2013年12月31日火曜日

2013年から次の年へ

 
 今年一年を振り返ってどうだったろうか。まずは気象的に言えば、極めて厳しい冬だったという印象が強烈に残る。ほぼ毎日降り注ぐ雪。そして毎日続く氷点下、真冬日の日々。それは昨年の12月からずっと続いていた現象だったと思う。高々と積もった雪の壁。2メートルは優に超えていたと思う。降り注ぐ雪で夜中でさえ除雪が追いつかない道。
 今年の終わりの日を考えると、昨年、今年の冬の厳しさの格別さを思い返す。
 
 自分にとってはどうだったか。まずまずのところもあれば、年重ねることで、当然のことながら両親の老い姿のスピードが釣り合わないという見方は自然出てくる。そこに自分なりの考えを別に持ち出すことである種の不自然な自分なりの生活文化を作ろうとするわけだけど、無理を承知のなんとやら、という感じもする。しかし、じたばたしても致し方ない面もあり、それは老いの当事者たる両親もそんな感じで。ただ、どう考えたらいいか。両親も老いが相当進んで、未来への感覚も敏感さがどんどん薄れている、とも言えるわけで。。。
 
 近未来への不安というものは、過敏になるのはどうにも好きになれないが、共に住んで、一緒に鈍感になっている、あるいはシリアスにリアルに見ていない、という面は無視はできないだろう。つまり、コインの両面があるということだ。
 
 僕に関して言えば、自分のものの考え方と社会のズレは昔ほど自分に引き当てて自分に問題があると考えて何かと不安になることは減ったと思う。その分、日常の中の鈍感さが自分の課題だと改めて思っている。
 見たり、読んだり、聴いたり、対話したり、学んだり、書いたり出来る贅沢を随分味わった年だと思いつつも、逆に日常のリアルに対する感覚が鈍麻していることが大いに反省点。というのは、昨日、30日までの仕事でも毎日のルーティンでいつもと違う人が少ないところで、セキュリティキーの扱いを間違えたりして。。。冷や汗をかくようなことも。足りないのは、身近な物理的な物事への対処への粗雑な態度。そう、実に粗雑な態度が治らないどころか、ますます酷くなっている気がする。セキュリティに関して言えば、社会とか政治とか大きな観点では自分自身、自分の予測や観測は結構当たる、アテになるという自信があるのに、「日常的なこと」に対する想像力の欠落、しなかったことの結果に対する想像力の欠落に気づかされる。例えば、ジャケットに突っ込んだ車のキーや車庫のキーを入れたまま通勤に出てしまうとか。出てしまってから気づくような、そんな問題がある。「いま現在、最も重要なこと」に対する鈍感さが直せないでいることは気がかり。このまま言ったら早発性の認知症になってしまうのではないか、と心配になってしまう。
 
 政治に関しては酷い。酷すぎて今や言葉を失うぐらい呆然としてしまう。安倍政権が誕生してまだ約1年くらい。そのあいだにやったことといえば、特定秘密保護法、周辺事態法、就任1年目の靖国参拝で世界中から非難される始末。たった、ほんの1年くらいのあいだに空気がいっぺんに重苦しくなった気がする。いや、間違いなく重苦しくなったし、未だ支持率が50%割らない辺りに僕が知っている日本社会の空気が明らかに変化したことに動揺している。
 来年は国際社会の風当たりが一層厳しくなるし、それは政治経済の活動に悪い影響を間違いなく与えるし、その跳ね返りは社会の日々に影響を当然与え、生活に響くと思う。首相自身の立場がどうなるかということも含め、一層注意が必要だと思う。何より国際世論がこれだけ厳しい中で支持率が下がらないのはなかなかこの首相も変えにくいわけで、世界は日本自体を厄介な国情を持った国としてますますその認識を深めると思う。
 かならずこういう気持ちを吐露すると、お前は国を愛する気持ちはないのか、と来るけど、先の大戦の結果が示すとおり、過剰なナルシズムは大きく国を誤たす。それを知らない方が反愛国なわけで、何でこんなに先進国になって教育水準が高いはずの国がこういう単純なことがわからないのかな、と素朴に不思議に思う。もちろん、僕が普通よりかはこの種の話題に敏感なのは認めるけど。
 
 10月に釧路に行ったのは今年の大きな自分の中にあるものかな。生活保護法改正とセットで提出された「生活困窮者自立支援法」の枠組みでの話し。釧路は経済的貧困のみならず、「関係性の貧困」に着目して、人の孤立を法を生かしてその現代の最も深刻な困難の一つに着手しようとしていると思う。孤立ベースの関係性の貧困は、一人で生きていけない人間をそのままだと「すがる何か」として愛国主義にも一挙に飛躍させてしまうし、自己愛を国家愛にしか繋げられない不幸にも結びつける。単純に言えば友達や、愛する人がひとりでもいれば、人間は冷静で落ち着いた思考に立ち返らせることができると思うのだ。もちろん、そんな単純ではなくて、割合的な問題ではあると思うけど。
 
 やはり、人が平和で優しくなれるのは適切な愛情の交換と、適度な役割、仕事、そして建設的な目標なんだと思う。あんまりにも当たり前すぎることだけど。そういう言葉を鼻じらむ感じがいま怖い状況を生みやすいのだと思う。僕だって、その種の虚無主義、ニヒリズムにいつだって陥らないとも限らない。
 言葉自体は「困窮者自立支援法」は、困窮に陥る前の予防的な法律なので、どうも好きになれず、「生活者支援法」でいいんじゃないかと思うけど、ともかく、一段前に書いたように、僕らが平和で優しくなれるためにはいろんな方途があっていいと思う。政策も。この法案は自治体ベースなので、自治体の努力の有無次第、という極めて地方自治的なものになりそうなので、努力する地域としない地域の方針がぐっと開きそうだし、問題意識を持って取り組めば福祉を含めた大きな人間関係作りの考察の深まる機会になるのでは、と思う。「ひとりひとり」のありようベースになって欲しい。ーー評論家みたいな書きようで申し訳ないのですけど。
 
 ただ、どうしても不安なのはいま現在、現状では市民とか国民からのボトムアップベースではなく、たった1年で国が国民を動かすノリになっていること。そしてそれに対する抵抗力も弱っているように思えること。だから、正直、今はすごく不安です。何もかにもが水の泡とならないよう、祈るのみ。。。ジョージ・オーエルの「動物農場」みたいな世界は本当にご勘弁なので。

2013年12月14日土曜日

「秘密」と「謎」(2)

 
 このタイトルで考える話は実は自分の中では一筋縄では行かない。先日も書いたように自分が自分の中に持つ秘密や謎。それは意識と「意識下にあるもの」との問題でもあって、フロイトとか、より歴史的に古くてかつ普遍的な仏教で言う煩悩の問題とつながる。

 その話題に入る前に別角度で寄り道。
 
 現実的に言えば、近現代人として、社会集団のそのときどきの成立の過程について疑問をもつことや、社会について調査や研究をしたいと思う人たちが一定数いる。近現代においては社会の成立、秩序の成り立ちの形は別に人間を超えた超越者である「神」によって生かされているわけではない前提を持っているから、政治的・経済的・社会的な力関係やリーダーたちの関与があることを知りたいと思う人が生まれてくるし、リーダーたちの意図を知る権利もある。言い様を変えれば、それは「知りたい」という、人の良くも悪くも欲望によるものだし、知的な欲求というものだ。

 それはもちろん、別に第二次世界大戦後に生まれた発想じゃなくて、明治政府という近代の国民国家が成立したときからある、一定の人たちの要求だ。むしろ当時の権力エリートの方が、国民国家の方法論を輸入した過程にいたわけで、彼らは実は結構ニヒリズムがあったんじゃないか、という気がする。国民国家、この壮大なる虚構、という感じで。そのニヒリズムが向かう方向が「国家」にベクトルが向いている人は民主主義とは国家が人びとに与える「恩恵」だ、と考えただろう。また、「新たなリアリズム」としての国家像を「国民」への関心に向けた人は、民主主義は国家から人々が解放され、主体的にこちら側から社会を作ろうという「回復的」な権利だと考えたろう。つまり、いまにつながる考えはすでに明治期からあったし、後者の代表の一人としてはジャン・ジャック・ルソーの思想を訳した中江兆民という人がいる。でも、おそらく中江兆民だとて、楽天的な民主主義者だったわけではない。いろいろと諧謔的な思いは「三酔人狂論問答」という彼の本に書かれてる。諧謔か、あるいは高度なバランス感覚だともいえるかもしれない。そして彼の書生をやっていたのが、後に大逆事件に呑み込まれる幸徳秋水だ。大逆事件は、いま話題になっている「共謀罪」を考える際に、もっともネガティブな方向で想像に浮かぶ明治の事件だった。

 人が社会の中で疑問に思うことに迫ろうとすること。つまり生きていく上でどうしても気になってしまうこと、学んでいく過程で考えてしまう方向性。そこにいわゆる「秘密」なり社会の中の「謎」もある。
 多くの人にとって、余計なことは知る必要はない、自分にとってメリットにもならないようなことは知る必要がない、そういうスタンスは別にあっても構わないものだ。でも、逆に知りたがることも別に病気ではないし、危険なことでもないはずのものだ。

 多くの人が自分の関心に従って、自然に関心を持ち、自然科学に没頭したり、コンピューターアプリに関心を持って、その内部構造の解明と新しいアプリ制作に没頭したりすることと、社会的な関心は別の立ち位置にあるわけではない。探究心という意味では同じことにすぎない。
 しかし、結論から言えば、日本が大日本帝国だった頃、昭和の日中戦争~太平洋戦争に至る過程のなかで「社会」ということばは危険視されたのだった。「昆虫の社会」という本を購入したと言って警官に捕縛されたり、軍港のある小高い丘で写生をすれば、「軍事機密」に触れる行為、として警官におとがめされるとか、そういう冗談のようなことが起きたわけだし、いま日本政府が考えていることはそういうことがタチの悪い冗談で済ませないということも考えているのではないか、と疑問に思わざるを得ないことが多い。

 そのようなクダラナイことにも、説得性を与えるものは二つある。ひとつは未来への欲望の餌を意識に植え付けておいてから、それが手に入らないのではないか、という人びとの状況不安に付け入ることである。もう一つは、自分の国の周りにはいよいよ明確な敵がいるんだ、という悪意ある幻想を植え付けることである。どちらも不安意識に根ざす人々の悪い想像力に訴えかければ、過去の風景はいまの風景は違うよ、とはいえなくなるだろう。
 見える風景はいわば化粧のようなもので、裸の心性は今も戦前も同じです、ということだって十分考えられる。

 自分ではない誰か、自分では手に負えないと思われるような大きな状況の何ものか、植えつけられた時代のその観念。それを何度も何度も繰り返す教育やメディア。手段は変わっても、同じことがらへ。欲望とそれに基づく明日への不安に訴えれば、案外客観的に振り返れば笑ってしまうような、そんな冗談のような環境も揃えることができるのではないか、ということなのだ。

PS.
 ところで、テレビでは何でこれだけ?と思うくらい警察主体の犯罪暴きのドラマがあることだろう。人はどれだけ秘密を暴露したいと内心思っていることか。2時間ドラマのサスペンス云々を見てればきっとそれがわかるだろう。別に政治的な思惑を詮索することと、2時間ドラマで犯人探しをしたがることと。その欲望はこちらが高尚で、こちらが程度が低いなんてわけじゃない。同じ心根からある、と見れば普通の人も理解してもらえることのはずなのだ。ただ、そこからつながっていく回路がどこか、ということの違いの問題に過ぎない。まあ、実はその問題が大きいのだともいえるのだろうけれども。。。

2013年12月13日金曜日

「秘密」と「謎」(1)

 
 秘密保護法案が通過した。防衛、安保、テロなど国家機密に対して公務員はそれらの「特定秘密」を保護しないと懲役罰が加えられるとか。あるいは秘密を話すように「強要」した民間人も懲役刑になるとか。
 
 「秘密」を保護する、と国家が明言することは国家が秘密を持っていることを明言することだし、国家、つまり”主権・領土・国民”で成り立つ国民国家がその国家の安寧秩序のために秘密を持つのだ、秘密をバラしたものは許さないぞ、という姿勢を国民に示したという点で、この国の政権というものが父親的なこわもてを前面に打ち出したことで画期的だった。日本は「自由」で「民主主義」の国としての建前を持っているけれども、その建前が崩れ落ちた瞬間で、折しも隣の北朝鮮が政治的な要人を体制内権力闘争で事実上死刑にするような独裁制的態度に出たり、中国のような国の国家中心主義的な情勢など、日本も含めて東アジア全体が「自由と民主主義」という建前の限界領域にいま、あるんだろうという気がする。特に、戦後の日本でこういう姿勢が前面に出たのは初めてではないだろうか。これはこの法案に限らずの話であって。・・・ここまでのざっくりとした感想に、いろいろ細かな説明不足を指摘する向きがあるだろうし、その通りのこともあるだろうと思うけれど、それは今回のブログ内容の中心ではないので、そこは捨て置いて欲しい。
 
 僕は「自分自身」という問題の軸として、この「秘密」ということと、「謎」ということに着目したいと思うのだ。
 というのは、「秘密」というのは、「謎」ということととワンセットの気がするからだ。親子関係や大人と子どもの関係に置き換えると、子どもはこの社会の中に「謎」を感じる側であり、神なき世界に生きる、つまり大人が行為し、ルールを創造するこの社会は表の裏に「秘密」があるから、その表の側(建前的な言葉や建前的な行為)に対して「あれ?」と思う子どもの側は、(比喩的な意味も含めて)大人たちで構成されている「社会」や「世間」に「謎」を感じる。つまり、謎を感じるというのは、そこに「秘密」があるからだ。
 
 この話題における結論の一端を述べると、”愛情ある”「秘密」は「謎」と思っていたその子どもの疑いに、「秘密の意味」が了解されたとき、何ともいえない情緒的なドラマが生まれるように思う。その時、つまり「謎」に首をひねっていた子どもはその謎の正体が愛情と結びついているとわかったとき、あるいは自分と同様の人間的な問題とつながっていると了解したとき、深い感慨に結びつくのだろう。その時自分と「秘密」は、自分自身と対等であったということ、あるいは自分を守ってくれるための、愛情を持って隠されていた謎であって、秘密であったという了解であるから、それは何とも言えない感謝の気持ちにつながる。
 何より、一番大きいのは、「謎」だと思っていた「秘密」の意味を了解したとき。そのとき、子どもはもはや精神的に子どもではなくなっている。その滲むような感慨が、人びとにドラマの質、というものも了解させてくれる。

 奥行きの深い「謎」も「秘密」も、最初に「秘密を保護する」法律なるものを前面に押し出してしまったら、もうその社会には、奥行も、豊かさも、膨らみもない。平板で、貧相で、先が細っている社会であり国家だろうと思う。

 自分自身、今も「自分自身の謎、秘密」を追っている。追いかけている。僕が言いたいのは「自分」という存在というのも、なかなか厄介な、言わばもうひとりの自分が自分に対して謎やトラップを仕掛け、かつ秘密を持っている、そういものである、ということ。僕は自分自身に対して、そういう前提に立っているし、それは深層心理学的な問題として、まだ自分で自分自身を探っているということでもある。それを政府、社会、国家がやっていることと、ある程度トレースして、あるいはイコールの問題として、考えたいということなのだ。その具体的な説明は、すでにこの文章が長文になっているので、近々に改めて書きたい。

 もちろん、自分自身に対する謎や秘密と国家が具体的・現実的に脅すような形。すなわち懲役10年の刑を公務員に、あるいは公務員に秘密の暴露を迫るものに与える、という国家のこわもての話とどうつながるのか。不可解、と思う人が多いだろうことはよくわかる。ある程度「自分の秘密」と「国家の秘密」をつなげる比喩は強引なところがあるのも事実だということはわかっている。
 ただ、この「秘密保護」の法律が通った時の何とも言えない憂鬱の意味は、一つは国民より国家が上位に立ったという危険の認識が最大限大きいのだけれども、もう一点には人も国家も自分の秘密に蓋をしたがるのは、そうしたい理由があるからであって、その理由とは、自らの内にある邪な心が正視出来ないからなんだなという、そういう理解ゆえなのだ。

 秘密が「愛情」に基づけば、人を感涙させるカタルシスになるが、逆に自己防衛に基づく秘密は、自分の中にある恐怖心に基づく攻撃性に基づくのだと思わざるを得ないこと。僕が憂鬱になるのは自らの秘密や謎を解く作業はあまりにシンドイんで、途中で放棄しようとする傾きにいつだって舞い戻ってしまう不安と、国家のそれは同様なものがあると感じるゆえである。バックラッシュ(反動)は国だけに起きるわけじゃない。気を付けないと、ひとりの人間のこころの内にも起きる。もちろん、そのようなひとびとの集合体が国家だから、個々の人たちの意識の後退が国の反動を生むという結論も客観的には出せないわけではない。
 
 風呂敷を広げすぎてなかなか大変なことになってしまったけれども、続きもなんとか書きあげたいので、頑張りたいと思います。