今年一年を振り返ってどうだったろうか。まずは気象的に言えば、極めて厳しい冬だったという印象が強烈に残る。ほぼ毎日降り注ぐ雪。そして毎日続く氷点下、真冬日の日々。それは昨年の12月からずっと続いていた現象だったと思う。高々と積もった雪の壁。2メートルは優に超えていたと思う。降り注ぐ雪で夜中でさえ除雪が追いつかない道。
今年の終わりの日を考えると、昨年、今年の冬の厳しさの格別さを思い返す。
自分にとってはどうだったか。まずまずのところもあれば、年重ねることで、当然のことながら両親の老い姿のスピードが釣り合わないという見方は自然出てくる。そこに自分なりの考えを別に持ち出すことである種の不自然な自分なりの生活文化を作ろうとするわけだけど、無理を承知のなんとやら、という感じもする。しかし、じたばたしても致し方ない面もあり、それは老いの当事者たる両親もそんな感じで。ただ、どう考えたらいいか。両親も老いが相当進んで、未来への感覚も敏感さがどんどん薄れている、とも言えるわけで。。。
近未来への不安というものは、過敏になるのはどうにも好きになれないが、共に住んで、一緒に鈍感になっている、あるいはシリアスにリアルに見ていない、という面は無視はできないだろう。つまり、コインの両面があるということだ。
僕に関して言えば、自分のものの考え方と社会のズレは昔ほど自分に引き当てて自分に問題があると考えて何かと不安になることは減ったと思う。その分、日常の中の鈍感さが自分の課題だと改めて思っている。
見たり、読んだり、聴いたり、対話したり、学んだり、書いたり出来る贅沢を随分味わった年だと思いつつも、逆に日常のリアルに対する感覚が鈍麻していることが大いに反省点。というのは、昨日、30日までの仕事でも毎日のルーティンでいつもと違う人が少ないところで、セキュリティキーの扱いを間違えたりして。。。冷や汗をかくようなことも。足りないのは、身近な物理的な物事への対処への粗雑な態度。そう、実に粗雑な態度が治らないどころか、ますます酷くなっている気がする。セキュリティに関して言えば、社会とか政治とか大きな観点では自分自身、自分の予測や観測は結構当たる、アテになるという自信があるのに、「日常的なこと」に対する想像力の欠落、しなかったことの結果に対する想像力の欠落に気づかされる。例えば、ジャケットに突っ込んだ車のキーや車庫のキーを入れたまま通勤に出てしまうとか。出てしまってから気づくような、そんな問題がある。「いま現在、最も重要なこと」に対する鈍感さが直せないでいることは気がかり。このまま言ったら早発性の認知症になってしまうのではないか、と心配になってしまう。
政治に関しては酷い。酷すぎて今や言葉を失うぐらい呆然としてしまう。安倍政権が誕生してまだ約1年くらい。そのあいだにやったことといえば、特定秘密保護法、周辺事態法、就任1年目の靖国参拝で世界中から非難される始末。たった、ほんの1年くらいのあいだに空気がいっぺんに重苦しくなった気がする。いや、間違いなく重苦しくなったし、未だ支持率が50%割らない辺りに僕が知っている日本社会の空気が明らかに変化したことに動揺している。
来年は国際社会の風当たりが一層厳しくなるし、それは政治経済の活動に悪い影響を間違いなく与えるし、その跳ね返りは社会の日々に影響を当然与え、生活に響くと思う。首相自身の立場がどうなるかということも含め、一層注意が必要だと思う。何より国際世論がこれだけ厳しい中で支持率が下がらないのはなかなかこの首相も変えにくいわけで、世界は日本自体を厄介な国情を持った国としてますますその認識を深めると思う。
かならずこういう気持ちを吐露すると、お前は国を愛する気持ちはないのか、と来るけど、先の大戦の結果が示すとおり、過剰なナルシズムは大きく国を誤たす。それを知らない方が反愛国なわけで、何でこんなに先進国になって教育水準が高いはずの国がこういう単純なことがわからないのかな、と素朴に不思議に思う。もちろん、僕が普通よりかはこの種の話題に敏感なのは認めるけど。
10月に釧路に行ったのは今年の大きな自分の中にあるものかな。生活保護法改正とセットで提出された「生活困窮者自立支援法」の枠組みでの話し。釧路は経済的貧困のみならず、「関係性の貧困」に着目して、人の孤立を法を生かしてその現代の最も深刻な困難の一つに着手しようとしていると思う。孤立ベースの関係性の貧困は、一人で生きていけない人間をそのままだと「すがる何か」として愛国主義にも一挙に飛躍させてしまうし、自己愛を国家愛にしか繋げられない不幸にも結びつける。単純に言えば友達や、愛する人がひとりでもいれば、人間は冷静で落ち着いた思考に立ち返らせることができると思うのだ。もちろん、そんな単純ではなくて、割合的な問題ではあると思うけど。
やはり、人が平和で優しくなれるのは適切な愛情の交換と、適度な役割、仕事、そして建設的な目標なんだと思う。あんまりにも当たり前すぎることだけど。そういう言葉を鼻じらむ感じがいま怖い状況を生みやすいのだと思う。僕だって、その種の虚無主義、ニヒリズムにいつだって陥らないとも限らない。
言葉自体は「困窮者自立支援法」は、困窮に陥る前の予防的な法律なので、どうも好きになれず、「生活者支援法」でいいんじゃないかと思うけど、ともかく、一段前に書いたように、僕らが平和で優しくなれるためにはいろんな方途があっていいと思う。政策も。この法案は自治体ベースなので、自治体の努力の有無次第、という極めて地方自治的なものになりそうなので、努力する地域としない地域の方針がぐっと開きそうだし、問題意識を持って取り組めば福祉を含めた大きな人間関係作りの考察の深まる機会になるのでは、と思う。「ひとりひとり」のありようベースになって欲しい。ーー評論家みたいな書きようで申し訳ないのですけど。
ただ、どうしても不安なのはいま現在、現状では市民とか国民からのボトムアップベースではなく、たった1年で国が国民を動かすノリになっていること。そしてそれに対する抵抗力も弱っているように思えること。だから、正直、今はすごく不安です。何もかにもが水の泡とならないよう、祈るのみ。。。ジョージ・オーエルの「動物農場」みたいな世界は本当にご勘弁なので。