2019年1月14日月曜日

昨年の10冊ー資本の専制、奴隷の隷属


資本の専制、奴隷の隷属』(航思社) 廣瀬純・編

 昨年は(今も)トランプ米大統領に振り回された1年と言えるだろうが、ヨーロッパ共同体、EUも危機にあったと言える。EUはナショナル(単一国家)をトランス・ナショナル(脱国家、超国家)なヨーロッパのものにしていこうという地政的な実験だと思うが、経済条件の「国家的な」違いとその行動により、EUとはヨーロッパのどこの、誰のものであったのか?という疑念が噴き出しつつあるのではないかと。そのように考えさせられる。

 その兆候はリーマンショック後の欧州の経済危機に現れた。もともとヨーロッパは東西問題、東のヨーロッパはヨーロッパの枠組みに入るかという問いがあったが、ここにきてヨーロッパ「南北問題」の形で噴出した。その問題の現出はまずギリシャの経済危機(グレグジット問題)だった。ギリシャでEUの反緊縮政策反対の左派政党シリザが勝利し、首相になったツィプラスがEUと債務問題で交渉を始めたとき、ギリシャへの一番の債権国であるドイツが支援に対してはそれに対してギリシャに大幅な緊縮策を提起。その緊縮策は実行するとそのプログラムでギリシャは経済がさらに悪化、回復困難の様相を極める大変厳しいものだった。そこでツィプラス首相はEUドイツの緊縮策の諾否を問う国民投票を行う。その結果ギリシャ国民はドイツ提案の緊縮策に「NO」だった。このかん、ドイツの対応にはトマ・ピケティなどがメルケル首相に書簡を出して強制緊縮策を批判、旧西ドイツが1950年代に第二次大戦の戦後賠償免除を受けた経緯があったことも持ちだし、EU危機に晒すギリシャへの仕打ちを是正するよう求めるほどだった。
 また元々EUは欧州中央銀行にEU全体の財政政策を打ち出す権能はなく、同時に金融政策は中央銀行によって決められ、各国に独自の金融政策打ち出すことができないルールになっている。その経済政策のため、EU経済強国が相対的に弱い経済国の交渉に個別の存在感を示し、EUはギリシャの提案に対しては端的に「ヨーロッパ不在」でしかなかった。

 前段が長くなってしまったが、この本は8人の南欧(イタリア、ギリシャ、スペイン)の有識者による2015年、ギリシャ危機に関するインタビューと、それに加えて数人の論者による論文からなる。インタビューは同年夏に集中的に行われている。そのひとつひとつが大変な高密度のものだ。
 例えばEUグループの動向から、ギリシャの左派政権誕生に勢いづいて誕生したスペインの市民左派政党「ポデモス」誕生の経緯などが詳細に語られている。南欧左派知識人のEU観、ポピュリズム型左派政党の人気と退潮、南欧から見たドイツフランスなどEU中核への批判など。いわば周縁から見たドイツ等のEU中心部への批判の本であり、論点は非常に多岐にわたり勉強になることが(良い意味でげっぷが出そうなほど)多い。中心でないがゆえの現今ヨーロッパ政治の危険な予兆も含む本質的な議論ばかりである。

 読んで思うのは、21世紀前半現在、国家というものを越えることは可能か、ということ。新自由主義のグローバリズムが及ぼす行く末のかたちの現在の攪乱、イギリスの離脱などヨーロッパ統合に対する遠心力がある。ギリシャへのいわば懲罰行為として、あるいは収奪として、ドイツがギリシャの国営企業を多数買収するなど、国家主権に関わるような事態もあっただけに、EUの南北問題はカトリシズムとプロテスタンティズムの意識の違いにさえ識者は想起している。フランコ・ベラルディ(ビフォ)に言わせれば、南欧中心のカトリシズムは共同体的でその構造が人々を罪悪感から解放するのに対して、ドイツ中心のプロテスタンティズムは「個人の責任」を倫理として立てると。また負債はドイツ語で「罪悪感」の意味。そこには同じキリスト教圏でさえ倫理観の違いで時に「ヨーロッパ」というキリスト圏資本主義連合の枠内でさえ文化的な行動の違いが露見するといえそうだ。

 元々はリーマンショック後のEU危機への対応で、多くは不動産投資の失敗である。そしてギリシャはその国民の多くが公務員で労働時間が短く怠惰だったためだ、というのは端的に間違いなのであった。
 OECD諸国で公的セクターで働くのはノルエーがトップで29.3%、公的セクターの上位の多くは北欧諸国が占める。OECD全体では15%でギリシャは7.9%に過ぎない(日本は6.7%)。またギリシャの1週間の平均労働時間は40.1時間で、イタリアの34.6時間よりはるかに長い。つまりこのデータからしても、それらがプロパガンダだったろうということがわかる。ギリシャが重債務国になったのは端的に大企業がなく、観光、海運業、農業が主産業で輸出産業が少なく、そこにフランス、ドイツらからの大量なマネーが入り込んで重債務国になった。それが実態のようだ。

 さて、この本における南欧左派のEU不信や危機感においてよりいっそう大事なことには、右翼勢力台頭への懸念である。ヨーロッパ各国の人々にEUの政策が一部の国に有利に働くこと、またヨーロッパにおいては長く移民労働力に依存しているため、高失業率が続いていること、アフリカ圏、イスラム圏から難民が相次いでいることなどで再びナショナリズムが台頭する危機の見通しも語られる。
そして現実にイタリアは右派政権が奪取して、難民受け入れ拒否を掲げた。反応してフランス、ドイツ、スペイン、ハンガリーなどにもナショナリスト・ポピュリズム政党が伸張しつつある。それが2018年段階のヨーロッパの様相だ。
 南欧ヨーロッパ左派の人々にとってはEUの実態に嫌悪はあるにしてもEUの経済財政システムやその他さまざまなEU内政策の方策是正の方向で考えるだろうが、右派ナショナリズムの台頭は移民の力で担われた社会を移民排除という内なる敵(だが労働力として必要とする以上、排斥はしない)を仮想しながら一国国家勢力伸長を考えるであろうと思える。

 大変長い感想になってしまったが、ヨーロッパEU圏は遠いし、その中でも「弱者側」に措定された南欧側論者の2015年報告なので、その前段階の流れも紹介せざるを得ず、ロングなものになってしまった。もうひとつの見逃さざる観点としてスペインのポデモスというポピュリズム左翼政党もその前段階に15M運動というものがあり、市民同士の扶助運動という足場があったから成立し得たというもの。そこには可能性がある。
 イギリス、アメリカから始まったと言える新自由主義経済の行きつくところ、EUというトランス・ナショナルな動きも金融自由経済のかたちでそこに飲み込まれた。この本ではその金融経済の限界というものがEUという枠組みの中から露呈したとも読み込める。改めて国家の機能とは何だろうか?国家を超えるグローバリズムとは?そしてグローバリズムに対抗するのは再びの国家主義ナショナリズムなのか。あるいはヨーロッパ共同体としてのグローバリズム経済の乗り越えなのか。当面一番最後のチョイスは本書では多くの論者にとって悲観的な観測であった。
 世界はいま、「移動」ということである種の習慣やルーティンが撹乱されつつあるのかもしれない。その対応における人々の動きや意識のありようも撹乱されつつあるかもしれない。しかし実際にカネの動きほどにはEU枠内での労働移動は多くはないという。やはりそこには言語の壁が大きいようだ。
 繰り返しだが、資本、国家、文化などはどこにルールの基盤がおけるのか?ということ。これは今後日本にも大きな難題として浮かんでくるのは遠くないと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿