2016年2月21日日曜日

生活困窮者自立支援法から1年フォーラム

 NPO法人北海道社会的事業所支援機構と連合北海道共催による「生活困窮者自立支援法を考える市民の集い」に行ってきました。
自立支援法の施行からそろそろ一年、去年のこの時期モデル事業を行っていた釧路の櫛部武俊さんにインタビューした経緯もあり、地元札幌市の取り組みはどうなっているのか気になっていたため参加した次第です。実際は行政は北海道、札幌市の担当者のみならず、石狩市当別、新篠津への取り組み(ワーカーズコープ)、空知圏の取り組み(コミュニティワーク研究実践センター)もあり、内容は多岐にわたるので、最後の質疑応答のレポートだけ今後ホームページにあげたいと考えています。...
 端的に感想を言えば、隔靴掻痒の感あり。
 生活困窮者の幅がきわめて広いのです。
 それこそ明日の生活へのお金がない、という経済緊急事態の人から、「人とのつながり」の再構築の応援に関することまで。また、都市部と地方の文化の違いも明確に出てきました。
例えば「ひきこもり」について考えてみましょう。空知の報告では、旧産炭地居住で危険労働についていた親御さんのもと、それなりに高額年金を受給しながら、四十代、五十代の子どもがひきこもっている例があるという。また、農家の子どもでも似た例があるという。
 その場合、経済上の緊急問題とはいえない。では何が問題か。それは親亡き後の社会的孤立を課題になる、と支援者としては当然考えることでしょう。それは経済困窮問題とは違ってくる。また、地方では地元住民の目線の厳しさの問題もあるという。それは地域文化のありようの問題であり、社会的排除の問題につながる。
 生活困窮者自立支援は、経済困窮、ホームレス支援、学習支援、就労支援(中間労働含む)、そして社会的孤立からの防衛(社会的排除の問題)まで実に実に幅が広い。そしてぼくが考えていたのはそのすべてが支援者サイドが問題とし、支援者サイドが抱えるべきことなのだろうか、という思いでした。それが隔靴掻痒の思いでもある、と。

 例えば地域包括センターや民生委員、社会福祉協議会などが介護支援で80代の親の元に50代のひきこもる子どもが発見されたとする。存在が未確認という意味では問題であるかもしれないが、それ、そのこと自体が問題なのだろうか。例えば無職孤立、かつ職場のない地域で親に依存して生活してるとして、その人は生活弱者ではあるだろうが、そのことを持って五十代の子どもは困窮者で、困難事例であるだろうか。むしろ地域の目と、職場のなさ、都会に出るにしても履歴の空白などであれば、むしろ当事者主体のニーズとは何か、と考えたほうがよくはないだろうか。それには当事者が声を上げにくい環境を作り直すほうがいい。しかしそれが難しいから、全体を総合して困難事例になるのだろう。
それには個人もさることながら、就労をめぐる社会環境の問題であり、もっといえば就労が困窮者支援のゴールなのか、となる。親の年金が高額であれば、当面経済困窮ではないので、むしろ同じようなスティグマを感じる仲間づくりの中で人間関係の再構築ができるような仕組みづくりの事柄であるし、当事者にもっと内在的なパワーがあれば、この社会での新しい生活の方法を考える尖兵にもなりえる。いっそ、ひきこもっている人のニーズに即したサービス、地域課題の発見につなげる、逆転の発想もあっていいのではないだろうか。

もともとこの法案の源流は民主党時代の遡ればパーソナル・サポーターなのではないか、と僕は睨んでいる。そこに大震災がやってきて、困窮者支援が法制へと向けられた。だから釧路の櫛部さん曰く、最初は社会的包摂の議論だったのが、途中で行政からわかりにくいという話になったこと、かつ自民党政権に変わったことで、経済困窮支援に一層シフトしたことで、やや現実思考に傾斜しすぎたのだと思う。でも、理念として包摂や孤立支援は残っているので、上記のごとくかなり生活問題の幅が広がってしまったし、行政は新しい政策がまたひとつ加えられてしまった、ということになってしまったのだと思う。

 僕はひとが生きる以上、生活に困難を生じる局面は誰にも起こると思っているし、あえて困窮者という言葉を法律につけたのにも違和感がある。法律は「生活者支援法」という総合基本法にして、その元に障害者総合支援法や介護保険法などを位置づけ、ライフスタイルには生活危機が生まれることを前提として、社会的セーフティネットと、社会包摂活動支援(居場所支援、自助グループ支援など)をパッケージにすべきだと夢想する。

 いまの流れだと困窮者支援は整理がとても難しい。一年たったいま、この法制度の整理と分析が何らか研究として書籍化されないものかと思う。
ひきこもりも、枠組みの中に膾炙される以上、この法制度には高い関心を持たざるを得ない。誰かこの制度をリアルで研究してる人はいないでしょうか。そのような先生がいればぜひインタビューしたいです。

2015年12月21日月曜日

インタビュー第7弾 発生生物学が専門の若原正巳先生のお話を掲載しました。

  実際お話を伺ったのは7月下旬で年末まで原稿をあげるのに時間がかかり、先生には大変ご迷惑をかけましたが、どうにか年内に若原正巳先生のインタビューを掲載することができました。
こちらからごらんください。


 生きものの生きる戦略や人間の特質、日本人の原型的な資質についてなど多岐にわたる話。かなりなロングインタビュー、いや実際の所、正確にいえば個人授業なのでしたが、ぜひ少しでも読んでくれる人がいてくれると嬉しいなと思います。
 もしかしたら前半、中盤の生物発生の仕組みや、生きものたちの生存戦略についてはすでに知ってるよ、という人も多いのかもしれません。ですが私は具体的に専門の方からこの手合いの話を聞いたのは全く初めてで、とても知的好奇心が刺激され、インタビューで落とせる部分がありませんでした。
 「生涯生殖繁殖度」という言葉が示すとおり、動物たちは端的に言えば自分の子どもたちを少しでも多く残す、もっと露骨に言えば自分の遺伝子を残すことが生存の最大目的としてこの世界にいるということ。そして、なぜか人間だけはそのことを主目的にしているようにはとても思えないこと。何というか、全てが不思議なことばかりではないですか!!と私は思うばかりでしたね。こちら側からすればせっかく生まれてきて目的が自分の遺伝子を残すことだけとは。そのためには性転換さえ当たり前の魚がいるとは。と直感的には思うばかりですが、それはこちらの角度で、生きものの世界では人間の持つ考え方のほうが不思議なことでしょう。まあ、とはいえ人間の社会も生存戦略として子孫を残すのが原点な訳ですが、それはだいぶ後景に退いた意識になっているといっていいでしょう。だからこそミーム(文化的遺伝子)ということが語られるのでしょうか。
 人間は自然から逸脱したでしょうか?果たして僕は自然から逸脱してしまったのでしょうか。そういう角度で考えるのも面白いことです。旧口動物の王様である昆虫、脊椎動物の両生類、爬虫類、哺乳類。類型化は出来るのですが、子どもの育てる機能はけして一様ではない個性もあるようです。胎盤がないのに子どもをお腹で育てる魚類のサメ、哺乳類なのに胎盤があまりに脆弱なので未熟児で生まれた子どもを袋に入れて袋の中に入れて母乳で育てるカンガルー、魚でも体外受精かもしれないが、口の中に卵を入れて卵を守る魚もいると。
 類の個性は標準化できてもその中でも個性的な種がいる。そう考えればホモ属サピエンス種のわれわれ人間も、その中で多様な個性があるし、生存戦略のためにこれからも個性を伸ばして生存戦略のための進化をしていく、変化をしていくのかもしれません。南伸坊×岡田節人さんの「生物学個人授業」のなかに岡田さんが興味深い一文を載せておりますので、ここで少し紹介します。
「生きものの科学とは、普遍と多様のはざまで仕事をしているのです。(中略)生きものの科学は、多様性の調査と、多様性への賛美から始まっています。やがて普遍の側面は大きく姿を現し、遺伝子の正体と働きが明らかにされることによって、一大クライマックスに達します。といってもトリの翼とサカナの胸ビレの違いが生物学の根本の現実であることは、あまりにも自明です。同じであること(普遍)を知ったら、多様も理解できるのでしょうか?普遍と多様のはざまに、二十一世紀の生きものの科学が新しく始まろうとしているのです」
 今回の(インタビューというよりは)講義のために、幾つか極めて優しい本で予習していきました。以下、参考程度に。もし、この種の話がいままでなじみなく、これを機会に関心が生まれたという人に僕が参考にした本をあげておきます。おそらく図書館で簡単に入手できるはずです。
●「爆笑問題のニッポンの教養① 生命のかたちお見せします 発生生物学・浅島誠」 (講談社)
●「生物学個人授業 岡田節人」 生徒:南伸坊 (河出文庫)
 以上二冊が生物の発生の勉強に使いました。特に南伸防さんは改めて思ったけれど、ものすごく文章がうまい。やさしく、わかりやすくを標榜する参考書のような文体。かつ、そこに「わかりやすさ」へのこびへつらいがありません。凄い人だと思います。ほかにも南さんの個人授業シリーズがあるのですが、残念ながら爆笑問題のテレビシリーズのようにはいかず、岡田先生以外、ほかに2冊くらいしかないはず。そのもうひとりは河合隼雄さん。ほかは確か養老たけしさん?くらいだったかな?確か。
で、後半の人間の特性については以下の本を参考に読んでいきました。
●「人間はどこから来たのか、どこへ行くのか」 (NHK取材班)高間大介 (角川文庫)
 あとはNHKスペシャルの番組「ヒューマン」のDVDを図書館でレンタルで二本ほど見ました。今回は予備知識が必要だと思いましたので、少し資料は多め。でも、知的好奇心を刺激される読みやすい資料たちたちです。
 もちろん、若原先生の本も。映画ファンは「シネマで生物学」などの本もおすすめです。ただ、私も先生が準備されている本の目次を見せていただきましたが、来年発刊予定の若原先生の新著は大いに楽しみにしてよいものと思います。

2015年12月5日土曜日

とまこまい生きづラジオ #004に出演




この秋に苫小牧の「フリースクール検討委員会」で行っている「生きづラジオ」に出演しました。

その画像がYOU TUBEにあがっています。

MCは、友人でもある藤井昌樹さん。お時間があるかたはゆるゆるとご覧下さいませ。

2015年11月24日火曜日

追悼・毛利甚八さん

 
 漫画「家栽の人」の原作者,毛利甚八さんの訃報に接して、ただただ驚いています。もはや「家栽の人」という作品も古くて知らない、という人もいるかもしれませんが、全十五巻の中に人のこころの深い部分を誤解や何かを乗り越えて本質の部分を見抜いていく家裁の裁判官を主人公にした素晴らしい漫画でした。漫画界の古典と言っていい。
 私はこの漫画に出会ったのは最初は主人公を片岡鶴太郎が演じたテレビドラマ。鶴太郎が優しげで真面目そうな裁判官役をやってるんだなあと思って何気なく見ているうちに、その内容の深さについ引き込まれ、そのまま原作の漫画に走った。単行本を中古で買い求めているうち、強烈に引き込まれていったのです。1994年頃だったろうか・・・?おそらく30代の半ばに入る少し前の頃だったので、いろいろと苛立ちを感じつつ、でも自分のその攻撃性だけではいいことがないぞ、だけどこの苛立つ気持ちをどう方向付けたらよいのか?と思いが揺れていたころに出会った作品だったと思います。
 
 主人公は植物栽培が趣味で、いつも時間があれば木を眺めていたり,植えてある花や植物を眺めていたり,官舎のまわりに花を植えたりしていて端からは変わり者に見える。でも、裁判を一旦はじめると非常に仕事が出来る。なぜ出来るかといえば、その洞察力の深さゆえ。
 だからこのマンガの裁判官は法務実務家にして、心理学者みたいな人でもある。桑田判事というこの裁判官、「見えない背中」が見える人のようで、その話の展開はアッと驚くこと多々。
 
 家裁で扱う問題である少年非行や離婚調停を通して、家族の問題を植物や木を比喩として大変巧みな大岡裁きを行っていく。ただ、事柄はそういう分かりやすい余韻を残すばかりではない。木々や植物が育つように、家族が育つことを考えている裁判官である主人公を配し、人の弱さ、弱いように見えての強さ、愛情の裏返しの悲劇、わかりやすくはない優しさ、などなど、人のこころのひだや綾を巧みに描き出す。。コミックス版では全15巻、一作も駄作なく説得力のある作品を続けてきたものと驚嘆するし、読者側としては教えられたり、心の洗濯をしてくれたり。本当にあらゆる面で感謝するばかりでした。
 しかし、この作品から得られる気付きを得てもまだ、現実にうまく適用できない自分に情けない思いを抱いたこともたびたびありましたし、中には読んだ作品にはこういう展開は納得いかない、という思いを抱いたこともありました。
 
 その頃、岩見沢の心理クリニックの先生が93,4年頃いわゆるインターネットの前、「市民ネット」と呼ばれた時代に自分の所に通う若い患者さんたちを対象にコンピューター通信ができる若者交流掲示板をはじめたことを知り、実際にその先生に会いに行き、その市民ネットの掲示板の交流に加えてもらうことができました。で、その中で「家裁の人」の一作品でこういうものがあるんだけど、内容がこれでいいのか僕にはわからない、納得できない、と問いかけたことがありました。
 それはいわば返答を期待しないモノローグのような書き込みだったのですが、驚いたことにその作品を読んでいる人がいて、「私はこのように読んだ」というレスポンスがあり、「自分以外にもこの作品の原作をファンとして読み込んでいる人がいるのか!」といたく感動し、一時その岩見沢のクリニック掲示板にのめり込んでいたこともいま思えば懐かしい思い出です。いずれにしても、なかなか一筋縄でいかないリテラシーを要求する作品で、精神分析療法をしていた自分には人の深層心理を考える上でも大変勉強になる作品でした。
 
 内容は巻を重ねるごとにより複雑でシリアスになり、一話完結だったものがそうではなくなり、最初のコミックスでは13巻~15巻にあたる部分で一旦休筆になり、満を持して3巻分の最終話までは学校で問題児とされた子が学校を相手に裁判を起こす過程、その中学生と付き合い始めた主人公桑田判事の息子が不登校になってしまう過程、学校で秀才の優等生である子が体育教師のパワハラに耐えられず、学校に放火したことを隠しているという子が近くの森に隠れ家を作り、お互いの思いを語り合う自然の森が作品をまわしていくトポス(場所)として登場します。この最終三巻の連続シリーズは部分部分に神話性も帯びていて、どこか河合隼雄さんの語る物語性に通ずる要素がかいま見えます。わかりにくい、「感受性」に訴える要素が増えてくるのですが、それが自然との響き合いの中でというか、木のざわめく音や、沈黙した場から発せられる論理とはまた別のモノローグのような言葉、それを受け止める人など苦労を背負う人々の中で交感されるやりとりはかなりリアルなものを感じました。そのように、日常性と非日常性が常に交流させる絵の見せ方が実に見事なものでした。
 
 そう、作品は舞台は家事調停が種となるので(後に話は少年非行=少年の苦労に主軸が移りますが)、現実判断の厳しさというものも忘れていない。聖人のような主人公でありつつ、理想と現実の狭間でまさに「裁判官」という「バランス」の仕事をどう観察と洞察と判断で行うかというのも読み手のスリリングを非常に喚起するものでした。
 
 さて、「家栽の人」に字数を割きすぎましたが、その後にゴリラ学者を通して現代社会を照射する「ケントの箱舟」。(おそらく主人公のゴリラ学者は、現在京大総長をされている山極寿一さんをモデルのイメージにしてるんじゃないかと思う)、そして現代の若者の抱える困難と古代的な世界でいまのマイノリティに立たされる若者とかつてマイノリティとして国家から搾取された狩猟系部落の人たちとの民俗学的な呪力も引き出す野心作「たぢからお」などの原作も手がけてこられた。
 最近の活動は知らなかったけれど、いつも頭の片隅にあった作者だし(民俗学者、宮本常一の歩いた道を辿るノンフィクションなどもあり、やっぱりそうか、と思わせる)、「家栽の人」はいつでも立ち返って読み直したいと思える僕にとっては古典というか,精神的な原点的な作品。
 
 あまりにも若くしての死(57歳)に今でも驚きを隠せないし,あまりにも勿体ない、これからの人だったと思うけど、大事な三作(家栽の人、ケントの箱舟、たぢからお)を残してくれたので、作品の中に毛利さんの精神は生き続けるからよかったと思うようにするしかない。
 
 ちなみに僕は「不登校新聞」を創刊号から確か1年ちょっと購読していたけれど、その中で毛利さんのロングインタビューが載った号もあった。「不登校の子は繊細で純粋。それだけにこの世界に生きていくのは図々しさが必要になるので大変な気がする」とか語っていたと思う。
 あと、そのインタビューで非常に心に残ったのは「家栽の人」の連載について、「自分の中でこれは嘘だと思うことは書きたくない。でも、どうしても必要に迫られて書いてしまうことはあった。そういう時は泣きながら書く」といった趣旨の言葉もあって、プロの意気というものに震えたものでした。 「居酒屋を経営するダメ親父が不登校の子のための学習塾をする話を書きたい」といったことも語っていましたっけ。その構想はおそらく果たせてなかったとおもうけど、もしそれが書けたら、現在に接続できるロールモデルになる作品としてのこったかもしれません。
 
 本当に惜しい人をなくしてしまった。こころより、そう、こころよりご冥福をお祈りします。

2015年11月15日日曜日

貧困と人の育ち -人文社会科学からの挑戦ー

 
 今日は友人の誘いで久しぶりに本格的な講演会に行ってきました。
「貧困と人の育ちー人文社会科学からの挑戦」と題した発表者が5人に及ぶ日本学術会議の人文社会科学分野研究者たちの講演会です。
 タイトルにあるとおり、いま注目を集めている子どもの貧困、いえ、正確にいえば「子どもと貧困の関係」に関する研究発表という感じでしょうか。場所は北大の学術交流会館。
 
 トップバッターは日本学術会議会長の大西隆さん。まず日本学術会議というものの性格について具体的な紹介。学術会議の役割のひとつとして政府への提言があるようですが、その中では2014年の9月に人文社会科学分野の研究者で「いまこそ『包摂する社会』の基礎作りを」という提言を行っているという話がありました。また、社会意識調査のデーターが紹介され、日本人の生活意識として自分は「中の中」に属すると答える人が圧倒的に多く、次に「中の下」と答える人が多い。つまり日本人の「中流意識」に変化はないとのこと。この生活意識データーの発表は個人的には少し意外で、驚きでした。
 
 続いて心理学を研究するお茶の水大学名誉教授の内田伸子さん。研究のテーマは「学力格差は経済格差を反映するか」。
 結論からいうと、経済格差が学力格差に直結するものではないというものでした。それよりも、家庭における親の教育において「共有型」か「強制型」かがのちの学力に反映するのではないかという推論でした。
 氏は、主に幼児期の教育を中心に議論を進めましたが、「思考」には「収束的思考」と「拡散的思考」というものがあり、前者はおもに想起、つまり暗記力に象徴され、後者は「想像力」に関係するとのこと。そして大事なのは後者の想像力による思考で、それは後に「PISA調査」と呼ばれる文章問題に有意に反映してくるそうです。想像力が伸びるのは類推(アナロジー)の力と関係し、類推する力は自分が「良く知っているもの」と「知らないものを関連付けられる力に関係するそうです。
 その他、意外にも運動能力の発達に関しても、「バレエ、ダンスなどを習う子」がむしろ発達の力が弱いとか。つまりそれらは特定の身体の部分を使う訓練的な運動であり、また、説明時間が必然的に長くなるため、子どもたちに運動に対する苦手意識を与えることが多いとのこと。ですから子どもの場合、まず「自由な遊び」が大切との話でした。それは先の想像力とも共通する話のようで、絵本の読み聞かせでも子どもの感情に寄り添う「共有型」が大人が子どもの自由な想像を摘んでしまう「強制型」よりも後々の学力の伸びに与える影響の違いが出るので、結論的には「経済格差と学力」よりも、「子どもの自由度と学力」のほうが相関性が高いと伝えたいのではないかな、と思いました。(あるいはいわゆる「文化資本」といわれるもの?)
 それゆえ、なかなかこの話題は興味深かった。
 
 続いて「社会的排除と子どもー外国につながりのある子どもの支援から」というテーマで近大姫路大学の松島京さん。社会学から見た「日本に滞在する外国系の子で保育園に通う子どもたち」のフィールドワークです。外国系の子どもたちの国籍などの背景から始まり、姫路市の保育園での外国系の子どもたちの保育の問題のかなり細やかな生活背景の分析などの研究が語られました。細かい話になるのでここでははぶきますが、保育園側の模索、葛藤、支援者の問題意識などが後半に語られ、子どもたちの親御さんの不安定な就労状況を含め、「さもありなん」というべき問題提起型の研究発表でした。今回は時間がなかったので質疑応答や登壇者間の議論がなかったので、その点が一番惜しかった研究発表でした。
 
 短い休憩を挟んで貧困研究を行っている北大の松本伊知朗さんの発表。関西弁イントネーションの明るい語り口。本日最もダイレクトで、貧困問題のストライクな研究発表です。冒頭で「「貧困の再生産」は宿命論ではありません。みなで考えて、そうならないような修正を考えて行きましょう」という呼びかけをされました。そして現代社会の貧困問題は「食べられない」という絶対的窮乏に陥る「絶対的貧困」ではなく、豊かな社会における「相対的貧困」であるということ。「相対的貧困」は貧困研究の先駆国であるイギリスで1960年代に「貧困の再発見」という形で登場したということです。
 また、「子どもと貧困」はけして近代の話ではなく、大昔からずっとあった歴史的イシューであるということでした。
 議論は日本国の所得再分配機能が弱いために格差が広がること、母子家庭の貧困率が非常に高いこと、子どもの貧困に対する社会政策が遅れていることを指摘。そして現代的な課題として、「家族」機能に関する市場化、生活手段の商品化が進んでいること。そのようになってきているにもかかわらず、なお公共的な支援ではなく、「家族」と「市場」に依存させようとする政策が続いていることを問題にされていました。
 「家族だけで子育てをした社会はない。家族なしで子どもが育った社会もない」という言葉が印象的でした。
 
 最後は同じく北大の教育学研究者で臨床心理士でもある間宮正幸さん。間宮さんの活動領域は若者支援で、就労支援の枠組みでの活動の実践が豊富な方です。間宮さんの話は私たちが今回出した本の内容にかぶる部分が多いので、極力かぶる部分は省きたいのですが、間宮さんは欧州では若者の失業問題に関しては、若者による「暴動」や「異議申し立て」という社会への表現として出ているのに対し、日本では「就労の困難」と同時に「人格的自立の問題」の二重の困難に見舞われている、と憂慮されていました。間宮さんが言われる「人格的自立の問題」は端的に言えばひきこもりなどの若者の内向化の問題で、その傾向が日本固有の難しさと考えておられるようでした。そのようなとらえ方をした上で、ご自身の「ヤング・ハローワーク」での若者の相談支援の実践を通じた報告。その中で就労活動以前に発達障害などの問題が見落とされている可能性や、社会不安が強い若者たち、いじめ被害に苦しんできた若者など、就労以前の問題を抱えている若者たちの事例が多いことに驚きと危機感を持っているようでした。
 ですから、就労への動機付け以前に人間力を高めることのほうが先決、とのこと。それが間宮さんがこだわる「人格的自立」という言葉に象徴されるもののようです。このあたりは自分も本作りの過程などで種々監修の先生とも議論してきたことなので、「うんうん」と頷くことが多かったのでした。
 間宮さんの提言としては●求職活動を「人格的自立」の要求と考え、仲間作りや異質な他者からなる共同体での体験と捉えなおす●彼らの自己信頼の要求に応える●日常の成功体験の積み重ねが必要、というような内容でした。
 
 また、議論の前置きとして若者の抱える困難を「ひとつの構造としてとらえる認識が必要である」「憲法9条、21条、25条とワンセットで考えるべき」「貧困と戦争が現実にセットされている(堤未果さんのことば)」「深層構造の「傷つき」を見るべき」と述べられたことも大変印象的でした。
 
 全体には約四時間近い長丁場にもかかわらず、いろいろなテーマを持つ話者が五人語ったので、時間が経つのもあっという間で。最初に予定された質疑応答の時間はなくなり、また仮にあったとしても予定が十五分で、これだけ広く深い各種のテーマでは意見の集約は難しいだろうなあと思いました。私自身もいろいろな課題をつまみ食いした感じもあり、深い理解にいたるものはありませんでしたが、今後いろいろ考えていく際に広い角度の問題提起が沢山あって、多くの刺激をもらえました。このような内容が無料で聞けるというのは非常にありがたかったと思っています。

2015年11月8日日曜日

インタビュー第六弾:姉崎洋一さん(北海道大学名誉教授、特任教授)

既に掲載して数日が経ってしまいましたが、インタビューシリーズの第六弾を掲載しました。今回は北海道大学名誉教授・特任教授で教育学を研究されている姉崎洋一さん。http://ethic.cloud-line.com/interview/21/
 今回は教育学の話よりもアクチュアルな話題である「安全保障関連法案に反対する学者の会」の北海道を代表する中心メンバーのおひとりとしてお話を伺いたいというかたちで、初めて今回はツテなしでお願いしました(但し、昨年三月に出版した自費本を買ってくださったご縁はあります)。
 インタビュー当日は安保法案の特別委員会で強行採決されると思われた日でしたし、当初は先生も超ご多忙と思い、反対の心境と法案への思い、その他9月16日というまさに法案成立直前の気持ちを伺って即時記事化しようと。いえ、実はそうするしかないほど時間がないだろうなという思いでインタビューに伺ったのですが、結果、何と約束の時間からデモへ出かける(!)時間まで大丈夫ですということで、結果三時間半にわたりお話を伺えました。結局、掲載はあの時期のリアル状況からは時間は経ちましたが、むしろいまあの時を改めて振り返るのには良かったのではないでしょうか。
 安保関連法案をめぐっては、冷静に考えると幾つか民意が揺れる局面があったと思います。そして僕自身もそうでした。昨年の時点で閣議決定される頃には公明党に淡い期待を抱きつつ、結局閣議決定は規定の政治的な事実で、その後長く衆議院の議論が始まってまでは私個人として「あきらめ」の感覚があったのは恥ずかしながら否定できません。それよりも安倍政権の周辺や安倍首相を擁する日本の政治家の人たちの幼稚さのきわまりに嫌悪感が強かったから「全ては彼らの思うとおりに」という諦めと何ともいえない忌避感があったのかもしれません。
 それが変わる潮目がもちろん1つは衆議院における憲法学者の憲法審査会での自民党推薦も含む「全員違憲」の発言で、そこからそれに対する与党の稚拙なリアクションや、学生の安保法案反対のデモであるSEALDsの動きであったわけです。
 折りしもこの法案を通して自分でも自明視していた「立憲主義とは何だ?」「民主主義とは何だ」「われわれはどういうものによって集団統治されているのか」という根源的な問題を考えさせられたわけです。
 国政選挙がない以上は民意が反対の声を何とか届けるしかない。それが国会をとりまくデモであったり、安保法制に反対する学者の会であったり、ママの会であったり、いろいろです。で、自分として考えたのはやはり「インタビュー」ということでした。自分は基本的にシュプレヒコールにあまり乗れるタイプではないし、サウンドデモには好感持っていますが、それに乗れるほど若くも無いし、どうしたらいいか?という方法の模索の結果が「反対する学者の会」の姉崎先生に反対の根拠を伺おう、アプローチでした。
  先生は一貫して優しく、しかし硬骨の精神で日本と世界を覆う現状を語ってくれ、あっという間に時間が過ぎました。実は今回のインタビューがいままでで一番よどみなく自分自身が聞いて話せるものでした。それくらいかなり興味関心が似通っていたので。。。時間が瞬く間に過ぎ、先生は6時半から始まるデモに行かれる30ほど前までお付き合いいただきました。おそらくその後は準備が大変だったことと思います。本当にありがたいことでした。
 それにしても、インタビュー内でも語っているSEALDsの方法論は画期的でした。「立憲主義とは何だ」「民主主義とは何だ」という根源的な問いかけをするデモのアプローチ、新規のシュプレヒコール。音楽のリズムと政府批判デモの融合はかつての日本にはなかったのではないでしょうか。また、彼らが過去の教養をきちんと吸収し、現在のポップカルチャーをもって人々に思いを伝えて巻き込む。対決というよりも表現。過去の知性へのレスペクトと、多忙な人たちへ思いを伝えるための方法論の構築。結局、その表現に対して稚拙な政府側はあまりに幼稚な反論をしたりした。
 現実の議論のフィールドという場面で言えば、どちらに分があったか歴然でしたね。まあ、そんな批評家めいた物言いはこの一度限りにします。それはいい年をした大人のとる姿勢ではないので...。

2015年10月30日金曜日

父親のケース会議を通過して思ったこと

父親のケース会議第二回目に出席。場所は自宅。前のケア・マネージャーが育休取得で代行に入り、代わりにケアマネ事業所のセンター長がウチのケース担当になったのと、母親がこのところグッと体力・認知力が低下しているのを個人的に僕が情報を伝えているので、ついでに母親の様子を全体で確認する方途でもあるのかもしれない。いずれにしても、現に父のケースの現状とニーズの再確認、サービス提供側の新しい提案など、しっかり会議はする。もちろん本人主体として。

集まるのはケアマネージャーを中心に、訪問ナース、訪問リハビリ担当者、介護用具設置提供業者。父母、息子の自分。今回は再び食の意欲を失い、食べなくなった父に医師の訪問による往診が主眼。これは息子にとっても最もありがたい話で、最近は病院も当日拒否する寝てばかりの状態なので、訪問往診は訪問看護と訪問リハビリだけでもずいぶん違う安心があったから、加えて医療は大いに助かる。

もう一つの課題はデイによる入浴サービス。受けますと言って全然行かず。大概前日断るパターン。自宅風呂に入ろうと思うなどと現状としては無茶を言うので、ウチの風呂に入る介助がしてもらえるか聞いてみた。それはできるとのこと。けれど、父親は女性の介助は嫌だという。男性で可能か聞いてみたら可能とのこと。ならば、と僕が少し前がかりになったところで父の様子を伺うといまひとつ乗り気ではないようなのでこの件は保留に。まず往診のサービスと食べれるようになることが一応の方針で決着。父親の食べる気力が起きない、起きる気がでない、風呂に行きたくないはさまざまな心理的な要因もあって、換言すると「生きる目標がみ出せないし、今後元気になったからといっても何があるか」ということなのだけど、これはサービス提供者も、そしてわれわれ家人も如何ともしがたい問題なのだ。父は「自分の母親は絶食して死んだ。自分もそうなれたら」というが、それは僕らは、まして僕は家人として出来ぬ相談。
最近関係良好なリハビリ担当の人が「そういうことは言わないほうが」ととりなしてくれたけど。そこまで言えるほどに甘えられる関係が生まれたのか、それとも本音がもうそこに尽きているのか。こちらとしては判断つかない。

前段が長すぎたけれど、ケアマネージャーを軸としてこの種の対人サービスはいまの時代の仕事の最も難しい部分を垣間見た気がする。まずじっくりとした傾聴。落ち着いた姿勢で話を聞き取り、ニーズの本質をあぶり出す。本人ニーズは今までも本人自身が求めながら使わず、けっこう裏切ってきてるのだけど、それでもニーズの短期利益と長期利益の両面考えているのが語り口からわかる。短期的にニーズが合わなくても、判断は保留にしていつか必要な局面も考え合わせながら、「とりあえず残しましょう」「やめましょうか」と判断。そしてナースの意見、介護用具業者の意見を聞きながら、それを受け入れつつ、路線を父親にフィードバックする。場合によっては被保険者の求めに応じてその場で電話をかけてことを動かす。それが例えば祝日明けの病院受診に向けての介護タクシーの準備など。

そこに集っている人たちの「こうしたほうがいい」本人の「こうしたい」のあいだを取り持って、落としどころを誰も不安にさせずに方針決定する。もちろん、すべて良しの決定はないけれど、ベターな印象に落とし込むところはさすが。
でも、上述のことはほかの専門職も姿勢は同じ。ナース、PT、介護用具の業者は民間業者だけど、介護保険適用なので、姿勢はみな、そういうもの。これが現代の仕事、もうひとつの最先端だよな、と思う。

対人サービスは相手がいま何を求めているか知らねばならないし、知るためには聞き取る姿勢が必要。同時に、理解を求めるには明瞭で、わかりやすい説明を当事者にしなきゃならない。例えば、母親は難聴なので、大きな声で、しっかりと、ゆっくり語りかける。頓珍漢なリアクションでもみんなかなり悠然として構えているのはやはり訓練されてるな、と思う。

僕も一応は勉強としての認識はあるから、その場の一局面ではできそうな気はするけど、これを継続的にやるとはとてもとても。考えにくい。ノイローゼがおそらく再発すると思う。でも、これが現代のサービス業の最先端のひとつだ。

先日のフューチャーセッションで提起した話題から展開して、いまの仕事は多くがコンピューターが代わってくれるので、人の仕事が接客、対人援助サービスなどの洗練されたコミュニケーション労働になっているので、そこに向かない人は大変という話が援助職の人からあった。まさにそういう時代なんだと思う。それ以外はコンピューターを活用する仕事とか。
NPOの仕事だとてそうだろう。今回のフューチャーセッション、ファシリテーターで東京から来られた方は完全にプロフェッショナルな仕事をされていたけど、ボランティアだ。自分の生きがい、やりがいの代わりに対価を得ていない。
でも、福祉職が、つまり対価を得る福祉医療職が生きがいやりがいが持てるかもてないかわからない。人や彼を取り巻く人に安心を与えることが生きがいで、それで生活している人は当然いるだろう。

問題はあらゆる角度が洗練されて、マインドが同じでも自分のキャパが生活に見合う給料となる職業にするにはいささかきつすぎることもあるだろう。あるいは多忙に見合うにはデリカシーを要求されすぎるとか。僕はこの都会化した札幌に生まれ住んで50年を結構超えるけども、昔に比べて対人関係が洗練されたなあ、乱暴な部分がなくなったなあ、摩擦が本当に減ったなあと思う。それは現代に全体浸透している何ものかではないか。清掃だって、もう10年ひと昔の隔世の感がある。今ではビル清掃していて、ビル内勤務している人は「お客さん」なのだけれども、昔はそんな意識があったかどうか。それだけそういう意識を持つような人間が働く側のベースに必然として求められるし、それができない人はやはり勤められない。

それで、この器にはまりそうではまりきれない人の生活の方法はどうか?という話になる。やはりこの、多くが「感情労働」に従事する時代に、別の仕事の形が自然に当てはまるものとなるとすぐ浮かぶもの…。となると職人、農業、シェフ…。そんな感じか。つまり生産者、ということになるでしょうか。
だから、教育過程からいえば、「一律」ではひとりひとりの育ち、資質に現状、見合ったものになっていないのではないか。僕はエレベーターでよく会う宅配業者の真面目な身体を使った働きぶりにすごく感銘を受けるので、宅配業者の人には自分への届け物には極力心からお礼するようにしているけれど、でもどこかでこのような業務でずっと行くにはもったいない人も多いのではないか、と思うのです。

父親のケアマネージケース会議から風呂敷が広がりすぎたけど、あえて一度広げてみました。

2015年10月19日月曜日

『ひきこもる心のケア』販促活動記録(1)

 
 お久しぶりです。無事8月下旬に刊行された『ひきこもる心のケア-ひきこもり経験者が聞く10のインタビュー』。
 その発売に合わせて、少しずつ宣伝を兼ねて、もろもろ会合や、ひきこもり・不登校の親の会のかたがたの集まりなどにも参加させていただいています。その活動の第一次報告です。
 
まずは、9月9日に小樽の不登校・ひきこもり家族会に参加。この場で確か本を買ってくださった方がいるはずなのですが、現在ちょっと確認を忘れてしまいました。来月にまたぜひ参加したいと思っています。
 
次に、9月12日。全国障害者問題研究会北海道支部。 の夏季学習会にご招待いただきまして。
この場は特別支援教育の専門家で、本書「ひきこもる心のケア」のインタビューにも登場いただいた札幌学院大学教授の二通諭先生と、元々本書の企画の大元になった会報企画の助成金申請もしていただいたNPO法人レター・ポスト・フレンド相談ネットワークの田中敦理事長(本書インタビューにも協力いただきました)との共同シンポジウムのシンポジストのひとりとして参加しました。司会は「ひきこもる心のケア」、監修者の村澤和多里札幌学院大学准教授。
この大会の場では本書8冊をお買い上げいただきました。
 
9月18日は石狩・不登校と教育を考える会「かめの会」に参加。会のほうに一冊献本させていただき、1冊のお買い上げがありました。
 
9月26日は全国ひきこもりKHJ親の会家族会連合会北海道「はまなす」 に参加。会合の冒頭に本の紹介をさせていただき、7冊の本のお買い上げがありました。

10月はまずは函館に。10月11日、函館のひきこもり当事者の集い、「樹陽のたより」と道南ひきこもり家族交流会「あさがお」に参加。後者では30分体験発表と質疑応答の時間をいただき、おかげさまで持っていた本12冊がすべて完売しました。

10月16日。もぐらの会えべつ登校拒否と教育を考える会の特別例会で訪問型フリースクール・漂流教室の相馬契太さんとのトークセッション。相馬さんの巧みなリードのおかげもあって29名の方が集まり、本も10冊ご購入いただきました。ありがとうございます。
才人、相馬さんについてはこちらにインタビュー記事があります。(少し古いもので申し訳ないです)。

そして昨日の10月18日は昨年まで札幌在住で、5年来の友人であり、現在苫小牧の若者サポートステーション&ワーカーズコープの仕事をされている藤井昌樹さんが運営委員をしている「とまこまいフリースクール検討委員会ーこどもかけはしネットワーク」にお邪魔。午前の不登校に関する勉強会、「ふとうこうシンキングカフェ」に参加させてもらったあと、午後からUstream配信「生きづラジオ#4」に出て、藤井さんと対談してきました。このネット配信で本作りの心境やら、生きてきた過程での挫折やらは大雑把にまとめて話してきましたので、お時間がある方、関心のあるかたはご覧になってください。
しばらくしたら、YOUTUBEにも全編上がる予定です。

とまこまいはネット情報配信に大変意識的で、コンテンツも短い期間のあいだに大変盛りだくさんです。ぜひこどもかけはしネットワーク、チェックなさってみてください。

本の全国的な売り上げも幸い順調のようで、まずはホッと胸をなでおろしているところ。今後も行商は続けたいと思いますので、お声がかりがあればうかがいます。よろしくおねがいします。

 


2015年9月29日火曜日

北海道新聞夕刊に「ひきこもる心のケア」に関する記事が載りました

昨日(9月28日)、北海道新聞夕刊の記事で『ひきこもる心のケアーひきこもり経験者が聞く10のインタビュー』が取り上げられました。
ありがとうございます。以下、記事を掲載します。