が理論としてきちんと提示され、何がしかハッキリ見えてきた気がしたのは大変に有難かった。この本の記述を通して見えてくるものは実に多いはず。特に若者支援などをされている人などには強くお勧めしたいところ。
2000年代に顕在化した若者問題としては最も良心的な適切さを持つ本だと思った。唯一難点を言えば、やや社会学的な記述が多いので、その種の本に読み馴染みが無い人にはとっつき悪いところがあるかもしれないところかもしれません。
はじめまして。24歳男です。
返信削除僕は今年就職しますが、ここで言われているようなポストモラトリアムの人間の典型ではないかと思っています。目標を意識しつつも見つからずに一応大学時代は勉強を頑張ってきて就職しました。ですが、将来ひきこもりになりそうな気がして怖いです。
そんな僕のような若者にとっても価値のある本だと思いますか?
あまたさん、はじめまして。拙文を読んでコメントをいただき、ありがとうございます。
返信削除今、自分でこの本の感想を読み返してみて、硬さに気恥かしさを感じました(苦笑)。
まずは就職内定おめでとうございます。その上で、なるほど~、ですね。おそらくですが、このわかりにくい感想に何かを感じてくれるかたであれば、この本はきっと価値があると思います。ただ、拙文にもあるように、深く掘り下げると社会学や心理学の学問的な要素もある本です。それはありますが、全体を通すと僕の感想の感覚に何かを感じてくれるなら、きっと細部ではなく、全体像で理解できると思いますし、その意味での価値は感じてくれると思います。
僕は個人的にはモラトリアム期間は幾つになっても大事だと思っていますので、あまたさんが働きながら、いろいろ考えていく中で、その時に考える方法として本書を手にするという利用の仕方もあるかな、と思います。ひきこもる怖さってきっと今の時代、経済的困難へつながるんじゃないかという不安とつながるんだと思います。そういう意味においてはひきこもりは怖いですよね。あと、人間関係を失う怖さとか。ただ、自分の考えを作る過程、そのためのモラトリアムを確保するという意味ではひきこもりのポジティヴ面もあるかもしれません。
コメント、長くなりました。繰り返すと、今は変な影響を受けてしまうので、いつかの時のために読もうという意味での価値は当面は、いえ、結構それなり長いスパンで価値のある本だと自分は思っています。友人もブログで感想を書いています。そちらのリンクを貼っておきますね。ずっと読みやすいと思います。
http://blog.livedoor.jp/area312hl/archives/52319373.html