父親のケース会議第二回目に出席。場所は自宅。前のケア・マネージャーが育休取得で代行に入り、代わりにケアマネ事業所のセンター長がウチのケース担当になったのと、母親がこのところグッと体力・認知力が低下しているのを個人的に僕が情報を伝えているので、ついでに母親の様子を全体で確認する方途でもあるのかもしれない。いずれにしても、現に父のケースの現状とニーズの再確認、サービス提供側の新しい提案など、しっかり会議はする。もちろん本人主体として。
集まるのはケアマネージャーを中心に、訪問ナース、訪問リハビリ担当者、介護用具設置提供業者。父母、息子の自分。今回は再び食の意欲を失い、食べなくなった父に医師の訪問による往診が主眼。これは息子にとっても最もありがたい話で、最近は病院も当日拒否する寝てばかりの状態なので、訪問往診は訪問看護と訪問リハビリだけでもずいぶん違う安心があったから、加えて医療は大いに助かる。
もう一つの課題はデイによる入浴サービス。受けますと言って全然行かず。大概前日断るパターン。自宅風呂に入ろうと思うなどと現状としては無茶を言うので、ウチの風呂に入る介助がしてもらえるか聞いてみた。それはできるとのこと。けれど、父親は女性の介助は嫌だという。男性で可能か聞いてみたら可能とのこと。ならば、と僕が少し前がかりになったところで父の様子を伺うといまひとつ乗り気ではないようなのでこの件は保留に。まず往診のサービスと食べれるようになることが一応の方針で決着。父親の食べる気力が起きない、起きる気がでない、風呂に行きたくないはさまざまな心理的な要因もあって、換言すると「生きる目標がみ出せないし、今後元気になったからといっても何があるか」ということなのだけど、これはサービス提供者も、そしてわれわれ家人も如何ともしがたい問題なのだ。父は「自分の母親は絶食して死んだ。自分もそうなれたら」というが、それは僕らは、まして僕は家人として出来ぬ相談。
最近関係良好なリハビリ担当の人が「そういうことは言わないほうが」ととりなしてくれたけど。そこまで言えるほどに甘えられる関係が生まれたのか、それとも本音がもうそこに尽きているのか。こちらとしては判断つかない。
前段が長すぎたけれど、ケアマネージャーを軸としてこの種の対人サービスはいまの時代の仕事の最も難しい部分を垣間見た気がする。まずじっくりとした傾聴。落ち着いた姿勢で話を聞き取り、ニーズの本質をあぶり出す。本人ニーズは今までも本人自身が求めながら使わず、けっこう裏切ってきてるのだけど、それでもニーズの短期利益と長期利益の両面考えているのが語り口からわかる。短期的にニーズが合わなくても、判断は保留にしていつか必要な局面も考え合わせながら、「とりあえず残しましょう」「やめましょうか」と判断。そしてナースの意見、介護用具業者の意見を聞きながら、それを受け入れつつ、路線を父親にフィードバックする。場合によっては被保険者の求めに応じてその場で電話をかけてことを動かす。それが例えば祝日明けの病院受診に向けての介護タクシーの準備など。
そこに集っている人たちの「こうしたほうがいい」本人の「こうしたい」のあいだを取り持って、落としどころを誰も不安にさせずに方針決定する。もちろん、すべて良しの決定はないけれど、ベターな印象に落とし込むところはさすが。
でも、上述のことはほかの専門職も姿勢は同じ。ナース、PT、介護用具の業者は民間業者だけど、介護保険適用なので、姿勢はみな、そういうもの。これが現代の仕事、もうひとつの最先端だよな、と思う。
対人サービスは相手がいま何を求めているか知らねばならないし、知るためには聞き取る姿勢が必要。同時に、理解を求めるには明瞭で、わかりやすい説明を当事者にしなきゃならない。例えば、母親は難聴なので、大きな声で、しっかりと、ゆっくり語りかける。頓珍漢なリアクションでもみんなかなり悠然として構えているのはやはり訓練されてるな、と思う。
僕も一応は勉強としての認識はあるから、その場の一局面ではできそうな気はするけど、これを継続的にやるとはとてもとても。考えにくい。ノイローゼがおそらく再発すると思う。でも、これが現代のサービス業の最先端のひとつだ。
先日のフューチャーセッションで提起した話題から展開して、いまの仕事は多くがコンピューターが代わってくれるので、人の仕事が接客、対人援助サービスなどの洗練されたコミュニケーション労働になっているので、そこに向かない人は大変という話が援助職の人からあった。まさにそういう時代なんだと思う。それ以外はコンピューターを活用する仕事とか。
NPOの仕事だとてそうだろう。今回のフューチャーセッション、ファシリテーターで東京から来られた方は完全にプロフェッショナルな仕事をされていたけど、ボランティアだ。自分の生きがい、やりがいの代わりに対価を得ていない。
でも、福祉職が、つまり対価を得る福祉医療職が生きがいやりがいが持てるかもてないかわからない。人や彼を取り巻く人に安心を与えることが生きがいで、それで生活している人は当然いるだろう。
問題はあらゆる角度が洗練されて、マインドが同じでも自分のキャパが生活に見合う給料となる職業にするにはいささかきつすぎることもあるだろう。あるいは多忙に見合うにはデリカシーを要求されすぎるとか。僕はこの都会化した札幌に生まれ住んで50年を結構超えるけども、昔に比べて対人関係が洗練されたなあ、乱暴な部分がなくなったなあ、摩擦が本当に減ったなあと思う。それは現代に全体浸透している何ものかではないか。清掃だって、もう10年ひと昔の隔世の感がある。今ではビル清掃していて、ビル内勤務している人は「お客さん」なのだけれども、昔はそんな意識があったかどうか。それだけそういう意識を持つような人間が働く側のベースに必然として求められるし、それができない人はやはり勤められない。
それで、この器にはまりそうではまりきれない人の生活の方法はどうか?という話になる。やはりこの、多くが「感情労働」に従事する時代に、別の仕事の形が自然に当てはまるものとなるとすぐ浮かぶもの…。となると職人、農業、シェフ…。そんな感じか。つまり生産者、ということになるでしょうか。
だから、教育過程からいえば、「一律」ではひとりひとりの育ち、資質に現状、見合ったものになっていないのではないか。僕はエレベーターでよく会う宅配業者の真面目な身体を使った働きぶりにすごく感銘を受けるので、宅配業者の人には自分への届け物には極力心からお礼するようにしているけれど、でもどこかでこのような業務でずっと行くにはもったいない人も多いのではないか、と思うのです。
父親のケアマネージケース会議から風呂敷が広がりすぎたけど、あえて一度広げてみました。